「邪神だと?馬鹿な……アレはただの作り話だ……」
帝国の一部貴族の間で信仰されている神である邪神。
しかし本当はそんな神など存在してはいないのだ。
神とはみだりに姿を見せないもの、なぜ存在しないと言えるのかと問われようともニグンには断言できた。
そして、それは間違ってはいない。
「なんだ?邪神の伝承でもあるのか?」
いつの間にか距離を詰めていたアインズが問う。
あるかないかで言えば、ある。
それは名無き邪神と呼ばれ、死と暗黒を統べると言う。その邪神は極寒の世界に居城を作り、死した魂を凍りつかせて弄ぶといわれていた。
だがそれはスレイン法国で信仰されている闇の神が他国では信仰されていないという面を利用して、とある組織が作りだしたものだという事が風花聖典の調査の結果判明している。
つまり、邪神の伝承はあるにはあるが、それは紛れも無く人間の手による作り話なのだ。
そしてその作り話の内容とさえ、自身を捕らえる自称邪神は似ても似つかない。
「知らない……こんな存在がいるなんて、私は知らないっ……」
そう答える一方でニグンは納得していた。
つまり、自分が知らないだけで本当に邪神というのは存在していたのだ。
大本を辿ればスレイン法国で信仰されている死を司る闇の神に行き着く創作物の邪神。
それとは一線を画した、これっぽっちも善なる面を持たない正真正銘の邪悪なる神がこいつなのだ。
だから、至高善の存在であり最高位の天使である威光の権天使ですら、下位の天使のように邪悪なる支配力に負けてしまったのだろう。
それは邪神の力がニグンの信仰する六大神に匹敵する、もしくは上回る事を認める考えだった。
法国の神官に聞かせれば、陽光聖典の隊長であるにも拘らず不信心だ不敬だと罵られるかもしれない。
しかしニグンはこの考えに一筋の信仰的な救いを感じていた。
(善なるものは我ら人類を見捨てたのではない。神は我らを依然愛してくれている。ただ、邪神の力が強力すぎるだけなのだ)
信仰を捧げてきた存在に見捨てられたわけではないという思いが、ニグンの正気を辛うじて繋ぎとめていた。
いまだ狂っていない半数近くの部下達も、恐らくは自分と同じ考えなのだろう。
六大神に匹敵する邪悪なる存在に相対している事への恐怖と絶望にすすり泣いているが、皆たしかに正気ではある。
陽光聖典の隊員に選ばれるだけある厚い信仰心のなせる業ではあるが、それが一体この場でなんの役に立つというのだろうか?ニグンは皮肉げに口角を吊り上げ力なく笑う。
あるいは神に見捨てられたと発狂してしまったほうが楽だったのかも知れない。
「うん?」
邪神の声と共に突然体が振られニグンの視界が180度回転する。
眼前に吊り上げられていたのが、今は丁度前方に構えられた盾のような形になっている。
恐ろしい邪神の貌が見えなくなった事に僅かながら安心するニグンのその目に顔を顰めたくなるような光景が飛び込んできた。
「へ、へへへへ……」
精神の均衡を崩し、発狂した一部の部下達がニグンを捕らえた邪神の下へと卑屈に笑いながら近づいてくる。
兜を脱ぎ、涙と鼻水、涎で汚れた顔を乞食のような笑みに歪めにじり寄るその姿は敵に対する備えを一切捨てている。
最早抵抗は不可能で無意味だと理解しているニグンから見ても、それは不快感を覚えずにはいられない姿だった。
「へへへ……邪神様。あなた様に私の信仰を捧げます」
「おお神よ……真なる神よ!矮小なるこの身にあなた様を信仰する栄誉を与えたまえ!」
「目が啓かれた思いでございます。今はただ偽りの神を信奉していた愚かなる日々を悔いるのみ」
「あなた様の望むモノを我が信仰の証として捧げます!」
――だから、どうか殺さないで下さい。どうかお助けください。
次々と六大神を捨て邪神への新たなる忠誠を誓っていく彼らの本音はそれだった。
邪神の前で跪き、本来は六大神に祈るための作法で裏切りの言葉を紡ぐのは、ひとえに己の命が惜しいがゆえだ。
その姿のなんと惨めで、汚らわしい事だろうか。
ニグンの心になにか得体の知れない熱が宿っていく。
その熱の正体は、怒りだった。
敵は強大で、勝ち目は無くて、最早抵抗することも出来ない。
そうなれば命乞いもまたやむなしだろう。
しかし。
