「去年よりもまた早くないかしら」
黄緑が口を開く。語調は質問に近いものだが、求めているのは同意だった。このやりとりも毎年の恒例行事であり、藍も去年までと殆ど同じ答えを返す。
「確かにそうだ。だが、それは何を意味するのかは分からん。もしかしたら力が弱まっておられるのかもしれないし、単に早く寝て早く起きるだけかもしれない。何も出来ることはない」
私達にはそんな権限無いからな。藍は悔しそうに唇を噛んだ。彼女の推論が、正解は前者で、後者はただの希望的観測であることを理解していた。もうずっと何年も、紫の冬眠期間は長くなり続けている。今回も、彼女が目覚めるのは今までと同じ時期だと考えるのが普通だろう。
五人でも暮らすにはやや広い屋敷。薄明かりを頼りにして、主の寝室へと進む廊下を三人の少女が歩く。その足取りは一匹を除いて重い。冬眠を始めた紫の部屋へと繋がるこの歩みは、何度繰り返しても慣れることはない。
赤だけは、何故黄緑と藍が沈痛な面持ちをしているか、不思議そうな表情をしていた。彼女も八雲紫の冬眠については知っている。そもそも自分達が黄緑を襲ったのは八雲紫の冬眠に原因があるのだから。しかし、疲れたから眠る、ただそれだけのことだと思っている赤は、何をそんなに気にすることがあるのかと二人に問いかけたくて堪らない。その欲求を抑えているのは、余りにも重苦しく体に伸し掛る雰囲気のおかげだろう。
「良く見ておきなよ。大妖怪なんて呼ばれてる御主人様が、実際はどんな奴なのかって」
紫の寝室、一際大きな襖の前にたどり着いた時、黄緑がぼそりと呟いた。掠れた声は赤の耳には嫌に悲劇的に聞こえた。ここまで来れば、幾ら心の幼い赤でも、冬眠という事象が自分達家族にとって好ましくないことくらい理解していた。自分に向けて放たれたかも不明瞭な台詞に、彼女は自分の主であり、姉でもある黒髪の少女を見上げてこくりと頷く。
黄緑の視線は襖の先に注がれていて、赤の反応を確認しようともしなかった。自分の主のことばかりが頭の中を占拠して、それ以外の事柄を全て跳ね返してしまっている。黄緑よりも先輩である筈の藍もほとんど同じ表情を仮面のように貼り付けたまま動かさない。
藍が引手に触れる。漆と指のぶつかる時に、こつん、と小さな音が鳴り、沈黙に慣れた耳を襲った。手垢のほとんど付いていない引手の、持ち主に対するささやかな反逆だった。普段、この襖を開けることは滅多にない。黄緑が朝食を作り始めれば自然とスキマを開けて紫がやってくる。誰も主を起こそうとはしない。妖怪であるのだから当たり前ではあるが、紫は朝に弱く、意識を覚醒させようとするのは無駄なことだと理解しているからだ。その癖食い意地だけは張っているのだから、炊き立ての白米や味噌汁の良い匂いがすれば勝手に起きてくる。わざわざ起こさずともそれだけで充分な目覚ましになる。なっていたのだ。今朝もそうだった。何事も無く、今日は焼き魚が食べたいだなんて我が儘言って、朝食に舌鼓を打ち、雑談を交わした後、昔の話になったから黄緑は赤を連れて逃げてきたのだ。まさかこんなことになるとは。
黄緑が、下手な絵画に描かれた可哀想な人物のように、醜悪な形に顔を歪ませる。先を視てしまったのだろう、誰よりも反応は早かった。まだ襖は開かれていないのだ。誰にもその光景は見ることが出来ていない。幸運だったのは、他の二人とも彼女の表情の変化に気が付かなかったことだろう。藍は絶望の眼差しで、赤は困惑と好奇の視線をその先に向けていた。そして、襖が開かれる。
