楽の部屋の中に一歩、二歩と入って来る羽。羽は楽達からいつも一緒に話す時よりも少し離れた所に立ち止まると、その直後に夜が一瞬で羽の傍らに移動する。楽達は勿論、対峙していた鶫にすら気付けない速度で、だ。
いつもより少し離れた距離。その距離が、今の楽達をどうしようもなく不安にさせた。
いつから部屋の前にいたのだろうか。もしかして、今の話を聞いていたのだろうか。
だとしたら何故、羽はこちらの傍に来ないのか。これじゃあまるで―――――――――
「…楽ちゃん達は、やっぱりそうするんだね」
「羽姉…」
悲し気な羽の呟きに、やはり先程までの話を聞かれていたのだと楽達は悟る。しかしだとしたら何故、今まで黙って話を聞くだけだったのか。何故、今の段階で、楽達の妨げになるようなタイミングでこの場に現れたのか。
「何でだよ…」
いや、その疑問の答えはもう楽達の中で出ていた。
両拳を握って、楽は羽を睨みながら声を上げる。
「何でだよ、姉ちゃん!何で
「…」
楽の叫びに羽は何も答えない。ただ悲し気に、唇を噛み締めながら楽達を見つめるだけだった。その羽の代わりに夜が一歩、羽の前に出て口を開く。
「これが
「意志…?」
「そう。今、首領は叉焼会にとって…自分にとっても大きな選択をした。その選択を後押しするためにも、お前達をディアナに会わせる訳にはいかない」
羽の意志。羽にとって大きな選択。そんな事を言われても、楽には何の事だかさっぱり解らなかった。理解するには全く言葉が足りない。ただそれは楽にとって、だ。ある人にとってはその言葉だけで、羽の意志がどういうものなのか理解するに足りたらしい。
「あなた…、まさか…」
「軽蔑する?…するよね。でも、もうそれしか方法はないから。陸ちゃんに見てもらうには、これしかないから」
唖然と目を見開き、信じられない様に羽に視線を向けるのは万里花だ。その視線に受けて立つ様に羽も視線を交え、今まで聞いた事もない冷たい声で万里花に言葉を言い放つ。
その言葉を聞いた万里花は未だ呆然としたままだったが――――――――
「でも、万里花ちゃんなら私の気持ち、解るよね」
「っ」
羽がそう言った途端、見開いた目が鋭く細まり、瞳に怒りを宿して羽を睨みつけた。
「ふざけないでください。確かにあなたの気持ちを察する事は出来ました。ですが、まるで私があなたと同類の様な、その言い草は気に入りませんわね」
これまた今まで聞いた事がない、怒りに満ちた万里花の声だった。万里花と羽は決してぶれる事なく視線を交わし続けながら更に言葉を交わす。
「そうかな?あなたも私と同じでしょう?思い人に見てもらえない」
「えぇ。確かにそこは同じですわね。まだ私の想いは楽様に受け取ってもらえていない。ですけど…、うちとアンタを一緒にせんでもらいたか」
羽の言に言い返す内、万里花の優雅な言葉遣いが次第に崩れていく。そしてその毎に、万里花の声が更に怒りに満たされていく。
「うちはアンタみたいに諦めたりせんばい!自分の魅力で相手を振り向かせる事を諦めたアンタとうちを、一緒にすんなぁっっっっ!!!」
万里花の怒声に空気が固まる。ある者は意外そうに目を丸くし、ある者は悲し気に万里花を見つめ、またある者は全く怯まず表情を変えず、ただ今の様子を眺めるだけ。
顔を赤くして、これでもかと目を吊り上げて、怒声を上げた万里花はしばらくの間切れた息を整えてから、すっと元の優雅な雰囲気に戻る。そして万里花に怒鳴られた羽は俯き、前髪で目が見えなくなってしまった。ただ、影に覆われ微かにしか見えない唇が小さく、笑みの形を浮かべたのは気のせいだろうか。
「…そう、だね。確かに、私とあなたを一緒にするのはあなたにとって失礼だわ。ごめんなさい」
「謝られても困りますわ。むしろ私こそ、あんなはしたない声をあなたに浴びせてしまい、申し訳ありませんでした。ですが…、今はそんな事、どうでもいいのです」
口調に優しさが戻り、目もいつもの慈愛が戻り始めた万里花だったがすぐに、再び目を吊り上げて羽を睨む。