(それでも、人生をかけて信仰してきた神を容易く捨ててみせるお前たちは間違っている……)
この期に及んで愚かな考えかもしれないと頭の片隅で自嘲するニグン。
そんな彼の考えを意外な存在が同意してみせた。
「さがれ下郎!!」
頬を叩くような突風と共に、アルベドと呼ばれた全身鎧の戦士がニグンを、いや邪神を庇うように現れる。
そして破裂音に似た轟音と共に部下達が宙を舞い、吹き飛ばされていく。
「ひぃぃぃぃ!」
「うわああああ!」
「お、おたすけぇぇぇぇ!」
「ごじひぃぃぃ!」
掃き掃除の最中、戯れに箒を振るわれ周囲に四散する木の葉のようだとニグンは思った。
大きく振り切られたバルディッシュの姿から、ニグンは自分の想像と眼前で起こった現象は同じ理屈で成り立っているのだと悟る。
金属鎧などの重武装をしているわけではないが、完全武装した成人男性を、この女戦士は風を掴みやすい扁平な形状の斧を使ったとはいえ武器を振った風圧だけで吹き飛ばしたのだ。
あるいは明らかに魔法の武器であるあのバルディッシュに秘められた特殊な能力が成した業なのかもしれないが、ニグンはこれが単純な肉体能力の産物であると察していた。
ならば、一体どれだけの筋力がその偉業を成し遂げるというのだろうか?ニグンは改めて戦慄した。
「恥を知れ下等生物風情が!アインズ様の慈悲を拒否するという大罪を犯した身でありながら、今度は命乞いの為に自らの神を捨て我らが至高の神を信仰するなどとよくも嘯いたな!なんたる寡廉鮮恥!信仰や忠義の意味も知らぬ愚か者め!」
怒気を隠そうともしないアルベドの言葉にニグンは本能的な恐怖に身を震わせる。
吹き飛ばされ無様に地面を転がる狂った部下達は、皆一様に顔をグシャグシャに歪め泣きじゃくりながらも必死に助けを乞うていた。
あいつらと比べれば、我が身のなんと誇り高き事か。
同じ恐怖の前に立たされており、同じく未来と希望を断たれた身であるニグンはそう思わざるをえなかった。それほどまでに惨めな光景だったのだ。
振り切られたバルディッシュの刃が返され、血に染まったかのように赤く輝く星達の光を鋭く反射する。
赤く輝く刃は使い手であるアルベドの心火の勢いそのままにブルブルと震えている。まるで牙を剥き唸り声を上げる猛獣のようだ。
アルベドの技量であれば最初の一振りで彼らを容易く皆殺しに出来たのだろうが、それをしなかったのは返り血で主人達を汚す事を嫌ったからだろう。
だがこうして距離を取った以上、その猛獣はすぐにでも解き放たれ恐怖に心折られた哀れな狂人達の命を奪い去っていくのだろう。
そしてニグンにはそれを止める力も、止めようとする意思も無かった。
「それまでだアルベド」
最早止める事の出来ないはずの猛獣を止めたのは蜘蛛の邪神だった。
「しかし……」
「やめろと言っているのだ。お前らしくもないぞ、目的を忘れたか?」
「……はっ。出すぎた真似をしました。申し訳ございません」
邪神の言葉に何か言いたげながらもアルベドは振り上げられた兇刃を降ろした。
首元まで近づいていた死が遠ざかった事を認識し、この場に居る人間全てが安堵したようだった。
「ふぅ。……何を信仰するかは個人の自由だ。そしてその信仰のあり方も個人によって違うのが当然だろう。故にかつての神を捨て、新たなる神として私を信仰しようという彼らを罰するつもりはないのだ」
邪神の発した言葉を聞いて、六大神を捨てた者達の目に希望の光が宿る。
そんな彼らの様子を見て邪神が言う。荒れ果てた心に染み入るような柔和で危険な優しい声で。
「それに、彼らは信仰の証として私の望むものを捧げると言っているではないか。なぁ?」
「はっ……はい!仰るとおりです邪神様!」
話を振られた狂人の一人がこのチャンスを逃してなるものかとばかりに返事をする。
邪神は顔の無い頭部を上下に動かして機嫌よさげにしている。
「そうかそうか。……む?震えているな?心配するな。定命の者に対して命を差し出せとは言わないよ。私が望むのは他愛ない、そう、何て事の無い世間話なのだよ」
気遣うような優しい声を間近に聞きながらニグンの未だ折れない六大神への信仰と人類の守護者足らんと生きてきた経験が警鐘を鳴らす。
(危険だ。奴のいう世間話こそ、最も危険な行為だ……!)
