五秒だったか、それとも十秒だったか。互いに無言のまま静寂を維持していた。短いようで長く感じられたそのひと時に、私は彼の不気味でいてどこか空虚な眼差しを受けていた。言い得て妙だが、死んだ魚のような眼差しの前に私は蛇に睨まれたかの如く身体を動かすことができなかった。ただ、息を呑むばかり。
「とっ、とりあえずだな……その、噛まれてはいねぇのか?」
先に言葉を発したのは彼だった。ゾンビに一度でも噛まれればウイルスに感染し、感染者はもって数時間でゾンビに成り果てる。噛まれているかを懸念するかどうかはもはや生死を分つ状況。ショッピングモールに他の生存者達と立てこもり生活していた時も、リーダー格の青年が噛まれたことを隠したせいで発症に気がつくのが遅れた。私は親友を連れて必死に逃げて、生き残りも見捨てて、何とか生き延びた。――ふと、彼が手にしている茶色の棒のようなものがチラリと視界に入り私は僅かに縮こまりながらもこくんと首を縦に振った。彼が持っているものは恐らくは木刀であり、丸腰の私には襲いかかられても成す術がないためなるべく彼を刺激しないように最低限の言葉でコミュニケーションを取ることにした。
「じゃあ次だ……アンタはどっから、何をしにここに来た?」
「ショッピングモールの《リバーシティ・トロン》から、助けを呼ぶためにあちこち回っていたの。それで、ここだけバリケードが張られていたから人が居るかもって……」
ここで嘘をつくメリットは無い。下手に疑われて追い出されるわけにも行かなかった。部屋に残してきた親友の泣き出しそうな顔が脳裏にチラつく。彼女のためにも必ず助けを呼んで戻らなければならない。遠くない未来、ショッピングモールも水と食料が尽きる日が来る。それ以前にバリケードが扉ごと破られるかもしれない。私の彼女もただの女子高生だ。ゾンビに追い詰められてはどうしようもない。だから、手遅れになる前に――
私は彼に向かい頭を下げた。目頭が熱くなってぽろぽろと涙がどうしようもなく溢れてくる。女の子一人守る力もない自分が嫌で、腹立たしくて、両の拳を痛いくらいに力を込めて握り締めた。誰かを守れない自分が、心底嫌いだった。でも、それでも……彼女は私を頼ってくれる。私を必要としてくれている。じゃあ私は? 私は誰を頼ればいい? ……誰もいない。なら、全部一人で抱え込むしかない。彼女の苦痛も、私が分かち合って、私は自分の全てを抱える。そんなの……いつか壊れてしまう。きっと私は誤魔化したかったんだ。彼女に――美紀に頼られることで、自分の存在を証明したかったんだ。「わたしはここにいます」って。頼られて、頼られて、頼られ続けていく。ただの――自己満足。何も守れないくせに、意味の無い誇りで自分を飾ろうとしてる。そんな自分が、私は――心底大嫌いだった。
もはや私と美紀は親友と呼べるだけの関係なのだろうか? 頼り、頼られる。それだけの存在。何気ない日常の中で培ってきた関係が音を立てて瓦解したような気がした。叶うのならば、愛しい日常に戻れるのならば、私は美紀との関係を《本物》にしたい。互いが互いを信頼し必要とし合う。上辺だけじゃないお互いの存在を認め合った何者にも劣らず、胸を張って《本物》と呼べるだけの関係を築きたい。今となっては、もう何もかもが遅すぎたのかもしれないけれど――。
「お願いします……! 美紀を、私を、助けてください……っ!」
嗚咽混じりに私は懇願した。不躾な願いだとは自覚しているし、こんな地獄みたいな状況下で赤の他人を助けるなんて真似はあまりにもリスクが高い。ただ、それでも、私は無理を承知で助けを請う。必死に。その必死さ故に――美紀だけでも助けてもらうはずが、ついででいいと思っていた自分を助けて欲しいと願ってしまった。心境が変わってしまうほどに、この過酷な環境に私は精神を磨り減らしていた。自分でも気付かぬうちに願望が理想へと変わっていく。つくづく最低な自分に歯噛みする思いだった。だから、彼の発した小さくて短い言葉を聞いた時、私は瞠目しておもむろに顔を上げる。恥ずかしそうに頬を掻き視線を泳がせる彼と、ふいに目が合った。
「……だから……いいっての。助ける。す、すぐには……無理だが。じゅ、準備とか、色々あるしな……」
「い、いいんですかっ!?」
「ちょっおまっ! 声抑えろって……!」
思わず声を上げてしまいハッと気づき慌てて口を押さえる。彼も焦って自分の唇に人差し指を当てて「しーっ! しーっ!」とジェスチャーを見せる。そろりと二人揃ってコンビニの外に目を向けると、相変わらず緩慢な動きで彷徨くゾンビ達が目に付く。幸いにもこちらに気づいた様子はない。はぁ、と今度も二人揃って胸を撫で下ろし安堵する。一応入口を閉めておいて良かった……。
「私、祠堂圭って言います。巡ヶ丘高校に通ってる二年生です。その、これからよろしくお願いします」
ぐしぐしと少し乱暴に涙に濡れた顔を拭うと、気を取り直して彼に向き直り自己紹介をした。直前まで泣いていたせいで少しぎこちないか心配だが、警戒を解いた彼に笑顔を見せてからぺこりと頭を下げた。実際、私は肩の積荷を下ろしたかのように心が晴れやかな気分だった。生きている人に出会えたというものあるけれど、美紀も私もこれから彼に救われると思うと不思議なことにどこからか安心感が芽生えてきたのだ。多分、それは彼が男の子だから――だと思う。少し曖昧だ。彼の見掛けは細身だけれど、武器を持っているからそこはカバーできるだろう。武器を持っていない私たちからすれば凄く頼りになる。でも、頼りきりにするのは控えよう。私も彼には頼りたい、けど彼だって頼りたいはずだ。そうあるのが普通なんだ。きっと、そう。
頭を上げると、顔を紅潮させた彼が俯き加減に視線を逸らしていた。それから、漸く私は合点がいった。彼は――
「ひ、比企谷八幡でしゅ……」
どうしようもなく、コミュ障で、ウブな青年だということ。そのことを、今更ながら理解した私は数秒遅れて久しぶりに笑ってみせた。