「そういえば陸君。一条君はどうしたの?」
陸の少し後ろを歩いていた小咲が、ふと口を開く。
「いや、今は多分、恋結びを買おうとしてるところだろうけど…。さっきも言わなかったっけ?」
この答えは、先程も小咲に陸は言った。
だが、小咲が聞きたかったのはそういうことではない。
「ううん。一条君は誰と一緒にいるの?一人なの?」
小咲が聞きたいのは、楽が今、誰と一緒にいるのかだ。
陸が楽と一緒にいないということは、楽が一人でいるかそれとも誰かと一緒にいるか。
陸が一人でいる時点で、恐らく後者の方が可能性は高い。
「ああ。楽は千棘と一緒にいると思うぞ」
「え?二人で一緒にいるの?」
「そう。俺が見たわけじゃないんだけどな」
集英会が経営しているたこ焼きの屋台で働いていた男が言っていたことだ。
陸自身が見たわけではないが、あり得ないことでもない。
縁日を二人で回らなければ、他の人たちに怪しまれる恐れがある。
それに、最近の二人の中は少し近づいてきている。別に意外とも思わない。
楽がどうしているかを話している内に、二人は人々の往来の中に戻ってきていた。
そして、さらに歩いていくと二人の姿を見とめる一人の男の姿があった。
「おお?坊ちゃん!休憩に入ってたんすか!」
それは、集英会が経営している金魚すくいの屋台。
先程も通り過ぎていったが、あの寺に向かう多くの人たちの陰に隠れて陸の姿が見えていなかったのだ。
だが今は、その多くの人は寺にいる。ここを歩いている人の数は先程よりも少ない。
陸の姿を見つけるのは簡単だったのだ。
「それに、そのお嬢ちゃんは勉強会の時にも家に来ていた娘じゃないっすか?」
金魚の入った水槽の傍で、丸椅子に座っていた男は陸の背後にいた小咲を見つけて声をかける。
陸の陰に隠れていた小咲が、隣へと姿を見せる。
「どうする小咲。やってみるか?」
「え?」
不意に陸に問いかけられる小咲。
目を丸くして陸の方へと振り向いて聞き返す。
「お、やりますかいお嬢さん?ああお代の事なら気にせんでください。坊ちゃんのお連れさんから金をとるなんてことはしませんから」
「えぇ?いや、そんな…」
「おっと、さっきも言っただろ小咲?俺と来ると、食べ物も遊びも全部タダになるって」
男の言葉に小咲は戸惑い、戸惑った小咲に陸が付け加える。
小咲と会った時に陸は言った。縁日の食べ物も遊びも全てタダになると。
「ほ、本当に良いんですか?」
「もちろん!十分稼ぎは溜まっていますし、それにさっきも言いましたが坊ちゃんのお連れさんから金をとるなんてできませんぜ」
確認してくる小咲に、男は手を軽く振りながら答える。
やや引きつってはいるものの、小咲は笑みを浮かべる。
優しすぎる小咲は、少し躊躇いがあるのだろう。
「大丈夫だって。俺が休憩に入った時からもう、黒字は決定してるもんだから」
「…それなら、お願いします」
陸のその言葉を受けて、躊躇いを消し去って二人の誘いに乗る。
男からポイを受け取って、小咲はしゃがんで水槽の金魚と向かい合う。
陸も小咲の隣にしゃがんで見守る。
小咲の握ったポイが、水中の中に入る。
小咲が狙っている金魚は、ベタな赤く平均的なサイズのもの。
小咲はポイを上げて、金魚を掬いだす。
「あっ」
途端、小咲は小さく声を上げた。
ポイの網は破れ、掬ったと思われた金魚は水の中へと落ちて戻っていく。
「あぁ…」
「あらら」
小咲は落胆の声を漏らし、陸は小咲のポイから逃げた金魚の行方を目で追う。
小咲は肩を落とす。陸は立ち上がろうとして、再びしゃがむ。
「よし、なら次は俺の番だ。ポイとお椀貸して」
「え?でも、これもうほとんど破れて…」
陸は、小咲が持っていたポイとお椀を受け取る。
だが、小咲が持っていたポイはもうほとんど破れてしまっている。
これ以上使えない、小咲はそう思っていたのだが…、陸にとっては大した問題ではない。
陸はほとんど破れたポイを水中の中に入れる。
そして、ポイの枠にわずかに残った網を使って…、金魚を掬いあげた。
「「「「「え?」」」」」
小咲だけではない。周りにいた人たちも目を丸くして声を上げた。
陸は本当にわずかしか残っていない網を駆使して金魚を掬いあげ、素早く無駄のない動きで掬った金魚をお椀の中に入れる。
これだけでも驚くべきことだ。
だが、陸の動きはこれだけで終わらなかった。
さらに、先程と同じように素早く無駄のない動きを繰り返し次々に金魚を掬いあげお椀の中に入れていく。
芸術的にさえ見える陸の動きは小咲を、周りの人たちを魅了する。
「ふ…、さすが坊ちゃんですね…。楽坊ちゃんには負けてしまいやしたが、今度はそうはいかないですぜ」
(楽?)