六大神を裏切った部下の惨めな姿を見ることで宿った怒りの炎がもたらす微かな温もりが、ニグンの恐怖に冷え切った思考と心を僅かながら解きほぐしていた。
その彼の頭脳と心が一つの答えを導き出した。
未知の魔法。
意図の掴めないアインズの質問の数々。
本当は命を奪うつもりはないという発言。
世間話を供物として要求する邪神。
降って湧いたかのように現れた3人もの常識外の強者。
それらの要素がニグンの脳内で様々な過程を経て一本の糸で繋がった。
(理由はわからないが、奴らは情報を欲しているのだ……。それも我々が持つ機密度の高いモノではなく、世間話レベルの情報ですらも)
今思えば愚かなことだが、アインズに対して自身が放った「無知なのか?」という言葉は間違いではなかったのかもしれない。
一体如何なる理由でアレほど強大な存在がこの世界に対して無知になれるのかは分からない。
しかしニグンには一つだけ分かっていることがあった。
それはあの邪悪にこの世界の情報を与えてはいけないという事だ。
(こいつらは用心深い。ならば無知である内はなにか大きな事件を起こそうとはしないはず)
六大神に匹敵し、もしかすると上回るかもしれない邪悪がこの世界に害を振りまくその時を僅かでも遅らせる。
それが自身に出来る人類への最大の貢献であるとニグンは悟った。
この考えがまったくの見当違いだったとしても、やつらは此方に死なれては困るらしい。
戦いとは如何に相手の嫌がることをするかが重要である。
ならばやることは変わらない。
自らがやろうとすることに対する恐怖はある。
だがアインズが言った「絶望と苦痛の中で死に絶える事となるだろう」という言葉を思えばその恐怖を乗り越えることは容易かった。
「あぁ……」
ため息とも嘆きとも取れぬ音を発しながら、ニグンは天を仰いだ。
――見慣れない夜空である。
幾つもの赤く光る星が地上を見つめている。
真の邪悪が跳梁跋扈する夜というのは、こういうものなのか。
ニグンは自身の生涯を振り返りつつ禍々しい夜空を眺めた。
(……信仰と、大義に尽くした人生だった。まさかこんな最後になるとは思わなかったな)
死とは突然、理不尽かつ無慈悲に襲い掛かってくるものである。
そう理解はしていたが、いざ自分に降りかかってくるとこれほどまでに恐ろしく度し難いものなのか。
自分達がしてきた行為の罪深さを実感を伴って知る事になったが、それでも後悔はない。
自分は信奉する神を裏切らず、成されるべき大義の達成のために真っ直ぐ進み続けてきた。
そしてそれはきっと最後の瞬間まで。
ならば、概ね満足な一生だったと言えるだろう。
「世間話……うひひっ……そのようなことでよろしいのならば幾らでも喜んで!」
生にしがみ付こうと必死が故に狂人にも拘らず理性的に振舞っている元部下達。
かつては同じ神を信仰し、苦楽を共にした彼らの昨日までの姿が一瞬脳裏によぎる。
(だが、許さん)
邪神に組する輩を放っておくわけにはいかないのだ。
ニグンは糸に胸部を圧迫されながらも、吸い込める限界まで肺を膨らませ空気を取り込んだ。
――これが、最後の呼吸だ。あぁ、アーラ・アラフよ。光の神よ。邪悪に抗う我が勇気を見届けたまえ!
