「わざわざこんなところまで見送らなくても」
第九階層の廊下に通じる扉の前でクーゲルシュライバーは見送りのためついて来たモモンガを振り返った。
その動きは緩慢だ。
それはひとえにクーゲルシュライバーの蜘蛛の腹部上面に貼り付けられた白い包み、つまりはチビスケとの卵を気遣うものであった。
「お気になさらず。見送りたい気分になっただけですから」
やや気弱に聞こえる素の声でそう言ったモモンガの視線はクーゲルシュライバーの腹部に向いている。
モモンガの表情から感情を察するのは困難ではあるが、クーゲルシュライバーにはその視線に優しさに由来する不安が含まれているように思えた。
「それよりもクーゲルシュライバーさん。その卵、本当にそんな所に貼り付けておいて大丈夫なんですか?」
「うーん。詳しいことはわからないですよ。なにせ子育てなんて初めてですから。でも図鑑で見た蜘蛛に自分の背中に卵を背負う種類が居たのでそれを参考にしてます」
「……エントマに子育てについてアドバイス貰ったほうがいいんじゃないですかね?」
それはいいアイディアだ。
人間の子育てについても無知だというのに、蜘蛛の子育ての事などクーゲルシュライバーもモモンガも知るはずが無い。
であるならば、餅は餅屋。同じ蜘蛛系種族であり、既に卵を数日世話しているエントマに助力を仰ぐのが最も賢いやり方といえよう。
「そうします。大事にしないとですからね」
卵が孵るのには時間がかかるだろう。
今回の検証は結果が出るまでに時間が必要なものなのだ。
もしも世話の仕方が間違っていて検証途中に卵がダメになったりしたら費やしてきた長い時間と労力が無駄になる。
再検証することになり、二度手間となれば本来別の事に使えたはずの時間は更に削られるだろう。
それは実利的にもクーゲルシュライバーの心情的にも避けたかった。
一回で結果が出るように大事に世話をしなければならない。
「それじゃあ俺はもう行きます。モモンガさんも根を詰めずにゆっくり休んでくださいね」
「えぇ。つらくなったら持ってきてくれた花の香りでもかいで休みますよ」
「そりゃあいい。是非有効活用してください」
「しますとも。では次は出発前に会いましょう。卵になにかあったら連絡してくださいね?」
「当然です。真っ先にモモンガさんにお知らせしますよ」
それだけ言うとクーゲルシュライバーはモモンガに手を振った後、扉を開けてモモンガの自室を後にした。
(うげ)
廊下に出たクーゲルシュライバーは内心で悪態をついた。
モモンガの自室の前に、追い出されていたメイドや護衛、そしてアルベドが待機していたのだ。
そういえばモモンガが少し声のトーンを落として「この後にアルベドと話し合いがある」と言っていたことをクーゲルシュライバーは思い出す。
扉の近くに立っているアルベドの姿に、まさかさっきの会話を聞かれていないだろうなと焦るクーゲルシュライバーだったが、よくよく考えてみれば別に聞かれて困る内容ではない。
アルベド達に聞かれて困るのは自分が背負う卵が特別製であるという事だけだ。
さっきの会話にその事に関する内容は含まれては居ない。
だからセーフだ。
クーゲルシュライバーは落ち着きを取り戻すとアルベドに声をかけた。
「随分と待たせてしまったようだ。悪かったな」
クーゲルシュライバーのその言葉に待機していた者全員を代表するようにアルベドが頭を下げて答えた。
「いいえ、とんでもない。至高の御方同士の語らいです。私どもシモベは何時間でもお待ちするのが当然でございます」
予想できた返答に、そうか、とだけ答えてクーゲルシュライバーはその場を後にしようとする。
アルベドには既に謝罪を終えているし、モモンガから禁則事項の通達は行われている。
だが未だにアルベドに対する気まずさはなくならないし、アルベドの設定を考えれば何時また狂乱のトリガーになる言動が飛び出すかわからない。
アルベドと接する時間は短いほうが望ましかった。
「ところでクーゲルシュライバー様」
足早に去ろうとするクーゲルシュライバーをアルベドが呼び止めた。
クーゲルシュライバーに緊張が走る。
「……なんだアルベドよ」
「お引き止めして申し訳ありません。その背にある白い包みですが、それはもしや卵ではないでしょうか?」
卵についての質問!