何でここで楽の名前が出てきたのか。
疑問に思う陸だったが、男が背後から取り出した水槽を、そしてその中身を見てそれどころではなくなってしまう。
「これは陸坊ちゃんへの対策として用意した秘策です。とくと堪能あれ!」
「と、トビウオだと!?」
大きく胸を張って、ついでにドヤ顔を浮かべながら水槽の中を晒す。
水槽の中で泳いでいたのは、トビウオ。
ぴちゃぴちゃと水しぶきを上げながら跳ねるトビウオ。
中には、地面に落ちてしまいぴちぴちと力なくあがいているものもいる。
「ほ、本気か…?」
「坊ちゃん二人にはいつも苦汁を飲まされてきましたからね…。楽坊ちゃんには錦鯉という刺客を捕らえられてしまいやしたからね…。陸坊ちゃんには、お灸を据えさせてもらいますぜ」
ぎらっ、と鋭く光る眼差しを向けられる陸。
そんな男に、陸は白い歯を見せて笑みを浮かべながら、同じく鋭い眼差しを向け返す。
「面白い…。受けて立ってやる!」
金魚掬いで負けたことはなかった。そしてこれからも、負けるつもりはない。
このトビウオにも…、そして、同じ道を歩んできた楽にも!
陸はポイを水中の中へと潜り込ませる。
跳ね続けるトビウオたち。その中から、一匹を選んで陸は集中的にその一匹に視線を集中させる。
ぴちぴちと、狙いをすませたその一匹が跳ねる中、陸はタイミングを計る。
(ここ━━━━)
陸の目が見開かれる。タイミングは、ここだ。
ポイを、上げる。その過程の中には、陸が狙っていたトビウオ。
決まった、これは捕れる。確信する陸。
ポイの網にトビウオが囚われ、そのまま水の外へと引き上げられる━━━━
ぴちゃん
やけに、その音は響き渡った。
その音は、水音。そしてその水音は、水槽の水から発せられたものではない。
陸の持っていたお椀の中の、水の音。
水中から跳ね上がった、陸が狙っていたものとは違うトビウオが、陸の持っていたお椀の中へと入った音。
周りを静寂が包み込む。
陸がどうやってトビウオを捕獲するのか、そればかりに目を集めていた周りが、小咲が。
そして何よりも、何としてもトビウオを掬ってやろうと意気込んでいた陸も。
何が起こったのかわからないと言わんばかりに、目を見開いて口を呆けたように開けている。
「ば、バカな…。こ、今年も負けたというのか…」
「あ…、そうだな…」
ただ、一人だけ。
金魚すくいの屋台を経営していた男だけは、トビウオを捕らえられてしまったことに落胆を隠しきれていなかった。
捕らえた、というよりは捕らえられに来たというのが一番正しい気がするが。
男が信じられないと言った表情とは対称的に、陸は至って冷めた表情。
(もう、どうでもいいや)
掬った分から二匹ほどもらって、陸はここから立ち去ると心に決めたのだった。
「す、凄いよ陸君!あんなにたくさん金魚を掬えるなんて!」
「あ、うん。ありがとう」
何とも微妙な雰囲気になってしまった。
それもこれも、あのトビウオとトビウオを用意したあの男のせいだ。
家に帰ったらあの男を特訓と称して叩きのめしてやろうと決意を固める陸。
そしてその思いは傍に置いておき、陸は手に持った金魚二匹が中で泳いでいる袋を小咲に差し出す。
「え?」
「これ、小咲に上げるよ。俺ん所には結構いるし」
陸の家には、金魚や他にも熱帯魚が飼育されている。
仲間が増えると楽が大喜びしそうなものだが、そんなものはどうでもいい。
「でも、これは陸君が掬ったんじゃ…」
「そうだけど、家にはたくさんいるしさ。小咲がいらないって言うんなら、俺が持って帰るけど」
陸の言葉を聞いて小咲は慌てて首を横に振る。
「ううん、嬉しいよ!大切にするね?」
陸からもらうものが嬉しくないはずがない。
小咲は陸から袋を受け取って、中でゆっくりと泳ぐ金魚を眺める。
たったそれだけなのに、勝手に笑みが浮かんでくる。こらえることができない。
