フェステが暗躍する   作:琥珀堂

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下された決断/雪の天使降臨祭

 七月、八月は、あっという間に過ぎ去った。

 と言っても、その間に何も起こらなかったわけではない。たとえば、六月の終わり頃から、帝都アンペルバールでは小さな放火事件が流行るようになった。ごみ捨て場だとか、何年も放置されていた空き家だとか、公園のベンチだとかに油がかけられ、燃やされた。

 どの火事もすぐに消し止められたし、人的被害は一切出なかったが、それでも悪意ある何者かが火をつけて回っている、という事実が、人々を恐怖に陥れた。次は誰かが怪我をするかも知れない。次は自分の家が燃やされるかも知れない。そんな不安で寝られなくなった人も、多くいたという。

 もちろん、犯人である俺たちは、そんな余計な被害が出ないよう、細心の注意を払ってことにあたっていた。

 この連続放火の目的は、あくまで【緋色のランタン】というテロ組織の名を、世間に広めることだ。火を武器として振りかざす、帝国国民に害をなす存在。そういうものがアンペルバールに潜んでいると、人々に認識してもらうだけで充分だった。

 その目的は、七月いっぱいをかけて遂げられたと言ってもいいだろう。アンペルバールの酒場で、井戸端で、教会で、【緋色のランタン】の話題が出ない日はなくなった。誰もがこの組織を恐れ、嫌い、しかし興味をそそられている。無邪気な子供たちは、俺たちが現場に残した犯行声明代わりのサインを真似して、そこら中の壁や地面に描きまくり、親に怒られたりしているらしい。この話を聞いたベンヴォーリオは、満足げな笑みを隠そうともしなかった――【緋色のランタン】のサインは、彼のデザインしたものが採用されていたからだ。

 それだけ恐れられ、周知されながらも、俺たちは捕まらなかった。チームの四人全員で、交代交代にアリバイを作りながら犯行に及んでいたし、衛士隊に所属しているバルサザー老人も、うまく捜査を撹乱してくれていた。

 これでバレるとしたら、油断して口を滑らすとか、気が大きくなって、ごまかしきれないような大規模な行動を起こすとか、そういった内面的な原因によってのことになるだろう。だから俺たちは、どんなにうまくいっていても、自分を律することを心がけた。裏では帝都に火の粉を降らせていても、表の顔はあくまで善良な一般市民を貫いた。俺はパン屋として、ベンヴォーリオは神父として、マーキューシオは牧場主として、バルサザー老人は衛士として。何ひとつ恥じることのない、真面目な暮らしを続けていた。

 ちなみに、最初に【緋色のランタン】を考案したロザリンド・ギベレー嬢は、この騒動の間もまったく姿を現さなかった。

 俺に脅しめいた手紙を送ろうとして、妻のジュリエットに邪魔された詐欺師、ロザリンド。彼女は、俺に対する恐喝容疑で指名手配されていた。

 バルサザー老人も、放火の証拠隠滅と同じくらい、ロザリンドの捜索に力を入れていた。言い出しっぺの彼女さえ口封じすれば、もはや俺たち以外に【緋色のランタン】が実在しないことを知る者はいなくなるからだ。

 しかしなぜか、その仕事は難航しているようだった。ロザリンドは自分の体を煙にでも変えたのか、何ヵ月経っても捕まることなく、上手に逃げ続けている。

「まったく、あのロザリンドという奴は意味がわからん。普通の犯罪者とは、勝手が違い過ぎるわい」

 八月半ばを過ぎた頃から、バルサザー老人はそんな愚痴をこぼすことが多くなってきた。

「ほとんど本名に近い名前で宿を取っていたり、素顔を見られていたりと、あまりにも頭の悪そうな行動を繰り返していたんで、すぐに捕まるだろうとたかをくくっていたんじゃが……下宿から姿を消して以来、まったく足取りがつかめん。

 大帝都門を出た形跡がないんで、今でもアンペルバールのどこかに潜伏しておることは間違いない。しかし、どれだけ細かく探しても、気配さえ感じられん」

「向こうも危機感を抱いて、より慎重に隠れるようになったってことか」

 俺がそんな感想を返すと、しかし老人は首を傾げ、納得いっていないようなしかめっ面をしてみせた。

「そう、なのかも知れん。いや、常識的に考えればそういうことじゃろう。じゃが、何か違う気がする。具体的にどこがおかしいのかはわからんが、妙な違和感を覚えるんじゃ。

 あまりにも、ロザリンドの消え去りっぷりは見事過ぎる。まるで、ハサミで紐を断ち切ったかのように、すっぱりと手がかりが切れておる。最後の痕跡が残っていた、奴の下宿がゴールで……そこを出た瞬間、彼女はこの世からいなくなったんじゃないか……そんな荒唐無稽な予感が、頭の内側にこびりついて離れん」

