七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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題名は、がちりん、と読みます。



第十二話 月輪の刻

 七夜の森は果てしなく広大であり、鬱蒼を成す森は正しく樹海と呼ぶに相応しい。太古の匂いを感じさせる緑の要塞、生者が入り込めば抜け出すことの叶わぬ自然の墓場である。

 

 周囲を結界が囲み、その内部には罠が至る場所に設置され、結界によって変異した動植物たちが跋扈する七夜の城塞。

 

 だから大丈夫だろう、とは誰も考えはしない。もとより七夜には敵が多すぎた。

 

 例え退魔から抜け出そうとも、その血の業はあまりに深く、いつまでたっても忘れはしない。

 

 それゆえに今日の夜は当然のことだった。あまりに必然だった。

 

 片やかつての苦痛を、恐怖を忘れることが出来ずにいた混血。

 

 片やかつては魔を狩る絶対の殺し屋。

 

 その関係性は簡潔に尽き、雑多なものを含みはしなかった。

 

 即ち殺しあう仲。

 

 仮初の協定を結んではいたが、薄氷と呼ぶに相応しい薄っぺらさの関係は安易に瓦解し、やはりこうなるのが運命であったと、誰もが思っていた。

 

 馴れ合いは無く、歩みよりもまた然り。互いに理解はすれども共感は得ず。

 

 今宵は殺し合い。どちらかが滅ぶまで戦い続けるのみ。

 

 その様はきっと、天上の月輪(がちりん)のみが覚えている。

 

 □□□

 

 森の中を武装した男たちが駆けていく。

 

 物音は限りなく静かに、それでいて獣のような素早さで。満月を頭上に掲げ、獣道さえないような森の中、木々の合間を縫って、夜の森をひたすらに進んでいく。その手に銃器を携え、身に纏うのは戦闘服。顔を隠すような酸素マスクを点けたその出で立ちはこれから戦争に向かうかのごとくに見えた。

 

 男たちは無線機と手信号のみで連携を取り合い、僅かながらも着実に進んでいく。目標は未だ遠い。がさがさと森の中、不規則のように、それでいて足並みの乱れぬ進行は正にプロのそれであった。

 

 しかし、それが破られたのは、森に侵入して二十分も足らずの事だった。

 

「いぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 

 突然、どこからか仲間の絶叫が聞こえた。

 

「!?っ、状況報告っ」

 

「状況不明っ、何者かの襲撃にあっていますっ、う、うわあぁぁぁ!!」

 

 散開していた仲間たちに無線で状況を聞くが、返ってくるのは悲鳴のみ。

 

 そして森の中、それが契機だった様に、遠くを進んでいた者たちからも次々と悲鳴が木霊した。

 

「た、助けてくれぇ!!」

「いやだ、死にたくない死にたくない死にたくっ――――っ」

 

 そして、何かが潰される音。

 

 暗い夜の森の中、そこ等彼処から悲鳴が聞こえてくる。状況は分からずじまい。だが、仲間が今この瞬間何者かに襲われているという事実に揺るぎは無い。

 

『孤立するな!全員密集し周囲を警戒しろ!!』

 

 しかし、返ってくるのは悲鳴、そして銃声。いたるところで絶叫が聞こえ、そして遠のいていく。まるでどこかに連れ去られていくかのようにも聞こえた。

 

 そして、男の声に集まったのは僅かに五人ばかりだった。

 

「一体何があったんだっ」

「分かりません、何か生き物のような者がいたとしか……」

「生き物、だとっ」

 

 その報告に絶句が漏れる。

 

 そんな訳も分からないようなモノに、自分たちは窮地に立たされているのかっ。

 

 そうしている合間にも仲間達が何かに襲われていく。何かに引き摺られる音、何かを潰す音、砕く音。水っぽいモノが叩きつけられて様な音までする。瞬時にパニック状態と化した森に周囲を警戒しても木々が揺れるのみ、悲鳴をバックサウンドに地獄が展開していく。

 

 そして、誰とも言わず、何かに気付いた。

 

「おい、なんだ、あれはっ」

 

 月光が影となり、詳細は分からない。

 

