八月二十二日、卯の刻。
朝靄立ち込める早朝の高城川。
静寂を破るように陣太鼓の音が木霊した。
大友軍の先鋒、田北鎮周隊が発したものである。
「島津兵など臆するものぞ。全軍突っ込め!」
先陣の兵は田北鎮周に命じられるまま、何の躊躇もなく高城川に駆け込んだ。
この川を越えなければ島津軍には辿り着けない。
多少の犠牲を覚悟して突っ込ませるしかなかった。
刹那、無数の水飛沫が上がる。
「押し出せ!」
田北鎮周自身も愛馬で駆ける。
自ら前線に進み、手兵を叱咤激励する。
そうする内に手兵の一部が高城川を渡河。
島津軍の先陣に立つ有川勢1500が用意した柵を視界に納めたのは、それから程なくのことであった。
だが、その瞬間ーー。
それまで沈黙を続けていた有川勢から、耳を劈くような爆音が轟いた。大量に持ってきた鉄砲による一斉射撃だ。
「散れ!」
田北鎮周とてこの程度は折込済みである。
冷静に指示を下す。
水飛沫を上げながら仰向けに倒れる兵が幾らかいたが、直ぐに手兵を散開させた。更に頭を低くして進ませる。これで被害は大きく減るだろう。
同時に田北隊の鉄砲隊を前進。援護射撃させた。
轟音。喊声。悲鳴。
様々な音や声が高城川一帯に轟く。
当然ながら被害は田北鎮周隊が大きい。
それでも突っ込む命知らずな猛者たちが柵に取り付き、銘々が柵を押し倒し始めた。
轟音の間を縫うようにして木が軋んでいく。
「押し倒せ!」
田北鎮周は声を張り上げた。
この柵を越えてしまえば白兵戦に持ち込める。
そうなれば弱卒な島津兵の事。
苦もなく前線を押し崩す事ができる筈だ。
そもそもーー。
鉄砲を大量に運用している時点で弱兵だと宣伝しているような物だ。白兵戦に自信が無いから鉄砲だけで勝負を決めようとする。
無様な奴らだと島津軍を嘲笑した田北鎮周は、一気に押し倒してしまえと言わんばかりに多数の手兵たちを柵に取り付かせた。
銃弾を間断なく撃ち続ける有川勢。
一人、また一人と大友兵が動かなくなる。
こうした応酬が四半刻ほど続いた頃だった。
「それ!」
鎮周の号令が掛かった。
手兵たちが力を合わせて一斉に押す。
結果、遂に柵の一角が無残にも薙ぎ倒された。
田北鎮周はしめたとほくそ笑んだ。
これでようやく白兵戦に移行できる。
「続け!」
勢い良く有川勢に襲い掛かる。
待ち望んだ白兵戦だ。
大友兵全員が狂乱したように押し進む。
有川勢は後退しながら田北隊の猛攻を防いだ。
左右に展開させた鉄砲隊からの援護射撃も加わって、一瞬だけ田北隊の侵攻が止まったものの、数に物を言わせて遮二無二突っ込ませる。
ある時は味方を楯にし、またある時は己すら犠牲にすることで、混沌とした乱戦に持ち込ませていこうとする。
田北鎮周の狙いは一つ。
一気呵成に有川勢を押し退けること。
そして狙うは総大将たる島津義久の首級だった。
「押し返せ、押し返せ!」
有川貞実と思しき武将が島津兵を鼓舞している。
愛馬に跨りながら血塗れの手槍を振り回し、襲い掛かる大友兵を一蹴する様子は、島津軍を嘗めている田北鎮周から見ても素直に誉め称えるものだった。
「田北隊は4000。味方は15000。敗れることはない。直ぐに救援も来る。各自持ち場を離れずに戦うのだ!」
魚鱗の陣だと部隊間の情報伝達が早い。
その特性を活かして、救援を待っているのか。
ーーそうはさせん。
如何に弱卒な島津兵だとしても数の暴力には敵わない。いずれ押し返される。だから一目散に本陣へ駆けなければならなかった。
ここは無理してでも突破あるのみ。
