朝、家を出る前はあんなに憂鬱だった学校も、いざ来て友人と過ごすと心情は幾ばくかマシになっていた。休み時間、るりや千棘達と話す時間の中ではマイナス思考に囚われる事はなかった。しかし授業中、ふとした時に頭に浮かぶのは陸の事ばかり。先生の話はほとんど頭に入って来ず、先程の数学の時間、指名された時はかなり慌てたものだ。
昼休みが過ぎ、午後の授業が始まる凡矢理高校。小咲は次の授業の教材を取り出し、机の上に置く。次の時間は…英語だ。そして小咲のクラスの英語を担当するのは…、小咲達が思い悩む事柄の中心人物である奏倉羽。
先日の事があり、もしや休んでいるかもしれないというちょっとした小咲の願望は裏切られ、他のクラスの生徒から話を聞く限り羽は普通に学校に来ているらしい。まあ、あれだけで休まれては学校側も困るだろうが。
しかし教室で、授業中とはいえ顔を合わせるのはやはり気まずいというしかない。他の皆も同じなのだろう。すでに席に着いている皆の顔を見回すと、やはり浮かない表情を浮かべていた。
「っ―――――――」
チャイムが鳴る。これは予鈴ではなく、本鈴。そして本鈴が鳴ると共に開く扉。廊下から教室に入って来るのは勿論、羽だ。
教壇の上に立ち、授業に使う教材やプリントを机の上に置いてから――――――一瞬、視線が交わった。
「はい。じゃあ日直の人、お願いします」
すぐに視線が離れ、羽はいつもの笑顔を浮かべながら本日の日直の生徒に号令を促す。それに従い、日直が号令を始める。起立、礼を終えてから早速授業が始まる。
前回の授業までで進んだページを開き、ちょっとした復習を終えてから次のページの内容へ移る。いつもの授業の内容だ。笑顔を浮かべて、たまに生徒を指名して質問を投げ掛ける。
そう、いつもの授業の内容なのだ。いつもの。羽に変わった様子は、全く見られなかった。決別とも思える言葉を投げ掛けた相手とその翌日に顔を合わせている。だというのに、全くその様子は変わっていないのだ。
白いチョークで綺麗な英字を黒板に書き、重要なポイントは色を変えて示す。
そんな何らいつもと変わらない授業を進める羽は、教科書を眺めながら口を開いた。
「じゃあ、ここを誰かに読んでもらおうかな?えーと…」
手を口元に当てながら考え込む羽は、ふと黒板の右下に書かれた今日の日付に目を遣る。
「今日は11月16日、か…。じゃあ11+16で…出席番号27の人!」
「っ」
出席番号27。それは小咲のものだった。あまりに咄嗟の事で小咲は驚きで動けなかった。
羽の視線が動けない小咲を捉える。クラスメイト達の視線が小咲に注がれる。小咲はまだ、羽と視線を交わしたまま動けないでいた。
「小野寺さん?どうしたの?教科書の108ページからだけど」
「あ…っ、はいっ。すみませんっ」
苦笑いしている羽の声で我に返る。羽との確執はあるがそれで授業を止めるのも関係ない人達に悪い。小咲はすぐさま立ち上がって、羽が言ったページの英文を読み上げる。
こうして生徒を指名して、英文を読ませるのも羽の授業の特長だ。そして、そうやって生徒に読ませる時は大抵―――――――
「はい。じゃあ次の授業でここの音読テストするからねー」
その部分の音読テストが次の授業で行われるのだ。
テストの予告を受け、一部の生徒が「げぇっ」と憂鬱の声を上げる。
こうした音読テストもそうなのだが、羽は次回に小テストをするという予告を突然する事もある。いや、他の教科の授業でも小テストはあるのだが、羽の場合はその回数が多い。生徒からの評判が良い羽の授業だが、その点に関しては生徒の悩みの種になっている。
「それで、108ページの7行目の文を見てほしいんだけど…、あ」
羽が授業を進めようとした直後、授業の終わりを報せるチャイムが鳴る。羽はほんの数瞬考える素振りを見せてから一つ息を吐いてから口を開いた。
「じゃあ、授業は終わりにします。皆、音読テストの事忘れちゃ駄目だよ?」
最後に釘を刺す事を忘れず、日直の号令が終わってから羽は教材を持って教室を出て行った。
小咲は勿論、楽達の誰にも声を掛けず。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
11月ともなると暗くなるのも早くなる。夏頃はまだ昼間のごとく明るい時間だが、この時期では放課後になると日没が始まろうとしている。
帰りのホームルームが終わり、掃除の為に机と椅子を下げてから当番の生徒達と担任は教室に残り、それ以外の生徒は教室を出る。ある者は部活に、ある者は廊下で友人と駄弁って時間を潰す。
そして例に漏れず放課後を迎えている小咲達は、皆で集まりながらも何も話さず、ただ生徒達の喧騒の中で立っていた。
「…とりあえず、帰ろうぜ」
