比企谷八幡のSAO録 作:狂笑
「あ、……上を見ろ!!」
どこからか、そんな声が聞こえてくる。
その声につられて俺は反射的に視線を上向けた。
百メートル上空、第二層の底。
そこは真っ赤なフォントで【Warning】、そして【System Announcement】と綴られた文字で真紅の市松模様が見事に染め上げられていた。
その中央部分がまるで巨大な血液の雫のようにどろりと垂れ下がり、突如空中でその姿を変えた。
出現したのは、身長二十メートルはあろうかという、真紅のフード付きローブを纏った巨大な人の姿だった。
いや、正確には違う。顔がないのだ。顔どころか、肉体すら見えない。
まるで透明人間がローブを纏ったかのようだ。
そしてそれは喋りだした。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
……私の、世界?
このゲームを作ったのは茅場だ。ということは、もしかして――
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』
やはり、か。
私の世界という宣言から何となく予想はついた。
だがそれよりも、茅場がなにをしようとしているかを考える方が優先だろう。
バグの謝罪なのか、それともただのイベントなのか。
茅場晶彦
数年前まで数多ある弱小ゲーム開発会社の一つだったアーガスが、最大手とよばれ、東証一部上場企業となるまで成長した原動力となった、若き天才ゲームデザイナーにして量子物理学者。
彼はこのSAOの開発ディレクターであると同時に、ナーヴギアそのものの基礎設計者でもあるのだ。
いままで多くの富と名声を獲得してきたが、常に裏方に徹し、メディアへの露出を極力避けてきた茅場が、何故ここに出てくる。
『プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う。しかしこれはゲームの不具合ではない。繰り返す。これは不具合ではなく《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』
『諸君は今後、この城を極めるまで、ゲームから自発的にログアウトすることはできない』
『……また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合――ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』
ナーヴギアの電源を切ったり、ロックを解除して頭から外そうとしたら、着装しているユーザーを殺す。茅場はそう宣言した。
ざわざわと集団のあちこちがざわめく。
だがそのおかげで、俺は混乱することから免れた。
ナーヴギアの原理は電子レンジとよく似ている。そしてナーヴギアの重さの三割はバッテリセル。原理的には可能だ。
アメリカではネコを温めようとして電子レンジでチンしたら死んでしまった、という事例が存在する。
ネコを殺すことが可能なのだ。人間の脳を焼き切ることなど簡単だろう。
だが、瞬間停電が有ったらどうなるのか。
また変電所や電線の不具合で停電が発生すればその地域のプレイヤーは死ななければならないのだろうか。
流石に心を読まれたわけではないだろうが、その疑問に答えるように茅場のアナウンスが再開される。
『より具体的には、十分間の外部電源の切断、二時間のネットワーク回線の切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解または破壊の試み――以上のいずれかの条件によって脳破壊シークエンスが実行される。この条件は、既に外部世界では当局及びマスコミを通して告知されている。ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視してナーヴギアの強制解除を試みた例が少なからずあり、その結果――残念ながら、既に二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』
二百十三名。
これだけ聞くと、多いか少ないかは分からない。
このアインクラッドの最大人口が一万人だとすれば、死亡率は2.13%
この数字だけ見れば少ないようにも思える。
だが従業員数二百十三名の企業と言われれば、中規模くらいの企業だと考だろう。
またこの人数は、東京都青ヶ島村の人口とほぼ同等だ。
つまり、SAOによって島一つ分、または中規模企業一つが消えたも同然なのだ。
周囲のプレイヤーは正気を保てていないようで、放心している者や、薄い笑いを浮かべたままの者もいる。
俺も例外ではないらしく、二百十三名という単語の規模を考えて軽く現実逃避してしまった。
それでも無情に、また実務的に茅場のアナウンスは続く。
『諸君が、向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない。現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることを含め、繰り返し報道している。諸君のナーヴギアが強引に除装される危険は既に低くなっていると言ってよかろう。今後、諸君の現実の体は、ナーヴギアを装着したままに時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他の施設へと搬送され、厳重な介護体制のもとに置かれるはずだ。諸君には安心して……ゲーム攻略に励んでほしい。』
ゲーム攻略に励め、だと……?
