東方美影伝   作:苦楽

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東方Projectの二次創作小説です。

オリジナル主人公、独自解釈、独自展開を含みます。

原作作中の出来事、異変なども独自の展開、結末を辿ることがあります。


紅霧異変
風見幽香田中田吾作に出会い、大いに赤面すること


 風見幽香はどの季節も好きだ。夏の向日葵も、秋の彼岸花も、雪に耐える梅や椿も、四季折々の花を等しく愛する。それがフラワーマスター、風見幽香なのである。

 だが、そんな彼女にしても春の訪れはやはり心浮き立つものがある。厳しい冬に耐えてきた草木が芽を出し、蕾や花を付けるのを見るのは彼女にとって大いなる喜びなのだ。

 春になれば春告精の後を追うように彼女は幻想郷の山野を巡り、草花を愛でる。その日もそんな一日になるはずだった。何かが起こるという予感に突き動かされて、普段は足を運ばない幻想郷の端を巡る気になるまでは。

 そうして訪れた幻想郷の南端に近い林で、第百十八季 月と秋と木の年の春のある日、彼女は彼と出会った。

 

「外来人……かしらね」

 

 新緑に芽吹いた木々とその木陰で花開いた草花を愛でていた幽香は、春告精が通り過ぎて緑に色を変えた林の一角に立つ黒い人影に視線を向けた。樹冠から降り注ぐ春の日差しに照らされた「それ」は黒かった。頭の天辺から脚のつま先までを黒い外套のような物ですっぽりと覆ったその影は年齢や性別どころか体格すらはっきりとは見て取れない。何をするでもなく林の一部と化したように無防備に立ち尽くしている。神や妖怪、巫女や魔法使いのような神気・妖気・霊気のいずれもを感じない。

 冬の間は人里に行くことが希だった幽香も、流石にこんな怪しげな人物が人里に居れば噂好きの天狗の新聞などでなにがしかの話を聞くはず。そこまでを考えて幽香は目の前の影が外来人であろうと見当を付けた。

 

「あら?」

 

 と、影もこちらに気付いたのか身体全体を音もなくこちらに向けると、どこからともなく木枠の付いた白い板のような物を取り出した。どことなく人形のようなぎこちない動きが幽香の目に付いた。

 

『こんにちは』

 

 胸の前辺りに翳された白い板に黒い文字が浮かび上がる。何らかの魔法の道具だろうか。

 そんな疑問を胸に秘めて風見幽香は挨拶を返す。

 

「こんにちは」ちょっとした興味から名乗ってみる。

 

「私は風見幽香、貴方は?」

 

『私は田中田吾作と申します』

 

 白い板面に浮かび上がる文字。本体の方は驚いた様子も恐れる様子も見せない。間違いない、彼──名前からして彼だろう──は自分のことを知らない外来人だ。風見幽香の名前を聞いて何の反応も見せない人間は博麗神社の巫女くらいのものであり、彼女がこんな奇天烈な扮装をして自分のことを担ぐとは思えない。名前からして迷い込んだ農民だろう。妖怪に喰われなかったのは運が良かったのか。冬の間、力の無い妖怪は餓える。そして春の訪れと共に人里を離れた人間を襲うのだ。

 

『申し訳ありません。○○温泉へはどう行ったらよろしいのでしょうか?』

 

 幽香がそんなことを考えていると、板面の文字が変化した。○○温泉というのは聞き覚えがない。外の地名だろう。さて、どうしたものか。見たところ、自分の相手が務まる程の強者とも思えないが……。

 

「貴方、幻想郷って御存知?」

 

『話くらいは聞いたことがあります。神様や妖怪がおわす隠れ里だと』

 

 驚いた。この外来人は幻想郷の存在を知っているらしい。どこで知ったのだろうか。奇妙な風体やあの文字が浮かび上がる魔道具と合わせて興味深い。が、それならば話が早い。

 

「ここはその幻想郷」

 

 笑顔と共に少しだけ力を解放してみる。

 

「そして私は四季のフラワーマスター──花を司る妖怪よ」

 