さっそく飛んできた突っ込みにクーゲルシュライバーは気を引き締めた。
これはピンチでありチャンスである。
NPC達に用意したカバーを信じさせるにはもってこいの状況だ。
クーゲルシュライバーは努めて平常を装いアルベドに答えた。
「そうだ、私がスキルで産み出した卵だぞ。検証の一環でな。しばらくは私自らが世話をする事にしたのだ」
細かく説明しようとすればかえって不自然になるかもしれないと思い、なるべく簡潔に言葉をまとめたつもりだった。
アルベドはどういう反応をするだろうかと様子を窺えば、彼女はクーゲルシュライバーが久しく見ていない微笑みを浮かべていた。
「まぁ、そうでしたか。ですがクーゲルシュライバー様、恐れながら至高の御身自ら世話をなさらずとも、メイドに一言命じればよろしいのでは?」
「それは駄目だ」
クーゲルシュライバーから即座に飛び出てきた拒絶の言葉にアルベドの背後にいたメイド達が肩を跳ねさせた。
アルベドは変わらず微笑んでいるが、彼女らメイド達はエプロンを握り伏せ目がちになっている。
自分の発言がメイド達を信頼していないと言っているも等しい事に気づいたクーゲルシュライバーは慌てて言葉を続けた。
「いや、メイド達の手腕を疑っているわけではない。私はメイド達も、護衛達も、そしてアルベドお前も。ナザリックの全ての者達を心の底から信頼している。その信頼するお前達の仕事ぶりを私は疑わない」
目の前で蕩けるような笑顔に変わるアルベドと咽ぶ護衛、そして笑顔を輝かせるメイドを見てクーゲルシュライバーはどうにかなったかと胸をなでおろした。
クーゲルシュライバーが言ったことは昨日の時点では嘘でしかなかったが、今では紛れもない本音だ。
本音でなければこの近距離ではアルベドに看破されていたかもしれない。
チビスケとマーレによってもたらされた自身の変化に、クーゲルシュライバーはそっと感謝した。
「ただな……これはそう、検証なのだよ。私が世話しなければ……まぁ意味が無いわけではないが、私が世話をするべきなのだ。だからメイド達には手伝いを頼むことはあるだろうが、メインとして世話を任せることはない」
そこまで言ってクーゲルシュライバーは擬頭の頬を掻いた。
自分の言葉を振り返って恥ずかしくなったのだ。
(完璧に情が移っている。正直この卵が可愛くて可愛くて仕方ないぞ。自分以外に触らせたくないというか、守ってやらなければならないというか……もしかしてこれが母性というものなのだろうか?)
モモンガに対してはクールに、検証のために受精を試みたと説明したが、実際はクーゲルシュライバーのチビスケに対する情けがこの受精卵を産み出したのだ。
最期の最後で子作りをさせてやれなかったチビスケへの手向けとして、墓前に花を供える程度の感覚でクーゲルシュライバーは産んだ卵に精液を振りかけたのだった。
情けがあったとしても元々はその程度のものだった筈なのに、なにかの偶然か卵が受精したらしき変化を見せ、モモンガに扱いについて相談したりしているうちにその情けはこんなにも大きくなっていた。
モモンガとの約束は忘れてはいない。
いざその時がくれば情を切捨てる覚悟は出来ている。
しかしその一方で「その時」が来ないように育ててみせると意気込む自分がいるのだ。
それはきっとチビスケの子を殺したくないという親心なのだろうとクーゲルシュライバーは思う。
「まぁ、そういうことだ。用件はそれだけか?」
「はい。お引止めして申し訳ありませんでした」
そういうアルベドは普段より慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。
そんなアルベドに内心の親心を見透かされているようで居心地が悪くなったクーゲルシュライバーは、背中の卵に気遣いながら部下達に背を向けた。
「それは二回目だなアルベド。気にすることはない……ではな」