「よろしい。では――」
邪神が何かを言う前に、ニグンの叫びがそれを遮った。
「私と裏切り者を殺せ! その後に自己終了せよ! さらば諸君! 神の御許でまた会おう!」
「……な、なにぃ!?ちょ、まっ、死んじゃだめぇぇぇセーブできないその命ぃぃぃぃぃー!」
邪神らしかぬ邪神の焦る叫びを聞きながら舌を噛み切ると、ニグンは胸に感じた衝撃と共に目を閉じた。
最後にニグンが見たものは夜空から流れ落ちる夥しい数の赤い星の姿だった。
◆
「……そんなー」
完全に日の暮れた先ほどまでの光景とは違い、西の空に微かに太陽の残滓が残る空の下でクーゲルシュライバーは死んでしまったスレイン法国の兵士達の亡骸を見つめていた。
八つ当たり気味に首を刈り取られて死亡した
その姿は勘違いしようも無く、落ち込んでいるようにしか見えなかった。
そんなクーゲルシュライバーの肢の一本に仮面を脱ぎ去ったモモンガが優しく手を添えた。
「そんなに落ち込むことはない。確かに数人死んでしまったが情報源となる兵士はまだ沢山いるし、あのリーダー格の男もポーションが効いて一命を取り留めたじゃないか」
モモンガが草原の一角を指差す。そこでは見るも恐ろしい巨大な黒い蜘蛛達がグネグネと蠢く糸の塊を綺麗に整列させる作業に勤しんでいる。
彼女達が抱える糸の塊の一つから顔を出したリーダー格の男が、信じられないものを見たといった表情でクーゲルシュライバーを慰めるモモンガを凝視していた。
黒い巨大蜘蛛達の体長は個体差もあるが5mほどで、それぞれ7本や9本、11本等の奇数の肢を持っている。
その黒い体の頭胸部には赤く光る星のような真紅の眼がついていた。
彼女たちは「レン・スパイダー」という名で知られる80レベル台のモンスターだ。
身を隠す事に優れ、糸で作った武器に習熟し、高位の幻術を使いこなす狡猾かつ危険な知的生命体である。
彼女たちは一匹の例外を除いて全員がクーゲルシュライバーの持つ一日に一回しか使えない特殊技術《
現有するMPの全てを発動と同時に消費し、その消費量に見合った数の奉仕種族を召喚するこのスキルをクーゲルシュライバーはMPのステータスに神話パワーをつぎ込んで使用していた。
その結果、彼女たち召喚されたレン・スパイダーの総数は30匹を超える。
彼女たちは戦場となった草原一帯の上空に巣を張り、主人であるクーゲルシュライバーの命令に通りの演出効果を幻術――聴覚、視覚、触覚、嗅覚に作用する――で再現していた。
主人からもう演出の必要はないと通達されても、その場に留まり何時でも命令に応えられるように待機していた彼女たちの活躍あって、自殺しようとする兵士達を寸前で拘束することができたのだ。
「しかし……」
「しかし、ではない。何も問題はないのに落ち込んでどうするのだ。それに見よ。お前がそのような調子ではレン・スパイダー達が不憫ではないか」
モモンガのその言葉にクーゲルシュライバーはようやく俯いていた擬頭を上げた。
そして作業をしながらも時折心配そうな素振りで此方を窺ううら若きレン・スパイダーの美少女達と眼があった。
――ご主人様、悲しそう。
――ごめんねっごめんねっ……全員生け捕りにしたかったんだけど……。
――怒られるかな?食べられちゃう?マキマキされちゃう?