ログアウトの状態で、命懸けで遊べと言っているのか!
デスゲームを嬉々としてプレイするなど、狂気の沙汰だ。
だが待て、仮に、仮にクリアできたとしよう。
クリアしてしまえばゲームはそこでおしまいだ。
自発的にログアウト出来ない以上、俺たちプレイヤーが解放されるには、このSAO自体が消滅する必要があるだろう。
つまり、クリアできるまで、ずっとこの世界の住人でいなければいけない、ということだろうか。
俺は答え合わせを待つかのようにして、茅場のアナウンスによりいっそう耳を傾けた。
『しかし十分に留意してもらいたい。諸君にとって、《ソードアート・オンライン》はすでにただのゲームではない。もう一つの現実とでも言うべき存在だ……今後、ゲームにおいて、あらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君のアバターは永久に消滅し、同時に――諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』
『諸君がこのゲームから解放される手段はただ一つ。先にも述べた通り、アインクラッド最上部、第百層までたどり着き、そこに待つ最終ボスを倒してゲームをクリアすればよい。その瞬間、生き残ったプレイヤー全員が安全にログアウトされることを保証しよう』
やはり、か。
β時代は千人参加して、二か月で第六層までしか攻略できなかった。
今回は一万人弱参加しているが、デスゲームである以上、最前線の人間はβ時代より減る可能性がある。
仮にβ時代と同じスピードで攻略のペースが進んだとしても、二年十か月はかかる計算だ。
その頃には俺は二十歳になっている。
その頃にはもう、雪ノ下も由比ヶ浜も、あの部屋にはいない。
あの二人だけではない。戸塚や材木座など、おれが奉仕部に入ってから関わってきた人全てがいないのだ。
あの日、あの二人との関係を取り戻した日が、俺の最後の奉仕部になってしまった。
本物が欲しい。
そう言った。言ってしまった。
また始めることができる。そう思った矢先にこれか。
それだけじゃない。
角宮の問題の一つが、俺を当事者にさせた。
今回ばかりは逃げない。
そう思っていたのに、結果的に逃げてしまった。
今の俺には、現実に戻ってやらなければならないことがある。
だから、攻略してやる。 このデスゲームを。
それが俺の意地だ。
『それでは、最後に諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え』
俺は右手の指二本を揃えて真下に向けて振り、出現したメインメニューからアイテム欄のタブを叩く。
そこに表示された所持品リストにそれはあった。
アイテム名は――《手鏡》
不審に思いながらも、それを顕現させる。
――途端
「おわっ!」
白い光に包まれた。
周囲でも同じようなことが起こる。
ほんの二、三秒で光は消え、鏡に映ったものは――
「俺だ……現実の」
俺の、現実世界の顔だった。
ふと周囲を見回してみると、数十秒前まで存在していた、如何にもファンタジーゲームのキャラクターめいた美男美女の群れは消えていた。
代わりにいたのは、鎧兜をきた、リアルの若者たちの集団だった。ネカマもいたようで、女性の格好をした男もいる。
うん、フツーにキモいな。
『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。何故私は――SAO及びナーヴギア開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか?これは大規模なテロなのか?あるいは身代金目的の誘拐事件なのか?と』
『私の目的はそのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。何故なら、この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を創りだし、鑑賞するためにのみ私はナーヴギアを、SAOを造った。そして今、全ては達成せしめられた』
『……以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤーの諸君の――健闘を祈る』
そう言い残すと、茅場は音もなく消えて行った。
まるでそれが合図であるかの如く、一万人弱のプレイヤーの感情が、堰を切って溢れ出した。
悲鳴、怒号、罵声、絶叫。そして咆哮。
頭を抱えて蹲る者。
両手を突き上げる者。
抱き合う者。
罵り合う者。
その中で俺は一つの決意を胸に、次の村へと歩み出した。
絶対に生きて帰る。
もしそれが、どうしても出来ないときは――
――この世界で、華々しく散ろう。