慌てて家を飛び出すと、俺はアパートの階段を駆け降りた。
俺は、アパートの6階に住んでいる。本家を追い出された時に、どっかいい部屋ないか、と探していた時にある不動産屋で紹介されたのだ。築50年の歴史をもつこのアパートは、外見は苔むし、いたるところにひびが入っているものの、暮らしは実に快適である。
一家族が悠に暮らせるスペースがあるにもかかわらず、家賃は水道、ガス、電気代込みで、4万円。
最初に聞いた時は耳を疑ったものだ。いわゆる「いわくつき」なのではないか、と。昔そこで人が死んだとか、墓が近いとか。
それを尋ねると、アパートの管理人である70くらいの爺さんは、
「黙秘する」
の一言だった。
黙秘している時点で何かある事は丸分かりなのだが、「安いし、まあいいか」と軽い気持ちで住み始めた。
住み始め、一番最初に違和感を感じたのは洗面所である。朝、歯を磨いていると、どこからかヒュ~、ヒュ~という音が聞こえてきたのだ。
咄嗟にバッと顔をあげると、鏡に長い黒髪を腰まで垂らした白衣の女性が映っていた。
それからというもの、その俗に言う「幽霊」である幸子さんと俺は暮らし始めた。
会話はできないものの、こちらの質問には首を動かして答える事ができる。
幸子さんはこのアパートのこの部屋の最初の住人だったらしく、強盗に入られ、夫である稲造さんを殺されたらしい。それからというもの、この部屋にやってくる住人を追い出し、部屋を守ってきたらしい。
ところが、一切幸子さんを怖がらず、それどころか親しげに話しかけてきた俺に戸惑い、久しぶりに人と会話する喜びに目覚めたらしい。それからというものすっかり同居人である。
幸子さんを始めてみた時の香澄と明日香さんの反応は、
「キャー! すっごい綺麗! 女優さんみたい!」
「これから、よろしくお願い致します」
というものだった。
俺が言えたことではないが、2人とも女性の普通の反応ではないと思う。
肝が据わっているのを通り越して、肝がないのではないだろうか。
さて、こんな益体もないことを考えていると、遅刻してしまう。
俺は左腕にはめた腕時計をちらりと見ると、時刻は8:30を指していた。
ん? 8:30?
部屋の壁時計を見た時は確か8:40だったはず。
俺はポケットから二つ折りの携帯を取り出して、開く。時刻は8:31を示したいた。
「香澄……」
どうやら、俺は嵌められたようだ。
これが、香澄が遅刻しないように気遣ってくれたせいなのか。それとも単純にイタズラ心のせいなのか。今更、確かめる術はないが。
99%後者だろうがな。
俺の家はこれから通う事になる文月学園から徒歩10分の距離にある。
俺が文月を選んだ理由など、いわずもがな。近いから。しかし、そんな俺の思惑とは別に文月学園は全国的に有名な高校である。
文月学園のテストには点数の上限がない。与えられた制限時間の中で何問でも問題を解く事ができ、それだけ点数が伸びる。ようは、自らの能力次第でどこまでも点数をのばす事ができる。
また、科学とオカルトと偶然により完成された『試験召喚システム』というものがある。これはテストの点数に応じた強さの召喚獣を召喚することができ、教師の立会いの下で行使が可能になる。
学力低下が嘆かれる昨今、生徒の勉強に対するモチベーションの向上を狙い、提案された先進的な試み。その中心にあるのが召喚獣を用いたクラス単位の戦争。それが『試験召喚戦争』である。
もっとも、試験召喚戦争が始まるのは2年生からだし、俺自身あまり興味はない。
試験召喚戦があってもなくても、学生の本分は勉強。これから先、俺がどういう人生を歩むのかは分からないが、勉強はするに越したことはない。
特に、慌てる必要のなくなった俺は学園へと続く坂道をのんびりと登っていた。さすがに入学式から遅刻は避けたいのであろう。俺の他には生徒の姿は見られない。
桜舞う花道という言葉通り、道の両側では何本ものソメイヨシノが咲き誇っている。桜の花びらがヒラヒラと踊っている様は、これからの高校生活を歓迎してくれているようだ。
まあ、俺にとっては不要なんだがな。自分にとって歓迎などおこがましい。おそらく30分前。たくさんの新入生がこの坂道を上っていた時は、さぞ画になる美しい光景であっただろう。
文月学園へと続く坂は、もはや坂というより山道である。これだけの急勾配を毎日登ることになると思うと、少々辟易してくる。