概ねそんなニュアンスの感情と思考が感じられ、クーゲルシュライバーは胸が張り裂けそうな思いだった。
(うぐぐぐ!す、すまないみんな。別に君達に落胆しているとかそういうんじゃないんだ。ただ単に自分の迂闊さを呪っていただけで……ちくしょう!)
自分が容姿端麗な美少女達を不当に怯えさせているという状況に気付いたクーゲルシュライバーは精神作用無効化が連続発動するほどの羞恥と罪悪感を覚えていた。
しかしそれもやがては完全に抑えこまれ、冷静な感情と思考が戻ってくる。
――そして、ふと。
クーゲルシュライバーは気付きたくなかった事実に気付いてしまった。
「……」
おそるおそる、レン・スパイダー達の働く姿を見る。
そして静かに視線を外した。
クーゲルシュライバーの擬腕の手が強く握りこまれ、巨大な牙が擦り合わされギシギシと音が鳴る。
一体どれほどの力が込められているのだろうか?まるで金属が軋むような音が不気味に周囲へと染み渡っていく。
黒檀色の全身が小刻みに震える様子はまるで怒りを堪えているかのようだ。
「ク、クーゲルシュライバー様。モモンガ様の仰るとおり、このような事態はミスと呼べるものではございません。そのようにご自身を責めるのは、ど、どうかお止めくださいませ」
カチカチと鎧を小刻みに鳴らしながら話しかけてきたアルベドに、クーゲルシュライバーはブルブルと震えるぎこちない動きで擬頭を向けた。
面頬付き兜の奥でアルベドが息を飲む音がした。
(いや、違うんだアルベド。多分お前が思ってるのとちょっとズレてる。俺そんなに完璧主義者じゃないから。この震えはべつのものだから)
――と、とても真面目なお方です。その、すごすぎるぐらいに。
――指揮下にある者達の失敗を決して許さない完璧主義者。至高の御方々からも恐れられた苛烈なお方です。
数日前に聞いたマーレとデミウルゴスの自身への評価が脳裏にチラつく。
(多分アルベドは俺が情報源を得るという目的を完璧に達成できなかったと自分を責めてるんだと思ってるんだな。無理も無い。仕事熱心の真面目キャラで完璧主義者ならそうなるだろうよ)
だが勘違いだ。
確かに兵士――特に自分を信仰すると言ってくれた人たち――を無駄に死なせてしまった事には落ち込んだし、レン・スパイダー達を不安にさせた事には後悔もした。
しかしいま自身の体を震わせるのはまったく別の理由なのだ。
(あぁちくしょう!なんてこった……何で俺、蜘蛛相手に可愛いとか美少女とか思っちゃってるんだ!?)
問題はそれだ。
正直な話、呼び出したレン・スパイダーが自分にとって性的過ぎてクラクラするのだ。
この世界に来てからはたとえエントマ相手でも感じなかった性欲が激しく掻き立てられる。
その上何故か一体一体の個性や美しさの違いも判別できてしまう。
これは全く初めての経験だった。
人間としての感性が彼女たちをおぞましい化け物蜘蛛と断じる一方で、肉体が彼女たちを健康で美しい雌であり食欲と性欲を掻き立てられる魅力的な相手だと認識している。
相反する自身の感性に、まるで意識が二つに引き裂かれるような不快さを感じクーゲルシュライバーは身を震わせていたのだった。
『クーゲルシュライバーさん。完璧主義者ロールもいいですけど、そろそろアルベドが辛そうです。このあたりで終わりにしてあげたほうが良いと思いますよ?』
ブルブルと体を震わせる無言のクーゲルシュライバーに見つめられたアルベドを不憫に思ったのかモモンガから伝言が入った。
その言葉にクーゲルシュライバーは幾分か冷静さを取り戻す。
疑問もあるし不安や混乱もあるが、今はそれらを気にしない事にしよう。
クーゲルシュライバーは擬頭を勉強に疲れた学生がするかのようにグルリと回すと、モモンガとアルベドに向き合った。
「……ふぅ。すまないモモンガ。そしてアルベドよ。これは私の悪い癖だな」
蜘蛛の頭部を軽く下げ謝罪するとモモンガは気にしていないとばかりに口を開け笑った。
「そして美徳でもある。なに、謝ることなどないさ。そうだろう?友よ」
「そうか?いや、モモンガがそう言うなら間違いはないな。では言葉を変えて……ありがとう、友よ」
クーゲルシュライバーは身をかがめると擬腕をモモンガに差し出した。
モモンガは快くその手を握り締める。