「あなたはそちら側。私達の敵。そう解釈してよろしいのですね?」
「…うん、そう。私は今、万里花ちゃんの…楽ちゃん達の敵」
「姉ちゃん!」
結局未だ、万里花と羽が交わした言葉の真意を計り兼ねている楽。ただ一つ、それでも解る事がある。羽は自分達のしようとしている事を…、陸を救う事を良しと思っていない。
「ごめんね、楽ちゃん。でも…、私は想いを捨てきれない。他の人を見てるって解ってても、私は…」
悲し気に楽に視線を向けていた羽だったが、不意にその視線は別の場所に向けられる。
羽に視線を向けられた誰かはぴくりと体を震わせ、不安げに羽と視線をぶつけながら次の言葉を待つ。
「私は、陸ちゃんの事が好きだから」
それは宣戦布告だった。
羽は知っている。この中で誰が一番、陸の近くに居たいと思っているのか。
羽は知っている。この中で誰が一番、陸の事を想っているのか。
羽は知っている。この中で誰が一番、陸の思慕を受けているのか。
「私が陸ちゃんを支える」
胸元で両手を握り締めながら、小咲は力強く言い放つ羽をただ見ている事しかできない。
その言葉を最後に、去っていく二人の背中を見ている事しかできない。
ぴしゃりと障子が締まる音が、静まり返った部屋の中で響き渡る。
立ち上がり、陸を連れ戻してやろうと沸き上がった明るい気持ちはあっという間に冷え切ってしまった。
「姉ちゃん…、本気で…」
楽が呆然と、悲し気に呟きを漏らす。羽と夜が通り抜けた障子を見つめたまま、両拳を固く握りしめる。
「何となく陸が好きなんだなとは思ってたけど…、だからこそ、俺達に味方してくれると思ってたんだけどな…」
後頭部を掻きながら集も口を開く。
そう。この中で察しの良い者、集やるり、そして先程の言い合いから恐らく万里花も羽が胸に秘めていた想いに気付いていた。だからこそ、陸を連れ戻す事に味方してくれると集は思っていたのだ。
だが、実際は違った。
「いいえ、舞子さん。確かに彼女は陸様を好きなのでしょうが…、あなたが思っている程、綺麗な想いではなかったようですよ」
「え?」
集だけではない。この場にいる誰もが、万里花の口から出て来た言葉の意味を読み取れなかった。万里花は右手で左腕を握りながら、険しい表情で続ける。
「えぇ、彼女の想いは本物です。とても強く、陸様を想っている。だからこそ…、彼女は今の状況を好ましく思っているのでしょう」
「…どういう事だよ、橘」
「…飽くまでこれは私の勝手な予想です。ですが…、先程の彼女の言葉で私は間違っていないと確信しました」
万里花の表情は変わらず険しいまま。その万里花らしくない表情が、更に楽達の不安を加速させる。
その中で万里花はゆっくりと、自分が勝手に立てた予想を…。先程の会話で強く間違っていないと確信した予想を口にする。
「彼女はこの状況を利用して、陸様の妻になろうとしているのでしょう」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「そうかい。ったく、俺がいない間に好き勝手しやがって」
病院のベッドの横の窓から見える空を見上げながら、その男は溜め息混じりに言った。
どうやら息子は息子なりに精一杯、組を守ろうとしているようだが…、そのやり方は親であるその男にとって納得し難いものだった。
そして何より、息子が追い込まれているこのタイミングを、自分が息子の傍にいられないこのタイミングを利用するように、自分に黙って息子に取り入ろうとする奴らも気に入らない。どうせならしばらくの間、組は息子に任せて自分は休んでいようとちょっとしたサボリ心が擽られていたのだが…、そんな暇はない様だ。
「おい竜。陸や叉焼の奴らには悟られてないだろうな」
「へい。尾行の気配はありやせんで、坊ちゃんも全く気付いた様子は」
「…はぁ~。こっちにとっちゃ都合が良いとはいえ、全く気付いてねぇか。それもまた情けねぇというか何というか…、複雑さな」
男…、陸の父親であり、集英組組長でもある一条一征は掌で額を覆い、大きく息を吐いた。その呼吸の中には安堵、落胆、まさに一征の言葉通り複雑な感情が込められていた。
