さて、僕はいつもの様に、博麗神社の縁側で、勝手にお茶を飲んでいた。
もうそろそろ夏へ移行するという今日この頃は、柔らかな風が心地良く、木々も、より一層生々しい蒼さを月下に
虫の声はささめくように宵に消え、緩やかな川の音は、その叙情をさらに深めている。たかれた
一言で表すのならば、良い夜だ。
*
巫女は居ない。
今日は人里で大規模な祭りがあるために、僕がここに来た時には、すでに消えていた。一応僕も呼ばれてはいたのだが、どうにも都合のつけようが無い。まあ、行こうと思えば行けるが、どうにもその気が起こらない。今は神社に一人きりだ。
――でも、まあ、これはこれでいい。
手持ちの
瓢箪を頬にあて、ゆっくりと空を見上げる。
満天の星。
振っては来ない、と解っていても、やはり、星は降ってきそうでいて。
――今こそ、緩やかな風が、僕の髪を撫ぜるべきだ。
ついついそう思ってしまうほどの、幻想郷の夕刻。
そんな思いはいつだって、そう上手くいくことは無い。
髪では無く背中を、いいかげんなさまで、しかもどついたのは、黒いだけの
見覚えがある。
僕の溜め息と同時に、もやは左隣りに収束し、形を成した。
「萃香か」
小さな鬼の姿が、多量の酒の匂いと共に、のんべんだらりと僕の目に映る。
その顔には、いつもと同じ笑みが張り付いていた。
「やあ」
彼女の、やはりいつも通りの挨拶。
「こんばんは。で、一体どうした」
「な~に言ってんだい。妖怪が夜に
その表情と喋り方に、ついつい出るのは微苦笑だった。
「そういう意味じゃない。今日は、旧地獄の方でも宴会をやっているんだろ?」
「ああ」
「にぎやかなのを好むお前が、どうしてここに来たのか、よく解らないっていうことだよ」
すると、来年のことを言っている訳でもないのに、鬼は笑った。心地よさそうに。そして、
「お前さん、一人酒は寂しいだろう?」
僕の目を見てニヤリと笑う。
「そんでわざわざここに来たのか?」
「いや」
あっさりとしたその返事は、何処か愉快そうでもあった。
「違うのかよ」
「ああ。そりゃ当然宴会には顔を出してたよ。でも、私の好きなつまみが無くなっちまってねぇ。ちょっくら調達しに行こうとさまよってたんさ」
「自由だな」
「そしたら、なーんか博麗神社が明るいだろう? だから、ここもついに妖怪に乗っ取られたのかと思ってねぇ」
萃香はまたケタケタと笑い、伊吹瓢を口に運んだ。中身が鬼用の強い酒のためか、酒の香が一気に、境内にまで広がっていくような気がする。
「そういやお前さん、今日は結局、宴会にゃ来らんなかったんだって?」
「そりゃまあね。今から行く気にもならないし」
「まったく人間は面倒だねぇ。こんな奴は、あっはは、さらってやっても良かったかなぁ」
「物騒だねぇ」
「妖怪さ」
萃香はもう一度『人間は本当に面倒だ』と呟いて、酒をあおる。そして、ふぅ、と息をついた。熱い息だ。
「向こうもいいけど、こっちもいいねぇ」
静かだ。彼女はそう言って、空を見上げる。
「見なよ、空。星がいっぱいだ。今日は特にいっぱいだ」
「そうだな」
「降って来てもいいくらい、いっぱいあるなぁ」
「そうなんだよ、本当に」
「どうだい、一興。降らせようか?
「や め て」
「まあ、そうだね。これはこれでいいか」
萃香はそのまま、今度はかすかに笑った。
それで、
空気に溶けているようだ。
僕も少しばかり瓢箪から酒を口にし、空を見上げたままの萃香を見つめる。
綺麗な顔だ。
その横顔にたゆむ陰影が情景と交わり、透明なリズムで僕の網膜に焼き付いてくる。
瞳がキラリと光り、それは
暗がりに佇む木々が慎ましげに落とす月の木漏れ日。それが二人に降り注ぐ中、緩い風にほだされてか、黒い葉っぱが一枚、僕の横にカサリと音を立てた。
「どうした?」
不意に彼女は、つ、と僕に視線を戻した。目と目が合い、一瞬時が止まる。彼女の目はどこまでも澄んでいて、そこに生じた須臾のスキマに、挟み込まれた様な気分に襲われる。
「いや――」
と言いかけて、やめた。
「萃香が綺麗だなと思った。うん、とても綺麗だ」
彼女はきょとんと僕を見る。もしかしたらその表情は、とても貴重なのかもしれない。
「嘘ついたり誤魔化したりしないのは良い事だけど、よくもまあ面と向かって」
「仕方ないね。綺麗なものは綺麗だと思うし、美しいものは、やっぱり美しい。それに、嘘をつかない努力くらいなら、僕にも出来る。多分」
まあ、『鬼に何かを誤魔化すのは怖い』というのも、理由の内にあるけれど。
そう思いはするが、なるべく顔に出さないように注意しながら、僕は瓢箪の中身を確かめた。まだ半分は入っている。しかし、おつまみの手持ちは無い。仕方ない、台所から塩でもちょろまかして来よう。
そして腰を浮かしかけると、しばらく『はぁ~』とか言って首をかしげていた萃香が、いきなり顔をしかめて、