 視線の先、森の中、何かに引っ張られるように自分たちの隊員が宙吊りにされていた。

 

 先ほどから悲鳴が聞こえる。最早何を言っているのかも理解は出来ない。

 

 なにか触手めいたものがその隊員の体に絡みついていて、それはやがて強く手足に巻きつき、そして。

 

「―――――――――――――――――――――――っ!?」

 

 その体をいとも簡単に引き千切った。肉の千切れる形容しがたい音がして、ぼくん、と骨の解体された音が隊員達の耳に届く。

 

 影でも分かる、隊員の中身が零れて見るも無残な光景が。

 

 ここに来て、生き残っている隊員は恐怖を覚えた。

 

 ここはどこだ、俺たちはいつの間にか奈落に堕ちたのか。

 

「きききき、来たぞぉっ!?」

 

 いつの間にか、周囲を囲まれていた。そしてここまで近寄って、その触手が植物だということに隊員たちは始めて気がついた。のたうち蠢く植物は生き物の一部のようにも見えて、ここがこの世ではないような気がした。

 

「なんだ、ここは」

 

 それは誰の呟きだったか。

 

「なんなんだここはっ」

 

 そしてまた一人、一人と植物に連れ去られ、飲み込まれていった。血飛沫を撒き散らしながら。

 

「なんなんだお前らあっ!!!!」

 

 足元の地面から、何かが生えてきた。

 

 ズン、と重く響く。

 

 それが何かさえ分からぬまま、男の体は半身となった。縦に裂かれた男の意識は消える。倒れる間際、中身を零しながら、差し掛かる月光に照らされたその様は花にも見える。

 

 そして木霊すのは悲鳴ではなく、ナニカの咀嚼音。

 

 □□□

 

 武装。

 

 それが示すことは自分が弱いことを公表していることに他ならない。銃器を装備し、防護服を身にまとい、呼吸器によって顔を覆い。その様は一見屈強のようには見える。だが、それだけだ。それ以上のことは期待できない。

 

 男に自信などない。先も見えぬ森を老人の先導に進み、周りを武装した私兵に守らせ、しきりに辺りを警戒してはいるが、それは即ち不安と恐怖が綯い交ぜとなっているからに他ならない。

 

 かつて受けた恐怖。それを思い出す度、男は男でなくなってしまうような気がした。あの目が忘れられない。斎木を売り、七夜の手に巻き込まれたあの時、倒れ伏す自らを見て、あの男は笑っていたのだ。

 

 ―――七夜黄理。

 

 それが、あの男の名。混血の天敵であり、男に恐怖を刷り込ませた死神の名だ。

 

 あの屈辱、あの陵辱を忘れはしまい、と自身に呟いた日々。だがそれは恐れを忘れることが出来ぬ自身の弱さであった。

 

 目前、先頭を歩む老人に目を見やる。まるで妖怪のような男だ。異様に高い身長と長い手足、擦り切れた着物を着た老人。

 

 この男の先導によって男たちは進んでいる。

 

 ……先ほど、先行していた部隊が壊滅したと報告があった。

 

 妖怪の言を無視し、先ずはルート外から展開し侵入をしていたのだったが、ものの三十分にも満たず、無線の向こうから救助要請があったが、それすらも無駄に終わった。

 

 悲鳴のままに助けを求めた隊員が、何物かによってその後食い殺されたらしい。

 

 それを聞き、焦燥を感じる男を見て、妖怪は笑ったのだ。

 

『ほれみろ』と。

 

 その金属のような声を軋ませて、妖怪は言ったのだ。その全てを嘲うかのような表情は男に向けられていた。

 

 神経を逆撫でるような言動。それがひたすら気に障り、不快だった。

 

 ぎしり、と奥歯を噛み締めて男は妖怪を睨んだが、それすらも妖怪を楽しませる要因にしかならないようだった。

 

 男にとって妖怪はただ不快な存在であった。一世紀近くも生きた化石でありながら、その発言は決して軽くなく無視できるものではない。それでいてその欲求や言動の勝手さに腸が煮えくり返ることもしばしば。

 

 男は妖怪を信用はしている。だが信頼は微塵も無い。

 