それだけ言い残してクーゲルシュライバーは自室の方へと静かに歩いていった。
■■■
「モモンガ様ぁ」
「うん?なんだアルベドよ」
魔法の光によって神秘的な薄暗さが保たれている寝室にて、一糸纏わぬ姿のモモンガとアルベドが巨大なベッドの上で重なり合っていた。
仰向けになって天井に染みがないか探しているモモンガの胸板……もとい肋骨に頭をのせて身を寄せるアルベドは白魚のようなその指先でモモンガの胸骨をなぞりながら語りかける。
「クーゲルシュライバー様がお持ちの卵ですが」
「……その事か。それについてはもう説明しただろう?あれはクーゲルシュライバーがスキルで生み出したものであり、検証すべき事があって持ち歩いているだけだ。なにか特別なものではない」
「はい。承知しております」
「うん?」
モモンガは頭をもたげ胸元のアルベドを見下ろす。
アルベドは最近お気に入りのモモンガの肋骨の隙間に自分の角を差し込むプレイに興じながらも、なにかを心配するような視線をモモンガに向けていた。
「何が言いたいのだ?」
「いえ、ただもう一度だけモモンガ様から確認したかっただけです」
「……まぁ、確認は大事だからな。うん」
アルベドの言葉になにか深い意味がありそうな気がするが、それを察することが出来ないモモンガはとりあえず言葉通りに受け取ることにした。
ここで根掘り葉掘り聞くと自らの思考能力の浅さを感づかれるような気がしたからだ。
一方でアルベドはそんなモモンガの対応を、わざとらしくとぼけているのだと受け取っていた。
(私が事の真相に気付いているのは当然モモンガ様ならご存知のはず。やっぱりそういう事なのね。)
アルベドは廊下で待機していた時、扉の向こうからかすかに漏れる会話を持ち前の
モモンガはクーゲルシュライバーの卵を非常に心配しており、クーゲルシュライバーもまた卵を大事にすると言っていた。
この時点でアルベドはある程度事の真相に勘付いていたのだ。
その後モモンガの自室から出てきたクーゲルシュライバーとの会話でアルベドは自身の考えが正しいと確信した。
クーゲルシュライバーの言葉には卵に対する深い愛情が篭っていたし、なにか行動する際にも卵を気遣っていた。
メイドにも触らせたくないほどの心血の注ぎようであり、それはクーゲルシュライバーが言うようなスキルで生み出した召喚モンスター並の価値しかないはずの卵には分不相応のものだ。
そしてクーゲルシュライバーの説明もアルベドからすれば疑問を感じるものだった。
アルベドはモモンガと褥を共にする中でエントマが下賜された卵についての説明を受けていた。
エントマが与えられた卵はクーゲルシュライバーがスキルで生み出した物であり、そこに特別な感情や意味はないという。
故に思う。
クーゲルシュライバーのいう検証はエントマに与えた卵でも十分実行可能であり、わざわざ二つに分けて行う事は無いのではないかと。
エントマに任せておけばクーゲルシュライバー自身の手が塞がることもない。
孵化失敗を恐れて複数卵を用意したとしても、それならばもっと沢山産んでメイド等に世話をさせればいいだけの話だ。ナザリックには人手が沢山あるのだから。
あれこれと思考を重ねていくと結局は、クーゲルシュライバーの持つ卵は何かが特別、という結論に行き着いてしまう。
モモンガとクーゲルシュライバー。
二人の至高の存在が特別大事に扱う卵。
それはつまり――
(モモンガ様とクーゲルシュライバー様の御子なんだわ)
アルベドにはそうとしか考えられなかった。
二人が子をなしてもなんらおかしくは無い。
なにせ前々からそういう予兆はあったのだ。
(モモンガ様が上で、クーゲルシュライバー様が下……やはりあの時から既に御二人は愛を育まれていたのね)
アルベドの脳内でナザリックを挙げての懐妊祝いの段取りが瞬く間に計画されていくが、果たしてそれを主人達は望んでいるのだろうか?
