その日の夜。雨はまだ、止まなかった。
夕食を食べて、風呂に入って、後はもう寝るばっかりという時間。
なのははもうツインテールから髪を下していて、明日もまた魔法の訓練で早いのでそろそろと、ベッドに入ろうした時に……部屋のドアからノックの音がした。
「俺だ、入ってもいいか?」
ノックから続いた声の主は十四。女の子の部屋に無断で入るほど無神経ではない。むしろ、かなり気をつかうようになっている。
一度、着替えている時にバッタリ出くわしてしまった経験がある。その後どうなったかは想像をするのに難しくない。
具体的に言うならば。なのはの機嫌が直るのには数日の時間と、十四の財布から野口英世が数枚家出して行くくらい要した。
「いいよ」
なのはの返事を受け取って、十四が入室する。格好は地味な色合いのパジャマで、風呂上りなのか髪が湿っている。
こういう風に、十四からなのはの部屋に訪れることはあまりない機会である。
十四はいつになく真剣な雰囲気を出していた。いつものようにからかっている表情ではない。
「どうしたの?」
何か、大事な話をしようとしている。らしくない、となのは思う。
まるであの時の……あの事件の時の彼を彷彿させた。
「……た」
「え?」
よく聞こえなかったなのはは聞き返した。
怒っているようにも、本気で案じているようにも見える表情で、十四はもう一度言った。
「いつから、そんなにボロボロになっていた!お前の体の限界……もうとっくに振り切ってんだぞ!?」
「っ!」
部屋の外へは聞こえない程度に大きな声で、十四はなのはに言う。
魔法による体の負担……その臨界点を、なのははとっくに超えている。
それを十四は察した。いつ壊れてもおかしくない。それほどまでに彼女の体は壊れかけている。
「おかしいと思った。なんでそんな体で立っていられるのかって……妖精事件あのときからずっと思ってた!」
十四が、事件当時のなのはの調子コンディションを知らないはずがなかった。一時とはいえ、敵対した身。己を知り、敵を知らなければ目的を果たすことなど出来はしなかっただろうから。
なのはの状態を知った時、どうして立っていられるのかと驚いた。普通なら全身の激痛で立つこともままならいくらいである。
そのはずだというのに……彼女は知らぬ顔で歩いたり、魔法を使う。まるで自分の能力を疑いをかけてしまうくらいに、はたから見れば健常者そのものであった。
「ど、どうしたの?私は別に、なんともないから。大丈夫だよ」
「だったら」
「……っ!」
十四は不意をついてなのはの腕に触れた。
強く叩いたわけではない。力はほとんどど入れず、箸で豆腐を挟むように絶妙な力加減をして、撫でるように触っただけだった。
しかし、なのはの顔に浮かんだのは苦悶の表情。眉間に皺をよせ、苦痛に耐えている。
強張った顔。それを十四に見られた。
「どうした。ほとんど俺は力を入れてないぞ」
「そ、そんなの……」
全然平気、など言わせない。さらに少し力をこめて続く言葉を黙らせた。
今日の昼の勉強。なのはとフェイトに向けたあの氷の礫は、同じ空戦魔導師の差・を確かめるものだった。
彼女たち空を飛ぶ魔導師には、前後左右上下の空間把握に長けている。氷をあまり速くない速度で不意に飛ばしても、フェイトのように受け止めるか回避するかのどちらかになるはずであった。
実を言うと、なのはも反応はできていた。目が、氷の礫を追っていたのを十四は観察できていた。
それでなおかつ、反応が遅れたという事実。反射に体が追い付いていないほどの疲弊をなのはが積み重ねていることに、事実を結びつけるのは当然だった。
「ほんの少し握っただけで、これだ。わかってるよな、自分の体がいつぶっ壊れてもおかしくないって」
なのはが今まで倒れていなかったのは、ひとえに彼女の
普通、今のなのはが魔法を使えば体内の器官が壊れるのは確実だった。筋肉の断裂、骨格の破損は序の口。心臓や肺などの主要な内臓器官にかかっている負担も馬鹿にならない。
それを避けていたのはレイジングハートがなのはにかかる魔力負担を肩代わりさせて大幅に軽減していたからである。その代償として、デバイスも酷い負担を負っている。
「レイジングハート、テメェ知ってたよな」
『……』
彼女の卓上にある紅の宝玉──
沈黙は肯定と受け取り、十四は大きくため息を吐いた。
主の望みは自分の望み。主が求めないことを、デバイスは決してしない。
……主従揃って頑固者。呆れて怒りを通り越してしまう。
「知っててこいつに魔法を使わせ続けたなら……テメェ、それでも