沈黙の中で口を開いたのは楽だった。このまま廊下に居座る訳にもいかず、小咲達は玄関へと下りる。その間、いつもとは違う空気に包まれた小咲達を、すれ違う知り合いの生徒が心配そうに視線を送って来ていた。
あの羽の態度は小咲と同じく皆も絶句した様だ。自分達と諍いがあった事など他人に微塵も感じさせない、いつもと変わらないあの態度。どうしてあそこまで平静でいられるのか、まるで何もなかったとすら、あの会話は夢だったのかとすら思いそうになった。
「なあ、一条」
誰も喋らず、沈黙が続く中不意に誰かが楽を呼んだ。呼ばれた楽だけではく、傍にいた小咲達も声が聞こえて来た方へと振り向く。一斉に大勢の視線を受け、たじろぎながらそこに立っていたのは一人の男子生徒。小咲は、その男子生徒に僅かに見覚えを感じた。
「上原…だっけ?どうしたんだよ」
「あぁ、いや…。別に大した用…なんだけどさ」
上原、と呼ばれた男子生徒は僅かに俯き、後ろ髪を掻く。はっきりしない態度だが、口調ははっきりと、直後に楽に問いかけた。
「あいつ…陸の奴、どうしてる?親父さんが倒れてからずっと休んだままだからよ」
「…ぁ」
小さく、誰にも聞こえない程小さな声が小咲の口から漏れた。
そうだ、思い出した。この上原という男子は陸の友達だ。文化祭の後夜祭で少し話したのを小咲はようやく思い出した。
陸の父が倒れたという事情は、陸と親しかった友人達には広まっているようだ。きっと上原はその事情を知り、修学旅行が終わってからずっと休んでいる陸が心配になったのだろう。
「あー…陸の奴は…」
言い澱む楽。それもそうだろう。今まであった事を全部話す訳にはいかない。一部を掻い摘んで話す事も出来ない。もし話したとしても、まず信じてくれるかも解らない。
「…元気だよ。悪い。でも、それしか言えねぇ」
「…そっか」
だから、楽は一言しか伝えない。真剣に友達を心配する、弟を心配してくれる人に嘘を吐く訳にはいかない。でも、全てを話す訳にもいかない。だから一言、たった一言しか伝えられない。
上原はそのたった一言を噛み締める様に、ゆっくりと瞼を開閉させ、それからニカッと笑みを浮かべた。
「そっか。元気なんだな、あいつ。ならいいや」
「っ…悪い」
「なんだよ、何も謝んなきゃいけない事なんてないだろ」
きっと、上原は怒りを抱いているはずだ。そうでなくとも、隠し事をされて良い気がするはずない。それでもその事を言及しなかった。きっと楽はどうしようもなく情けない気持ちで一杯だろう。家族を心配してくれた人に、本当の事をほとんど何も言えないなんて。
「なあ、皆はこの後暇か?」
すると上原は、いきなりそんな事を聞いてきた。俯いていた楽の顔が上がり、振り返り、小咲達を顔を見合わせる。
「俺は暇だけど…。皆は?」
「私達は何もないわよ?ねぇ、鶫」
「えぇ、お嬢」
「私もありませんわ」
楽、千棘、鶫、万里花は予定は何もないと答える。その後も集、るりも同じ様に返答し、小咲もまた暇だと伝える。
「ならさ、ちょっと…俺に勉強教えてくんね?もうすぐ中間だろ?学年上位の桐崎さんに鶫さん、宮本さんに舞子もいるしさ」
上原がそう言い、そして思い出す。そういえば、もう少しで中間テストが始まる、と。ここ最近色々あり過ぎてすっかり忘れていた。教室の掲示板にテスト範囲が張り出され、そうでなくても先程、ホームルームで担任が張り出された範囲の変更を報せていたというのに。
しかしそうなるとテスト勉強をしっかり始めなければいけなくなる。陸の事も気になるが、小咲の成績はお世辞にも良いとは言えない。高校に入って、陸を含めたこのメンツで遊ぶようになってから勉強もこのメンバーで集まってするようになって。それから成績は上がってはいるのだが、対策なしにテストに臨めばどうなるか、小咲自身が一番よく解っている。そしてそうなれば、誰が一番困るのかも。
陸の事を言い訳にはできない。してはいけない。だけど、それでも―――――――――
「…悪い、上原。ちょっとそういう気分じゃねぇや。一人を省いて皆で集まって勉強なんて…できねぇ」
陸一人を仲間外れにして勉強会なんて、できるはずがない。あんな言葉を吐かれても、小咲の胸を満たすのは陸だ。そして他の皆にとっても、掛け替えのない友人なのだから。
断りの返事をされた上原は一瞬、悲しげな顔をしてからすぐに笑顔を浮かべて、
「…なら、あいつが学校に復帰してからにしよう。そしたら皆で一緒に…あ、俺も入れてほしいんだが」
と、言った。
「…あぁ。陸が戻ってきたら、皆で、上原も入れて集まろう」
この上原の誘いは勿論楽が断る事はなく、小咲を含めた全員も不満もなく、受け入れる。
勉強会をする事はなかったが、その後、上原も含めて下校の途に着く。ぎこちない空気は僅かながらに残っていたが、集や上原がふざけて空気を和ませたり、るりや鶫を怒らせたりと下校前に小咲達を包んでいた沈んだ空気は消えていた。
