そんなことを想像しながら書きました。
どんなに特殊な非日常でも、時間が経てばそれは日常になる。慣れとは恐ろしいもので、目の前に広がっている異様な風景さえ僕の目にはただ無機質に映る。
まだ、世界が変わって間もない頃、僕は情緒不安定であった。
怒ったり、泣いたりしたと思ったら、突然静かになったりした。
今は、ただ虚しさだけが残っている。ぽっかり穴が空いているのだ。
ほんのりと赤く色づいた空が視界の端にある。そこに消えそうな雲がいくつか点在し、
単調な空に変化をつけていた。
少し視線を下げると、不釣り合いな灰色を携えたビルがある。
あちこち硝子が割れているうえに、コンクリートの壁がはぎ取られ、鉄骨が見えている。
その隣にあったマンションは、型をとどめておらず、足下に崩れていた。
僕は、乾いたコンクリートに腰を下ろした。今日も、世界は静かだ。
近くで、何かが動いたような気がした。影が視界を横切る、そんな感じだった。
その方向へ目を向けると、そこには大きなドブネズミがいて、こちらを見つめている。
やあ、と僕は片手をあげた。返事はしてくれない。いつもの事だ。
じわじわと、肉体を蝕むように時間が進んでいく。みんなが生きていた頃には違う空虚感。
そして、脱力感。僕は世界を拒否して、世界は僕を拒否する。
早く死んでしまえ、と互いに言い合っているのであった。
世界が死ぬのが先か、僕が死ぬのが先か。もしかしたら、もうどちらとも死んでいるのかもしれない。
無機質な風景に、無機質な僕。構成しているのは、全て無機質である。
かつてこの世界が繁栄していた頃、僕は星を見に行った事がある。隣には彼女がいた。
きれいだね、と言い合った星空の下、確かに僕たちは生きていたのだ。
そんな、昔の思い出を反芻しても乾いた笑いしかでない。悲しくはない。虚しいのだ。
今頃、彼女は何処と知れない場所で骸に変わり果てていることだろう。
悲しい事があったって、嬉しい事があったって、いつでもそこには基盤があった。
安定した、確かな土台の上に感情の流動があった。
しかし、それが無くなったいま、そこには底知れない、穴ぼこが落ち込んでいるだけである。
遙か遠方で、サイレンの音がした。行かなければ。
ひん曲がった片方の足を引き摺りながら、右手には枝の杖を持ち、僕は呻きながら古い唄を歌った。
僕は 旅人。悲しい旅人。星空に 涙を託しても 雨になって降ってくるだけ。
私は 娼婦。寂しい娼婦。砂漠に 裸体を曝しても 干涸らびて 砂になるだけ。
自然に救いを求めても 仇となって 血に染まる。
私が全て 私が全て 何も信じちゃいないのよ。
朝が来た。食料も底を突き、満身創痍の体一つでこれから生きていかなければならない。
僕は、怠慢な動作で歩き始めた。
目の前に広がるのは、崩壊した建物群で、その隙間から漏れる陽が、おどろおどろしい模様を創り出していた。
僕は罅だらけのアスファルトを睨みながら、歩いていた。
足に銀の足枷を填められている感覚で、一歩一歩が覚束ない。
あっちへ行き、こっちへ行き、何処へ進むやら分からないまま、九十九折に道を辿った。
所々、肉の気配が薄い、砂にまみれた屍が転がっていたので、かまわず踏みつけた。
人の尊厳やら、命の尊さやらは、とっくの昔に忘れた。
生きていくのに必死なのだ。幾らでもある死体なんぞを気にかけてはいられない。
暫く無言で進む。また歌でも歌ってやろうと思ったが、声が出なかった。
水も、ここ1週間は飲んでいない。
雨でも降ってくれれば良いのだが。無論、降っても一時しのぎにしかならないだろうが。
肉体はすり減り、骨と皮が目立つようになってきた。
あばら骨は浮き出て、蛇腹の影を浮かばせている。
手や足は折れてしまうほどに細く、か弱かった。
どうせ死ぬんだろう。それなら何故にそこまで生に執着する?