遠くでリーダー格の男のくぐもった叫び声があがっているがクーゲルシュライバーは気にせず二度三度上下に握手を振ると、モモンガの手を離し少し身を引いて此方を見つめていたアルベドへと身を寄せた。
「アルベドもな。よく言ってくれた。お前のように慈愛に溢れた女を部下に持てて私はとても嬉しいぞ」
出来るだけかっこつけた声で優しく聞こえるよう言葉を発したクーゲルシュライバーは、なにやら身を震わせながら跪こうとするアルベドの腕を掴み、彼女が何かを言おうとするのよりも早く口を開いた。
「よい。よいのだアルベド。何も言うな」
「クーゲルシュライバー様……」
なにがよいのかさっぱりだが、とにかくよいのである。
とりあえず、今は自分が感じている蜘蛛に対する欲情以外の事は全て些事に過ぎない。
クーゲルシュライバーはそう思って、自ら誘発させた事ではあるがなにやら大げさな事態になりそうだったアルベドをゴリ押しで黙らせた。
身長差ゆえに腕を捻り上げられているような形で爪先立ちを強いられているアルベドは、兜越しでも分かる恍惚とした吐息を漏らしながら内腿をすり合わせガチャガチャと金属質な音を立てている。
モモンガが露骨に視線を此方から外した事からわかるように、どんな鈍感男でも分かる程アルベドは性的に興奮していた。
(うーむ。鎧着てても普段のアルベドの姿を知っているから結構エロく感じるものだな。……ん?)
アルベドに対してエロを感じるのであれば、自分はまだ引き返せるのでは?
居心地悪そうにしているモモンガをよそに頭に浮かんだその考えに小さな希望を感じたクーゲルシュライバーはアルベドの腕を引き、大きな牙に隠れるように存在する口に彼女の頭を近づけさせた。
NPCに対して深い拘りを持つモモンガには聞かれては困る内容だと判断したからだ。
「先の人間たちでは出来なかった実験があった。だが思えば全身鎧を着ているお前程この実験に適した相手はいないな。アルベドよ、私の実験に付き合ってはくれまいか?」
「はい!私でよろしければ、是非に!」
囁くようなクーゲルシュライバーの言葉にアルベドは即座に肯定で返した。
「そうか。ではナザリックに戻ったら実験するとしよう。連絡するから鎧を装備した状態で私の部屋まで来るように」
「承知いたしました」
クーゲルシュライバー様のお部屋に!あぁどうしましょうナザリックに帰り次第急いで湯浴みを……いえそれよりも仕事が先よアルベド!優先順位を間違えては折角の御寵愛をうけるチャンスが……。
話はこれで終わりだと言わんばかりに腕を離したクーゲルシュライバーの口元ではアルベドが小声で欲望に塗れた独り言を呟いている。
なるほど、アルベドはそういうのがお望みか、とクーゲルシュライバーは心のメモにアルベドの望みを書き込む。が、クーゲルシュライバーにはそこまでやるつもりは無い。
いつかこの情報がなんらかの役に立つこともあるだろうと思っての事であって、実行の意思は皆無なのだ。
やってはいけないという漠然とした危機感が、自身の性的嗜好が正常な人間のものだと確認したいと逸る心を抑えた結果だった。
「……そうか、逃げた三人の拘束が完了したか。ご苦労だったな」
「シモベ如きにもったいないお言葉でございますモモンガ様。我らは当然の事をやったまで。それに……」
アルベドに構っている間に姿を現しモモンガの前に跪いて報告を行っていたエイトエッジ・アサシンからの視線を感じ、クーゲルシュライバーは首を傾げた。
「ん、なんだ?私がなにかしたか?」
「い、いいえ滅相も無い!ただ、逃亡した三名の人間を捕らえるのにクーゲルシュライバー様が召喚なされたレン・スパイダーのお嬢様が単独で加勢して下さったのです」
「……なに?」
うっそ~ん、などと口を突いて出そうになった言葉を強引に噛み殺し、クーゲルシュライバーは小さく驚く。声が小さいうえに表情の存在しない体ゆえにその驚きは周囲に伝わらなかった。
「ほう。あのやり取りの最中でそんな事をさせていたのか。流石は完璧主義者。抜け目が無い」
「あ、いや」
モモンガまでもが素直に称賛してくる事態に、クーゲルシュライバーは言葉を濁すことしか出来なかった。
困惑する思考がそうさせたのだ。
(まてまてまて。俺はそんな命令出してないぞ。命令を勘違いするケースはデスナイトで確認済みだけど、命令無しで動くとかなにそれ怖い。っていうかまずくないかそれ?)
