スポーツなんかでよく聞く言葉に『ゾーン』というものがある。
それはプレイヤーが極限まで集中力を高めたときに起きる現象で、いつもよりもいいプレーができてしまうというものだ。
だが、逆を言えば。
集中力を高めるだけではそうはならないだろうが、これは日常生活でもよくないだろうか。
例えば勉強。
気付けば予想以上に問題を解いているとか、いつもより問題が簡単に感じるなど。
そのほかにも裁縫でもいいし、日常的に集中できる作業ならそれに近い現象は起きる。
なら、例えば。
『集中できる状況』さえつくりあげてしまえば、それは起きるのではないか?
「……おい、どういう事だ?」
木原数多は無機質な金属の壁が広がる研究室で呟いた。
というよりは口から思わずこぼれた、という方が正確だろうか。
目の前には茶髪の少年が俯き気味に佇んでいる。
両目を、赤く染めながら。
「……、」
少年はぎょろりと目をわずかに動かした。
木原数多をその血走った眼で冷たく見つめて、一歩前へ踏み出す。
その不思議な威圧感に、木原数多は思わず後ずさった。
(……何をビビってやがる。相手はたかが無能力者じゃねえか。銃もかわせねえし、傷もふさげない。そんなガキ一匹、どうとでもできるだろうが!)
だが、それでも。
何かが木原数多を一歩踏み出させようとしない。恐怖のようで、どこか違う感情が彼の中を渦巻いていた。
「……そォだよな」
天谷がボソリと呟く。
それだけで、部屋の中に吹くはずもない風を感じてしまう。
全てを一瞬で吹き飛ばし、塗り替えるような風を。
もちろんそれは数多の錯覚で、そんな現象を目の前の少年が起こしている訳がない。
「今まで手を抜いてた俺がバカだったンだ。……誰も殺さない? 女は殴らない? ふざけンな。そンな事だからアイツが死ンだり、百合子の野郎ォがお前みたいなヤツにさらわれたりするンだ……なァ、そうだろ?」
「……ああ、そうだな。だがなあ、人ってのはそう簡単に変われねえんだわ」
木原数多は天谷の放つ圧迫感を嫌悪するように言った。
それは彼が、『木原』が嫌う何かだから。
奇跡? いや違う。
ならば必然? これも少し当てはまらない。
だとすれば何なのか。
この正体は何なのか。
「……確かに、スポーツにおいて集中力の価値ってのは認められてる。全く集中できていないのと百%集中できてるのとじゃ、プレイに雲泥の差がある」
木原数多の呟きは負け惜しみに近かった。
というより負け惜しみだった。
未知に挑戦し、新たな科学を求め続ける『木原』も既存の法則無しでは前に進めない。
でも、同時に解き明かされた法則に彼らは何の意味も感じないのだ。
木原数多は呆れたように言葉を続ける。
「だからってよぉ……こんな状況で入る必要もねえだろ。……『ゾーン』」
仰々しいネーミングだが、その効果は至ってシンプルだ。
ただ、出せる力を限界まで引き出す。そしてその力を最も効果的に使える程の集中力を獲得する。
それだけの効果だ。
ましてや無能力者の天谷がそうなったところで、垣根のようにこの世に存在しない法則を使えるわけじゃないし、麦野や一方通行のように法則を強引に捻じ曲げて強大な力を振るえる訳でもない。
唯一の変化といえば、普段は日本人らしく染まった黒の瞳がなぜか赤く光っている事くらいだろう。
(……超能力者だけじゃねえ。能力者ってのは演算で様々な思考をする。発火能力者にしても正確なポイントへ火をぶつけるには周囲の自然環境にも対応しなきゃならない。つまり、能力は無我夢中で扱える訳じゃないって事だ。だから『雑念が消えない』)
もちろん高位能力者ならその流れを自然に行える。だが、それは演算が限りなく速いのであって何も考えずにできている訳ではないのだ。
例外と言えば第七位をはじめとする『原石』くらいのものだが、それだって確証はない。
「……百合子を返せ」
その短い言葉に殺気は感じられない。
だから、何を考えているのか全くわからない。
恐怖も何も認識できない相手と戦うのは不可能に近かった。
だが、木原数多は別の思惑へと思考をずらす。
すなわち、実験。
木原数多の唇がわずかに歪んだ。
「ああ、いいぜ。……ただし、取り戻せるならなぁ?」
木原数多はボタンを押す。
実験室へと繋がる、鉄の扉がゆっくりと開かれた。
その先では白髪の少女が中央に佇んでいる。
鈴科百合子。
一方通行、天谷慶に続く『ベクトル操作』の発現者。その『反射』を完全に再現する少女。
彼女は天谷に気付いたのか、ゆっくりと振り向く。
そこで天谷は思わず、目を見開いた。
「ク、クク……」
少女が笑い声を洩らしている。
彼女といた時間は短い。だが、その間も彼女はこんな禍々しい笑い方はしなかった。
何かが、起きている。
鈴科の歪んだ唇が大きく開かれた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
もがき苦しむような断末魔をあげ、鈴科は地面に崩れ落ちる。
彼女の頭の中で異常な何かが脈動していた。それは確実に鈴科の『自分だけの現実』へと干渉していく。そして、それは支配へと変わり、鈴科という人格を壊す。
「百合子……随分と面白ェ事になってンなァ、お前」
「……、」
返答はなかった。
だが鈴科が右手をゆらりと天谷へかざした直後。
莫大な烈風が天谷の体を強く殴り、その体を吹き飛ばした。