 もとから被虐意識の強い男だった。他人に信を置くなど先ずありえない。

 

 しかし、妖怪がいなければ男たちが既に骸だった可能性もあった。

 

「ここから先は大丈夫だ。獣道を辿ればまず死にはしねえだろう」

 

 森の中、月光を纏い妖怪が口ずさむ。その楽しみようは出来の悪い劇を観賞しているように、見下している。

 

「俺の案内はここまでだ。なあに、安心しな、油断なく殺し合えばいい」

 

 そして拉げた笑いを漏らした。背筋に寒気が走るような不快を感じ、男は鼻を鳴らす。

 

「いいだろう。案内感謝する」

 

 心にも無い言葉を口にするが、不機嫌さが丸分かりの声音に妖怪は愉快さを増した。

 

「ひゃひゃひゃ……、老人への感謝痛み入るな。それじゃ気張れ、気張って殺されろ。それと」

 

 ずいっと、老人は男に近寄り、その耳元に囁く。

 そこにいたのは先ほどの嘲う老人ではなく、百年近くを生きてきた妖怪の醜悪な邪笑だった。

 

「約を違えるなよ」

 

 そう言って妖怪は森の中に消えていく。その確かな足取りはこの森の全てを分かっているような自信が見えた。

 

 その背に感じる殺気の混じり視線さえも可笑しいと体を揺らしながら。

 

 そしてその場にいるのは武装した男たちのみ。

 

 いつの間にか、あの妖怪が発していた空気に呑まれていた隊員達は急いで状況を把握していく。その中心、そこにいる男は呟いた。

 

「……ああ、いいだろう。やってやる。条件は守ってやろう」

 

 誤魔化しきれない緊張が男に中に宿る。冷や汗とも脂汗ともつかぬ滴が頬を垂れた。それを拭うことなく、男は身に巣くう恐怖を押しつぶして命令を下した。

 

「状況、開始。散開しろ」

 

 男の言葉に私兵隊は散っていく。その手に装備された弱さを武器にして。

 

「守っては、やる」

 

 例え粉微塵な肉体であろうと、ちゃんと確保してやる。

 

 男は、遠野槙久は浅く笑った。

 

 数は揃えてある。古い通説を信じはしないが、やはり殺し合いは数こそ全てだろう。

 

 それに、布石は既に打ってある。

 

 鬼札。

 

 鬼に敵う者など、ありはしない。

 

 □□□

 

 天上に吊り下げられた月。夜だと言うのに明るく月光は輝き続けている。本来夜は魔の時間。人間以外が跋扈する魑魅魍魎の世界。生者が入られぬ亡者の領域。そこにおったが最期の時。この世と今生の別れ。あの世への誘い。

 

 それならば自身も化生の類に違いはない。

 

 森の中をただひとり歩み行く男もまた、何かに誘われるかの如くに月の光も隔たる鬱蒼の森を進んでいく。

 

 己の生に実感を得られない。

 

 それがなぜなのか男は知らない。

 

 生まれいずったその時には男は男として在った。

 

 強大すぎる生、濃すぎる血。周囲に人はいなかった。

 

 ただ孤独のままに。誰とも触れ合うこともなく、そして遂には身内の手にかかる運命となった。

 

 だが、彼は死ななかった。

 

 死なず、そして一族を滅ぼした。気付けば、焦土にも似た場所に彼は在った。

 

 それに罪悪はない。ただ、疑問のみがあった。曖昧模糊の生の中、自身が生まれいずった意味とはなんだったのか。

 

 森の奥に生き、修験者の如くに生を送れども未だ答えは得ず。解脱の境地には到れていない。しかし、かつて一族を滅ぼした後、ある男と会い見え、この右目を奪われたあの時、自身は何かを分かりかけた。何かを見たような気がした。

 

 あれは一体なんだったのか。

 

 それが分からず、だからこそ、ここまでいずった。

 

 森を彷徨うこと僅か。月光が輝くはずの森の中、生い茂る木々は影が差し、己が生の如くに先も見えない。植物たちは襲ってこない。分かっているのだろう。この男が一体何なのか。

 