初め、赤はその部屋が寝室だと認識することが出来なかった。あの多趣味な母親には不似合いな程質素な、そんな言葉を知らない赤にとっては、ただ、ただ、何も無いだだっ広い部屋。家具の一つも置いてないのだ。どうやっても生活を感じ取ることが不可能な、誤解を恐れず言うならば、ゴーストタウンにある空き家と表現してもいい程に、殺風景な部屋。その中央に布団が一つだけ敷かれ、傍らに二つ尻尾の少女、赤にとってはもう一人の姉になる橙が控えている。それならば、即座に見つけることの出来なかった紫は布団の中に居るはずだ。先に中央へと進む二人を追い掛けて赤も彼女の元へ向かう。
そこで八雲紫は眠っていた。眠っているのだ、と理解することが出来たのは、冬眠という言葉を前もって聞かされていたからだろう。そうでなければ、眠るなんて生易しい言葉は思い付かない。
黄緑に言わせれば、それは死んでいた。老衰か、それとも病気だろうか。静かに、安らかに、苦痛で顔を歪めることもなく命を燃やし尽くした、死化粧を施された死体だった。映画や舞台ならば、医者か何かが脈を測るでも瞳孔を確認するでもした後に、さも悲しそうに、ご臨終です、と伝えてくれそうな。ホラーやミステリーよりも現実的な死に様だった。
しんしんと積もった新雪を想起させる綺麗な肌は血の気を失い、蔵の奥に押し込められ忘れ去られた陶磁器のような死んだ美しさを持っていた。艶めかしさと幼さを一対一で混ぜ合わせた眼は開かず、乾いた唇が少しだけ割れている。掛けられた布団は上下していない。呼吸の音も聞こえない。初め黄緑が見付けた時は、驚きの余り泣きながら藍を呼びに行った程だ。
それでも、彼女は生きているのだ。こんな状態で、死にながら生きているのだ。幻想郷を維持するのはそれだけ困難だ、と簡単に一言で済ませることが出来ればどれだけ楽になっただろうか。霧の湖の氷精だったなら深く考えることもせずに済んだのに。
ガリ、と音が鳴る。誰かが食いしばっていた歯の欠けた音だ。紫のいる部分だけが、音を吸収してまた静かにしてしまう。
藍が紫の頬をそっと撫でた。反応は無い。当たり前のことがこんなにも辛い。そうして彼女は振り返る。
「黄緑、お前は出ていろ。今にも吐きそうだぞ」
「・・・・・・そうさせてもらうよ」
ごめんね、と黄緑は震える声でどうにか返事を返し、覚束無い足取りで部屋を出ていった。赤は姉について行くべきか迷い、慌てて後を追った。
残された藍は橙にも部屋を出るよう促し、戸を閉めて一人瞑目する。その眦には涙が溢れ、声を出さぬよう必死にむせび泣く。
結界を支えている八雲紫の命は消えかけている。元々無理に能力を使い、さらにその上で無謀とも言える駆け引きを常にしているのだから、常に命を燃やすのは当たり前のことだといえよう。彼女の負担は博麗の巫女よりも段違いに重く、容易に代替わりできるものでもない。それでも、自分が健在していることを示すために彼女は矢面に立たなければならない。冬眠と称して眠るのは実に苦肉の策であった。
それを知っているのは、藍と黄緑だけだ。境界の妖怪に死期が迫っていることが知れ渡れば、反乱を起こす輩も少なからず出てくるだろう。それを抑えるためにも、最低限の者、つまり八雲紫直属の式にしかこの事実は伝えられてない。射命丸文のように薄々感づいているものも居るが、ありがたいと思うべきか、理解するだけの力量を持った妖怪は、彼女の死が自分たちの存在の消滅にまで関わってくることを理屈と感情の両方で理解している。
「問題は、私の方か」
紫が死んだ後、結界を引き継ぐのは藍の仕事だ。橙を式に迎えたのにも、何れ彼女のように起きていられなくなることを悟っていたからだ。それでも、実感は沸かず、ただ空虚な不安だけが心を蝕んでいく。
自分に務めが果たせるのか、答えを出せるものは誰も居なかった。
ちょっとシリアスな感じで終了。気まぐれに投稿しているこちらですが、実はもう折り返し地点に入っているという事実。そんなに長くはないのです。
ただ、超亀更新の為、あと何ヶ月かかるかは誰にも分からない。