 周囲の空気が変わった。それまでのどかに鳴いていた鳥たちが一斉に飛び立ち、餌を探しに出ていた小動物、虫たちが音を立てて遠ざかる。

 

『これはどうもご丁寧に。私は整体・指圧を生業にしております』

 

 幽香の期待に反して、黒い外套はぎこちなく頭を下げて文字を換えてみせた。恐れる様子も驚いた様子も見せないままで。

 

 頭のねじが緩んでるのだろうか。幽香は疑った。外来人は妖怪に対する危機感が薄く、襲われるまで気付かずに喰われることが多いと聞くが、流石に目の前の自分の解放した気配に気付かない程鈍感だと思えないのだが。現に自分が押さえていた力を僅かに漏らしただけで遠くに感じていた雑魚妖怪の気配すら逃げ出したというのに。

 

「貴方、どこか悪いの?」 

 

 迂闊だった。動作のぎこちなさ、全身を覆う奇妙な服装、それに加えて魔道具による会話、彼は何らかの障害を抱えているのだろう。重度の障害持ちであれば自分の気配に気づけないということも考えられる。どのみち、そんな身体で幻想郷で生きていくのは不可能だろうが。

 

『容姿と声に些かの問題がありまして、お見苦しい姿で失礼します』

 

 幽香は心の中で溜息をついた。流石にこんな相手を襲うのは彼女のプライドが許さない。かといって、彼をこのまま放置したら半時も経たないうちに雑魚妖怪の餌だろう。

 

「付いて来なさい」

 

 そう言って幽香は彼に背を向けた。

 

「人間が住んでいるところの近くまで案内するわ」

 

 偶には閻魔に言われているとおり、善行とやらを積むのも悪くないだろう。

 

 

 しきりに感謝の意をあの奇妙な板に掲示した彼を先導して歩く中、幽香は奇妙なことに気付いた。彼は動きこそぎこちなく見えるのに足は遅くない。流石に幽香が本気を出すわけにはいかないが、見かけよりずっと早く歩いているのだ。歩けないのであれば首根っこを掴んで飛んでいこうと考えていた幽香が拍子抜けする程に。南の林を抜けて無名の丘手前の草原に出たところで幽香は彼を振り返った。

 

『どうかされましたか?』

 

 彼の掲示した疑問文を無視して、彼を見渡す。相変わらず身長は……不明、体重も、骨格も、気も、魔力も、神力も、霊力も、気配も、身体の動きも、何一つ見て取れない。何よりも、それを不自然と思わなかった。

 

「貴方、何者?」

 

 自分の声が冷えるのがわかる。油断なく手にした日傘を構えながら目の前の正体不明の人物の一挙手一投足を見逃さないように見据える。

 

『人間の、整体・指圧師でございます』

 

「ゆっくりとその外套を脱ぎなさい」

 

 幽香は自分を欺いた目の前の何者かを睨みつけた。この風見幽香に不自然を不自然と感じさせずに情報を隠蔽した相手。隠蔽したのは彼の実力か、それとも纏った外套か。

 

『それだけはどうかご勘弁を。お見苦しい姿ですので』

 

「二度は言わないわ」言葉と共に日傘の先端に力を集める。

 

 幽香の本気が理解できたのか、額の付いた白板が音を立てて大地に落ち、黒い外套が翻り──世界は色を失った。

 

 幽香には太陽が陰り、世界の全てが色褪せたように感じられた。たった一つ、目の前の人物を除いて。ぬばたまの闇を形にしたような輝く黒い髪、星の光を集めたような白い肌、この世の物ならざる素材をこの世の物ならざる造形主が形作った奇跡。男の形をした美そのものがそこにあった。

 風見幽香は長い年月を生き、様々な美を見て来た。美術品、自然、神、人、花……。自らの美貌にも密やかな誇りを抱いてきた。

 しかし、それらは所詮美の影に過ぎなかったことを幽香は理性に依らず理解した。目の前に存在する物こそが美、そのものであり、その他は全て目の前の存在の出来の悪い影に過ぎないのだと。文字は月を差す指に過ぎないと言ったのは誰だったか。ああ、その通りだ。美とはあれを指す言葉に過ぎない……

