ピアノと、戦争のお話。

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ピアノ・ソナタ

闇夜を飾るピアノ・ソナタが僕の指の下で産まれては、月の彼方へ消えていくに従って

冬の風景の輪郭がはっきりとしてきた。

今日は最後の演奏会。客はいない、今宵のソナタ。

霜が降りている。そして確実にこの部屋を冷ましていく。

かじかんだ手を震わせながら僕は鍵盤を叩いた。

透き通った硝子の水の中で優雅に踊る魚のように音は翻る。

それは、最早ただの音ではなく意志を持った生命体であった。

1つの音符の水滴がぽつんぽつんと溜まっていき、やがて大河になった。

轟音を立てて、渦巻いた生き物はこの部屋を満たしながらあちらこちらで咆吼をあげる。

相変わらずソナタは続く。この孤独な世界の中で。

誰も聴いていないのに、まだ僕は弾き続けるのか。

飲み込まれながら、思考は方向が分からないままに舵をきる。

やがて、自己にたどり着いた。

自分という、一番身近なようで一番難解な存在。

考えれば、考えるほど深みにはまっていく。

この耳の中に吸い込まれていって、その後何処に行くのかが分かればいいのだと思う。

しかし、いくら追いかけようとしても、途中で消えて無くなってしまう。見失う。

次第に、神経が麻痺してくる。音にしびれ、意識が霞んでいく。

しかし、それでも演奏は途切れない。

そこには感情はなく、機械的な冷たいものになっていた。

淡いコルクの栓が炭酸を閉じこめ、そこだけが独自の世界を醸し出す。

1つ1つが誰も知られることのないまま消えていく音楽の音符を形象していた。

不規則に誕生する泡の狭間に僕の顔が歪んで映った。

天空と地上を結ぶ線が虹色に輝く。

これは、僕の脳の信号だ。幻を作り出している、繋糸だ。

1本1本の中に僕がこの曲に込めた願いや歌がひっきりなしに行き来している。

蜜歴業者の鐘の音。オルターヴの海のさざめき。

泣いた空の粉雪が、徐々に心を埋めていく。

幽森の陰った曇り空から、ふろといん、ふろといん、と墜ちていく。

白い鍵盤はいよいよ黒の胎児を組み込んでぎこちない譜面を構成する。

へその緒はピアノの管に絡まって、音も薄まってきた。

どうやら、僕が産まれた時の母親の記憶が演奏に乗り移ったらしい。

あの頃、僕はどんな時代背景の中で誕生したのか。

ヒントはすべてこの音符の配列に隠されていた。静脈を這うように流れ出るそれは消えそうな鼓動を形象しているようだった。

暗い地下室から蠢く何かの眼球が痙攣、その血走った眼にはうっすらと涙の層が。

「早く思い出して。音が制御不能に陥る前に。」

焦げた小屋の片隅にある四輪駆動型のジープ。苔が毛皮にはびこる汚れのテディベア。

紅く染まった誰かの衣服。錆びた音の時計振り子。

次々と思い浮かぶ記憶の断片が僕の目の前に流れていった。

街々を壊した鈍色の焼夷弾の空を裂く音が耳の近くではっきりと聞こえた。

あちこちであがる火の手は渦を巻きながら建物や人々、車や街灯を飲み込んでいく。

焼けただれた妊婦、お母さんはこっちを見ながらケロイド状に溶けて膿んだ手をこちらに伸ばしてきた。僕は何か言おうとしたが、でたのは少量の血反吐と痰だけである。

お母さんは産卵期の巨大な成虫のようにのたうち回る火の狂気を前に姿を消した。

ここで映像は途切れ、ぷつんと暗闇に戻った。嗚呼、もう結構である。僕は頭を抱えた。

ピアノよ、こんなものを見せてどうしろというのだ。こんな遠い昔の話を今更。

赤黒い硝子の破片が僕をあちこち傷だらけにしていく。

鴉は地平線の先の災禍をただ眺めている傍観者となって。

思い出したくなかったのに、酷いではないか。

ピアノよ。あなたは何が言いたいのか。僕に何を伝えたいのだ。

降りしきる雪が灰に見えた。

知らぬ間に涙が出て、頬をつたう。繰り返し、繰り返し記憶が僕の脳を抉っていく。

流れる大河はせき止められ、行き場を失いあふれる。

洪水は、僕の脳内を満たしていき、思考の船の航路を逸らしていった。

悲しみは徐々に前向きな気持ちへと変わっていく。

さんざん迷った船旅はついに港へと到着した。

少年は思いついた。この残酷な世界を音楽に変換して皆に伝えよう。

世界中に戦争の恐怖を知らしめ、もう二度と繰り返されないようにしよう。

少年の硝子のような目は、東の方向、大都市のあるところを映している。

ピアノを解体して、鞄に詰め込む。さあ、次の町へ出かけよう。

おぞましい過去を使って、平和を創る旅が始まった。

空がかすかに白みを帯びている。もうすぐ夜明けだ。

 


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