そう。エイトエッジ・アサシンが言う内容にクーゲルシュライバーは全く身に覚えが無かったのである。
「エイトエッジ・アサシンよ……って、お前は私の部屋についてたやつか?」
「ははっ……!覚えていて下さるとは感激の極み!」
即座に本題に入ろうとして、ふと気付いた事に話題を変える。
あの目の配置、牙の大きさ、必死に振るっていた腕の数々……そう簡単に忘れるほど薄情でもなければ鬼畜でもない。
クーゲルシュライバーは自分が彼にしたこと、やらせた事を思い出してそう思った。
「うむ、まぁ、そうだな、うん。で、だ……お前達に加勢したというレン・スパイダーはどのような奴だった?」
「はっ!7本肢で、すらりと細長い蝕肢があどけない小柄なお嬢様でした」
「あどけない?小柄?お嬢様?」
モモンガが腕を組んで作業中のレン・スパイダーの群れを見て呟く。彼の疑問は尤もだろう。
普通、蜘蛛の個性など分かるわけがないのだ。ましてやエイトエッジ・アサシンの言うような主観の入った説明では。
だが、普通の人間としての感性を残すアンデッドであるモモンガには分からずとも、蜘蛛としての感性を有するクーゲルシュライバーにとっては十分な説明だった。
「そうか、あいつか」
もしかすると、という予感はあった。
《
使用されたのはネムの護衛についているフェイズ・スパイダーを生み出したのと同じ系統のスキル。
使用対象に適した雌のオブジェクトが中々見つからず、最終的にはクーゲルシュライバーとしても非常に不本意ながら、こっそり柔らかい地面を掘り起こして見つけたものを苗床にして誕生したレン・スパイダーだった。
彼女は苗床になったオブジェクトのレベルが低かった影響なのか、《
しかし大変賢く、元気一杯で、まるで親子の仲のように慕ってくる事からクーゲルシュライバーとしては非常に可愛らしく感じる召喚モンスターだった。
(演出用とカルネ村のこれからの為に生み出したけど、ペナ受けてるし廃棄しようとしたんだよなぁ。でも可愛くってそれもできずCOA使って演出用レン蜘蛛用意して……そこまでした子が、まさかこんな事をするなんて)
廃棄しなかった理由には苗床にしたオブジェクトの犠牲を無駄にしたくなかったのもある。
死霊術を使うプレイヤーからしてみればただの資源に過ぎないが、ゲームから一歩離れて見てみれば無闇に弄繰り回していいものではない事は明白だ。
モモンガと自分を神と敬う母親譲りの金髪が眩しいエンリと、その妹である無垢で愛らしいネムの事を思えば尚更である。
また、未だに消える様子を見せないデスナイトやデスウェブと同じようにこの世界の存在を媒介にして召喚したモンスターである以上、長生きするかもしれない可愛いレン・スパイダーを廃棄するのは躊躇われた。
様々な理由が廃棄しようとする意思を遠のけていたが、流石のクーゲルシュライバーもこの事態には考えざるを得なかった。
デスウェブをこのまま村に置く事が出来ないと知ったときから暖めていた計画を、変更する事もやむなしか?