 

 

 

 

 親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている。というのは夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭だが、それに従えば、親譲りでない容姿で昔から損ばかりしている、というのが僕の現状には相応しいのであろう。

 

 僕の名前は田中田吾作、年齢・十九歳?、職業・整体・指圧師、住所不定と怪しさ大爆発なのが自分のプロフィールである。

 何せ記憶喪失で、気がついたら指圧師をやっていたオヤジに拾われていたというのが一番古い記憶なのである。

 

 しかも、当時の僕は猿にも劣る知性しか無かったから、オヤジの見よう見まねで指圧の真似事をすることしか出来なかったらしい。と、いうのも、オヤジは盲人で隠れ里みたいな山の中の村で偶に来る客相手に指圧をやって生計を立てていた。僕には記憶も戸籍もないし近くに学校もないから教育なんて受けられなかった。当然読み書きもできなければ数も数えられない上に会話どころか声を出すのだって怪しい始末。そのくせ、外見だけは無駄に良かったらしく、鳥や獣まで僕の姿に見ほれて動きを止めたらしい。

 

 そんな状況で生きてこれたのは、オヤジが凄腕の指圧師で、僕にもその種の才能があったからだ。何せ、オヤジは人外相手の指圧師だった。人外と言っても動物なんかじゃない。所謂化け物から神様に至るまでの人間でない存在一般相手の整体・指圧師だ。

 なんでも、長く生きてると「澱」とか「穢」ってのが溜まるらしい。それを散らせるのがオヤジの指圧ってことで、世界のあちこちからお呼びが掛かってた。北の方の隠れ里に行った時、ユミールとかいう巨人を指圧して、謝礼代わりに知恵の泉の水をオヤジが僕に飲ませてくれた。なんとか人並みに知恵が付いたのはそれからだ。それ以前にも僕の外見のお陰で色々人外共にちょっかい出されかけてたらしいけど、オヤジがそれを食い止めてくれてたらしい。僕に記憶が無いのはどうもその類の話で呪いか何かで知性を奪われてたとか。それも僕の容姿が原因だったらしく、酷い話もあったものである。

 田吾作という名前はその時オヤジが付けてくれた。「お前なんか田吾作で十分だ」と言われたが、なかなかどうして響きが独特で悪くない。気に入ってる名前なのだ。

 それまでオヤジからは、おい、とか、ぼけ、とか呼ばれてた。今考えると酷い呼び名だけど、今でも懐かしい呼び名だから正直そういう類の悪口はあまり気にならない。

 

 人並みに知恵が付いてからは自分でもその手のお誘いは断るようになったし、いくつか闇妖精とかに道具を作って貰ったり護身用の道具を譲って貰ったりした。なんでも、僕の指圧は「存在の苦しみ」を消せるとか、「梵我一如」に至れるとかで長生きした連中には妙に評判が良かったからだ。

 ただし、この外見のお陰で女性陣には施療を拒否されるとか、妙な揉め事の仲裁にかり出されるとか、色んなトラブルがあったのは思い出したくない記憶である。そのうち、オヤジが亡くなって僕が後を継いで、あちこち旅をしながら整体・指圧師として暮らしている。

 と、言っても下手に街で顔を晒すだけでドライバーが僕の顔に見とれて交通事故が起きたりするので、闇妖精が作ってくれた姿を誤魔化す不審者ルックで彷徨かなければならないし、人とコミュニケーション取る時には文字が浮き出る会話板頼り。考えてみれば、それ以外も衣・食・住の全てを魔法の道具に頼ってる、僕。

 お陰で銀行やATMからコンビニに至るまで一般人向けの施設はまともに利用できないどころか、定住すらできないお尋ね者生活一直線。人間相手の仕事もやるけど、相変わらず人外相手の仕事で暮らしを立てている。

 今までの人生でつくづく思ったのは、人間・人外顔じゃないって事だ。容姿より内面である、重要なのは。

 