「とはいえ、まあ仕方ねぇわな。あいつもまだまだ若造。
「…おやっさんが入院されてから、あまり寝てないようで」
「かーーーっ、青いねぇ!自分をすり減らしてでも組を、皆を守るってか!」
掌で顔を覆ったまま天を仰いだ一征は豪快に笑い声を飛ばす。かと思えば不意に笑い声は止み、直後―――――――
「だが、そんなのは餓鬼がする事じゃねぇよなぁ。竜」
「…へい」
視線を下ろし、ベッドの傍らに片膝を突く竜を見下ろす一征。そんな一征の言葉に悲痛な声で短い返事を返しながら、竜は小さく頷いた。竜が頷いたのを見てから、一征は再び窓の外に広がる青空を見上げる。
「まだ早ぇんだよ、陸。それはまだ…、
悲しげに呟きながら、一征は思いを馳せる。
昔から一度教わった事を全て熟せる、そんな子だった。
まるでスポンジが水を吸収するかの如く、剣術も、体術も、銃の使い方も、組長としての退屈な事務仕事も、陸は一度教えただけで習得した。一征が身につけるために何度も何度も練習し、教わった事を陸は一度で理解し、習得したのだ。
陸はある種の天才だった。現代の時代ではほとんど必要がない、武の天才であり、現代の時代でも大きく活用できる智の天才。どちらも、一征には備わらなかった大きな才能。だからこそ、一征は陸に全てを叩き込んだ。この子はどこまで往けるのか。いずれ自分を超え、その先に足を踏み込み、やがてどこへ辿り着くのか。そんな好奇心に一征は年柄もなく駆られてしまったのだ。
だが、すぐに一征は後悔する事となる。
陸が六歳になって少し経った時だった。一征は仕事で海外に行く事になり、数人の組員と陸を連れていった。別段、危険な仕事ではなくただ交流のあるグループとの商談があった。荒事になる可能性は低く、陸を連れて行ったのも早い内に慣れさせてやろうというちょっとした出来心だった。ただ、世の中はいつでも危険と隣り合わせである。裏の世界とは全く関わりがない表の世界でもそう言われているのだ。裏の世界に踏み込んでいる一征達の傍らに存在する危険の重さは計り知れない。
突然現れたのは、商談の相手のグループとは敵対している組織だった。どこからか一征達が来るという情報を掴み、待ち伏せしていた。とはいえ武闘派として鳴らしていた集英組、その選りすぐりの面子にとっては戦いにすらならない程度の相手だった。それに、こうした突然の襲撃も決して多くはないが別に珍しいものでもない。裏の世界では有名な集英組の存在を嫌う組織は多くある。だからこそ一征達はいつも通りに対応し、いつも通りに対処した。
だが、この時一征達はつい失念してしまっていた。自分達にとっては何の問題もない出来事でも、初めて来た、それも小さな子供にとってはそうではない。大きな脅威であるという事を。
すぐさま一征達は振り返る。最悪の光景を想像しながらも、無事でいてほしいと願いながら。
結果だけ云えば、一征達の最悪の想像からは掛け離れていた。陸は無事だったし、むしろ陸は襲い掛かった敵を返り討ちにしていた。これまで一征が陸に課してきた教育が生き、そのおかげで陸は生き延びた。一征にとって喜ぶべき成果といえる。
しかしそれでも、一征は心の底からその結果を喜ぶ事などできなかった。
一征達が見たのは右手に血で濡れた刀を握り、足元に倒れる襲撃者を無感情に見下ろす陸の姿だった。陸に返り討ちにされた襲撃者の身体からは大量の血が流れ、流れた血は血溜まりとなって陸の靴を赤く濡らしていた。
―――――――誰だ
普通の人間ならば口を覆い、湧き上がる嘔吐感に耐えながら逃げ出していただろう。もしくは、耐え切れずにその場で吐瀉するか。だが陸は、まだ子供の陸はそのどちらでもなく、ただ無感情に死体を見下ろすだけ。
―――――――誰だ
言葉が出なかった。確かに普段から感情に乏しい子供だった。ただその瞳は雄弁に意志を語った。時には肯定を、時には否定を、時には悲嘆を、時には喜楽を、時には憤怒を。陸とずっと一緒だった家族も、組員の男達も、今は外国で暮らしている母も、陸の顔から感情を読み取る事が出来た。