なぜ、こんな場所に学校をたてたのか。
そんな理不尽な疑問が浮かんでくるが、それも当然のことかもしれない。学校を立てるための大きな土地は山か、砂漠ぐらいしかない。街中の大きな土地は高い。
砂漠に学校を立てるというのもなかなかシュールだが、山以上に登下校が辛そうだ。
まあ、何をするにしても必要なものはお金であり、山の上に存在する学校も仕方ないのであろう。
「あれ?」
この坂道を上っているのは俺だけだと思っていたら、前方に二つの人影が見えてきた。
1人は燃えるような赤髪にたくましい体躯。俺よりも少し背が高い。もう1人は艶やかな深青色の髪を腰まで垂らした女の子。
ふむ。入学式からカップルで登校とは、羨ましい限りだが、まあ、邪魔しては悪いだろう。
俺は少々俯きがちに2人の横を通り過ぎようとすると。
「ん? おい待て。お前、悠人か?」
どこかで聞いた事のあるような声に俺は反射的に振り返る。
そこには、二年前。悪鬼羅刹として腕を慣らしていた坂本雄二が立っていた。
赤髪
がっしりした体格
ゴリラのような顔
うん。間違いなく雄二だ。
「おい。お前今、失礼なことを考えなかったか?」
「何の事だ?」
考えている事が顔に出ていたらしい。
コイツは2年前も勘が鋭かった。危ない、危ない。
「久しぶりだな、雄二。2年ぶりか」
「ああ。あん時は世話になったな」
「おう。世話したわ」
「ちっ……」
雄二は決まりが悪そうに舌打ちしてそばを向いた。
「しかし、お前も丸くなったな」
「? 何の事だ?」
「彼女だろう」
俺は雄二の隣に立っていた目の映えるような美少女に視線を移した。
艶やかな髪。
至極、整っている綺麗なかんばせ。
出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでいるスタイル。
にじみ出る色気。
綺麗な娘だ。
「おい待てッ! コイツは――」
「はじめまして。霧島翔子。雄二の妻。」
「ああ、これはどうも。藤原悠人だ。雄二とは、まあ知り合いだな。しかし、籍を入れていたのか」
「うん。毎日ラブラブ」
「そうか。幸せなのはいいことだ」
話した感じ、弁が立つ方ではないが、素直そうでいい娘だ。
「待て待て待てッ! おい悠人! お前はなんで翔子の言葉をスルーするんだ!」
「スルー? なんのことだ? ああ、結婚しているのに名字が違う事か。まあ、今は結婚にも色んな形があるから気にしなかったんだが」
「そこじゃねえよ! 俺はまだ16だ! 結婚できる歳じゃねえんだよ!」
雄二が声を荒げる。
「いや、18以下でも結婚できる国に行って、籍を入れてきたのかと思ったんだが……」
「そんなわけあるか! だいたい何で俺……ってちょっと待て翔子。”その手があったか”みたいな顔で手を打つんじゃねえ!」
霧島さんは左手を下にして右手を落とす、「なるほど」のポーズを取っていた。
そして、雄二の手を取ると、坂の下の方にグイグイ引っ張っていこうとする。
「イデデデッ! まて翔子! 関節をバッチリ決めて俺をどこへ連れて行く気だ!」
「外国。今から籍を入れて、式をあげて、子供を産む」
「気が早ええんだよ! とにかく離してくれ!」
なんともまあ、霧島さんは大分一途な人のようだ。それも思い込みが激しいタイプの。
猪突猛進という言葉が良く似合う。
「藤原。アドバイスありがとう。私たちはこれで」
「いやいや、待とうか霧島さん」
そのまま一気に突っ走って行きそうな霧島さんを慌てて止める。
さすがに入学式をサボタージュするのはまずい。
「霧島さん。雄二を好きな気持ちは分かるが、自分の好意を押し付けてはダメだ。暴力も」
「暴力?」
「その柔道家も真っ青のがっちり決まっている肘関節の事」
「世の中のカップルはみんなこうしてる」
「……いや、あれは腕を組んでいるだけだから」
ああ。
思い出した。この娘「霧島グループ」の会長の娘さんだ。
話した事はないが、見た事はある。おそらく箱入り娘として育てられたせいか、激しく世間ずれしている。
「とにかく、雄二の話も聞いてやれ。霧島さんも雄二から『好きだ』と言われたら嬉しいだろう」
「……嬉しい」
「じゃあ、雄二にそう言ってもらえるようにとりあえず、暴力は止めよう」
「……分かった」
俺がそう言うと、霧島さんはゆっくりと肘をほどいた。
しばらく成り行きを見守っていた雄二は驚いたように俺を見つめた。