「なんだなんだ、じいさん。つまりあんたは、ロザリンドがもう自殺している、って言いたいのか?」

「ああ、いや、今の言い方は紛らわしかったな。そうでなくて、わしは、人から聞いた情報でしか知らないロザリンドに、どうも現実味を感じられんのじゃよ。最初から実在しない、演劇のキャラクターのような印象を受けるとでもいうかな。

 わしらは、霧の中に一瞬だけ浮かんだ幻を見て、延々と騒いでいるだけなんじゃないか。どれだけ待っていても、同じ幻は二度と出現しないんじゃないか。そう思えて仕方がないのじゃ」

「幻って……いや、そんなはずはないだろ。ジュリエットは本人に会ってるし、手紙だって残ってる。いや、それ以前に、大教国の犯罪者リストに記録があっただろ? ロザリンドが実在してるのは、間違いないじゃないか」

「うむ……それはわかっておる……しかし、しかし……」

 仕事としてロザリンドを追わねばならない彼は、頭から煙が出そうなくらい悩んでいた。だから正直なところは言い出せなかったのだが――実のところ、俺はもはやロザリンドのことなどどうでもよかった。

 相手はもう、どうあがいても俺たちを脅せない。詐欺師は詐欺師と気付かれた時点で、まるっきり無害になるものなのだ。ネズミのように逃げ隠れするしかなくなった人物を、積極的に捕まえないといけない理由もないではないか。

 唯一の不安材料がそのざまだったので、俺たちの日常は平和そのものだったと言えよう。

 七月十一日には、ジュリエットと一緒にアンペルバール教会を訪ね、『聖杯』を拝んできた。

 前々からの宣伝通りに、ユカニム大教国のローレンス・ヴェロナット司教もやって来ていたので、大聖堂は詰めかけたユカニム教徒たちでいっぱいになり、芋を洗うようなありさまになっていた。

 隣国の優れた政治家として、その名は何度か耳にしていたが――この目で見たヴェロナット司教は、想像していた以上に立派な人物のようだった。見た目こそ、そこらの商店で奉公をし始めたばかりの少年のようだったが、演台の上に立ち、ひしめく聴衆に優しく語りかける姿は、まったく堂々としたものだった。

 帝国と大教国の歴史を絡めた説教の内容も、なかなか面白かった。子供の頃は、教会で聞かされるお話なんか退屈でくだらないものだ、とバカにしていたが、今ならその味わい深さがよくわかる。――そんな風に感じたのは、単純にヴェロナット司教の話しぶりが巧みだったからだろうか。それとも、俺の中にまだ、天使を信仰する気持ちが残っているからであろうか。

 説教を終えた司教は、演台から降りると、信者たちひとりひとりと握手を交わし、祝福を授けて回った。「私たちも、握手してもらいましょう?」とジュリエットが引っ張るので、俺たちも握手を待つ熱心な信者たちの群れに混ざった。

 そんなに長く待たされたわけではないし、滅多にない貴重な体験だったとも思う。しかし、この時のヴェロナット司教との握手は、妙な違和感を俺にもたらした。――なぜあの若き司教は、俺とジュリエットを見て、あんなに笑顔を引きつらせていたんだろう?

 結局、彼の不思議な表情の理由を知ることはできなかった。他にも司教の握手を待っている人が大勢いたから、すでに握手をしてもらった俺たちは、邪魔にならないようにその場を移動しなければならなかったのだ。

 まあ、実際、大した理由なんてなかったのだろう。常に笑顔で人と接することを求められる聖職者は、笑顔の浮かべ過ぎで顔の筋肉が痙攣してしまうことがある、と聞いたこともあるし。その類いの不調だったのかも知れない。

 だが、ときどきふとした弾みに、あの表情を思い出してしまう程度には、印象的な出来事だった。

 ――九月に入ると、本番で使う爆薬の調合を始めた。

 硝酸。硫酸。工業用のグリュセル・オイル。七種類の金属粉末。動物性ゼラチン。基本となる材料は、たったこれだけだ。

 そのくせ、それを爆薬に変える工程は複雑で、細心の注意を必要とする。少しでも分量を間違えたり、手順を飛ばしたりすれば、望んだ破壊力は得られないし、最悪の場合、調合中に爆発事故を起こす。この時ばかりは、俺もあらゆる雑念を捨て、心を無にしてかからねばならない。

 材料を少しずつ、量りながら混ぜ、加熱し、すり潰し。しばらく寝かせ、また混ぜ、すり潰す。

 完成までには、五時間ほどかかった。プラム・プディングを熟成させるよりは遥かに短いが、もっと長くかかってもいいから、神経を使わないで済むレシピになって欲しいものだと、いつも思う。

 俺の作った爆薬は、粘土のような可塑性のあるペーストだ。そのため、粉末火薬より持ち運びしやすく、隠しやすい。大聖堂に持ち込む際には、上着の肩当ての中だとか、靴底とかに充填していくつもりでいる。