どうせ何もないのだ。守るべき人も、やりがいのある仕事も、生活感の溢れる部屋も。
一体何が残っているというのか?絶望か?人生か?旅路か?幻か?
そんなくだらない物をいつまでも厭らしく持っているなんて恥ずべき事ではないか?
捨ててしまえば、全てが楽になる。
だけど、まだ生きなければいけない。
生きろ。何が僕をここまで動かすのかは分からない。
しかし、僕の魂が叫んでいる。
自分の生きた証を残すのだ。
僕が存在した印を残すのだ。
人類の栄耀を刻んだ石碑を残すのだ。
どうせ現世から身を引くのであれば、自己の証明を。
朝焼けは、まだ始まったばかりだ。
低い位置で鴉が滑空し、地面に伏せている猫やら犬やら人やらの死骸を啄んでいる。
それらの近くでは、白い蛆や黒い蠅が集り、肉を咀嚼していた。
もう半年にもなるだろうか。文明の面影は、日に日に廃れ、腐った臭いと灰色の景色の
沈殿が、僕の精神を廃退させる。
僕の記憶のネガフィルムは、砂塵で白みかかり、霧のようであった。
もう、繁栄の記憶は殆ど忘れてしまった。
僕は、平和な時代にどれだけの恩恵に恵まれて生きてきただろう。
今、それを痛いほどに実感している。この有様な世界を知らないと、有り難みを感じることは出来ないのか。だとしたら、何と勿体無いことなのか。
有限にあるものは、どれだけ膨大な量でも、有限は有限。
限りあるものは、どれだけ巨大な塊でも無限に成ることは許されない。
この二つを架け橋で繋ぐには、あまりにも遠く、性質が違いすぎたのだ。
だから、人は死ぬ、文明は滅びる。
当たり前と片づけてしまうには、理不尽極まり無い!
僕はもっと生きていたいのだ!終わりという不可避の壁を突破して、新しい肉体を手に入れたい!
そんな願望も、閉じられたシステムであるこの仕組みの中では、叶う訳もない。
世の理というものが、僕の躰に食い込むように、雁字搦めになっている。
この鎖は、解くことができないから、あきらめて選択可能な事情だけを選んでいくしかない。
僕は、神になる。あらゆる死や、生を超越する。
極限の状況で、エクスタシーが生まれた。
追い込まれた状況でのアドレナリン、脳内麻薬の大量分泌。
僕は杖を振り回し、わずかに肉片が残る死体を打擲した。
舞う砂埃と、哀れな僕。
方向違いのエネルギー活動が無を叩く。
こうした行為の中に、何が生まれるのか。無は所詮無だ。
それ以外の何者にも慣れないのに。有である僕が無を壊し続ける。
狂った優越感。僕はまだここにいる。
不意に、悲しくなった。僕もいずれはこんな風に何もないただのものに成り下がってしまう。こうなれば、そこら辺に転がる野獣の糞と何ら変わりがない。
かつて性の華々しい波が駆けめぐっていたとはいえ、過去は過去だ。
時も、今が過ぎるたび、死んでいく。滅びている。
過去など、存在しない。亡くなっているのだ。
そんな過去の残滓が積み上がって、今を形成している。
どんな人がどんなことをやったって、全て死に収束する。
そのことがたまらなく怖い。
自分の意識が無に帰結するなんて。
無に始まり、無に終わる有。それだったら、最初から無いのと同じじゃないか。
観測出来なければ、無いに等しい。
量子論の考え方でそんなのがあった。
だとしたら、いま死んでしまっては、僕の歩んできた軌跡はどうなるんだ。
僕の知っている人は全員もういない。僕を観測する人はもういない。
僕は、本当の意味で消えてしまうではないか!