「…どうした小咲?急に笑い出して」
いきなり笑みを浮かべる小咲を不思議に思った陸が小咲に問いかける。
いつもの小咲ならば、ここで慌ててそんなことないと否定していたところだろう。
だが、今の小咲は違った。
「ううん、何でもないっ」
花が咲き乱れたような、そんな笑顔を陸に向けて答える。
思わぬ小咲の笑顔に、陸はたじろいだようにわずかに体を引かせながら頬をわずかに染める。
(何か…、いつもと違うような…)
陸と二人きりで縁日を歩いている。
それが無意識ながら小咲のテンションを上げているのか、だがそんなこと陸も小咲も気が付くことは出来ない。
「さ、陸君!次に行こっか!」
「え、あっ。おいっ」
鼻歌交じりに小咲が陸の前を歩き出す。
陸も、慌てて小咲を追いかけようとする。
だが、その時だった。
ぶちっ、と小咲の足下から何かが千切れるような音が響き渡ったのは。
「「え?」」
二人同時に、呆けた声を漏らす。
二人が音の原因へと目を移す。
その先は、小咲の左足の下駄。
さらに正確に言うと、下駄の鼻緒。見事に切れてしまっている。
「うわ、いきなりだな…」
これでは、これ以上小咲は歩くことができない。
鼻緒を直せば早いのだが、こんな多くの人が通る所で座り込んで鼻緒を直すことなどできるはずがない。
何処か人気のない所まで移動しなければいけないのだが…、小咲を歩かせるわけにはいかない。
「…しょうがないか」
「え?」
これはしょうがない。
自分がしたいわけではない。それは断じて違う。
「小咲、乗れ」
「…え?」
小咲に背中を向けてしゃがむ陸。しゃがんだ陸の背中を呆然と眺める小咲。
「え…っと…」
「嫌か?なら、小咲は片足を裸足で歩いてもらうことになるけど」
「っ、い、いいよ!うん!裸足で歩くから、陸君に無理させられない!」
「っ」
こんな時でも、小咲は人のことを気遣って…。
(優しいってのは、そういうことを言うんだよ!)
内心で悪態をつきながら、陸は無理やり小咲の体を背負う。
きゃっ、と短い悲鳴が頭上から聞こえてくるが構わず陸は小咲の体勢を整えて、そのまま歩き始める。
「り、陸君!私歩くから!」
「ダメ」
「だ、駄目って…」
「ダメ」
降りる、自分で歩くと何度も小咲は言うが、その度に陸は駄目という一言の一点張り。
揺らぐ空気がまったくない。
ついに小咲も諦めて、陸の好意に甘えて自分の体重をその背中に預けていた。
「ご、ごめんね?私、重いよね…」
陸に背負われながら、小咲は小さな声で言う。
「いや、そんなことない。と言うより小咲、ちゃんと食ってる?小咲は細いからちゃんと食わなきゃダメだぞ」
だが陸はまったくそんなことはないと思っている。
それよりも、軽すぎるとまで感じていた。
ちゃんと朝昼夜とご飯を食べているのだろうか、心配になってくる。
(…しかし)
小咲の問いかけに答えを返してから、陸はそっと横目ですぐそばにある小咲の顔を見る。
小咲の顔は、恥ずかしさからか紅潮している。
そして、小咲の息が陸の頬にかかって少しくすぐったい。
息と共に、小咲の女の子らしい匂いが陸の鼻孔を通る。
それだけでも男心は苦しくなってくるというのに、背中には小咲の柔らかさが全面に伝わってくる。
特に、大きく柔らかい二つの塊は…、陸の精神力をガリガリと削りにかかっている。
早く、早く降ろさねば。どこか、どこかいい場所は。
願望ともいえる思いを抱きながら、小咲を背負ってから五分。
たかが、五分、されど五分。今まで感じたこともない長い五分を乗り越え、陸は屋台が並ぶ道から少し離れた所で小咲を降ろした。
今までの動揺雑念全てを胸の奥へと封じ込め陸は小咲の鼻緒を直す。
「…よし。これで今日一日くらいは歩けるだろ」
「ありがとう…」
切れた鼻緒を結び終えると、陸は小咲の隣に腰を下ろす。