答えは否であろう。
バレバレとは言え、わざわざ虚偽の情報を公開して隠そうとしているのだからその意を汲むのが優れたシモベだ。
何故隠そうとするのかは不明だが、なにか深遠な考えがあっての事だというのは間違いないのだろう。
(表面上は至高の御子であると気付かない振りをして、さりげなくお二人の子育てをお手伝いするのが最適かしら?モモンガ様もそれをお望みのようだし。あとお二人の様子を見れば公表された情報が虚偽である事に気付かない者はいないでしょうけど、念のため全ナザリックに周知させておくべきね。落胤扱いになるしても、なにかの間違いがあってはいけないのだから)
デミウルゴスやコキュートスがさぞかし喜ぶことだろう。
そう思いながらアルベドは甘えるようにモモンガの肋骨に自らの角を擦り付ける。
硬質な物体が擦りあわされる、アルベドにとっては淫らな音が彼女の頭蓋骨を通じて鼓膜を震わせた。
慈悲深き偉大なる支配者であるモモンガは多忙である。こうして二人で居られるにも時間制限がある。
もう残り10分程のその時間を余すところなく堪能した後に、さっそく階層守護者達にクーゲルシュライバー様懐妊の知らせを届けに行こう。
そう決めると、アルベドは身を起こしてから全身でモモンガヘと覆いかぶさっていった。
(次は私の番。シモベのなかで最初に至高の御方の御子を授かるのはこの私!今日こそお情けを頂戴できるよう頑張らなくては)
ラストスパート10分間。
モモンガの受難はまだ終わらない。
■■■
自室に戻ったクーゲルシュライバーはリビングルームの何時もの場所でくつろいでいた。
神話パワー抽出の儀式が間近なため、室内にはエントマの姿はない。
だがクーゲルシュライバーの自室にいるメイドの数は何時もと同じで二名から変わっていなかった。
「こんな夜更けにすまないなペストーニャ」
蜘蛛の巣の上から声をかけるクーゲルシュライバーの前には異形のメイドがいた。
体は成人した人間の女性のものだがその頭部は犬のものであり真っ二つにしたものを無理やり縫い付けたかのような跡が残っている。
彼女こそがアインズ・ウール・ゴウン全員が愛した、ナザリック最萌大賞を受賞したメイド服を着た触手ことペストーニャ・ショートケーキ・ワンコその人である。
一般メイドを統べるメイド長である彼女は犬頭であるが故に感情が読みにくいが、仕草からして恐縮しているようだった。
「お呼びとあらば何時でも参ります……わん」
「そうか。それでだ、ペストーニャ。お前を呼んだのは他でもない。一般メイド達の間で蔓延している噂についてだ。把握しているか?」
「はい。プレアデスのエントマがクーゲルシュライバー様の慈悲を受けて御子を授かったといった内容ですね……わん」
「そう、それだ!」
ペストーニャを指差して大きな声で叫んだクーゲルシュライバーに定位置で事態を見守っていたシクススが可哀想なぐらいに震え上がった。
直接声を向けられているペストーニャは動じた素振りをみせず、美しい洗練された動作で深く頭を下げた。見事なお辞儀だった。
「この度は私の管理行き不届きにより、御宸襟を悩ませてしまい誠に申し訳ありませんでした……わん」
ごしんきんってなんだ?
ペストーニャの放った聞きなれない言葉に大いに悩みながらも、クーゲルシュライバーはそれを微塵も外に漏らさず鷹揚に頷いてみせた。
「うむ。まぁ噂話に興じるメイド、というのも我らの仲間が望んだ一つの理想だ。あまりうるさく言うつもりはないが、今回の噂はすこし行き過ぎだな」
メイドとメイド服に対して一家言を持っていたホワイト・ブリムが噂好きという設定をつけたメイドが数名居た。
今回の噂もそのメイド達を中心として広まったのだろう。
かつての仲間がつけた設定に忠実な彼女たちを強く叱ることはできない。
緊迫した場面だろうと律儀に語尾に犬の鳴きまねをつけるペストーニャのように、NPC達は設定に逆らえないのだから。
「今回は見過ごすが、今後はこのような事がないように頼むぞペストーニャ。こういう形の面談はもう勘弁だ。お前もそう思うだろう?」
「はい。誠に申し訳ありませんでした……わん」
「それではメイド達の勘違いを正すのはペストーニャに任せるからしっかりやっておいてくれ。エントマに与えた卵は確かに私が産んだものだが、それはスキルによる物でありモモンガが作成するデスナイト等と同じ存在だ。エントマには本人の戦力強化を望む意思を汲んで褒美として渡したにすぎん。そこに特別な感情は存在しないし、卵にも特別な意味は無いのだ」
「畏まりました。そのように説明しても?……わん」
「構わん。メイド全員に徹底して説明してくれ」
了解の意を示したペストーニャを退室させると、クーゲルシュライバーはため息をついた。
これで一般メイド達への対応は済んだだろう。
そう安心して気が抜けたがゆえのため息だったが、ふとクーゲルシュライバーの緩んだ意識に浮上する懸念があった。
(あの時、エントマが本当に欲しかった物は言葉の通り俺との子供だったとしたら……)
先ほどペストーニャに託した説明の内容はエントマの心を酷く傷つけるのではないか?