このまま、死ぬわけにはいかない。何かしなければいけない。
何かって何だ。それが思いついたとしても、行動する気力も、体力もない。
もう、限界が近い。このまま、思い通りにされるのか。
僕は、仰向けになった。そして。眼を瞑った。
網膜の裏に、太陽の残像が見えた。やがてじっくりと像が消えると、無機質なビル群の上を飛んでいる鳥の幻を見た。
モノクロの街だ。僕らの街だろうか。陽は見えないけれど、確かに建物があった。
僕は考えた。これは、もしかして脳細胞のひとつひとつかもしれない、と。そう感じた瞬間、灰色全体が脈動したような気がした。
僕の中にも、街がある。それを信じて生きていけばいい。
夜の垂れ幕の中で寥々と浮かぶ月は、黒々とした完全なる闇の中で唯一の光を放っていた。
生きる希望と言うには、あまりにも静かで、死への絶望と言うにはあまりにも美しかった。
光を失った文明の上に広がる星々は、あちらこちらに点在し、星座を描く。
右端の方にある星雲は重さを僕に与え、今にも落ちてきそうであった。
その間を時々空を小さく縫う流れ星が僕の涙だった。
何の変化もなく居座っている微少なサーチライトは、淡いはずが爛々としているように見え、暗がり全てを支配してしまうような気がした。
夜明けは永遠に来ずに、連続して今が続き、この世界はそんな今に閉じこめられる。
球体の外側にあったものは、知らず知らずのうちに内側に入り込み、そのまま球体は僕達を乗せながら浮かぶ。
しかし、それは地球ではない。独立した「夜」なのである。
そんなことも知らず、ここはここだと思いこみ、僕は夜空を見上げていたのだ。
実際、微光の群集は、窓硝子に映った白熱灯のように現実感が無かった。
その虚の感覚が貼り付いた僕の意識に、病み上がりに似た痺れが生じ始めた。
仄かな電気は、母が歌ってくれた子守歌だった。
僕は、少しずつ景色が消えていくのを、他人事のように眺めていた。
無限に引き延ばされた筈の夜。それでも朝はやってくるようで、徐々に、剥げた山の稜線から陽が白く膿むのが分かった。
その膿は、沿うように広がり慎重に朝を運ぶ。
もう、夜明けは近い。
僕は、分かっていた。もうすぐ、僕が僕で無くなる時が来ることを。
鳥が囀らない朝がやってくると同時に。
僕は、トランジスタラジオから流れていたサイレンの音を想う。
あれは、まだ生きていた誰かからの信号であったか。
もう確かめる術は皆無だが、まだ誰かがこの世界を生き残っている者がいるということを
僕は信じていた。
その人に後を託すことが出来るなら-。
僕は、手を合わせた。何処に居るかも知れない誰かに。
祈りが終わると、僕は、軽く耳鳴りを覚えた。冥土から聴こえる音だ。
いや、聴こえるというより、聞こえるといった方が正しいかもしれない。
それは、只の音というよりかは、何かの言語と言った方が正確である。
その言葉は、漸次肥大化し、巨大な塊となった。
だけど、煩くはない。何処か心地よかった。
狭いこの世から解放される感覚。赦される感覚。
ああ、そうか。僕は罪を犯してきたから、こんなにも生き長らえてきたんだ。
脳漿が熱を帯び始め、融解し始めた。
幾つかの風景が、廻り、浮遊し、落下し、上昇し、欠落した。
それらは、乱雑に散らばったかと思うと、とたんに集結し、一つのコミュニティを形成した。それは、我々の言葉では表せない概念だった。
どこが目やら、鼻やら、手やら足やら分からない。
自分というものが消え、拡散する。
ヘリウムよりも軽くなった心地がし、肉体が消えたことを悟った。
すでに、滅びた世界のことも忘れたのだった。
こうして、僕は、死んだ。
何も無かったかのように。
この世界の無数の屍が、また一つ増えた。
増えたところで、何も廃退的なモノクロは変わらなかったが。