 他の連中も、持ち物検査を突破するために、それぞれ自分に合った隠し場所を考えていた。バルサザー老人は、大きめの帽子の内側に、緩衝材を模して貼りつけていくつもりだそうだ。ベンヴォーリオの場合は、教会関係者なので、そもそもチェックを受けずにモノを持ち込める。問題はマーキューシオだが――彼は、半分に切ったバゲットの中に、レタスやチーズと一緒に爆薬を挟み、『ミート・パテ入りのパン』に見せかけるという方法を思いついた。

 正直、そのアイデアを聞かされた時は、ちょっと悔しかった。パンを使った弁当は、俺だって持っていく予定だったのだ――それなのに、どうしてよりによってパン屋である俺が、そこに気付かなかったのか。

 別に、人のやり方を真似してはいけないというわけでもないのだが、ここで俺も俺もと乗っかっては、何となく男がすたる気がする。結局、俺は当初の予定通り、靴底と肩当てを使った隠し場所にこだわっていくことにした。

 ――十月の始めには、広い広いマーキューシオの牧場で、爆薬の性能実験を行なった。

 本番で使う二十分の一の量を、深く掘った穴の底で爆発させた。大砲でも撃ったかのような重い振動が、大気と大地を揺るがせた。

 できるだけ距離をとって観察したが、穴からオレンジ色の火柱が噴き上がる様子は、まるで二メートルも離れていない場所で起きたことのように錯覚するほど、迫力満点だった。垂直に掘られていたはずの穴はすり鉢状にえぐれ、衝撃に押し出された土砂が、周りを囲う城壁のように盛り上がる。

 それはショッキングな光景ではあったが、意外ではなかった。弱過ぎず強過ぎず、まったく計算通りの威力であり、大いに満足できる結果だったと言える。

 火薬本体以外の部分――たとえば、導火線の出来も上々だった。

 秘密に爆薬を仕掛ける場合、問題となるのは臭いだ。いくら爆薬本体を上手く隠しても、導火線が焼けていく臭いに気付かれたら、もうおしまいだ。運のいいことに、アンペルバール教会の大聖堂では、宗教的な習慣として、聖なるお香を常に焚きしめていた。それと同じ香りを出す線香を用意することで、臭いの問題はクリアすることができた。

 線香を爆薬に直接突き刺し、尻尾のように余らせた部分に火をつける。これが、導火線の代わりだ。線香の燃える速度というのは、よほどおかしな条件をつけない限り一定なので、線香の長さを調節するだけで、好きな時間に爆発を起こすことができる。

 バルサザー老人が言うには、着火してから安全なところへ逃げるためには、およそ二分半が必要らしい。余裕を持って、きっかり三分で燃えきる長さを確かめておく。この作業には、爆薬そのものの試験より時間をかけた。導火線の燃える時間の正確さは、そのまま俺たちの安全につながるから、慎重にならざるを得ないのだ。

 ――十一月には、準備はすっかりととのっていた。

 話し合うことも、用意すべきものも、練習すべきこともない。やるべきことは、一月一日の本番で、『聖杯』を爆破することだけになってしまった。

 もちろん、まだちびちびと【緋色のランタン】の名で放火活動は続けている。しかしこれも、十二月に入ったらやめるつもりだ。定期的に起こしていた事件を途中でストップすれば、人々は油断する。十日程度のブランクなら警戒もするだろうが、一月も何もしなければ、とりあえずひと息ぐらいはつくだろう。

 俺たちが【緋色のランタン】を利用しているのは、あくまでその名前に罪を着せるため。世間の防犯意識を高めるためなんかではないし、ましてや、大聖堂の警備を強化させるためでもない。

 一月一日の『聖杯』公開日は、普段通りの警備体制であってもらわなければ、困るのだ。

 バランスを取らなければならない。充分に名を知らしめたなら、今度は安心を――【緋色のランタン】は、イタズラに飽きて姿を消したと思ってもらわねばならない。

 火を使うテロ組織がいたという記憶は鮮明で、しかし、もうそいつらを警戒する気はない。そんな考え方が広まってくれれば、ベストだ。いざテロが起これば、すぐに大衆は【緋色のランタン】のことを思い出してくれるだろう。

 その冷却期間として、十二月を使う。三十一日間丸ごと、遊んで過ごす。チームメンバー全員で、そう決めた。

 何もしない。ただひたすら待つことも、立派な作戦だ。

 果報は寝て待て、という言葉がある。すべきことはすべて、完璧に済ませたのだ。あとは、どっしりと構えて運命に身をゆだねるのが、正しい在り方であろう。

 

 

 八月半ばのある日。アンペルバールのとある家の、薄暗い部屋の中。

 シャルロット・フェステは、書き物机に向かって、一通の手紙を開いていた。

 表に書かれた宛名は、彼女が今現在使用している偽名だ。アンペルバールにおけるシャルロットの潜伏先と、そこでの名前とを心得ている人間は、ローレンス・ヴェロナット司教をおいて他にいない。