いや、それ以前にだ。
あの時のエントマの言葉は告白と同義という事になる。
クーゲルシュライバーの脳内であえてバラバラにしていた真実のピースが、次々に寄り合わさっていく。
(あの態度から考えればそれが自然で普通だ。俺だって分かってたじゃないか)
考えれば考えるほど自分の考えに確信が持てる。
罪悪感が心に鋭く突き刺さった。
しかし、素直にエントマの要求を呑むわけにはいかなかったのも事実だ。
ナザリックの政治的にも、クーゲルシュライバーの心情的にも。
だから褒美としてあの卵を渡した事は間違いではなかったはず。
間違いがあったとすれば、エントマの気持ちに正面から向き合わなかったことだろう。
「失礼します。只今戻りました」
「ぬぅ……」
クーゲルシュライバーが黙考していると儀式を終えたエントマが入室してきた。
彼女の胸元は不自然に膨らんでおり、そこに与えられた卵をしまいこんでいる事が見て取れた。
(放っておけばペストーニャから説明されるだろうが、やはり俺から言うのが筋というものだろう)
もしも告白ではなかったならただの笑い話になるだけだ。
ここでこの問題を放置する理由など欠片も存在しなかった。
クーゲルシュライバーは緊張に牙を擦りあわせるとエントマを手招いた。
「はい。今日もご奉仕させていただきますぅ……」
普段はクーゲルシュライバーが体の清拭を求める時に行う仕草を見て、エントマよりいっそう甘ったるい声を出してにじり寄ってくる。
歩く様すら色毛を感じさせるエントマにクーゲルシュライバーは待ったをかけた。
エントマが立ち止まり不思議そうに擬毛をゆらした。
「毛づくろいは今はいい。其処に座れ」
「は……?はい、畏まりました」
一瞬戸惑いながらも、エントマはクーゲルシュライバーが指差すソファへと腰掛けた。
今までにない主人の指示と、圧倒的上位者と相向かいになって座るという状況に不安を覚えているのだろう。
エントマの擬毛は小刻みに動き、しきりにこちらを窺っているのがわかる。
これから言わなければならない事を思ってクーゲルシュライバーは胸が痛んだ。
「エントマよ。できるだけでいいから冷静になって聞いて欲しい」
こんな事を言われて冷静に聞ける者はいないだろう。
少なくとも自分なら何を言われるのか緊張するだろう。
クーゲルシュライバーの予想通り、エントマの擬毛が緊張を示す動きをとっており、部屋の隅にいるシクススもただならぬ雰囲気に身を硬くしている。
「はい」
「まず確認を行いたいのだが、先日お前に褒美として何が欲しいかを聞いたな?そしてお前は私の子が欲しいと言った……そうだな?」
小さな体をさらに小さく縮めてエントマが肯定する。
微笑みしか浮かべないエントマの顔が、俯いて出来た影のせいで泣きそうなのを我慢している健気な少女のようにみえてより一層クーゲルシュライバーを苛んだ。
「それはつまり、私と、あー、そのだな。セッ……いや、交尾したかった……んだよな?」
現実世界ではこんな自意識過剰なことを口にする機会などまず発生しない。
現実世界のクーゲルシュライバーは碌な貯金もない夜勤労働者であり、容姿も十人並だ。
だがここはナザリックであり、エイトエッジ・アサシン達の言葉を信じれば自分は蜘蛛的超美形で、ナザリックの頂点に近い至高の権力者だ。
その歴然とした事実を自分に言い聞かせ、途中で何度も途切れそうになる言葉をついにクーゲルシュライバーは言い切った。