るりと鶫に容赦なくぶっ飛ばされる集を見た上原が「俺、あの二人の前ではあまりやり過ぎないようにしよう…」と、引き気味な反応に小さな新鮮さを感じる。だって、集が殴られるなんていつもの事だし…。小咲もその度に二人を止めはするが、もう無駄だろうなと心の底で諦観を抱いてたりなかったり…。
「じゃあ私はここで」
「俺もこっちだ」
「あんたはついてこないで」
「あ…はは…。宮本、集もまた明日な」
道中、道が分かれた所でるりと集が。
「またねー、小咲ちゃん!」
「上原も。その…、ありがとな」
「さぁ楽様!こんな女置いて二人で帰りましょう!」
「貴様!お嬢に向かってなんて口の利き方を!」
交差点で楽、千棘、万里花、鶫が揉めながら小咲と別れる。
そして、この場に残ったのは小咲と上原の二人だけになった。
「…上原君のお家って、こっちだったんだね」
「うん。俺も、小野寺さんの家がこっちなんて初めて知ったよ」
二人になってから少しの間会話がなかったが、沈黙の空気に耐え切れず小咲から話しかける。小咲から振られた話題に上原が答え、会話が始まる――――――――
「…」
「…」
事はなかった。話は進まず、ただの質疑応答で終わり会話にまで至らなかった。
再び訪れる沈黙。気まずい空気が流れる。というか、楽達がいるまでテンションが高かった上原はどこへ行ったのか。前だけ見て、小咲と目を合わそうともしない。先程、小咲から話しかけて返事をした時も小咲の方を見なかった。
(私と話したくない、のかな…?)
何か自分の知らない所で、彼の気に障る事をしていたのだろうか。覚えはないが、無自覚に上原を傷付ける事をしていたのかもしれない。しかし、もしそうだとしたら自分は何をしたのか。謝るにしても、まずそれを思い出さなければ話にならない。
「…ねぇ、小野寺さんってさ」
「え?」
考え込む小咲に、不意に上原が話しかけた。上原の声が耳に届き、思考が切れた小咲は顔を上げる。上原は先程と同じくこちらに目を向けていなかったが、何やら照れ臭そうに虚空を見上げて蟀谷を掻いていた。
「あー、その…」
「…?」
何やら言い澱んでいる。何か言いづらい事なのだろうか。もしかしたら、疑問だった自分が上原を傷付けた行動を責められるかもしれない。
「俺の勘違いだったらごめん。あのさ…」
何かを決意したように上原は大きく息を吐いてから、小咲の方を見た。
「一条の…弟の方な?あいつの事、好き…だろ」
「…うぇっ!?」
変な声が出た。今まで出した事がない声が出た。
顔が熱い。というか全身が熱い。今はもう残暑もなくなった秋真っ盛りだというのに。実は今日は秋の気温の記録更新していたりするのだろうか。
「…やっぱり」
「え、え!?えっと…」
何も答えられない小咲を見て察した上原の前で狼狽する事しかできない。
そしてこの暑さの正体は気温ではないと、上原の態度でようやく察する。
それにしても恥ずかしすぎる。これまでるりにしか…、いや、多分もう楽達にも察せられてるだろう。それでも身近な友人にしか悟られなかった恋心が、これまであまり交流のなかった、それもよりにもよって陸の友人の男子に見抜かれてしまうとは。
「あー、大丈夫だから。別に誰かに言いふらしたりなんてしないから」
「う、うん…」
何やら勘違いされている。いや勿論、この気持ちを誰かに言いふらされるのも嫌だが、まず何より上原に知られた事がどうしようもなく恥ずかしいのに。もうどうしようもないのだが。
「…小野寺さん達が悲しそうな顔するのって、あいつのせいなんだろ?」
「え…っ」
突然、ずっとにこやかに笑っていた上原の表情が一変した。
その顔に浮かんでいたのは怒りだった。そしてその怒りの対象は考えるまでもない。
上原が口にしたあいつ―――――――陸の事だろう。
「…」
「べ、別に陸君のせいって訳じゃないよ…。陸君は何も悪くない。何も…」
そう、陸は何も悪くない。何も悪くないからどうしようもないのだ。陸が自分達と縁を切ろうとするのは自分達のため。それなのに、それがどうしても嫌で仕方なくて。
陸ともう会えないのが、嫌で―――――――
「俺なら、そんな顔させない」
上原の歩く足音が止まり、それに気付いた小咲も立ち止まり、振り返る。
その顔に怒りを張り付けたまま、上原はそこに立っていた。
「小野寺さん。…俺、小野寺さんの事が好きだ」
「…え?」
そしてその告白は突然、何の脈絡もなく、小咲の耳に届けられた。
さて、いきなり現れてくれた上何とか君ですが、問題です。このキャラのフルネームは何でしょう。ちなみに作者は音は覚えてましたが下の名前の字は忘れてました。(笑)
うじうじ回ももうすぐ終わります。そこからは反撃回の始まりです!