瞬間的に判断した田北鎮周は槍を掲げて叫ぶ。
「皆の者、突っ込め!」
長槍隊による槍衾を破壊する。
弓隊による矢の雨は無視した。
既に死者は三百を超えているだろう。
だが、島津義久の首級を取れば殆ど勝ちだ。
その上で鶴翼を閉じれば、島津軍など包囲殲滅。
つまりーー。
全体的な被害を少なくしたいなら、田北鎮周が頑張らなくてはならない。島津家久と親指武蔵を見事退けた軍略の才で大友家を飛躍させてみせる。
想いは力に変わった。
そして手兵に伝播した。
大友兵は四方で暴れ回る。
有川勢は四半刻耐えたものの限界が訪れた。
「逃げるな、逃げるな!」
有川貞実が叫ぶ。
それでも島津兵は背中を見せて逃げ出した。
教科書に載せたい程の潰走だった。
指揮官たる有川貞実の叫び声など聞かず、全員が我先にと本陣のある方向へ走っていく。無様だ。
ともあれーー。
こうなれば収拾など付かない。有川勢は全滅である。
実際、有川貞実も馬首を反転させた。
前言撤回しよう。兵が兵なら武将も武将だ。
此処を抜かれれば主君の命が危ないというのに。
全く躊躇せずに逃げ出すなど言語道断であろうが。
苛立たしい気持ちを抑えながら田北鎮周は手兵に追撃を命じる。一兵でも多く討ち取り、そして勢いと士気を保持したまま本陣に雪崩れ込む算段だった。
「追え、追え!」
走る。疾る。奔る。
島津兵の背中を追い掛けていく。
直ぐに島津家の家紋が描かれた旗指物が見えた。
丸に十文字。頼朝公から続く名家の証。
開戦から半刻が経過している。
朝靄の晴れた今、その旗指物は島津義久の居場所を明確に示す。天は我に味方していた。このまま突き進めば島津義久の首級をこの手に納めることが出来る。
だからーー。
だから、某はーー。
その時、複数の銃声が鳴り響いた。
「撃て!」
男の声が聞こえる。
かかれ、と叫ぶ有川貞実の咆哮も耳朶を揺らす。
先ほどまで潰走していた有川勢は反転した。
左右に生い茂っていた木々の隙間から伏兵らしき者たちが一斉に現れて、有川勢と協力しながら浮き足立つ大友兵を作業のように駆逐していく。
ーー拙い、釣り野伏か。
覚束無い頭でも理解した。
だから全体に指示を出そうとしたが、何故か声が出ない。何度試しても喉を震わせずに、そして馬上にてグラリと身体が揺れた。
勢い良く地面に叩き付けられる。
この時、田北鎮周はようやく気付いた。
最初の一斉射撃で喉元を撃ち抜かれていたのだと。
ーー嗚呼、情けない……。
日ノ本全土に田北鎮周の武勇が轟くことを夢想しながら目を閉じる。その身体に群がる島津兵。見るも無惨な喉元を更に搔っ切られる。
田北鎮周。壮絶な最期であった。
▪️
開戦から一刻が経過した。
戦場全域から悲鳴と喊声が聞こえてくる。
島津義弘隊は高城川を渡河して松原の陣に突撃。
島津家久隊は島津家に内応した野久尾陣の志賀親度隊2000を吸収した結果、二倍に膨れ上がった4000の兵力で田原親貫隊4000に強襲している最中だ。
戸次道雪の読み通り、志賀親度は裏切った。
前以て志賀親度隊の数を減らした上で、本陣を二つに分けた。田原親貫隊が持ち堪える間に角隅石宗隊が後詰をする予定である。
これで完全に背後の憂いは絶った。
戸次道雪隊が後方を突かれることはなくなった。
既に田北鎮周隊は島津軍の釣り野伏に遭い、このまま一刻でも放置すれば成す術もなく壊滅するだろう。
つまりーー。
此処が勝負所である。
「狼煙を上げなさい。鶴翼を閉じます!」
道雪の指示によって狼煙が上げられる。
今こそ温存しておいた両翼を閉じる時だ。