「すげえな。ここまでうまく翔子を手なずけたのはおふくろに続いて2人めだ」
「何をいってやがる。俺は間違いを正しただけでお前の味方ではない。コイツはお前の問題なんだろう。2年前のお前の原因も彼女が絡んでいるんじゃないのか?」
「……」
沈黙は図星とみていいだろう。
あとは雄二がどこまで自分に正直になれるか、といったところだが。
……難しいなあ。
「でも、雄二。無視はしないで」
「……」
「雄二」
「無視はよくねえぞ」
「……なんだよ」
嫌嫌そうに雄二が霧島さんの方を見る。
とたん、彼女はパァッと花が咲くような笑顔になって、
「私の胸、Cカップになった」
といった。
「…………」
「待て、悠人! 黙って俺から距離をとるな! 誤解だ!」
「お前、本当に変わったな」
「その母親が子供をあやすような目をヤメロ!」
だって、ねえ。
女子高生に何をいわせているのさ。
「あ、思い出した」
唐突に霧島さんがそう呟いた。
その言葉に雄二がビクッとなる。
どれだけ、怯えてるんだよ……。
「藤原悠人……」
「? 俺?」
「雄二から聞いた事がある。雄二を救ってくれた人だって」
「……ほほぉ」
俺は横眼で雄二を盗み見る。
雄二はこちらを一切見ようとしない。その顔はらしくもなく、真っ赤になっているだろう。
本当にあのときのことは反省しているようだな。
「妻としてお礼をいわせてもらう」
「だから、そういうのはダメ」
「将来の妻としてお礼を言わせてもらう」
「OK どういたしまして」
俺は、微笑んでお礼を受け取った。
「OKなわけあるか!!」
「大丈夫。私は雄二の妻になる。これは運命。絶対的な真理」
「ウアアアアアア!」
まあ、これ以上邪魔をすることもあれだし。
俺は2人を置いて、坂を登りはじめた。
二年前、本家を追い出され、母親と死別した一週間後。
俺は、失意の底にいた。というわけではないが、これからの生活のことを考え、絶望していた。正直、母親がプラットホームから飛び降り、死んだという訃報を聞いた時、「ああ、ついにこの時が来たか」といった感じだった。
もともと、気が弱かった母は、本家の中でも肩身が狭い想いをずっとし続けていた。それでも何とかやってこれたのは、俺という存在のおかげで。
俺が本家の跡継ぎになり、その母親という肩書にすがっていたのであろう。母はそういう人間だった。権威とか、地位とかに縛られるような、そんな人間。
ゆえに、俺と母親が本家を追い出されてからというもの、母は明らかにやつれていった。日々やせほそり、顔が青ざめて行く日々。
俺は、何もしなかった訳ではないが、どんな言葉も母には届かなかった。
だから、母が死んでも、その日一日は母との生活を思い出して、涙を流したりもしたが、次の日からはいつも通りの自分に戻っていた。我ながら薄情な人間だと思うが、これが藤原悠人という人間である以上、諦めなければならないのだろう。そう思った。
そんな時だ。「悪鬼羅刹」の噂を聞いたのは。
なんでも、夜な夜な裏街に出現しては、素行の悪い連中からの喧嘩を買い、返り討にしているらしい。
往々にしてこういうものは、噂に尾ひれがついて、事実よりも誇張されて広まるものである。だから、別段俺も気にしてはいなかった。
「はぁ。いい部屋ってのはなかなかないもんだね」
俺は夜の商店街を手ぶらで歩いていた。
父親からは生活費が毎月振り込まれ、その額は十分なものだが、しかし。できれば節約したい、というのが本音である。
家賃にそこまでお金を掛ける訳にはいかない。しかし、この辺は事業開発が進み、土地の値段も高く、1人暮らしをするにしても、最低10万は必要になる。
「はぁ」
俺は1つため息をはくと、どこの店もシャッターが降りている商店街を、今日の寝どこである、カプセルホテルへと歩いていた。ここ1週間専ら俺はカプセルホテルや、カラオケボックス、マンガ喫茶などで寝ていた。さすがにそろそろ部屋を見つけないと、体調的な理由でマズイ。
憂鬱な気持ちで歩いていると、どこからか物音が聞こえてきた。
音は小さいが、どうやら喧騒の音のようで、音は、店と店の路地から聞こえてくる。いつもの俺ならば、別段気にせず通り過ぎるのだが、この日の俺は、退屈も相まってその路地へと歩を進めていた。
その路地は到底人がすれ違えないような細い路地であったが、進む分には問題ない。道を進むたびに、その喧騒音は大きくなっていき、ドカッ! バキッ! という音や、人の悲鳴や怒声が聞こえてきた。