「それで、わらべ。お前が道先案内人か」

 

 突然、人間がそこにいた。

 

 目前に現われた子供。藍色の着流しをはためかせ、その手に握られるは小太刀。

 

 そしてその目。その目は最早、人間の眼ではない。

 

 茫洋な空洞を成した硝子のような瞳が彼を映している。

 

 幽鬼の如き存在が、目の前にあった。

 

 その子供の口が微かに動いたのが見えた。

 

「―――」

 

 ――――瞬間、森が悲鳴をあげた。

 

 殺気。

 純然の殺意が、男を飲み込もうとする。人間の発する殺気とは思えない。質量を持った気が男を殺そうと風景を歪ませた。空気は軋み、森は泣き、生き物はそれに抗うことも出来ずに死に絶えるだろう。ただ立っている男にもそれが分かる。お前を殺す、と溢れかえる殺気は男に叩きつけてくる。

 

 常人ならばそのまま死に絶えるだろう殺気。だが男は、その男だけは、その殺気あてられ、脳裏に何かが過ぎっただけだった。それは、かつてあの男の――――。

 

 しかし、何も分からない。あれに近しいような気がする。それとも遠いような気もする。

 

 だから――――。

 

「……わらべと思ったが、悪鬼の一種だったか。鬼の相手に鬼とは、確かにこれは共食いか」

 

 そう呟き男は、軋間紅摩は、一歩踏み抜いた。

 

 □□□

 

「御館様、準備は整いました」

「そうか」

 

 何者かの襲撃の報があってから僅かばかり、里の広場に黄理はいた。その身を黒の衣服で纏い、当主として、あるいは殺し屋としてその場にいる。その横に控える翁もまた剣呑とした空気を滲ませ、黄理の側にあった。

 

「数は」

 

「はっ、実質出られるのは三十にも満たぬかと」

 

「充分だ」

 

 そして二人の目前には、跪いた七夜達。その身には刀剣を武装し、自らの主に仰ぎ従う尖兵共達。

 

 黄理にも、そして他の七夜にも検討はついていた。おそらく敵は、遠野。どういう訳か森に侵入を果たし、そして突き進んでくる。その理由は簡単に見当がついた。もとより両者は相容れぬもの共。かつて痛んだ古傷を思い出したのだろう。

 

 しかし、この森にやってきた。それだけで、七夜が戦うには充分すぎた。思い知らせてやる。その者たちが何を敵に回し、そこに攻め入ったのか。

 

 そこにいる者たちの目に暗い光が灯る。それは理性はあれどもあまりに暗い。今日この夜に、ここにいるのはただの殺し屋ではなく、ただの殺人鬼なのだ。

 

「戦闘は久しいな」

「確かにそうで御座います」

「だが、それも関係ない。我らがやることはただひとつ」

 

 黄理の目は冷たい。そこにいたのはかつての黄理だった。黄理が厭い、それでも逃れることの出来ない殺人機械がいた。

 

 今この時、身内のことは忘れる。志貴も家内も、そして、朔も屋敷の中にいるはずだ。

 

「迎撃に出る。殲滅しろ」

『応っ』

 

 黄理の声ひとつで、目前にいた七夜たちはすぐさま行動に出た。掻き消えるような速さで七夜は森に向かっていく。

 

「俺も出るぞ」

「あい分かり申した。畏れながら私もお供に」

 

 かしこまり深々と頭を垂れる翁の声に反応することなく、黄理は駆け出した。

 

 だが、

 

「兄様!!!!」

 

 そこに黄理の妹が駆け寄り黄理を止めた。

 

「屋敷の中にいろといったはずだが」

 

 妹を見る黄理の目はひたすらに冷たい。女子供戦闘に出られないものは現在、家の中に隠れているように命が下されている。妹は戦闘が出来ないのだ。ゆえに妹は外に出てはならない。

 

 しかし、黄理の視線に晒されても妹は怯むこともなく、動揺したままその言葉を口にした。

 

「兄様っ。朔の姿がどこにも見当たりません!!!!」

 

 □□□ 

 

 何ものかが森に入ろうとしている。

 