真に主のことを想うのなら。真に主のためだと考えるなら。無茶を続ける主を諌めるのも杖の役目ではないのか。
どうして
「はっきり言うぞ、なのは。お前、管理局の仕事を一年以上は休め」
これは忠告や警告ではなく、命令であり願いだった。懇願していると言っていい。
かつての能力を用いた経験からして、経験則頼りではあるが人体についての造詣は深い。能力は封印されても、染みついた経験はそう簡単に忘れることはない。十四は診断のみに限るなら、今でも異常かどうかの判別をつけることができる。
十四の持っていた能力はもうない。それを使えば一瞬でなのはの体の不調を治すことができるだろう。
「やだっ!」
返す言葉は拒否。返答に二秒とかからずに即答したなのはは、今にも泣きそうだった。
自分の体がボロボロであることなど、十四に言われずとも知っている。レイジングハートが止めない?そんなことはない。彼女の愛機は、誰よりも彼女を止めようとした張本人だ。
妖精事件以前から。それこそ、加添十四という少年がただの少年だった頃からずっと、彼女を止めようとした。
しかしなのはは、その忠言を聞き入れなかった。自分の我が儘を押し通した。
一秒でも長く、ずっと、空を飛び続けたかった。この空こそ、自分の居場所だと信じて疑わなかった。
この場所に長くいるためなら、たとえ自分がどうなったっていい。どんな苦痛に苛まれてもいい。
空にいるからこそ、高町なのはは高町なのは足りえるのだ。他者がそう言ったのではなく、彼女自身が無自覚に呪縛を課している。
──魔法を無くした自分に、一体何が残るというのだ。
「やだじゃねぇよ。もうそんな言葉を吐ける段階じゃねぇって言ってんだこっちは!」
そんな我が儘が通用するのは、もうはるか昔のことだ。
譲れないところがあるのは十四も同じ。高町なのはという存在が、誰よりも自分の支えとなっている彼にとって、彼女の身に危機が及ぶことを何よりも許さない。
「一生使うなって言ってるわけじゃない。少しの間、完治するまで魔法から手を引けって言ってんだ。今ならまだ間に合う」
事故になってからでは全てが遅い。
今からなら十分に休めば現役に復帰できる。若い彼女なら十四の想定より早く回復して、魔法を使えるようになるかもしれない。
「……俺はどうなったっていい。お前に嫌われようが、恨まれようが構わない。けどな、お前が倒れるのは絶対に許さない」
少なくない犠牲の果てに本当の望みを自覚した、十四の望みは。なのはがいて、初めて叶えられる。
彼女の色んな表情を見てみたい。彼女がいるからこそ、十四はまだ生きていられるのだ。
もう二度と、自分に喜びの顔を見せなくなろうとも。
なのはが魔法を手放したくないように。十四もまた、なのはを失うことは死に勝る苦痛である。
「なのは。俺は今から、すっげぇ卑怯なことを言うぞ」
十四がそうやって前を置く。こんなことは言いたくないと、少年自身がそう思っている。
血を吐く思いで今、ゆっくりと口を開いた。
「魔法と、俺たち。どっちが大事だ?」
言った自分自身が最低最悪と嫌悪する、最後の切り札。それは比べられないものを天秤に載せること。
まるでメンヘラの鬼女の如く、女々しくて自分勝手過ぎる。
なのはという少女が、自分より誰か……特に、友や家族を何よりも大切にしていることを十四は知っていた上で吐いた言葉だ。
その上で、最早自分の
最低最悪、自分勝手。なのはの気持ちを何一つ理解しようとしない、馬鹿な問い。
質問をされたなのはよりも。質問をした十四が罪悪感で押し潰された。
「……悪い。最悪なこと聞いた。忘れろ」
十四は答えを待たずに撤回する。
選べないものを選ばされたなのはの顔を見た瞬間、どんな苦痛に勝る激痛を胸に走った。
苛まれる罪悪感と後悔。なんてことを口にしてしまったのだと、自分で自分を殺したくなる。何者よりも、自分に殺意が沸いてくる。
雫が、落ちる。少女の頬を伝って、涙がこぼれる。
彼女は幻視した。秤に乗せられた自らの
──どちらかを、選べ。
無慈悲で、残酷な選択。二者択一の天秤。
魔法は使っていたい、空を飛んでいたい……これは嘘偽りない思いだ。
だが、今の自分が魔法を使えばその先がどうなるかなど目に見えている。誰よりも自分自身が知っている。
そのまま使い続けていれば十四の言うように取り返しのつかないことになることもあり得る。百も承知だ。魔法に危険な面があることくらい、十四よりずっと長く魔法に接してきた彼女もよく知っている。
しかし、何かが起きてしまえば彼女は良いとしても……その周りは?