ああ、やっぱりな。
少し開けたところに出ると、予想通りの光景が広がっていた。おそらく、ビル街を建設する際にたまたま出来てしまった空間であろう場所で、1人の人間を多数の人間が襲っていた。
多勢の方は、バットや鉄パイプなどを振りまわしている。
一方、その中心にいる赤髪の男は、それをものともせず、ひとりずつ、蹴りや拳で悶絶させていく。
なるほど。
コイツが悪鬼羅刹の正体か。噂は本当だったようだ。確かに鬼のような形相で、言葉通りちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
俺が見始めてから戦闘はそう長くは続かず、5分もすると、全ての人間を倒し終えた。
「クソッ! 化け物め!」
「覚えてやがれっ!」
捨てゼリフを残し、立ち去っていく雑魚。どこでもああいう輩が言う事は同じだ。ボキャブラリーのない奴らめ。
しばらく黙っていると、その赤髪の男はこちらをゆっくりと振り向いた。
ゴリラのような男だ。それが悠人の第一印象だった。
「てめえ。見てたのか」
「ああ、見てたよ。悪鬼羅刹殿」
「けっ! んで、何か用かよ」
その男はつまらなそうに足元の小石を蹴飛ばす。
「別に用という訳ではない。ただ、悪鬼羅刹という物がどれほどのものか見に来ただけだが……どうやら、噂が独り歩きしていただけのようだな」
「……なんだと?」
男から殺気が迸る。
おーおー、いっちょまえにビスビスしてやがんな。
てか、あれ? なんで俺、コイツに喧嘩売ってんだ?
「てめえもぶっ殺されてえのか?」
「……やれるもんならやってみな。ゴリラ野郎」
「ッ――!」
男の拳がゆらりと動いた瞬間。
その拳はすでに俺のもとまで伸びてきていた。
ただひとつ、この男にとって誤算だったであろう事実は、
俺がその拳を手のひらで受け止めていた事だ。
「お前、一体――」
「なんだ? まさか自分がこの世で最強だとでも思っていたのか? とんだ笑い草だな。お前より強い存在などいくらでもいる。俺のようにな」
瞬間。
右の拳を引っ込めた奴は左の拳を突き出してきた。俺は右同様にそれも左で受ける。
「ずい分と軽い拳だな。こんなんじゃあ……誰も守れねえかもな!」
「――」
俺がその言葉を口にすると、男は憤怒の形相と共に拳のラッシュを放ってきた。俺は両手でそれをさばいていく。
何か、あいつの根幹に触れたようだな。
ま、今は関係ねえけどなっ!
「お前、一体何者だ?」
「人に名前を聞くときは自分からって教わんなかったのか? ゴリラちゃん」
「てめえ! 絶対ぶっ殺す!」
「……まあいい、藤原悠人だ」
俺は拳をさばきながら、質問に応えてやった。
「そろそろ、こっちから行くぜぇ!」
俺は今まで受け身に徹していた手のひらをギュッと握り締めると、その男の顔面を思いっきり殴った。
…………
ああ、そうか。そういうことか。ようやく分かった。
拳に肉を穿つ感触。と共に湧きあがる感情。そうか、俺はイラついてんのか。
本家を追い出された事とか。
母親が死んだ事とか。
自分の人生を他人に操られている事とか。
いままで、自分じゃあ気にしていねえつもりだったが。理屈とかそういうもん抜きにして、ただただ、
腹立つよなァ!!
「オラッ!」
「ざけんなっ!」
そこからは本当にただの喧嘩だった。相手を殴る事だけを考え、防御もしない。ドッグファイト。
俺がヤツの顔面をふっ飛ばせば、ヤツが俺の鳩尾をえぐる。
俺がわき腹を蹴りあげれば、ヤツは俺の股間を蹴りあげる。
しかし、そんな戦闘が長く持つはずもなく、20分もすれば、俺達は地面の上に2人揃って仰向けに寝転んでいた。
「はぁ、はぁ。この化け物め」
「それはてめえもだろうが、ゴリラ」
「雄二だ」
「あ?」
「坂本雄二だよ」
「ニックネームか?」
「名前に決まってんだろ!」
そうか、時代はついにゴリラにも名前をつけるようになったのか。
「てめえ……いつか絶対ぶっ殺す。覚えてやがれ、悠人」
「いつでも返り討にしてやるよ。雄二」
俺はそのまま立ち上がると、その場を後にした。
後から聞いた話だが、その夜以降「悪鬼羅刹」は現れなくなったらしい。
俺は俺で溜まっていた感情を吐きだせたし、まあ、もう二度と会わないだろう。
だから、双方にとってこれは良かった事だ。
それから2年後。俺は雄二と再会を果たすことになるのだが、この時の俺はそんな事を知る由もなかった。