 封蝋を剥がし、折り畳まれた羊皮紙のしわを丁寧に伸ばして、彼女は手紙の内容に視線を走らせる。

 

「信頼するミズ・フェステへ。

 この重大な情報を、直接顔を合わせてでなく、手紙で知らせねばならなくなったことを、まずは謝らせて下さい。

 事態は、ぼく個人の判断ではどうにもならないほど、大きなものになってしまいました。というのも、モンタギュー伯爵のもとに潜入させていた諜報員が、ついに敵の三首脳のうち、不明だった残り二人の正体を暴き出したからです。

 あなたにも、実情を詳しく知る権利はあるはずですので、ここに記します――まずひとりは、ベルホルム帝国財務大臣キャピュレット伯爵。過激な帝国至上主義思想の持ち主で、プライベートでも他国への侵略活動を焚きつけるような発言をしている人物です。

 モンタギュー伯爵とは古くからの親友で、『ディープ・オペレーション』に対しても、多額の支援金を送っている疑いが濃厚です。ロミオたちに流れている活動資金も、間違いなく彼の懐から出たものでしょう。

 モンタギューとキャピュレット。このふたりの伯爵は、一応は大物ではありますが、気を揉むほどの相手ではありません。問題は、残りのひとりです。

 誰だと思いますか? よりによって、王族なのです! それも、現皇帝の血を引く、六人の皇子のひとりだったんですよ!

 帝国第二皇子エスカラスという人物こそ、黒幕の黒幕、三首脳のリーダーでした。陰謀の発案者はこのエスカラス皇子で、彼の指示を受けたモンタギューとキャピュレットが、具体的な作戦を立てたものと思われます。

 以前、モンタギュー伯爵が三首脳のひとりだとわかった時、ぼくはこの陰謀が、ジャゼ共和国を政治的に陥れるためのものだと言いました。しかし、エスカラス皇子が発案者となると、また違った解釈も可能になります。

 皇城において、『聖杯』の警護を担当しているのは帝国騎士団です。『聖杯』公開日に、皇帝から『聖杯』を預かり、教会に運び、大司教に渡すのも騎士団の役割で、さらに彼らは、その日の大聖堂の警備にも加わります。

 そして、その帝国騎士団は、第一皇子の監督下にある組織なのです。

 もしも、ロミオたちの爆破テロが実行された場合、騎士団の人々は非難を受けることになるでしょう。テロリストの侵入を許し、設置された爆弾に気付かなかったとしたら、これは確かに失態です。それも、帝国の宝である『聖杯』を危険にさらすほどの大失態なので(たとえ、あとで『聖杯』が無事に戻ったとしても)、問題としてはかなり大きなものになるはずです。

 その時、責任を取らされるのは? 現場にいた騎士たちはもちろんとして、その上司にも塁が及ぶことでしょう。騎士団の監督役である第一皇子も、ただでは済みません。さすがに処刑されたりはしないはずですが、管理能力という点で信頼を失うことは、確実と言えます。そうなることは、王位継承者として致命傷を負うのと同義です。

 第二皇子エスカラスは、まさにその展開を狙っているのではないでしょうか?

 実力主義のベルホルム帝国では、失敗者は容赦なく追い落とされます。第一皇子が大きなミスをして、皇帝から見限られれば、第二皇子にも次代の皇帝になるチャンスが巡ってくるわけです。

 これが王位継承権の絡んだ陰謀だとしたなら、ロミオたち工作員が集められてから、なぜ何年も作戦が実行されなかったのかもわかります。第一皇子を陥れるための計画ですので、当たり前ですが、第一皇子には協力を求められません。そのため、本物の『聖杯』と、偽物の『聖杯』を、バレないようにすり替える方法を、内緒で見つけなくてはならなかったのではないでしょうか。

 すり替えのチャンスを探したり、それがダメなら、すり替えができる立場の騎士団員を買収しようとしたりして、長いこと試行錯誤していたんだと思います。

 その努力は数年越しで実を結び、『聖杯』すり替えの目処がついたので、今年の五月になってようやく、ロミオたちにゴー・サインを出したのです。

 実際これは、当人たちにとっては、それだけ長い時間を費やす価値のある陰謀のはずです。エスカラス個人の立場から見れば、第一皇子を失脚させ、相対的に自分の立場を上げられる。帝国という国単位で見れば、ジャゼ共和国を陥れて、侵略行為に正当性を持たせることができる。まさに一石二鳥の計略と言えましょう。

 ――さて、敵の首魁が王族となると、さすがにぼくひとりの権限で始末をつけることは不可能です。この情報を得たその日に、ぼくは大教国に帰還し、他の政治局員たちに相談し、どう対処するかを話し合う大会議を開きました。

 その会議の紛糾ぶりを、長々と書き連ねることはやめておきましょう。簡潔に言うならば、『何も知らなかったふりをして手を引く』という意見と、『ここまで知ったからには、我々の手でちゃんと片付ける』という意見の、激しいぶつかり合いが起きたのです。