 先に気付いたのは、奇しくも七夜の大人ではなく、朔ただ一人のみだった。深夜。深く眠りにつくことも出来ない朔は庭先に出て地上を睥睨する満月を見ていた。最近あまり寝ていない。だが、寝ようとも思えない。体が反応しないのだ。

 

 天上に居座る月を見ても感慨は浮かばない。浮かばなかった。そしてそれに対して、最早感情を抱くような無駄な機能を朔は持っていなかった。

 

 亡(ぼう)と、瞳は月を映し出している。

 

 何も思わない、何も感じない。

 

 今この時、夜の月光に照らされても、朔に変化はない。

 

 その姿はいっそこの世のものとは思えぬほどに儚い。

 

 幽鬼の如くに、朔はそこにいた。

 

 そしてその時だった。何者かが森に近づいている感覚が、朔には感じ取れた。七夜の森に展開する結界よりも尚早く、朔は感じ取った。

 

 朔だから気付けたのかもしれない。ひたすらに自身を追い込み、精神を削いでいった朔だったから、極限にまで高められた朔だったから、自己を磨耗させ続けた朔であったから、その気配に気付いたのかもしれない。

 

 辺りに靄が漂っている。

 

 様々な色が入り混じりあいながら、森の向こうからそれが漂っている。

 

 その中でただひとつ、紅い朱い靄が波濤のように流れ込んできた。

 

 気配は未だ遠く、この里には遥か先の場所。

 

 そこに何かが、いる。

 

 普通の人間では気付かない、七夜のものですら気付かないような極僅かな気配。

 

 だが、それはあの時、混血に感じた存在感など桁違いの化け物の気配。それが音となり、匂いとなり、そして形となって朔の耳に、朔の鼻に、朔の目に届いてくる。

 

 それは詰まり、真正の人外がいるという事実。

 

「――――」

 

 気付けば、朔は走り出していた。

 

 侵入者がいる、という事は既に頭にはなかった。それがどのような結果であれ、朔にとっては最早瑣末に成り果てていた。

 

 この気配、この匂い、この靄。

 

 それに近づくほどそれは強烈となり、朔の体に化け物の存在を叩きつけてくる。森の中を縦横無尽に翔け、それでいて直線的に近づいていく。それに朔の内側が歓喜した。喜び勇んで絶叫を木霊させる。

 

 ―――殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 思考は殺意に埋め尽くされる。あの時よりも、あの刹那よりも強く、激しく、朔を揺さぶる。だけれど意識は澄んでいき、余分な物など何もなくなった。

 

 温度が消えた。

 

 体を突き刺すような冷たさを感じなくなった。

 

 口中の感覚が消えた。

 

 最早自分が口を閉じているのかさえ定かではない。

 

 記憶が薄くなっていく。

 

 既に自身という存在は消え去ろうとしていた。

 

 しかし、朔という存在概念は朔自身が消え去ろうとしても消えはしない。

 

「それで、わらべ。お前が道先案内人か」

 

 目前に、男がいた。

 

 頑健な肉体。体を締めつけるような胴衣。そして左目だけ覗く修験者のような顔。

 

 そしてその気配の何たる。男が無自覚に発する存在感に朔は自身の死を幻視した。それはまるで、黄理に対するような圧迫感。気を抜けば圧死するような重圧が男からはあった。

 

 だが、朔は動じない。動じることも出来ない。

 

 もし朔の中に、理性や本能と言うような珠玉全うな感覚さえあれば、目の前の存在に怖じ、振るえ、怯え、そして自身を奮わせただろう。朔にはそれがない、最早それさえ出来はしない。

 

 この気配。この独特な重圧。

 

 混血の気配。

 

 朔がやることなど、決して変わらない。

 

 いつだって朔はそれだけのために存在し続け、育てられてきたのだ。

 

 そして今こそ、その時。

 

 そうだ、いつだって朔はそうだった。

 

「殺すだけ」

 

 そっと、久しぶりに喉を介して音を漏らした。しかしそれは声にもならない音でしかなかった。いつ振りに言葉を発しただろう。それは掠れ、かつて出会ったあの混血のようにひどく不快な音だった。

 

