最初に異変に気づいたのはモモンガに配慮して隠密スキルを使用し姿を隠していたクーゲルシュライバーだった。
自身の最高傑作『アインズ・ウール・ゴウン!アルティメットサーガ(OP風)Ver. 2.8』を凝視しつつ感嘆の声を上げるモモンガを、大きな満足感と共に見守っていた時だ。
クーゲルシュライバーの全身を異様な感触が襲った。
「えっ!?」
全身を液体に包まれたかのような感触。
それに伴う奇妙な安心感と爽快感に驚愕の声を上げるも、それは水中で発したような不明瞭なものだ。
わけがわからない。なぜそうなるのか?
クーゲルシュライバーの使用しているスキルは使用者を通常次元に接する異なる次元――エーテル界やアラストル界など――に移動させる事により通常次元からの観測を困難にするものだ。
だがそれは設定的なものであり、ユグドラシルでの実際の効果はやや高度で看破されにくい透明化程度に留まる。違う次元に移動する効果などない。
ゲーム内で使用した場合、視界にスキル効果が発動中である事を示すアイコンが表示されるだけだ。
断じて、現在経験しているような異常な感触に包まれる事などない。
「ってか、感触だと!?在りえない!」
DMMO-RPGでは触覚はある程度の制限が課せられているが、存在はしている。
だがクーゲルシュライバーはそれを在りえないと叫ぶ。それはなぜか。
全身に、蜘蛛の体にも感触がある――。
クーゲルシュライバーが驚愕したのは、まさにそれについてだった。
ユグドラシルの異形種が持つ肉体において、人間の形状から大きくかけ離れたパーツには触覚が存在していない。
これは現実ではただの人間でしかないプレイヤーの脳が、本来存在しない器官のもたらす感覚に対応できないからだ。
DMMO-RPGの醍醐味であるリアル感を大いに損なうとして、スパイダー系やスライム系などを筆頭に異形種が不人気となった一因でもある。
ゲーム内で蜘蛛となり肢が増えたクーゲルシュライバーが感じる感触というのは、通常生活のそれと比べれば寧ろ大きく欠落していたほどだった。
だが今は違う。
4対ある脚、1対の触肢と鋏角、巨大な腹部と頭胸部、頭胸部に生える人間の上半身状の器官、このすべてに鮮明な感覚があるのだ。
感覚があるだけではない。
人間に備わっているはずも無い、蜘蛛の体の動かし方まで完璧に理解できる。
「上映会とかやってる場合じゃない」
視界からステータス情報などが消え去っている事に気づき焦りつつも、
クーゲルシュライバーは即座にムービースクロールの効果を中断させる為にアイテムボックスを開こうと擬腕を伸ばす。
ゴポリ、という音が聞こえてくるかのようにクーゲルシュライバーの手が何も無い空間に沈み込む。
見えない何かに潜り込んで消えた腕の境界線からは、粘着質で禍々しい、瘴気ともいえる黒い霧があふれ出している。
――工業地帯に流れる川に浮かぶ川霧みたいだ。
クーゲルシュライバーはそう思うが、とにかく明らかに慣れ親しんだユグドラシルの仕様ではない。
その事に驚きながらも、クーゲルシュライバーは何時も通りの動作でアイテムボックスを開いた。
「普通に、アイテムはあるな」
アイテム画面には昔と同じように様々なアイテムが鎮座している。
その中から現在上映中のムービースクロールを取り出すと、<停止>コマンドを唱える。
やや色あせ、輪郭が多少滲んだ視界の先では、展開されていたムービーが一瞬で掻き消えた。
突然の事にモモンガが立ち上がり、どういうことだと大きめの声を出している。
その姿に申し訳なさを感じるクーゲルシュライバーだったが、我が身に起こっている異常事態に対応するのを優先させた。
だが――。
「うっそだろぉ?」
滲んだ視界に、口を動かし自ら言葉を発しながらモモンガに駆け寄るアルベドの姿を捉えてしまった。
ユグドラシルでは、いやDMMO-RPGでは決してありえない光景を目の当たりにしたクーゲルシュライバーは、もはや自分から何かしようという気が失せてしまった。
考えることが面倒になったのだ。
もしくは、どうしたらいいのか分からなくなった。
やんぬるかな。どうにでもなるがいい。どうにかなるだろうさ。
現にほら。モモンガさんがアルベドと話を始めたぞ。まずはそれを眺めようじゃないか。
全身を包む心地よさに思考する事を投げ出したクーゲルシュライバーは、玉座の背もたれの天辺に登ると妙に近い距離で会話するモモンガとアルベドの観察を開始した。
モモンガは困っていた。
突然の異常事態に精神をすり減らしながらも、詰め寄ってきたアルベドをどうにか宥めすかし、現状を把握する為に彼女を使って様々な実験を行った。
そうして得られたものは不思議な力により精神が冷静に保たれるモモンガをして頭を抱えたくなるようなものだった。
浮上してきた仮想世界が現実となった可能性。
自分に露骨な好意を見せるアルベド。