 双方の勢力は拮抗していて、お互いになかなか譲らず――会議は二十時間ほど続き――最終的には、『秘密を完全に守った上で、陰謀の関係者をひとり残らず抹殺する』という結論に落ち着きました。

 エスカラス皇子、モンタギュー伯爵、キャピュレット伯爵の三人の始末は、あまりに大物過ぎるので、これまでの調査とは逆に、他国の人間の手を借りるわけにはいきません。我々、大教国が責任を持って葬ります。

 その代わり、アンペルバールにいる四人の工作員については――ユカニム大教国政治局員、ローレンス・ヴェロナットが、正式に依頼します――ミズ・フェステ、あなたが手掛けて下さい。

 こちらは、十二月二十五日の『天使降臨祭』に、ことを起こす予定です。あなたも同じ日にロミオたちを、天使のもとへ送ってはもらえないでしょうか。

 この仕事に対しての報酬は、これまでのものとは別に、マルヴォーリオ氏を経由してお支払いする予定です。くれぐれも失敗のないように、よろしくお願いいたします。

 ――あなたの幸運を心より祈って。ローレンス・ヴェロナット」

 

 最後の署名まで読み終えると、シャルロットはその手紙をくしゃくしゃに丸め、すぐそばにあった陶器の皿に乗せた。

 そして、引き出しの中から、親指ほどの大きさのガラス瓶を取り出すと、中に入っていた液体を、手紙の上からそっと振りかけた。するとどうだろう、白い羊皮紙の塊は、フライパンで肉を焼くような音を立てて変色し、あっという間にぼろぼろの灰に変わってしまった。

 表沙汰にできない命令を記した『物的証拠』は失われ、シャルロットの脳内に、情報だけが残された。――十二月二十五日。十二月二十五日。四ヵ月以上先の予定だが、カレンダーに印をつけるまでもない。

 彼女にとってそれは、自身の誕生日などよりも、ずっとずっと待ちわびた日であるからだ。

 

 

 十二月二十五日――天使降臨祭。

 それは第一大陸を追われ、必死の航海の末に第二大陸を発見した人々の前に、天使ユカニムが姿を現した日であった。ユカニム教徒にとっては、七月十一日の『安息の日』と並んで、神聖な日とみなされている。

 そんなめでたい日であるから、当然、世界的に祝日であり、休日だ。大教国、帝国、王国、共和国、すべての国で、人々は仕事を休み、家で家族と穏やかな時間を過ごすならいになっている。

 休んではいけないのは、人々の命や安全を守る医者や衛士、人以外の生き物の相手をしなくてはいけない農家、そして天使に祈りを捧げる僧侶たちだけだ。

 泥棒や詐欺師といった悪党でさえ、この日ばかりは悪いことをせずに、暖炉で暖まったり、ワインを飲んだり、鶏肉料理を食べたりして、心安らかに過ごす。

 もし、この神聖な日に働いている人間がいるとしたら――それは、天使をまったく信じていない、心の底からの不信心者か――。

 あるいは、そんな日ですら天使に仕えずにはいられない、心の底からの狂信者か。

 そのいずれかであろう。

 

 

 今年の天使降臨祭は、雪雲の訪れとともに始まった。

 カーテンを開けても、窓から朝陽が入ってこない。壁掛け時計に目をやると、午前七時を指していた。ジャゼ共和国製のゼンマイ時計が正確なのはわかっているが、あまりに暗いので、針が少し進んでいるのかな、と疑ってしまう。

 これはほとんど、日の出前の明るさだ。そう感じてしまうくらい、分厚く黒い雲が、アンペルバールの全天を覆っているのだった。

 その代わり、薄暗い外の景色の中で、白い雪が蝶のように舞っているのが見えた。ふわふわ、ひらひらと――なんとも神々しいものだ。ご来光を拝むのもいいものだが、こういう降臨祭も悪くはない。

 ベッドの中に、すでにジュリエットの姿はなかった。彼女がいつ起きて、いつ隣からいなくなったのか、よく眠っていた俺にはわからない。耳をすませてみると、キッチンの方から、とんとんと包丁の踊る音が聞こえてきた。それと、ほんのわずかにだが、何か温かくて甘酸っぱい香りもする。

 パジャマの上からカーディガンを羽織って、キッチンへ向かうと、想像通りジュリエットが朝食の支度をしているのを見つけた。銅製の鍋で、真っ赤なトマト色のスープを煮込みながら、その横でセロリをサイコロ状に刻んでいる。

「おはよう、ジュリエット。今日の朝ごはんは何だい?」

「あ。おはよう、ロミオ。今朝は、ソーセージ入りのミネストローネよ。食べる直前に、生のセロリをたっぷり入れるの、あなた好きだったわよね?」

「ああ、その通り。セロリまで煮込んであるミネストローネは、ミネストローネじゃないね。

 今日はよく冷えるから、熱々のスープはありがたいよ。きみはもう外の景色は見たかい? 久々の、白い降臨祭だぜ!」

「ふふ、そうね。年を越す前に、雪が降り出すのは珍しいわね。でも、風情があっていいじゃない?

