ふと全身の感覚が巡り、目を覚ます。瞼を開ければカーテンの隙間から漏れる太陽の光が視界に入る。首を回し、枕元に置いてあった目覚まし時計にはセットしてあった時刻よりも早い時間が。設定を元に戻してから再び目覚まし時計を置き、両腕を上げて大きく体を伸ばす。
一気に脱力し、立ち上がって鏡を見ながら乱れた髪を整える。…酷い顔だ。
別に肌が荒れてるとか、目の下に隈があるとかそういう事じゃない。ただ、鏡に映る自分の顔を見てどうしようもなく嫌悪感が湧いた。
でも、どうしようもなかった。衝動を堪える事が出来なかった。しょうがないじゃないか。ああするしかなかったのだから。どうしても隣にいたかった。あの人の隣に自分以外の誰かがいるのが我慢できなかった。
これが自分の顔だ。いつでも誰にでも笑顔を振り撒き、その裏で黒い感情を胸に秘め、そして欲望に任せて皆を裏切った女の顔だ。
きっと皆、自分を許せないでいるだろう。それでも止まれない。踏み出した足を戻す事はもうできない。とっくに後戻りできる段階は越えている。こちらの準備は出来ているし、まだ向こうの返事は貰ってないものの選択肢はあって無いようなものだ。向こうができる返答はYES、それのみ。もし断れば…、今のあの人達には先はない。
あぁ、こんなはずじゃなかったのに。正々堂々勝負して、自分の魅力で振り向かせる、そのつもりだったのに。昨日、万里花に言われた言葉が突き刺さる。今が初めてじゃない。昨日からずっと、思い出す度に胸が切り刻まれるような、それ程までにあの言葉は効いた。
「一緒にするな…かぁ…。ホントだよね。私は…、私なんか…」
胸元をぐっ、と握り締めながら「私なんか」と繰り返す。
本当にどうしてこうなってしまったのだろう。あの時、夜に唆されたから?違う。あの人が違う人を見てる事に気付いたから?違う。それだけなら、夜を振り払って努力していたはずだ。あの人が違う人を見ていても関係なく、少しでも自分を見てもらえるよう努力していたはずだ。
なら、何故。
もう無理だ。勝てない、と諦めてしまったからだ。万里花の言う通りだ。何も間違っていない。全部正しい。だからこそ、深く深く、あの言葉が胸に刺さっている。
『うちはアンタみたいに諦めたりせんばい!自分の魅力で相手を振り向かせる事を諦めたアンタとうちを、一緒にすんなぁっっっっ!!!』
何度も何度も、思い出す度に胸に言葉という杭が突き刺さる。関係ない、もう自分のやる事は決まってる。そう言い聞かせても、言葉は自分を追い詰めてくる。振り払っても振り払っても、纏わりついてくる。
「でも、無理だもん…。真っ向からじゃ…、絶対に勝てない…。だから…っ」
そう、勝てる筈がないのだ。正々堂々ぶつかっても、勝てない。だって、あの人が見た子は、敵である自分から見ても眩しいと思えてしまうほどの人だったから。だから――――――
「こうするしか、ないの」
堂々巡り。こうするしかないと言い聞かせ、それでも汚い自分への嫌悪が纏わりつき、そしてまたこうするしかないと言い聞かせる。出口のないループに囚われながらも、奏倉羽は進むしかない。進むしか、このループから抜け出す事は出来ないのだから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どれだけ気が乗らなくとも、どれだけ心が暗くとも、行かなくてはならない。それが学校である。高等学校は義務教育ではないし、たとえ義務教育でも一日程度休む事くらいどうという事でもないのだが、ズル休みというのは周りの心象を悪くするし、何よりその一日の休みが勉学の遅れを大きくする。真っ当な大学へ行って、真っ当な会社へ入り、真っ当な暮らしをするという明確な将来の目標がある楽にとってはその遅れはなるべくしたくないものである。
それに、気は乗らないし気分は暗いし、学校など正直行きたくはないが、家にいるだけというのも気が滅入る。そしてそれは、きっと他の者達も同じだったのだろう。楽が教室に入った時には、いつものメンバーが揃っていた。教室に入ってくる楽を見ると、一人を除いて皆が笑顔で手を振って来る。
「おはよう、ダーリン」
「あぁ。おはよう、ハニー」