 それはさておき、こういう仕事をしてると、異界や隠れ里なんてのに入るのはざらだ。今日日人外の方々は僕らの住む世界からちょっとずれた異界に棲んでるのが圧倒的に多い。こちらとしても職質もない分、異界の方が楽なんだが……。今回もどこかの異界に迷い込んでしまったらしい。林道を歩いていた筈が、いきなり見覚えのない林の中に居た。前後左右どこを見渡しても道らしき物は存在しない。

 

 どうやら今回は幻想郷とかいうところに迷い込んだらしい。幻想郷は日本にある異界の中では割りと新しく、明治頃に作られた物だそうだ。そんな話を塵界──人界に住む化けダヌキ、佐渡の二ツ岩マミゾウさんから聞いたような覚えがある。

 ともあれ、風見幽香さんは親切だ。お言葉に甘えて案内してもらうことにする。いきなり火柱が吹き上がったり、年がら年中戦争してたりする所とは違って、幻想郷は割りと穏やかな異界のようだ。

 

 気を抜いて景色を見物しながら歩いていたのが拙かったのか、先導していた風見さんの雰囲気が変わった。ひょっとして、「誤魔化しの衣」に気付いたんだろうか。ああ、やはり気付いたらしい。どうやら風見さんは力の強い妖怪だ。普通の妖怪ならそのままスルーしてくれるんだが、仕方がない。この後の展開を予想しながら、「誤魔化しの衣」を解除する。

 と、風見さんの動きが止まった。うん、僕の素顔を見ると大抵はこうなる。某姉妹や某神様は、「自分たちに比べれば石にならない分遥かにマシ」とか言うけれど、全く救いにならないのは僕の気のせいではあるまい。僕は単なる人間なのだ。人間としてのまともな日常生活を営めない外見など、良くても悪くても不便という点では変わらない。

 あ、風見さんは呼吸まで止まってる。これはよろしくない。感受性が強い方々は偶にこうなる。どうも呼吸することも忘れて見入ってしまうらしい。風見さんは花の妖怪らしいので、感受性が強いのだろう。女性の方が僕に身体を触れられるのは嫌だろうけど、緊急事態なので勘弁して貰おう。

 

 

 

 

 ゆっくりと幽香は目を開けた。自分の頭と背には柔らかい感触。気分は爽快で、幽香はこれほど快適な目覚めを体験した事は無かった。

 

「気がつきましたか」

 

 それは声だったのだろうか。遙かな星々の間を吹き渡る風の音か、それとも天上遥か、非想非非想天のさらなる上で奏でられる音だろうか。意味が理解できたのにもかかわらず、幽香はそれを耳に届いた「声」だとは認められなかった。あんなに美しい響きが「声」ならば、自分たちの声とは何なのだ。「声」を冒涜する雑音の集まりに過ぎないのではないか。

 その幽香の疑問を裏付けるように、幽香の周囲ではあの「声」と共にあらゆる音が絶えていた。まるで「声」の余韻を汚すのを恐れるかのように。

 

『ご迷惑をおかけしました。お体の方は大丈夫ですか?』

 

 目の前に差し出された掲示に漸く外部へ意識を向ける。そこには掲示を身体の前に浮かせた黒ずくめの姿があった。少なくとも、あれは現実だったのだと幽香は大きく息を吐いた。周囲も音に満ちる。木々を揺らし草原を吹き抜ける風の音、鳥や虫の声。

 

「かつてない位絶好調よ。これは貴方が?」

 

 それだけを口にして幽香は思わず顔をしかめた。我ながら、何と耳障りな「音」を出すのか。これはとても「声」と呼ぶには値しない。

 

『すみません、呼吸が止まっていましたので少しだけ治療のために指圧させて頂きました』

 

 その掲示に、幽香の顔は瞬時に耳まで赤く染まった。あの美しい存在に身体を触られた!