 もちろん、体を冷やさないように、厚着をしなくちゃいけなくなるけど。――ねえ、お昼前には、教会にお参りに行くんでしょ? やっぱり、新しい革のブーツも、出してきた方がいいかしら?」

「そうだな、できれば九時過ぎには家を出たいね。正午をまたぐ頃に行ったら、きっとかなり混雑してるだろうから。

 ブーツは出しておいた方がいい。雪のせいで、地面がぬかるむだろうからね。サンダルや布の靴じゃ、水気が染み込んできて気持ち悪いだろう」

「それもそうね。水気対策はしっかりしておかなくちゃ――はい、できあがり! ロミオ、先にダイニングに行ってて! あっついお鍋を運ぶから、近寄ったら危険よー」

 俺は言われた通り、ダイニングに退避する。そのあとを、ミトンをはめた手で湯気の立つ鍋を支えたジュリエットが、ゆっくり追ってくる。

 乏しい明かりと、幻想的な雪景色と、真っ赤で香り高いミネストローネとでもって、俺の平和な降臨祭は幕を開けた。

 

 

 マーキューシオ・スペイダは、降臨祭の日の午前三時、ちょうど雪の降り始めた頃に目を覚ました。

 世間は祝日であり休日だが、さすがに牧場主である彼は休むわけにはいかない。水も食べ物ももらえないで、健康でいられる家畜はいないのだ。

 この日も普段通り、暗いうちから畜舎の掃除をして、餌桶にたっぷりの飼料を補充してやり、アヒルの卵を拾う。体力を使う仕事なので、肩にかけたタオルで、何度も何度も額の汗をぬぐうことになる。

 こうして毎日、一生懸命に働いている彼が、どうして痩せもせずにぽっちゃり太ったままなのか、仲間たちはいつも疑問に思っているのだが、その謎に答えが出たことはない。

「ふー。朝のスケジュールは、これでおしまい、と。今日は大きな卵がたくさん採れたから、オムレツでも作って食べようかなぁ」

 卵を山盛りに乗せた籠を抱えて、畜舎から自宅への道をのっしのっしと帰っていくマーキューシオ。

 そんな彼の前に、――ふわり――と、ひとりの女が立ちふさがった。

 まるで、雪とともに舞い降りたかのように、彼女には気配がなかった。あまりに静かで、あまりに薄暗がりに溶け込んでいたから。しかし確かに、彼女はそこにおり、一歩一歩、マーキューシオに歩み寄っていく。

 抱えている籠が微妙に視界をふさいで、彼には女の顔がよく見えない。見えるのはただ、喪服のような黒いドレスだけ。柔らかく波打つスカートの表面で、粉雪が跳ねている。

「――えっと、どなたですか? こんな朝早くに。

 というか、うちの牧場の敷地に、どうやって入っ……」

 マーキューシオは、邪魔な籠を顔の前からどけようとしながら、女に問いかけた。

 しかし、それはあまりにも無意味な行動だった。彼はもっと危機感を持つべきだったし、卵を入れた籠なんか放り投げて、全速力で逃げるべきだった。

 もちろん、いくら「〜べきだった」を重ねても、もう遅い。

 マーキューシオの視界の端で、何かがものすごい速さで動いた。

 それは、女の右腕だった。柳の枝で作った鞭を振るったかのような、びゅん、と風を切る音が響く。

 振り抜かれたその右手には、鋼の串が握られていた。長さはおよそ三十センチ。太さは二ミリもない。一見、脆弱そうに見える、細い細い串だ。しかし、人を殺すにはそれで充分だった。

 ――さく、と。

 ほとんど何の抵抗もなく、串の先端はマーキューシオの左耳の穴に突き刺さった。

 そのまま串全体の三分の二ほどが、彼の頭の中に沈み込む。

 一瞬で脳を破壊されたマーキューシオは、悲鳴も上げず、表情も歪めず、極めて静かに絶命した。天に召された人間に、死の瞬間の感想を聞くわけにもいくまいが、彼はまず間違いなく、蚊に刺されたほどの苦痛も感じなかったことだろう。

 力を失った手から、籠が滑り落ち、辺り一面に卵をぶちまける。それから一秒遅れて、マーキューシオは膝を折り、地に倒れ伏した。

 鮮やかな手際で暗殺を成し遂げた女、シャルロット・フェステは、マーキューシオの耳から串を抜き取ると、さっと踵を返した。

 その表情には、何の感慨もない。自分の殺した相手をかえりみることすらせず、彼女はその場を去っていく。

「あと、三人……」という呟きだけを、雪の舞う虚空に残して。

 

 

