生きている今の世界で、私は気が付いたら見たことのない海辺を歩いてた
私は海辺を歩いてた。
石や漂流物、貝殻一つも落ちていない白い砂浜と青く吸い込まれて溶けてしまいそうなほどに蒼く透き通った海、空には雲もなくカモメの声が聞こえるのに一羽も鳥の姿はなく、夏の陽射しのように降り注ぐ日光、だが不思議と熱くなくむしろ春の日差しのように柔らかく私を照らして包んでいる。
トルコブルー色のフレアのロングスカートが風で揺れる。
なんて穏やかな風であろう、私の生きた人生でここまで気持ちを穏やかにさせる風を、肌に感じたことなどない。
地平線をみる。
蜃気楼のように、真っ白なヨットがゆらゆらと揺らめいている。
漁師の船であろうか?
穏やかすぎる程に穏やかな風邪にも関わらず、帆はちからづよく張りをもって地平線を滑るように進んでいる。
『やぁ。君も散歩かい?』
目の前に一人の青年が佇んでいた。
穏やかで、まるでこの海辺のもつ揺るかな時間を凝縮したような、おっとりと微笑む青年だ。
真っ白なシャツに真っ白なズボン、肌は少し白いが病気的ではなく比較的に健康的な色で、2つ分はだけられた胸元にはこの海の色で色づけたような石がペンダントとして揺れている。
『いい天気だね』
私が何も返事をせず彼を凝視していたのに、青年は気分を害することなくニッコリと笑い話を続けた。
あまりにも異質で優しい海辺で、突如表れた穏やかな青年、私は当然のように青年の隣に立ち止まった。
『漁師が船を出してる。大漁かな』
ああ、やはりあの船は漁師の船のようだ。
青年は、陽向で眠る子猫のように人見をほそめて地平線を見つめている。
『ここ、好きなの』
何気なく、唐突に私は青年に問いを投げた。
青年は、ついと私を見ると緩やかな動きで頷いて見せた。風で揺れてそよぐ髪を好きにさせながら、青年は奏でるような肥で言った。
『好きだよ』
一言。
たった一言だったのに、それだけで青年のこの世界に対する愛情のようなものが伝わってきた。
『君はすき?この世界』
『分からない』
やっと会話らしい会話をしたのに、私はそっけなく答えてしまった。
やってしまったと思いながらも後悔はなかった。何故なら、青年はそんな答えでも満足そうに頷いたからだ。
つくづく変な青年だ。
『ここはまるで時間がないようだと思わないかい?風もあって波もある、船も動いてる。けど、生き物がいない……時間の中で唯一活動す生物がいないと、世界はこんなにも静止したように静かになるんだね』
青年はぽつりと言った。
確かに………ここでは、わたしと彼以外の生き物が見当たらない。
だからだろうか、こんなにも穏やかで静かで、平和なのだろう。海を汚すゴミがないから海辺は塵もなく、海底の生物を食べる生物がいないから彩る貝殻は一枚もなく、その貝殻を食べる生物がいないから鳥も姿がなく、世界を汚染する人間がいないから…こんなにも全てが美しいのだろう。
『でも、寂しいね』
青年は少し残念そうに声を溢した。
『何故?世界が穏やかならそれでいいじゃない』
『いいかもしれない、けどね…生物がいない世界なんて存在しない。するとしたら『死後』の世界くらいだ』
『死後の世界』
ああーー…そうか、青年の溢した言葉に私の生きた胸のうちの疑問が泡のようにはじけて消えた。
この世界にある安らぎは、青年のいった通り『死後の世界』のようだ。例えるなら、誰もが一度は想像した天国のようだ。
いや、ここは花畑がない。
河もないな、三途の川でもないだろう。けれど、この世界を表す言葉があるなら『死後の世界』が相応しかった。
『私、死んじゃったの?』
『さあ…どうだろうね。それは、君次第だよ』
冗談のつもりで話した疑問を、世界は朝の挨拶のようにさらりと返した。
それだけで、私は理解した。
<この世界は死後の世界であると>
不思議と怖くはなかった。
むしろ、理解したからか気持ちがスッキリとし心が軽くなった。
人間、疑問や思うものがあるとそれが荷物となり心を重くし、足枷になるようだ。
『そっか…死んじゃった、私』
怖くはなかった。
怖くはなかったが、虚しくなった。
『それは、君次第。そう言っただろう?』
青年はまっすぐに私を見つめながら言った。
初めて見た青年の瞳に私は心が震えた。あまりにも真っ直ぐで、純粋で見透していて。神様や天使が実在感したなら、こんなにも広大な瞳をしているのだう。
そう思い、私はとっさに青年から目をそらして俯いた。目の前に、自分の足が映る。そこで、ひとつの違和感に気づいた。
ー靴を穿いてる足と素足のままの足があるー
私の足には、靴を穿いている足と束縛のない素足の足があった。
どういうことだろうか?