そうだと言われても違うと言われても、どっちにしろ頭を悩ませるだろう質問だった。
クーゲルシュライバーは激しく緊張しながらエントマを見つめた。
「……はい。恐れ多くもクーゲルシュライバー様のお情けを頂ければと、愚かにもそう思っていました」
「そう、か」
室内に重い沈黙が降りてきて、空気に肩を押すような重みすら感じる。
既に最悪の雰囲気ではあるが、まだ確定していないことがある。
それを明らかにするためにもクーゲルシュライバーは自分でもどうかと思う言葉を放った。
「……なぜだ?」
「え?」
「なぜ子を欲しがるんだ。理由はなんだ?」
なぜ子を欲しがるのか。
それこそがクーゲルシュライバーにとって最も重要な事だった。
かつてはエントマに限ってありえないと除外したが富や地位、権力等も子を欲しがる理由になるだろう。
もしそうだとしたら、それはそれで問題だがクーゲルシュライバーの気持ちは楽になる。
だが、もしもエントマの答えがクーゲルシュライバーの最も恐れるものだとしたら。
そのもしもが飛び出てくるのを想像してクーゲルシュライバーは体を小さく震わせた。
「それは……」
「それは?」
「クーゲルシュライバー様をお慕いしているからですぅ……」
クーゲルシュライバーは血反吐を吐くような唸り声をあげそうになり、それを必死に抑えた。
精神作用無効化の力もあって早々に精神を立て直したクーゲルシュライバーだったが、帰ってきた冷静さが理路整然と己の行いを弾劾していた。
無限ループに陥りそうな精神的苦痛を味わいながらも、クーゲルシュライバーは想定の内だと自分に言い聞かせてある程度安定した冷静さを取り戻した。
目の前には恥らうように顔を逸らすエントマの姿がある。
ここからが本番なのだ。
「そうか。だがなエントマ。私はお前を大切に思っているし信頼もしているが、その慕情に応えるつもりは――」
一切無い。
一呼吸おき、絶対の意思を込めてクーゲルシュライバーはそう言い切った。
エントマの反応を見るのが恐ろしくて、クーゲルシュライバーは視線を虚空に彷徨わせながら言葉を続ける。
「お前に与えた卵はただのスキルの一種に過ぎず、発動すれば身を守る盾となって消える消耗品だ。私は褒美として戦闘メイドたるお前の役に立つだろうと考えあれを渡したのであって、そこに他意は存在しない」
「……」
「私は……お前を愛してなどいないし、これからも愛するつもりはない」
言っちゃった!
勢いに任せて言葉を選ぶ事なくストレートに言い切ってしまったクーゲルシュライバーは流せない筈の汗を体表に感じた。
当然幻覚であるが、真摯に接する=隠し事をせず素直に接するではない事は当然の常識であり、自分の物言いは余りにも無神経であったと自覚する身としては幻覚もむべなるかなである。
だが本心である事も確かなため、クーゲルシュライバーは言葉を修正することは無かった。
エントマはどう反応するだろうか?
クーゲルシュライバーは恐る恐るエントマを見た。
「はい。存じ上げております」
「うぇ?」
エントマはいたって自然な姿勢で其処に居た。
さっきまでの恥らいや緊張を感じさせる丸く縮こまった姿ではなく、何時も通りのナザリックのメイドらしい凜とした姿だった。
むしろ、なんだそんなことかと安心しているようにも見える。
これは一体どうしたことなのか?
子供を欲するほど恋している相手から手酷く振られたのだから、何かしらの精神的ショックがあるのが普通ではないか?