 アンペルバール教会の大聖堂は、降臨祭の礼拝に訪れた人々でごった返していた。

 ヴェロナット司教が来た時ほどの混みようではないが、それでもジュリエットとしっかり手をつないでいなければ、すぐにはぐれてしまいそうな人波ではあった。まるで一体になったかのようにうねる、無数の頭、頭、頭。時刻は、まだ九時半を回ったところだというのに、何というありさまだろうか。昼頃を避ければ、そんなに混んでないだろうと考えた俺の立場がない。

「す、すごいわね、これっ。去年も、こんなに、混んでたかしらっ?」

「そ、そんなことはなかったはずだが……あれだよ、雪が降ったのが、まずかったのかも知れんっ。積もる前に、みんな、礼拝を済ませようとしてるんじゃないかっ……?」

「あああ、そうかも〜……わっ、せ、狭っ。埋もれそう〜……わ、私たちも、早く礼拝、終わらせましょ? これは、落ち着いていられないわっ」

 俺も、完全に気持ちであった。ジュリエットを引っ張って、大聖堂の奥に向かう。

 ユカニム教での、降臨祭の礼拝の手順は以下の通りである。

 まず、天使ユカニムをかたどった聖なる像を拝み、祈りを捧げる。次に、神父に挨拶をし、祝福を受ける。

 これだけだ。非常にわかりやすく、簡単である。

 そのため、人の流れは密なだけでなく、速くもあった。大聖堂に入ってきた人間が、すべきことをして出ていくまでには、おそらく平均十分もかかっていない。人混みに押されて、いつまでも動けない奴がいるとしたら、そいつはよっぽど要領が悪いのだ。

 俺たちも手早く、天使像への祈りは済ませた。あとは神父からの祝福だが、これはやはり、顔見知りに頼みたいのが人情というものだ。

 帝国一の規模を誇るアンペルバール教会には、何人もの聖職者が在籍していた。こういう大きな行事の時こそ、その人数がものを言う。彼らは広い大聖堂のあちこちに散らばって、山のような信徒たちを手分けして祝福していた。

 運良く、目当ての人物はすぐに見つかった。俺は空いている方の手を振りながら、見覚えのある坊主頭に声をかける。

「よう、ベンヴォーリオ。忙しそうだな」

「ああ、ロミオ! まったく朝から、大したものだよ。アンペルバールの人たちは、よっぽど降り積もった雪の上を歩きたくないらしい!」

 同志ベンヴォーリオは、疲れたような苦笑を浮かべながら、肩をすくめてみせた。

「朝から、もう二百人以上を祝福したと思うね。それでいて、これから夜が更けるまで、さらに数倍の人数を相手にしなくちゃいけないんだ。

 というわけだから、残念だけど世間話はしていられないよ。早く祝福を受けて、出ていってくれたまえ」

 遠慮なく彼はそう言って、右手を上げかけた。と、俺の後ろに隠れるように立っているジュリエットに気付いて、ちょっとばつが悪そうに左手も差し出してくる。

「これはこれは、奥様もご一緒でしたか。おはようございます、お会いできて光栄ですよ。

 あなたも、この果報者と同時に祝福させて下さい。ロミオは右手を出してくれ。奥様は左手だ……よしよし。天使ユカニムの翡翠色の加護が、あなた方にもありますように」

 言われるがままに握手をし、短い言葉を受ける。

 これで、祝福は完了――教会でのつとめは果たした。あとは後ろから来る人たちを待たせないように、速やかに大聖堂をあとにすればいい。

「あと少しで新年だな、ロミオ! 一月一日、またこの大聖堂で会えるのを、楽しみにしているよ!」

 最後に、ベンヴォーリオはそう言って、俺たちを見送ってくれた。

 その言葉には、もちろん含みがあった。一月一日の『聖杯』公開日。必ず、作戦を実行しよう、と――そう彼は言ったのだ。

 俺は無言で、頷きを返した。

 ――次に、この場所を訪れる時は、必ず爆薬を持参する。

 天使像への祈りよりも強く、それを誓った。

 

 

 昼を過ぎると、大聖堂の混雑はかなりおさまってきた。

 外の雪が、いよいよ本降りになってきたからだった。追加でやって来る参拝客は、もうほとんどいない。降臨祭の礼拝は世界的な習慣ではあるが、義務ではないので、あまり天候が厳しくなってくると、外出を諦める人も多くなってしまうのだ。

 朝から大忙しだった神父たちにとって、これは正直ありがたいことだった。客たちの相手はまだ続けねばならないが、ひとりずつ休憩に入ることができるくらいには、余裕が生まれていた。

 ベンヴォーリオ・ゲルフ神父にも、やがて休む順番が回ってきた。彼は仲間たちに断って大聖堂を出ると、教会内の炊事室に向かった。疲れた体が、とにかく熱い飲み物を欲していたのだ。

 炊事室には誰もいなかったので、ベンヴォーリオは自ら茶を淹れることになった。水を入れたミルクパンをコンロにかけ、茶葉を濃いめに煮出していく。味付けは甘い方がいい気分だったので、リンゴのジャムをたっぷり溶かし、さらにブランデーを一滴垂らした。