だが今、一征達は陸から何の感情も読み取る事が出来ない。陸が何を思っているのか、何を考えているのか、何を感じているのかが解らない。
―――――――誰だ
子供がするべきじゃない。してはいけない顔だ。
ようやく、一征は自分がしてしまった事の重大さを悟った。
―――――――こいつをこんな風にしちまったのは
確かに陸には才能があった。自分が教えた事を全て吸収し、実行できる力があった。
だから何だ。まだ陸は子供じゃないか。例えできる能力があったとして、それに伴う代償にどうして、今まで気付く事が出来なかったのだろう。ただの子供に、この小さな体に、弱い心に、自分は何をした。
あぁ、そうだ。
―――――――陸を壊したのは
「おやっさんっ」
「っ…」
竜の呼び声で我に返る。呆然としたままの一征を見て、心配になったのだろう。
こうして陸の過去を思い返し、後悔の渦に呑み込まれるのは何度目か。その度に竜や部下に我を呼び起こされる。今になって後悔しても遅いのだが、何時になっても後悔を止める事は出来ない。きっと、一生罪に苛まれ続けるのだろうと一征は半ば諦めている。そしてそれが、自分への罰だとも考えている。
「とにかく、陸や叉焼の奴らには悟られるなよ。…きつい役目を背負わせちまうが」
「坊ちゃんのためでさぁ。…これが少しでも、坊ちゃんに対する償いになるんなら…いや、そうでなくとも、あっしらは坊ちゃん達の為に命張ります」
過去に囚われているのは一征だけではない。当時から組にいた者達は皆、同じ様に過去の過ちを悔いている。その中でも更に古参、集英組が立ち上がった当初から一征の右腕として働き続ける竜の当時の塞ぎようは周りの者にも影響を及ぼしていたのを一征は未だに覚えている。
「…楽達は今頃、何してるだろうなぁ」
ふと、そんな事が一征の口から零れた。
陸が笑顔を見せる様になったのは何時からだっただろうか。あの事件から一征は陸から武器を遠ざけた。裏に関わる事から遠ざけた。子の心を壊していた事に気付く事さえできなかった自分にそんな資格があるのかどうか解らなかったが、何とか陸の心を癒してやろうと努力した。
寝る間を惜しんで陸との時間を作った。陸とばかりズルいと言われてからは楽との時間も作った。この時ようやく、一征は親の難しさを実感した。そして同時に、今までこの二人に親として、ほとんど何もしてやれてなかった事を痛感した。
そうして時間は過ぎ、陸が笑顔を取り戻す小さな、それでいて大きな切欠は意外と早く待っていた。
「あの嬢ちゃん…、まだ陸を見捨ててねぇかなぁ」
小さな少女は陸の前に現れ、時に全く相手にされない事に泣きそうになりながらも陸の手を握り続けた。あの時、少女の心に
だが一征の仕事が終わるまでという短い邂逅はあっという間に終わり、それ以降も二人を会わせる事は出来なかった。それが四年前、陸と楽の中学の運動会に出向いたあの日、グラウンドで成長した少女の姿を見た時は思わず大声を出しそうになった。こんな偶然があっていいのか、と驚きに満ちた。そしていつの間にやら二人は友人として付き合うようになり、去年は天候のせいとはいえ互いの家で一晩明かすほどの仲になり、今は――――――
「坊ちゃん達も頑張ってやす。…おやっさんが言ってた嬢ちゃんも、一緒に」
「…そうか。…そうかぁ」
楽も、陸の友人達も、あの少女も諦めないでくれている。ならば、自分も役目を果たそう。
一人の親として。そして組を預かる一人の男としても。
一征は感慨深そうに崩していた表情を一瞬にして引き締め、前を見据えた。
「陸よぉ…。まだてめぇに、明け渡す気はねぇぞ?」
誰も素知らぬ所で、陸を支えようと奔走する者達が皆の前に現れるのは後少しだけ先の事である。
突如始まる重い回想。もう少し明るくならんのかとも思いましたが、この小説最大のクライマックスになるかもしれないのでとことんやってしまえと書き上げました。
書くこちら側も気が滅入りそうな話はもう少し…もう少し続くんじゃぁ…。