 これ以上無い程の羞恥に全身が燃え上がるような気がした。

 

『申し訳ありません。あの、皆さん同じ反応をなさいますが、私は気にしてませんから』

 

「貴方、按摩なのよね?」

 

『ええ、言ってみれば按摩です』

 

「……何となく理解できたわ」

 

 幽香は勢いよく立ち上がると、視線を逸らして歩いてきた林の方を見つめた。

 

「その外套、どこで貰ったの?」

 

『遙か北の果ての地で、施術した闇妖精の職人に作って貰いました』

 

 できるだけ掲示のみを視界に入れるように努力しながら幽香は頷いた。確かに、あの容貌では外はまともに歩けまい。自分が横たわっていた何かの毛皮も、彼が治療した存在からの贈り物なのだろう。

 

「とんでもない人間に出会ったものね」

 

 身体の調子を確かめながら、彼の耳に届かないように呟く。身体はかつて無い程好調で力がいくらでも湧きだしてくるようだ。今なら幻想郷の強者達をまとめて相手に出来るだろう。精神的な代償は大きかったが。思い出すだけでまた顔に血が上りそうになって、慌てて意識を逸らした。

 

『あの、もしよろしければ本格的に施療させて頂きますが』

 

「……これは本気じゃなかったの?」

 

『とりあえず、呼吸を戻しただけで風見さんの疲れを癒すまでには』

 

 その文章に風見幽香は戦慄した。「とりあえず」でこれなら、「本格的」にやられたら自分はどうなってしまうのだろうか。その畏れが背筋を奔る。それはあまりにも甘美な畏れでもあった。

 

「今のところは遠慮しておくわ」

 

『そうですか。お疲れになったら仰って下さいね。ご迷惑を掛けたお詫びにいつでも施術させて頂きます』

 

 幽香は自分がどんな表情をしているのかわからなかった。

 

 

 

 

 風見幽香さんとはあの後直ぐに別れることになった。まあ、僕の容貌を見せられた上に声まで聞かされたのだから当然だろう。誰が顔を見せるだけで呼吸を止め、一声で動きを止めるような奴と同行したがるというのか。久しぶりに顔を晒して動揺していたとは言え、声まで出してしまったのは大失敗だった。近くに音に敏感な何かが居なければ良かったが、大丈夫だったのだろうか。

 正直、あの場で怒り狂った風見さんに襲われても不思議ではなかった。しかし、そんな不安とは逆に人里への道まで教えて貰って友好的に別れることが出来た。風見さんは余程温厚な妖怪なのだろう。いつか何かでお礼が出来れば良いのだが、あの様子では指圧でのお礼は無理だろう。何か彼女が喜ぶような物を贈れないだろうか。そんなことを考えてみても、とんと思いつかない。そもそも女性と話した経験も仕事以外では碌に無いのだ。つくづく偏った人生である。気がつくと日が大分傾いてきた。これ以上余計なトラブルを引き起こす前に人里にたどり着かないといけない。足を速めるとしよう。

 

 

 

 

 田中田吾作と名乗った黒い外套姿が丘の稜線を回り込むのを見届けて、風見幽香は振り返ることなく、背後に声をかけた。

 

「貴女が彼を呼んだの? 八雲紫」

 

「いいえ、違うわ」

 

 声をかけられた紫色のドレスを纏った女性──幻想郷の創造主たる大妖怪──八雲紫は、身を乗り出していた空間の隙間から幽香の背後に降り立った。

 

「ぱっとしない顔ね」

 

「あら、ご挨拶ね」

 

 振り向きざまの幽香の言葉に、紫は眉をひそめたが、幽香は気にも留めなかった。今し方別れた「美」そのものに比べれば目の前の妖怪の外見など何だというのか。それにしてもどうしてこう自分も含めて耳障りな「音」を用いて会話しなければならないのだろう。

 

「それで、何があったの? 彼は何者?」

 

「貴女、覗き見が趣味のくせに肝心な物を見逃したとでも?」

 

 幽香は問い返した。この狡猾な妖怪がおよそ幻想郷で起こることを覗き見していないなどということはあり得ない。

 

「隙間が閉じたのよ」

 

 幽香の疑問に紫はあっさりと自分の手札を晒して見せた。

 

「彼があの板を落としたところでね。次に開いた時には、彼があの板を貴女に翳していたわ。それで、何があったの?」

 