 肉体の高ぶりが抑え切れない。血は熱く沸騰し、肉を温めている。

 

 最早、姿勢に意味は無い。

 

 ただ真っ直ぐに、男の命に向かうのみ。

 

「……――――――――――――――――――」

 

 男が何かを呟いている。だが、朔の耳に届きはしない。

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 呪詛のような衝動のみ。それだけがある。

 

 視界は朱の靄。その中で男の存在だけがはっきりと見える。

 

 そして、それ以外に考慮することも忘れ。

 

 男の踏み込みと同時に、朔はその場から掻き消えた。

 

 七夜の技は必殺。それゆえ小手先調べを必要としない。

 

 そしてここは七夜の森。七夜の領域である。

 

 周りには障害物となる木々。本来邪魔でしかないそれらを七夜は覆す。

 

 閃鞘。閃走。三次元移動を可能とする七夜の空間利用術。地を、壁を、天井を足場にして動くその様は蜘蛛。そしてそれは、障害物であろうとも変わらない。

 

 森の中を縦横無尽に翔ける。地上に、木に、空に。男を撹乱させる。目まぐるしく動きを変化させ、目視できぬ速さと化す。

 

 そして狙うは背後。目標は男の背。やや左側に収められた心臓。そこを貫く――――!

 

 確認は出来た。ならば穿つのみ。

 

 弾丸めいた疾さ。朔はより速くなる。あの時よりも、黄理との訓練よりもより速く風を切り裂いて、真っ直ぐに心臓へ。

 

 加速は既に最速と化した。

 

 男は未だ反応できていない。

 

 既に男との距離は然程開いていない。一秒にも満たぬ刹那には握られた小太刀が命を殺す。

 

 それがきっと、朔の始めての殺人となる。

 

 感慨はない。思想もない。

 

 殺意以外の感情は持っていない。

 

 ゆえにこの時こそ朔の満願成就。

 

 朔の生まれ出でた意味を貫くのみ――――。

 

 ガキン、と甲高い音がした。

 

「――――――っ?」

 

 朔には一瞬何が起こったのか理解できなかった。だってそうだろう。小太刀は朔の速度、膂力、体重をかけ、男の背中に突き立てられた。突き立てられたのだ。

 

 即ち、肉の中に入り込まず、突き刺してはいない。肉を突き破り、骨を砕いて心臓を貫く威力を秘めた朔の一撃が、肉に入り込むことも出来ない。どれほど鍛えられた筋肉なのか。盛り上がっているのは分かるが、それでも刃が通らぬ理由はならない。

 

 背中に何か仕込んでいるのか。

 

 いや、それはない。

 

 小太刀を突き立てた朔の手には確かに人間の肉体の感触があった。だが、一瞬だった。

 

 それが金属と化したのだ。

 

「俺の身体には通用しない」

 

 声が、聞こえる。重く響く男の声がする。

 

「いつの頃からか分からぬが、身体を硬化させる術を身につけていた。お前のそれでは、俺の身体を裂く事は出来ない」

 

 そして、圧迫感。男が振り向きざまに拳を振りかぶっていた。

 

 一瞬のことだった。

 

 威圧感を放つ拳が巨大化したようにも見えた。

 

 それを回避する朔。身を霞ませての回避。背筋に嫌な感覚が這いずり回った。最小限の動きでいなし、防いだ時、何かが起きる。

 

 一瞬にして消えた朔に対し、少しばかり驚いた表情をした男。だが、男の拳は止まらない。突かれた拳は推進力を持ち、男の踏み込みと相まって。

 

 決して細くはない木に突き刺さる。

 

 そして、木が爆ぜた。

 

 その力の何たる。殴りかかった場所は砕け、そこからゆっくりと、みしみしと悲鳴をあげながら、木は倒れていった。

 

「疾いな」

 

 男は呟いた。

 

「だが、それだけだ」

 

 そして男は朔に振り向いた。

 その様はまるで、鬼のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ここはどこぞ。もし悪鬼と会わば。

 ここは地獄ぞ。奈落の底よ。

 




七夜朔。特大死亡フラグと遭遇。

途中の植物の触手は宇宙戦争のあれを想像してください。

では、また

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