 そうして出来上がった熱々の紅茶に口をつけて、彼はやっとひと息ついた。

 くつろいだ気分になって、ようやく彼は、体全体のだるさを自覚した。思っていた以上に、疲労が溜まっているようだ。頭がやや熱っぽく、少しばかりめまいもしている。これは風邪の引き始めかも知れないな、と、彼は評価した。

 特に、千人近い人々を祝福した両方の手については、軽い痺れすら生じているようだった。指を曲げ伸ばししてみたり、軽くマッサージしてみたりして、痺れを取ろうと試みる。休憩時間が終わったら、また何人もの信徒たちと握手をしなければならないのだ。こんな不調を放っておくわけにはいかなかった。

 過酷な仕事であるからこそ、常にベスト・コンディションを保つよう心掛けるのが、プロというものだ。ベンヴォーリオはテロリストで大酒飲みだが、聖職者としての自分にも誇りを持っていた。

「……ん?」

 のんびりと指の体操をしていた彼は、ふと、手のひらに妙な赤い点が浮いているのを見つけた。

 手を顔の前に持ってきて、よく観察してみる。左手の、薬指の付け根の辺りに、それはあった。真っ赤と言うよりは、やや赤黒い、光沢のあるビーズのようなドット。

 どうやら、血の玉であるらしかった。触ってみると、べたっとした赤いしみが指先についた。

 知らないうちに出血を伴うような怪我をしていたと知り、彼は驚いた。しかし、傷ついた瞬間に気が付かなかったとしても仕方がない。血の玉は非常に小さく、二、三ミリ程度しかないのだ。つまり、傷自体もかなり小さいのだろう。針の先でちょん、と突いた程度の、かすり傷とも言えないようなものに違いない。

 ハンカチで拭いて、ツバでもつけとけば、自然に治るだろう。そんな風に決めつけたベンヴォーリオだったが、実はそれは大きな間違いだった。その小さな傷こそは、彼の運命を決めるほどの、大き過ぎる傷だったのだ。

 ――どれくらいの、長い時間をかけてのことだっただろうか。ちびちびと紅茶を飲んでいたベンヴォーリオの意識を、ゆっくりと、ぼんやりと、しかし確実に、不自然な眠気が蝕んでいった。

 気が付くと、まぶたが下りている。休憩時間は限られているので、昼寝などしてはいられない――なのに、眠気はどんどん耐えがたいものになっていき、我慢するのがつらくなってくる。

 手の痺れもひどくなり、指に力が入らなくなる。ぷるぷると震える右手から、ティー・カップが滑り落ち、床に落ちて砕け散った。

 ベンヴォーリオは、しまった、と思うと同時に――これはおかしい、と危機感を抱いた。

(これは――何だ? ただの風邪だとか、疲れによる体調不良とは違う気がする。もっと深刻な、何かが起きているのではないか?

 いかん――眠い――目を開けていても――視界が、ぐるぐると回る――誰かに、助けを求めなければ――医者、医者を連れてくるように――誰かに、頼まないと――)

 朦朧とした意識の中で、必死に頭を働かせるベンヴォーリオ。しかし、彼にはその考えを実行することができなかった。人を呼ぼうにも、この時にはもう舌が痺れてしまっていて、呻き声すら上げられなくなっていたのだ。

 下半身にまで痺れが及び、彼は冷たい炊事室の床に、どさりと倒れ込んだ。立ち上がろうともがくが、もちろん、腕にも力が入らないため、床を撫で続けるだけに終わった。そしてそのまま、意識を失い、深い深い眠りの沼に沈み込む。

 ――ベンヴォーリオは、もう何時間も前に、自分が殺されていたことに気付かなかった。

 彼が祝福した、千人近い参拝客。その中に、殺意を持って近付いたシャルロット・フェステが混じっていたことに、ベンヴォーリオは気付かなかった。

 シャルロットは、手の中に小さな針を隠し持っていた。蚊の口のように細い、目立たない針――ほんの針の先ぐらいの量が血管に入るだけで、大の大人を死に至らしめることができる、遅効性の猛毒液を塗りつけた針。それを、握手を交わした瞬間、ベンヴォーリオの手のひらにチクリと突き立てたのだ。

 刺した瞬間は、何も起こらない。しかし、何時間もかけて、ゆっくりと毒はベンヴォーリオの体内を破壊していった。そして今、その成果が目に見える形で表れてきたのだ。

 教会の職員が、ぐったりと横たわったベンヴォーリオの姿を見つけた時には、もう遅かった。彼は診療院に運び込まれたが、特殊な神経毒による殺人など見たこともない普通の医者には、そもそも何が原因で昏睡状態に陥ったのか、突き止めることすらできなかったのだ。

 結局、ベンヴォーリオ・ゲルフは、八時間ほど眠り続け――そのまま静かに息を引き取った。

 ――残るは、ふたり。

 

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