島津兵は田北隊を蹂躙する事で油断している。
戦とは水が流れる如きもの。
勝機を見逃さない将兵が勝つのだ。
此処で両翼を閉じねば先陣を失った鶴翼の陣は崩れる。
刹那の内に判断した戸次道雪は、右翼の田原紹忍隊4000と左翼の佐伯惟教隊4000を一斉に前線へ投入させた。
田北隊に群がる為に戦線の伸びた島津軍。
包囲殲滅されやすい魚鱗の陣という事も相重なって、このまま行けば島津勢の敗北は確定的なのだが、それでも戸次道雪は黒戸次を動かしながら油断なく戦場を見渡した。
「志賀親度の対応は万全ですが、釣り野伏返しは見抜いている筈。忠棟ならば予備の策も必ず用意しているでしょうね」
道雪の狙い通り、両翼が閉じた。
潰乱した田北隊を追いかける島津勢を左右から挟撃する大友勢。加えて、田北隊の後方から戸次道雪隊が後詰に向かっている。
戦況は逆転した。島津勢が浮き足立つ。
しかしーー。
田北鎮周隊ほどの潰乱に陥らなかったのは、最初から釣り野伏返しに遭うのだと予期していたからに違いない。
その証拠が二つあった。
一つは陣形にある。魚鱗の陣から、大将を中心として円を描くように囲む陣形である方円に移行していたのだ。
移動には適しておらず迎え撃つ形となるが、全方位からの敵の奇襲に対処できる防御的な陣形である。半円だけに展開している為、人数も充分に足りているようだ。釣り野伏に遭いながらも抵抗が中々に激しい。
そしてもう一つは島津忠棟隊にあった。
即座に前線へ移動。そして長槍隊に密集形を取らせ、穂先を揃えることで頑強な槍衾を形成。隙間から唸る鉄砲の轟音は大友勢の進軍速度を遅らせた。
田北隊に攻撃を仕掛けない奇妙な部隊があると間者から報告を受けていたが、まさか島津忠棟の部隊だと思いもしなかった。
あの者は武功を挙げる為に参陣していると考えていたからだ。
戦略目的の為に己の栄達を殺すか。
戸次道雪の想い人はいつも楽しませてくれる。
「ですが、圧倒的不利なことに変わりなく」
戸次道雪隊が島津軍に突入する。
両翼と真正面から圧力を受ける島津勢は、驚く程の頑固な抵抗を続けるも時間が経つにつれて抑え切れずに後進していく。
仕方がない。釣り野伏とは本来必勝戦術だ。
完成させるのは酷く困難な戦術だが、一度嵌ってしまえば抜け出せる物ではない。全滅するか、敗走するか。勝利に導くのは有り得ないのだ。
勝利を確信した大友勢は津波の如く、怒涛の突撃を敢行している。意気揚々と島津勢に攻撃を繰り返す。
大友軍の圧倒的に有利な展開となった。
だが戸次道雪の眼は島津忠棟隊から離れない。
島津の今士元がこの程度で終わるはずがないからだ。
まだ何かを隠している。
釣り野伏を仕掛ける事も察した。
志賀親度の内応も読んでみせた。
他に何がある。
この状況から事態を挽回できるとすればーー。
「右翼に伝令!」
瞬間、道雪の脳内に稲妻が走った。
「背後からの敵に備えろと伝令を。根白坂を迂回して別働隊が突撃してくると田原紹忍殿に伝えなさい!」
雷神の下知に伝令兵が馬を走らせる。
戦場を俯瞰しつつ、戸次道雪は吐息を漏らした。
この状況で戦局を最も簡単にひっくり返すには、正面の戸次道雪隊を叩き潰すか、両翼のどちらかを潰すしかない。
方円を敷いた時点で内側からの反撃はない。
ならば考えられるとしたら外側からの奇襲だけである。
小半刻後ーー。
道雪から見て右側の平野に突如砂埃が舞った。
騎馬武者を中心とした島津軍の部隊が、右翼を担当している田原紹忍隊に後方から襲い掛かったのだ。
だが、田原紹忍隊は落ち着いて対処する。