それに気付いたからか、靴を穿いている足が蜃気楼のように揺らめいている。
まるで、そっちの足が現実の世界に戻ろうとするかのように、溶けてしまいそうだ。
『君はまだ死んではいないよ、ちょっと迷ってるんだ』
いつの間にか、私の足元に膝まづいた青年が答えた。
『ここは蘇亡(そぼう)の海、死後と生後の間に存在する不確実な世界なんだ。僕はこの世界の番人、生後の世界からやってきた生き物を導く者』
風にのって甘い果実の匂いが漂ってきた。
死後と生後の間の世界、三途の川とは違うのだろうか。
『三途の川は死後と生後を繋ぐ最後の世界、ここは最初の門のようなものだ。不確実といったのは、誰もがここに訪れられる訳じゃないから…、ここを訪れる者はまだ死ぬ定めではない者だけ。この世界は、そんな者達だけを受け入れるんだ』
青年ーー蘇亡の番人は私の手をそっとにぎる。
暖かくも冷たくもない、体温のない人肌なのに優しい温もりを感じた。このまま、この手に引かれてあちらの世界へ行ってしまいたい、
第一、私には生後の世界になんの未練はない。折り合いの悪い家族、何かと理由をつけて嫌みをしてくる周囲、退屈で嫌悪が多い毎日にほとほと嫌気をさしていたんだ。
ーならば一層のことー
そんなこと考えた時だ、手を握る番人の体温が熱くなった。
熱い。
まるで夏の日差しのなかにいるように熱く、鼓動を打つように脈がつたわったくる。
『この世界にすべてを委ねてはダメ。そんなことしたら、きっと戻れなくなる』
『戻れなくなってもいい。あんな世界、だいっきらい』
番人から伝わる熱がまた熱くなる、伝わる脈が強くなった。
それが、まるで命のように感じて足先から腹から、気持ちが込み上げてきて、鼻筋を突き抜けるような痺れを感じて、めがしらが熱くなった。
『もう嫌よ、あんな苦しい毎日。自分までも嫌な奴になっていくのを感じる人生なんて…!』
振り払えばいいのに、込み上げてきた気持ちを吐き出したくないのに、振り払えばいいの番人の手を握る振り払えず、私は握り返す。
握り返せば還すほど、込み上げてきた気持ちが止まらなくなる。
『勝手に始めた喧嘩に挟まれるのが嫌、嫌みをしてくる人達と過ごすが嫌、嫌な奴になる自分がもっと嫌。早く楽になりたい、すっきりしたい…何も考えなくてよくなりたい』
瞳の膜を破りかねない程の涙が溢れて、私の頬を濡らしていく。
ー止まらない、止まらなー
時間のないこの蘇亡の海の世界で、私は唯一の生物として産声を上げたように泣いた。
泣けばなくほど心が傷んで、疲れた心が溢れた涙によって癒されていく。
番人は何も言わず、ただただ……膝まづいて私を見つめている。
涙で視界が蜃気楼のように揺らいでいる視界で、番人を見下ろした。歪んだ視界にもかかわらず、番人とその周りだけが何事もなくすっきりと見えた、
涙で揺れた私の頬に番人の手がーーー命の手が触れた。その瞬間に、私の耳に、頭に、心に、聞きなれた人びとの声と姿が流れ込んできた。
いいや、正確には声はなく気持ちがつぶさに流れ込んできた。
私を呼び止めようと叫ぶすがるような感情、私の目覚めを請う祈りの気持ち、私を傷付けてきた事への懺悔と後悔、何よりも身を焦がさんとばかりに伝わってきたのは、ーーー愛と私の命への語りかける語源のない感情。
『伝わった?』
気がつけば、番人は立ち上がっていて私の両手を優しく握っていた。
この世界のようにゆったりとした番人……おっとりとした微笑みは、私に帰りたいと言う心を重く大いに揺さぶった。
『……り……たい……かえ……かえりたい』
『そうだね、帰ろっか』
私の命と幼い子供のような辿々しい言葉遣いに、番人は優しく握っていた頷いて、たおやかな優しい薫りのする腕で抱き締めてくれた。