修学旅行前に行った席替えで隣の席になった千棘と挨拶を交わしながら、鞄を机横に掛け、中から教材を取り出して机の中に移す。机に頬杖を突き、視線だけを楽に向ける千棘。別段いつもと変わらない姿だが、先程の挨拶、いつもより声の調子が暗かった事を楽は逃さず感じ取っていた。
「おはようございます楽様ぁ!本日もお元気…のはずがありませんよね」
「橘…」
そして楽が机に着くのを待ってから飛び付いてくる万里花というのもまたいつも通りの日常なのだが…、今日の万里花は楽の一歩前で立ち止まり、気遣わし気に楽の顔を覗き込むに止まった。
千棘と万里花だけではない。いつもなら千棘と話していると必ず傍に寄って来る鶫は席に着いてこちらの様子を見ているだけ。こういった合間の時間はいつも二人一緒にいる小咲とるりはそれぞれの自分の席に着いたまま。集こそいつもと変わらない様子に見えるが、どこか明るく装っている風なのは楽には解っていた。
皆、昨日の事が尾を引いている。そして一番昨日の事で傷ついているのは、きっと――――――
(…小野寺)
一番窓際の席で空を見上げている小咲。教室に入った時も、小咲だけが楽に気付かなかった。
昨日の事を考えているのだろう。陸の言葉を――――――そして、羽の言葉を。
(結婚、か。陸と羽姉が…。でも、それにしても…)
昨日のあの後、結局陸に会いには行けずに解散する事となった楽達。それに後で竜に聞いたが、楽達と話した後陸は急な仕事で外に出たという。羽と夜に足止めされようがなかろうが、どの道陸には会えなかったのだ。
しかしここで一つ、楽の中で疑問が残った。何故、羽と夜が楽達をあそこで足止めしたのかだ。二度目になるが、竜曰くあの後すぐ陸は家を出たという。つまりこれまた二度目になるが、陸がどこにいるか解らない以上、結局は楽達はあの時、陸に会う事は出来なかった。ならば、足止めする必要はどこにあるのだろうか。
(…いや、違う。あったんだ。あの二人にとっては)
思考が廻る楽の頭の中で一つ、ある可能性が過った。
(そうだ、これなら辻褄が合う。
あの時二人はもうとっくに陸が家にいなかった事を知らなかった。だから、楽達を陸に会わせまいとした。ならば今度はもう一つ疑問が浮かぶ。何故、羽と夜がその事を知らなかったのかだ。婚約者の動向を全く知らないなんて事――――――
(あ…。まだ、違う?)
ここで楽は思い出す。もうとっくに陸と羽の結婚が決まったものだとばかり思ってしまっていた。だが、
二人のあの態度から察するに、恐らく申し込んだのは羽側からだ。そして、まだ陸から了承を得ていない。だとすればまだ希望はある。陸を説得して、羽達の提案を断れば…。
(でも…、どうやって?)
希望が湧いたと気持ちが明るくなった楽の胸の中で再び闇が広がり始める。
きっと陸は自分達と出くわさない様に色々と考え、立ち回っているだろう。その心根がどうあれ、こうと決めたら頑なに揺らがない性格なのだから。その上、家にいる夜もまた自分達と陸を会わせまいと動いている。
陸を説得するどころか、陸と会う事すら難しいというのが現状だ。それにたとえ陸と会えたとしても…、どうやって説得すればいいのか。陸の心を動かす事が出来る言葉は何なのか。
(…だぁぁぁぁあ!何でこんな事になってんだよ!最近まで…、つい一週間前まで、何もなかったのに)
「楽…?」
「楽様…?」
頭を抱えて悶える楽を、千棘と万里花が首を傾げながら見つめる。そんな二人の視線は全く気にならず、楽はただただ自身の思考の渦にのめり込んでいく。
(くっそ!大体陸も陸だ!俺達の為に俺達と距離を置くとか、そんな事望んでると思ってんのかあいつ!)
そして深くのめり込んでいく毎に、楽の中で沸々と怒りが湧き上がる、
(あぁぁぁぁぁぁぁあ!苛々してきた!もう知らん!説得とか知らん!絶対にあいつを引きずり出してやる!そんでぶん殴る!百発くらいぶん殴ってやる!)
「ら、楽…?」
「ら、楽様…?」
ピタリ、と動きを止めたと思えば今度は両手で拳を握り、ダカダカダカダカと机を叩き始めた楽に困惑の色を隠せない千棘と万里花。楽の情緒不安定ぶりはあの万里花ですら戸惑わせるものだった様だ。
(俺の分、千棘の分、橘の分、鶫に宮本に集の分で一発ずつ。そんで小野寺の分で計百六発殴ってやる!)