鉄砲を横一列に並べて一斉射撃。弓を番えて半月状に弦を絞った。長槍隊は乱れずに馬の突進を待ち構える。
余りに早過ぎる田原隊の動きに、奇襲部隊の速度は弱まった。それでも精強な島津兵は銃弾と矢による損害を無視して、右翼を崩すべく田原隊に襲い掛からんとする。
戸次道雪は背筋を凍らせた。
背後から別働隊が奇襲を仕掛けるとわかっていた筈なのに、島津兵の有り得ない突破力によって田原隊は混戦に陥ってしまった。
もしも気付いていなかったらーー。
右翼は完全に壊滅されて、返す刀で左翼と正面の大友兵が白兵戦に持ち込まれて、後は消耗戦に移行していただろう。
「なるほど。これが、釣り野伏すら完遂する島津兵の強さですか」
田原紹忍隊の包囲は弱くなった。
さりとて釣り野伏返しは完遂している。
方円の一角を崩すことが出来れば後は御察し。
円の中に雪崩込むようにして突入し、島津勢を駆逐するだけである。
嗚呼、と戸次道雪は嘆息する。
島津忠棟の策は全て読み切った。
ここまで苦戦するとは正直思わなかった。
それでも勝ちは勝ちだ。
後は如何にして島津忠棟を捕らえるかだがーー。
「佐伯鎮続殿から伝令。方円の一角を崩した。道雪殿の隊が前線で猛威を振るえばお味方の大勝利疑うべくもなしとのこと!」
「田原紹忍殿から伝令。奇襲部隊を指揮するは肝付兼盛。兵力は2000。今の所、順調に押し返しつつありとのこと!」
「吉弘鎮信殿から伝令。前線の島津勢は軒並み潰走。後詰にて決着をつけなんとのこと!」
両翼、そして前線にて指揮する吉弘鎮信から齎された伝令兵は、いずれも大友勢の優勢を声高に叫んでいた。
後は戸次道雪の部隊が島津軍を飲み込むだけだ。
勝負は決まった。島津勢に勝ち目など無い。
この合戦、大友軍の勝利である。
だがーー。
「嘗めるなよ」
想い人の声が聞こえた。
此処は絶叫渦巻く戦場なのだ。
一笑に伏しても構わない幻聴に決まっている。
なのにーー。
戸次道雪は嫌な予感を覚えた。
そしてその予感は得てして当たるものである。
「後方より敵襲!」
物見櫓の兵士が悲鳴交じりに絶叫した。
それを裏打ちするように、騒ぎ声にも似た喊声が上がる。
思わず振り返る道雪。
その視界に飛び込んできたのは旗指物だった。
数にして3000程度か。
目を凝らした道雪は愕然とする。
謎の一団が翻している旗指物の文様は、丸に十文字だったからだ。島津家の家紋が描かれた旗指物は恐るべき速さで戸次道雪隊に近づいてくる。
ーー何故、どうして……。
道雪の明晰な頭脳をもってしても疑問が湧いた。
島津義弘隊は臼杵鎮続隊が抑え込み、島津家久隊は田原鎮貫隊と角隅石宗隊が迎え打った。肝付兼盛の別働隊も迎撃したばかり。これ以上、他の部隊を移動させれば流石に気が付くはずだ。
わからない。
何処から3000の兵士を生み出したのか。
戸次道雪の理解を超えていた。
それでも一つだけ把握した事がある。
島津忠棟の張り巡らした策略が道雪を上回ったということだ。
▪️
会心の釣り野伏は返された。
志賀親度の裏切りも対応された。
兼盛殿の奇襲すらも読まれていた。
それでも、戸次道雪、お前の負けだ。
「久朗を知らなかったのが運の尽きだ」
動揺が大友軍全体に伝播した。
愛馬に跨って戦況を把握しつつ、俺は軍配を振るう。
方円から再び魚鱗の陣に変える。
我慢の時は終わりだ。
さぁ、反撃の時である。
「本当の切り札は、最後の最後まで取っておくものだ」
決着を付けよう、鬼道雪。
本日の要点。
1、道雪、ピンチ。
2、忠棟「イオナは嫁。タカオは愛人」