クーゲルシュライバーは訝しんだ。
「ですが卵については初耳でした。もしかしてこの卵はどれだけお世話をしても孵らないのでしょうか?」
「いや、それはどうだか不明だ」
「じゃあ孵るかもしれないんですね!」
「う、うむ。その可能性はまぁ、あるな」
表情がなくともクーゲルシュライバーには分かる。
エントマはいま物凄くいい笑顔をしている。
蜘蛛に対する審美眼が肥えてきた今ならば、仮面を外し素顔を晒したエントマならばその表情を読み取ることも可能だろうが、態々仮面を外してもらわずとも分かるほどにエントマは喜んでいた。
「そうしたら長生きしてくれるでしょうか?」
「どうだろうな。普通に発動条件が揃って孵化したときよりは長生きするかもしれないが、どの道短命だと思うぞ。というかだなエントマよ」
どうも話が子育ての不安に流れている。
いまやエントマと同じく子持ちであるクーゲルシュライバーにはこれから生まれてくるであろう命を心配する気持ちがよく分かったが、今はそれよりも優先して聞きたいことがあるのだ。
心底不思議そうにクーゲルシュライバーはエントマに問うた。
「なぜそうもあっけらかんとしているんだ?」
「満足しているからです」
「満足ってお前……私が言うのもなんだが、振られた上に渡された卵もただの消耗品のマジックアイテムみたいなもんなんだぞ?それで満足なのか?」
「満足です。至高の御方のご寵愛を一メイド如きが得たいと思う事こそ不敬。そんな不敬を行ったにも拘らずクーゲルシュライバー様は私の愚かな願いを叶えてくださりました」
「叶えたといってもその卵はスキルで産みだした単なる消耗品だぞ」
「ですがクーゲルシュライバー様がお産みになった事には違いありません」
クーゲルシュライバーは唸った。
きっと泣かれるだろうと思っていたのだが、エントマとしては全く問題ないらしい。
お前の恋心はどうなるとか、産んだのは確かだけど普通に育てて孵るかわからないのに本当にいいのかとか、色々と聞きたいことはあった。
しかし此方が言いたい事を伝えた上でエントマが納得しているのなら、もうこれ以上この話題を続ける意味はない。
報われずとも独り胸の中で満たされる恋もあるのだろう。
それはクーゲルシュライバーには理解しがたいものだ。
だが、たとえどんなに理解できない考え方でも、他人に迷惑をかけず本人が幸せならばそれでいいのだ。
そしてエントマのそれは迷惑ではない。
「そうか……では話は終わりだ。この後シャルティアに会う予定があるから身だしなみを整えたい。毛づくろいを頼むぞ」
「畏まりましたぁ」
クーゲルシュライバーの甲殻が無数の繊維に解れると、慣れた動作でエントマが片方の蝕肢にむしゃぶりつく。
クーゲルシュライバーは行きつけの床屋にいるかのようにリラックスしながらエントマと話をする。
仕事の事、ネイルサロンの事、階層守護者の事、ギルドメンバーの事、酒の事、風呂の事。
会話の内容は多岐に渡り、脈絡もなく移り変わっていく。
最後にクーゲルシュライバーから育児についてのアドバイスを求められたエントマが恐縮しながらもそれを承諾し、二人の間に新たな関係ができたところで毛づくろいは完了した。
「それじゃあ少しシャルティアの所に顔を出してくる」
体毛を再び甲殻化したクーゲルシュライバーの体表はワックスがけされた黒塗りリムジンのような光沢を放っている。
そんなクーゲルシュライバーをエントマとシクススが二人揃って見送りにでる。一糸乱れぬ優雅な動作だった。
「いってらっしゃいませクーゲルシュライバー様」
「あぁ。これからもよろしく頼むぞ二人とも」
エントマとシクススの見送りを背に受けながらクーゲルシュライバーは転移によって姿を消した。
真相聞いても全然堪えないエントマでした。
元気な赤ちゃん産まれるといいね。
アルベドが大人しく見えますけど、卵が孵ったら愛が子供のほうに流れないように謀殺しようかなーぐらいは考えてるんじゃないかな。考えてないかもしれないけど。
仕込みに時間が掛かって中々物語が進まなくて申し訳ない。
次回も仕込みで、その次からはモモン様三人組の大冒険になる予定です。