「ん? なんだ、お前さんから見て、私は美しい、というよりきれーなのかぁ?」
飲兵衛丸出しの声で絡んできた。とりあえず座り直す。
「いやね、『美しい』という言葉より『綺麗』の方が、人間味があるようで僕は好きなんだ」
「あたしゃ妖怪さ」
「僕は人間だから」
「捻りがない返事だねぇ」
「酔っているんだ」
「納得は出来るなぁ」
「ならそれでよし」
そう言って、僕は再度腰を浮かした。が、萃香は不満げな様子で僕の腕を掴む。月光に照らされた白い頬がぷくりと膨らみ、眉はかるくひそめられていた。
その様子は、彼女もやはり乙女であるという事実を万人に知らしめるものであろうが――如何せん、力が強い。もげる。腕が。
否応なしに座り直した僕に、
「いやいやぁ、なんつぅかね、『綺麗』ってのは『美しい』の下位相関な感じがしてね?」
と、彼女はすぐさま言葉を浴びせる。
「気のせいだ」
「門番は居ないさ」
「その返しは解りづらいなぁ」
「酔ってるからだ。自業自得だろうがぇ、お馬鹿さん」
「確かに。やはり、お酒は控えよう」
「おっと待った今の無しだぁね」
「僕とお前と、どっちの返し?」
「両方。これでおあいこだ」
「何を言っているのかねぇ」
「私の言いたいことさ」
「その言いぐさは、真に鬼っぽい」
「そうだろ」
そう言って、萃香は笑った。
綺麗だった。
*
しばらく、他愛のない話が続いた。
時刻でならば、まだ宵の口。でも視覚的には、もうすっかり夜の中だ。
流れる風、揺れる篝火、そして、初夏の匂い。
暗闇は、艶めく絹の滑らかさで、ゆるりと二人の体をなぞる。
深まりを見せるその闇は、虫の音と緑が香るこの幻想郷に、新たな帳を下ろしていった。
そんな中、
不意に、明るくなったように感じた。
酔いが回ったうつむき加減の頭を、上に動かす。
そして、目を見張り―、
突っかけていた下駄がぬげる。
瓢箪は転がした。
つい、前のめりになる。
星が降っていた。
いくつも、いくつも。
何となく数えているうちに、降ってくる量は増していく。
点は線になり、線はじきに
何本も何本も何本も重なり、干渉しあい、その軌跡を残しつつ、鈴虫の音の様に消えてゆく。
まるで天の花火だな、と呟くと、横で小さな笑い声が聞こえた。星を割ったんだ、とも。
「どうだい」
「――天蓋を割るよりは、いいと思うよ」
粋な台詞は出なかった。
でも萃香は、そんな僕を見て嬉しそうにしている。
そして彼女は、カタリと首を傾ける。開かれた瞳は、その嬉しそうな様子に反しガランドウで――正に妖怪のそれだった。
そして、言葉を発した。それはぽとりと、まるで地面に置かれるように。そのまま風化してしまうような。
何故だろう、その時、彼女は唯孤独であるだけに見えた。
だからそれを見た瞬間、僕は萃香と話さなければと思い――
この掛け合いは、この先も忘れることは出来ないだろう。
僕はそうであるように、信じる。信じた。――信じよう。
*
「季節はまた過ぎるからね」
「ん?」
「あたしにとっちゃあ、もう何度目か分かったもんじゃない」
「ああ」
「印みたいなもんだよ。あたしが居て、あんたが居たっていうね」
「嬉しいね」
「なーに言ってんだぃ。あたしゃすぐに忘れるさ」
「のんべぇだしな」
「こら」
「はは」
*
「妖怪はまだまだ生きる」
「
「人間はすぐ死ぬ」
「たまに食われたりしてな」
「妖怪は一人で、繰り返して繰り返して、繰り返すんさ」
「ナニを?」
「過ぎる季節を」
「ほう」
「ああ。だから、すぐに忘れっちまうんさ」
「なるほど」
「ああ」
*
「繰り返す、か」
「ああ」
「でも萃香、不思議なんだが、例えば季節――初夏は何度来ても初夏だ」
「うん」
「そうなると、また、新しい季節に会わざるを得なくなってくる」
「言葉の上ではな」
「たとえそれでも、一つの形にはなっているから困るんだ」
「
「どうだろうねぇ」
*
話し続けた。
夜も更けた。
ゆっくりと月に雲がかかり、その隙間から漏れる光は、地上に白く淡く降り注ぐ。
この時ばかりは木々も優しく、その姿態を光に晒していく。
コクリと動いた萃香の喉の白さ。
きめ細やかな、薄い白蝋めいたそれは、この青白い世界に一瞬の陰影を閃かし――正に月下の景色だった。
「さて」
その空気の中、僕は立ち上がる。
「もう行くのかい」
「まあね」
「もういいのかい」
「そうだね」
「何か無いのかぇ」
「ん?」
「言うこと」
「特に無いかなぁ」
一歩、二歩、前に出る。
追って、声が響く。
「無い訳は無かろうね」
それは、僕の小指にすがり付く。弱い力で。
だから、振り向かないで声を出す。
「でもね、本当に無いんだ」
「なら何で、お前さんはここに居る?」
「そりゃあ、居たかったからだよ」
「居たかった」
「ああ」
「でも、もういいのか。本当に」
「ああ、それに」
「それに?」
「僕の四十九日も、もう終わる」