「あ……」
彼女は恥じる。自分の魔法と、自分の大切なものたち。どちらが大切なのかくらい、簡単にわかるはずだろう。
そんな大事なことを忘れていた。同じ価値、同じ重さのものだと扱ってしまった。
彼女は自分を許さない。一瞬でも、そんなことを考えてしまった自分が卑しい。
何のための魔法だ。自分の中の大切を、守りきるための魔法なのではないのか。
この手の魔法は、撃ち抜く力。理不尽を許さない、力だ。
十四は残酷なことを言ったのではない。当たり前のことを──自分の根幹を思い出させたのだ。
「なのは。今日のことは俺も忘れる。……だけど」
────あの時の言葉だけは、忘れないでくれ。
その言葉を残し、踵を返してなのはの部屋から出て行った十四の背中は、ずっと小さいものに見えた。
涙は流さずとも、十四は泣いていた。幼い子供のように、深く悲しんでいた。
母を案じる子のように。母親が沈んだ顔を子に見せてしまえば、子も心配をする。大事だから。大事だから、心配する。
あの時の言葉……忘れるはずがない。忘れられない。忘れたくない。
彼は寂しがり屋だ。なのはも、同じように寂しがり屋だから理解できる。
十四は恐れる。なのはに置いて行かれることを、何よりも。
家族と同じ場所へと行ってしまうことを、手の届かないあの場所へ行ってしまうことを、何よりも。
「……ほっとけない、かな」
手のかかる弟(なのはにとって)なのだから、仕方ない。だけれども、だからこそ可愛く思えてしまうのか。
さすがに、決まってしまっている仕事は休めない。自分が受けた仕事だ。責任をもってやりとげなければならない。
それらの仕事が終わったら、ゆっくり休む。なのはは自分の頭の中にある
──しかし彼女は過ちを犯す。
少年の言葉を、少女はすぐに実行すべきであった。
少年の想定以上に……少女の体は壊れていた。
ベッドの上に眠る少女の姿は包帯と点滴の管に繋がれて、周りに置かれた多数の医療機器は彼女の心拍や脳波などの詳細を正確に表示していた。
その姿の少女を見て、少年は崩れるように膝を着く。
目から流れる涙が止まらない。涙など、とうの昔に枯れ果てたと思っていた。
死んではいない。考えられていた最悪は回避された。
最悪の結果を避けることができた安心感からなのか、止めることのできなかった自分の無力感からの涙なのか。
だが、それでも。
彼女がまた空へ飛ぶのは絶望的だろう。
彼女が楽しみにしていた共に空を飛ぶ……その願いが叶えられない。
それどころか、歩くことすらも危うい状態にある。
「……ご……め……ん、ね……」
途切れ途切れで聞こえる、酸素マスク越しから聞こえる謝罪。
彼女もまた、涙を流した。体の痛みなど大したことではない。こうなることを予想していて、誰よりも自分を心配していた人を泣かせてしまった。その心の痛みが、何よりも痛い。
少年は涙を服の袖で乱暴に拭う。目は充血し、まだ涙は止まらない。
「……っ!」
──伝えなければならないことがある。
「選べ、なのはっ!!」
──再び少女へ、少年から。
「俺ならそんな怪我、跡形もなく
──選択を、突きつける。
「今すぐにでも、全快にしてやる。怪我も後遺症も魔法の負担も、なにもかもだ!」
──本当の残酷な、そして最も彼女が向き合わなければならない二者択一。
「その代わり、俺はお前の魔法の総てを奪う!!」
──この時こそ、彼女と彼の人生の分水嶺。
「そのまま自力で治しきる地獄か、魔法を捨てて
少女──高町なのはと少年──加添十四の物語の
「ここで今、決めろ!なのは!!」
壁を殴って怪我を負った彼の手は、何事もなかったように無傷のままであった。
見せつけるように差し伸ばした少年の手のひらの上に、小さな赤錆色の人型が立っていた。
それは羽をはやした無貌の妖精。
十四の中に宿る、失ったはずの力。過ぎた玩具として手放した、十四自身も反則と認める
十四の中に宿す禁じられた