今すぐにもう一度往来の中に戻ってもいいのだが、何やらそんな空気でもない。
陸は何も言わず、小咲の横で座り、空を見上げる。
見えるのは、木の葉、そしてその陰に隠れて見えずらくなっている星空。
「さて、どうする小咲。もっかいあの中戻って回るか?それとももう少しこのまま休んでくか?」
今、二人にある選択肢は二つ。
陸の言う通り、縁日を今すぐ回るか。それともここでもう少しこのままでいるか。
「…もう少し、このままでいたいな」
「…そっか」
小咲の答えは、このままでいること。
決して明るい雰囲気ではない。だが、暗い、嫌な雰囲気でもない。
それどころか、この雰囲気がどこか心地よいとさえ感じる。
こののんびりとした時を過ごすのは、久しぶりだ。
「…」
陸は横目で小咲を見る。
小咲は、じっ、と目の前で歩く人たちを眺めていた。
何を思っているんだろう。
陸はそのまま小咲の横顔を見つめ続ける。
だがずっと見つめていれば、誰だって気づくだろう。
さらに陸と小咲の距離はそう離れていない。
すぐに小咲は陸の視線に気づいて、陸へと目を向ける。
交わる二人の視線。
だが、二人は二人の目から視線を離すことはなかった。
「…」
「…」
何か、先程とは違う空気が二人の間で流れ始める。
この、空気は何だ?
小咲が近づいてきているのは気のせいか?
…いや、小咲に近づいているのは
俺?
「なー」
「「っ!」」
急に聞こえてきた声に、目を見開く二人。
別にしてまずいことなどしていないのに、心臓が高鳴ってしまう。
「ね、猫…?」
聞こえてきた声の主は、猫。
何時の間に来ていたのだろう、その猫は陸の足下に座り込んでいた。
ブチ模様の可愛らしい猫。陸は右手を猫の頭の上に乗せて優しく撫でる。
猫は嫌な顔をせず、陸の手を甘んじて受け入れ、気持ちよさそうに目を細めている。
「あっ、陸!その猫捕まえてくれ!」
「は?」
「っ」
陸が猫を撫で、猫は気持ちよさそうにゴロゴロ鳴いて、そんな陸と猫を小咲が眺めて。
そんな時間が流れていた時、不意に陸を呼ぶ声が響き渡った。
陸がその声の方へと振り向いた瞬間、陸の右手から柔らかい毛並の感触が消えた。
「あ…」
「あぁっ!待てこら!!」
猫が走り去っていき、その猫を追いかける人影が陸と小咲の眼前を横切っていく。
「あれって…」
「楽?」
その人影が楽だと認識するのは少しだけ時間がかかった。
何故楽があの猫を追いかけているのかは知らないが、あの猫はともかく楽は許さん。
帰ったらあいつと一緒にたたきのめ…
(あれ?俺、何でこんなイライラしてるんだ?)
そこで陸は自分がイライラしていることを自覚する。
何故?何故自分はこんなにイラついている?
「陸君?どうしたの?」
「…いや、何でもない。それより、そろそろ回らないか?もう休憩はいいだろ?」
「あ、うん」
陸の様子がどこかおかしいことに気付いた小咲が声をかけるが、陸は何でもないと答える。
そして立ち上がると、陸は縁日に戻ろうと小咲を誘い、小咲も陸の誘いをすぐに受ける。
(…さっき)
陸に続いて立ち上がり、陸の後をついていく小咲はふと先程の光景が脳裏を過った。
こちらを見つめてくる陸。その陸の目から目が離せなかった自分。
そして、少しずつこちらに近づいてくる陸。近づいていく自分。
(…そんなこと、あり得ないよね)
心に浮かんだ可能性を打ち消そうとする小咲。
あり得ない。そんなこと、あり得ない。
だけど…、だけど、もしかしたら…。
打ち消すことのできない気持ちを抱えながら、小咲は陸と共に往来の中へと戻っていく。
「…」
胴の部分の帯。
下側の輪になっている部分に入れた、恋結びにそっと触れながら。
大学の友達が不意に言った言葉。
「女子の浴衣って強調されるよなー」
何がとは言いません。
ですが、この言葉であのシーンが出来上がりました。