タブラ・スマラグディナの作ったNPCを穢してしまった罪悪感。
そしてなにより。
姿が見えなくなってしまったクーゲルシュライバー。
どうにか連絡を取ろうとメッセージの魔法が使えないかを試した際、モモンガは己の中に埋没する能力への確信を抱いた。
その確信に従いプレイヤー同士の連絡手段として使用される<
そして聞こえてきた携帯電話のコールに似た音に、モモンガは心底喜んだ。
しかし、<
居留守を使われたような不快感を覚える以上に、繋がることのないコール音はモモンガにギルドメンバーの身を案じさせた。
<
考えるほどに不安と焦燥感が増していく。
だがそれをモモンガは超人的な冷静さで抑え込み、問題を後回しにしてアルベドに指示を出した。
先ず、彼女を通じ玉座の間に移動する際見かけた執事とメイドのNPC――アルベドによればセバス・チャンとプレアデス――にナザリック周辺の調査と第九階層の警備をするよう命令した。
その後、彼女自身に現状動かすことが出来る階層守護者全員を第六階層の闘技場に集めるよう指示した。
主人の命令を受け喜びつつ退室するアルベドを見送ったモモンガは今、一人きりで玉座に深く身を沈めて<
「3コール以内に出るのが常識だろぉ……頼むから出てください」
やはり、繋がらない。
「お願いだから、もう、一人にしないでくれよ……」
そんな呟きも空しくコール数は増えていく。
モモンガは心底困り果て、人間がそうするのと同じように天を仰いだ。
そして。
「あっ」
玉座の長い背もたれの上から、此方を見下ろしつつワタワタと慌てているクーゲルシュライバーと目が合った。
空間が歪む。
モモンガの眼前で、まるで水滴を垂らされた水面のように空間に波紋が広がっていく。
その波紋の中心から、次元の壁を潜りぬけ、どす黒く糸を引く粘液を全身に纏わせながら神話的恐怖の権化がこの世界に現臨した。
ただ其処に在るだけで精神をかき乱すような恐ろしい蜘蛛の姿。
甲殻の隙間をなぞる様に流れる青紫の光と全身から沸き立つ緑色のオーラが、この存在が途方もない力を内包していることを強く確信させる。
狂気と恐怖と暴力の極限。
そう断言できる畏怖すべき存在に対し、
「このっ!このっ!俺がっ!あんなにっ!連絡したのにっ!心配っ!させっ!てぇっ!」
「ごめっ!ぐへぁっ!ぐわぁっ!ヌワーッ!グワーッ!アバーッ!ンアーッ!」
特殊能力を使用しておらず、
そして促されるまま隠密状態を解除し姿を現すこと成功したのだが、其処で待っていたのは寄せては返す波のように、激しい喜怒の感情と平静を行き来する狂気の
急に沈静化する怒れるアンデッドに軽い恐怖を感じながらクーデルシュライバーは悲鳴を上げることしかできない。
だが、魔法職であり筋力は30レベルの戦士職程度しかないモモンガのチョップでは、当然ながら前衛を張っていたクーゲルシュライバーの外皮鎧を突破することなど叶わない。
だからこのチョップの嵐と悲鳴のやり取りはただのじゃれあいだった。
「……フゥ」
「……落ち着きましたか?」
チョップの嵐が止み、呼吸などしないくせに大きく肩を上下させていたモモンガが背筋を伸ばし姿勢を正す。
その姿にとりあえず気が済んだのだと判断してクーゲルシュライバーは恐る恐るモモンガに声をかけた。
「えぇ落ち着きました。どういうわけか感情が一定以上高まると強制的に冷静になるようでして」
「精神作用無効の特殊能力の影響でしょうか?」
「まだ確信は持てませんが、おそらくは」
「そうですか。ではもしかすると私も……」
ユグドラシルの高位モンスターには
この副種別を持つモンスターは精神作用無効の特殊能力を必ず所持しているのだ。
モンスターの元ネタである神話体系で
「精神作用無効が原因ならば、私と同じようになるのはほぼ間違いないでしょうね。自覚はないんですか?」
「まだこれと言っては。ですが、まぁこんな異常な事態ですし冷静で居続けられるならばそれはメリットしかないんじゃないですかね?」
「……今は、良いのかも知れませんが」
長期的に見れば情動の少ない精神というのは健康的ではないような気がする。
そんなモモンガの考えが、ぼんやりと透けて見えた。
確かにその通りだ、とクーゲルシュライバーは同意する。
だがやはりそれほど心配することはないとも思えた。
「回数は限られてますけど精神作用無効化を解除する手段ならあります。もしもヤバイと思ったらそれを使って息抜きしましょうよ」
「あぁ、そういえばそういうアイテムもありましたね」
「そうです。それにアイテムが無くなっても私が居れば」
「職業<コズミックホラー>ですもんね。わかりました。その時が来たらお願いします」
モモンガはそこで話を一旦打ち切り、今後の事について話題を変更した。
クーゲルシュライバーはモモンガとアルベドの会話を完全に把握していたので、今後の動きについての説明は不要だった。