クーゲルシュライバーは外見にその苦悩を表す事無く、うんうんと悩む。
「さて、そろそろ村に戻ろう。王国戦士長殿に別れの挨拶の一つもしておくべきだろうしな」
スレイン法国の兵士たちを梱包し終えたレン・スパイダー達の一群が姿を消すのを見てモモンガが言う。
眼窩の奥の鬼火が横滑りしているところを見ると、不可視看破の特殊能力を使用しているのだろう。
モモンガには糸の塊を肢に抱えたレン・スパイダー達がナザリックに向かって行軍している姿が見えているはずだ。
「そ、そうだな。アインズ・ウール・ゴウンとして、王国戦士長と村の連中に事の次第を伝えねばな」
「全く面倒な事だが、これも必要な事。……ふむ。確かクーゲルシュライバーはこの世界の星空を見るのは初めてだったな?ゆっくり天体観測でもしながら向かおうじゃないか」
「それは名案だ!」
まさかのモモンガからの天体観測デートの誘い。それに考える時間を稼ぐべきかと考えていたクーゲルシュライバーは即答した。
考えるべき事が沢山あるのだが、目の前にぶら下げられた楽しい事には食いつかざるを得ない。
そんな刹那的な快楽を優先する生き方をしてきた結果が以前の世界でのしみったれた人生なのだと分かっていても、クーゲルシュライバーはその生き方を変られなかった。
自分で判断して動くレン・スパイダーだって、その気になれば消す事ができるし大丈夫。
自分の性的嗜好というか感性についてだって、今考えてもしかたない。
カルネ村のアレコレについては、ある程度仕込みはしておいたから大丈夫。
死んでしまった兵士の事も、少しだけ残った狂った兵士の事も、そしてあのリーダーの男の事も。
みんな後回しで大丈夫だろう。
そう自分を納得させる中で、クーゲルシュライバーはぼんやりと思う。
(そういえば、蜘蛛って食事している間でも視界に餌になる生き物がいると襲い掛かるんだっけ?興味があるものを見ると飛びついちゃうって事なのかな?もしそうなら、俺って元々、少し蜘蛛っぽいのかも)
きっと全くの見当違いな考えで、蜘蛛からしてみれば著しく名誉を傷つけられるであろう考えである事を認識し苦笑つつ、クーゲルシュライバーは大きく擬腕と前肢を夜空に伸ばす。
伸ばした先には無数の星々と月を思わせる惑星が、クーゲルシュライバーからしてみれば信じられないほど鮮やかさで白く青い光を放ち煌いていた。
「美しい!なんて綺麗なんだ!ほら、アルベドも来い!兜なんて脱いで見てみろ!すごいぞぉ!」
「まぁ!フフフ……クーゲルシュライバー様ったら……」
「ははは……いや、はしゃぎたくなるのは私もわかるな。まったく、二度目だというのにな……なんて美しいんだこの世界は」
モモンガと兜を脱いだアルベドが微笑ましそうに笑うのを背中に感じつつ、黒い外骨格に満天の星を纏ったクーゲルシュライバーは昼間そうしたのと同じように大きく大きく、夜空に手を振った。
なお、精神作用無効化を打ち消すのを忘れていたとクーゲルシュライバーが気付いたのは、彼がナザリックに戻りモモンガと一緒に風呂に入っている時だった。
山に挑み、海を探り、空を翔けてたら遅くなりました。
秋というのはまったくもって冒険したくなる季節ですね。
マイタケ、アオリイカうまうま。
長かった陽光聖典戦終了です。
ニグンちゃんは一応生存。最後まで抵抗した勇敢な人でした。
そ れ と
やったねネムちゃん!エンリちゃん!家族が増えたよ!