小咲の分は百発分らしい。
当然の事ではあるが。
むしろ百発では足りないまである。
心の中でシャドーボクシングする楽の目は、戦士の瞳をしていた。
「楽…。アンタ、ホントにどうしたの…?」
「楽様…。何故突然、シャドーボクシングを始めるのですか…?」
訂正
無意識のうちに現実でも楽の拳は唸っていた。
「…悪い、心配かけた。落ち着いた」
朝のHR中、ちらちらと心配げに楽に視線を向けていた千棘と万里花に謝罪する楽。
今はすでにHRは終わり、一時間目の授業までの休み時間に入っていた。
楽の隣の席の千棘、朝、楽と千棘と話した万里花。朝は楽の席に集まらなかった鶫、小咲、るり、集と今はいつもの面子が集まっていた。
「?何だ楽。お前、桐崎さんと橘さんに何かしたのか?」
「い、いや。何かしたって訳じゃないけど…、ちょっと二人の前で情緒不安定になったというか、精神に異常を来したというか…」
朝の三人のやり取りを知らない集達は楽のはっきりしない物言いに首を傾げる。
「…ま、どうせ一条君が可笑しな事して二人を困らせたんでしょ」
「どうせって…、いや事実なんだけどさ…」
るりの中の楽評を今すぐ問い質したくなった。何とかその衝動は抑え込むが。
「なーんだ、やっぱ楽が何かしたんじゃん」
「いや、二人に何かしたわけじゃな…おい、やっぱって何だ。いつも思ってたけど集、それに宮本も、お前らの中の俺はどうなってんだ」
訂正
衝動は抑えられなかったようだ。
「え?いやぁ~、そのぉ~…」
「屑、変態、ハーレム野郎」
「待て待て待て待て!何だそれ…いや最後のマジで何!?」
楽の問いかけに、集は虚空を見上げながら何か言いたげに言い淀み、一方のるりは何の抵抗もなくあっさりと楽に対して言葉のナイフ…いや、言葉のビームサーベルを突き立てまくる。
「る、るりちゃん!」
「え~?だって事実だしぃ~。小咲だってそう思うでしょ?」
「お、思わな…!おもわ…おも…」
「小野寺さん!!?」
悲報
小野寺小咲、楽を庇う事を諦める。
更に集もるりの言葉に曖昧な笑みを浮かべている所を見ると同意してるとしか思えない。何て事だ、ここに楽の味方は一人もいない。
「は、は、ハーレムって…!一条楽貴様!お嬢の他に懇意にしている女がいるというのか!?」
「えぇ!?い、いや!いないいない!俺は千棘一筋だって!」
「ひ、一筋…」
「む」
いや、るりの言葉が聞き逃せない人という意味では一人、味方。ただある側面から見たらという意味で実際には味方どころか楽を追い詰める敵としか思えないのだが。
鶫が懐から取り出した拳銃を楽へと向けて怒鳴る。慌てて楽は弁明し、その弁明の内容に頬を染める一人の少女と不満げに唇を尖らせる一人の少女。そして、後者の少女が直後、楽の左腕へと飛び付いた。
「た、橘!?」
「あら、楽様はハーレムなど築いてはおられませんわ?何故なら…、楽様には私がいるのですから…」
「まぁりぃかぁぁぁぁぁぁあ?」
楽の左腕に抱き付く万里花を楽の右側から睨み付ける千棘を意に介さず、万里花は更にアプローチを激しくさせる。それに対して千棘の怒りもヒートアップして…。そんな光景を眺める鶫達は。
「ね、鶫さん。ハーレムに見えなくもないでしょ?」
「い、いや…。まあ橘万里花の暴走はいつもの事ですし、見えなくもないですが…、ハーレムと言うには女性の数が二人というのは少ない気が…」
「あら、二人だけじゃないわよ?アタシが見る限り、一条君に思いを寄せてる子は三人ね」
「一条楽――――――――――――!!!貴様ァ――――――――――――!!!」
うぇぇぇぇ!?と突然の鶫の再びの乱入に狼狽する楽の姿を見ながら、るりはこくりと一度頷いてから、
「やっぱり、ハーレムにしか見えないわ」
「だねぇー」
「あ、あはは…」
集の同意と小咲の苦笑を伴いながら呟いたのだった。
ま、まあ最近シリアス話が続いてましたしね?こういう息抜き回が必要ですよね?
え?一人足りない?息抜きにならない?
…
_( )_ゴロン