話し合い擦り合わせをするべきなのはモモンガがどういう意図を持って行動しようとしていたのか、だった。
「なるほど、先ずは身の安全の確保ですか」
「ええ。当然の事ですけど、これを疎かにする事はできません。次にNPC達です」
「さっきのアルベドの様子を見る限り問題ないような気もしますが」
「ダメです。……考えたくはないですが、NPC達が我々を裏切り襲ってくる可能性もあります。確認が取れるまで警戒はすべきでしょう」
「うーん。……現実に、リアルになればそういう事もありえる、かぁ」
クーゲルシュライバーはそう言いつつもNPC達は早々裏切らないのではないかと感じていた。
設定が色濃く反映されていたアルベドの姿を見ていたのもそう思う理由の一つだが、もっと大きく漠然とした感覚があったのだ。
それは直感や勘といったものだ。
そんなあやふやなものを理由にするとは馬鹿げている、とクーゲルシュライバー自身も思う。
だが、それでもそれこそが真実だという確信に近いものがあったのだ。
それは先ほど感じた自分の能力に対する確信とほぼ同一の感触だ。
――そういえば、
そんな事を思い出しつつも、クーゲルシュライバーは自分の意見を口にすることは無く、モモンガの話を聞いていく。
「……と、いうのが私の考えです。なにかありましたら、どうぞ」
どうぞ、と言われても。
クーゲルシュライバーは擬腕を組むと触肢で絨毯をリズミカルに叩いた。
人間が腕組みをした状態で爪先で地面をトントン叩くようなものだ。
方針としては特に問題はない。というよりこれ以上のものはない、と思う。
モモンガの方針は十分に慎重で堅実だ。
この上自分が何かをするのであれば、それはそれぞれの行動を取るときのリスクを減少させ、メリットを増やす事を目標にすべきだろう。
リスクを減らす努力。そうだな――。
クーゲルシュライバーの口が開く。
人間の上半身状の器官には口は存在しないので、開いた口はその下、巨大な牙に隠された蜘蛛の口だ。
「もしもNPCが裏切って攻撃してきた時に備えて、私は完全隠密状態でついて行こうかと思うんですが、どうでしょう?」
「えっ」
強面のモモンガから気弱な声が漏れた事に触肢をピクリと動かしながらクーゲルシュライバーは説明する。
「いや、だって日を跨いでますから使用回数は戻ってますし、もしもモモンガさんが襲われても特殊能力1回につき3回までなら100%先手を取れますから」
「待ってください。そうするとNPC達と直接顔を合わせ会話をするのは私だけになってしまうのですが?」
モモンガの言葉を受けクーゲルシュライバーは、何を言ってるんだろうこの人は?とでも言いたげに頭状の部位を傾けた。
「そうですね。でもモモンガさんの先ほどのやり取りを見ている限り何の問題もないと思いますよ」
「問題があるんですよ!さっきのアレだって相当いっぱいいっぱいだったんですから!」
眼窩の奥の赤い光を輝かせ骸骨が叫ぶ。
だがクーゲルシュライバーは聞く耳をもたない。
「そうでしたか。でも今回の状況じゃあ自己強化の時間を取る事は出来ません。
そうなると私の能力的には奇襲を仕掛けないと階層守護者レベルからモモンガさんを守るのは少し大変なんですよ」
クーゲルシュライバーには
自己強化をするには<コズミックホラー>の職業レベルが4になった時に得られる常時発動型特殊技術<恐怖を喰らうもの>が必要だ。
クーゲルシュライバーはこのスキルを所持してはいるのだが、このスキルでの自己強化には前提条件があり、その条件を満たすことが今の状況と相手では非常に難しいのだ。
「確かに階層守護者達の精神作用に対する耐性は高いですけど・・・・・・」
モモンガもクーゲルシュライバーの言い分は理解できた。
それでも元はただの一般市民であるモモンガにとって、NPC達の前で威厳ある演技/ロールプレイをするのは精神的負担が大きすぎた。
できることならばその重圧を二人で分かち合いたかった。
骸骨の顔で伝わるかどうかわからないが、モモンガは縋るような気持ちで眼前の邪神に視線を送った。
その視線を受け、気持ちが通じたのだろうか?
クーゲルシュライバーの頭状の部位にある真紅の光が漏れる窪みと、モモンガの眼窩の奥に宿る真紅の光の視線がぴたりとあう。
そして、クーゲルシュライバーの蜘蛛の体が大きく揺れ、牙が絨毯に刺さりそうになるほど低く地面に伏した。
土下座だ……。
モモンガは直感でそう確信した。
「モモンガさん。本当に申し訳ないんですが、私達二人の安全の為だと思って頑張ってくれませんか?」
「……」
私達二人の安全の為。
私達(アインズ・ウール・ゴウン)の(友人同士)二人の安全の為。
その言葉にモモンガは無言で陥落した。
クーゲルシュライバーの紹介みたいな2話。
次からはモモンガ様と一緒にNPC達に関わっていきます。