「ああ、成る程。主人より余程物の道理がわかってるようね」

 

 幽香は楽しげに笑った。成る程、八雲紫の不細工な隙間とやらは、あの「美」に耐えられなかったのか。主より恥という物を理解していると見える。自分が彼に触れられていたであろうその時も見られてはいなかったと思うと、思わず笑みが大きくなる。

 

「秘密よ。何なら腕尽くで聞き出してみる?」僅かに日傘を握った手に力を込めた。

 

「ご自慢のスペルカード・ルールとやらでも、それ以外のやり方でも構わないわよ?」

 

 実際、今ならば目の前の妖怪だろうが閻魔だろうが鬼だろうが、まとめて相手に出来る自信があった。かつて無い程身体が軽く、力に満ちている。

 

「……やめておくわ。今の貴女相手は苦労しそうだもの」

 

 あっさりと引き下がって見せた紫に、幽香は軽く舌打ちした。今の自分相手に勝つつもりでいるのは気に入らないが、目くじら立てる程の事も無い。今の彼女はすこぶる機嫌が良いのだ。目の前の不細工に恵んでやるのもいいだろう。

 

「色男よ」

 

「は?」

 

「とんでもない色男の指圧師よ、彼は」

 

 呆気にとられたような紫にそれだけを告げて、風見幽香は日傘を翳して空中へ浮かび上がった。やはり今日は素晴らしい日だ。滅多に見られない物をいくつも見ることが出来た。

 これも皆彼のお陰だ。田中田吾作、次に会った時はどんな「お礼」をしようかと考えながら、風見幽香は家路についた。

 

「色男の指圧師ねえ」

 

 扇で口元を隠しながら、八雲紫は飛び去る幽香を見送った。隙間が自分の意に背いて閉じるなどと言うことは彼女の長い生の中で一度として起こった事は無かった。それに加えてあの風見幽香の様子。以前会った時とは比べ物にならない程、力と生気に溢れていた。 あの空白の時間に何があったのか。そして、あの外来人はスペルカード・ルールを普及させようとしている今の幻想郷にとって有益な存在なのか、有害な存在なのか。もし、後者であるならば……。

 妖怪の賢者は隙間に身体を沈めながら、忙しなくその怜悧な頭脳を働かせていた。

 

 

 

 

 人里の北、霧の湖の畔に建つ幻想郷には珍しいゴシック様式の外装を鮮やかな朱色で染め上げられた洋館──紅魔館。その一際豪奢な主人の居室で十六夜咲夜は彼女の主、「永遠に紅い幼き月」レミリア・スカーレットと向かい合っていた。

 

「くれぐれも失礼の無いように、当家の賓客として迎えるのよ」

 

「畏まりました」

 

 主人の命にそれだけを答えて、瀟洒なメイド長は時を止めて主の部屋から退出した。人里を西から目指しているという、田中田吾作という黒ずくめの外来人を客人として紅魔館へ迎え入れるために。

 

 忠実な従者が自分の命に従ったのを確かめて、レミリア・スカーレットは体格にそぐわぬ豪奢で大きすぎる椅子へとその小さな身体を沈めた。目を閉じて垣間見た「運命」に思いを馳せる。

 

「綺麗……」

 

 雲間から差す一条の光、ヤコブの梯子のように先程垣間見えた運命。それはあまりにも美しく、あまりにも魅力的なものとしてレミリアの脳裏に焼き付いていた。

 

 吸血鬼異変以来敵視され続けている紅魔館。それを当主として導くにはレミリアはあまりにも非力で経験不足だった。泣きたくなる程に。

 この幻想郷で紅魔館が存続するために、なによりも地下に幽閉されたままの妹、フランドールのために、田中田吾作という名の外来人が必要であると。

 

「頼んだわよ、咲夜」

 

 ぽつりと漏らしたその呟きは、紅魔館とその住人の運命を覆う闇へと溶けて消えた。




菊地秀行先生の作品の主人公的な外見のキャラクターを幻想郷にぶち込んでみたかった。今は反省している。どうして自分は格好いいキャラクターを描けないのか。

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