七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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第十七話 鬼神二人

 鬼神の腕が迫る一瞬を永遠の如くに感じる。想定外とは安易に言い難い悪夢のような存在。質量や気配、存在果ては概念に到るまで、最早核が違っている。根本的な部分から、目前で拳を揮う存在が違うことをまざまざと見せ付けられた。辺りは破壊の跡。鬼の拳に巨木は抉れ、鬼の踏み込みに地面は割れた。鬼神が何か動くたびに、何かが形を変えて壊れていく。

 

 その腕の一撃が腹を目指して放たれた。拳は重く、其れでいて冗談のような威力を持ちながら、黄理を殺そうと、潰そうと迫る。黄理自身人間の頭部を身体にめり込ませた過去があるように、通常の鍛えられ方では持ち得ない膂力を持っているが、目前にある拳はそれ以上。生物としての原型を留めることも出来ずに黄理は擂り潰されてしまう。

 

 その一撃を寸でのところで避け、頭部を横切る握りこぶしに一瞬脳が揺れた。僅かに歪む意識に視界が淀みかける。それは紅摩には正に好機。

 

 豪腕は止まる事を知らず、逆の腕が跳ね上がった。筋肉が膨れ上がり、血管が浮き上がる。急激な回転に紅魔の立つ地面が沈む。足元から始まる回転力は足を伝わり、腰骨を捻る。筋肉の連動は正確に拳へ走り、近代ボクシングで言う所の右フックに近い拳が迫る。だが、紅摩の筋肉から放つそれが所謂スポーツの範疇で収まる事はない。紅摩は混血、人間以上の存在をその身に混ぜた一族の最終地点。そのような男が放ったモノが、人間程度の威力で収まるはずがない。

 

 それは雷光だった。紅い雷光であった。

 

 時の止まるような刹那を伸ばした空間を、紅摩の一撃が迫る。光速にも似た拳が限界にまで引き絞られ、黄理の肉体を破壊し尽くさんと鎌の如く襲い掛かり――――。

 

 其れよりも尚早く、銀の斬撃が紅摩の目を打った。

 

「――――っ!」

 

 残された紅摩の左目を強かに打つ。眼球が眼底ごと潰れても何ら不思議ではないはずの威力に、紅摩は堪らず視界を閉ざす。目測を失った拳を黄理は後退によって回避し、距離を離す。空気の弾けた音が、紅摩の拳から生まれた。

 

 気付けば地形は変わり、そこは草原だった。気を一瞬でも逸らせば己が命を代償として支払わなければならぬ緊張状態の中、繰り広げられる攻防以外に気を囚われてはならない。特に黄理はそれをひしひしと感じていた。無論肌で感じたのではなく、勘ですらない、純粋な経験則だった。

 

 だってそうだろう、幾程の交差を重ねたのか、黄理には既に定かでない。その中で、黄理は幾度となく死んだ自分を見た。かつて退魔として暗殺を行う時の中ですら感じたことのない死の気配。

 

 濃厚な死が焦げ付いた臭いを放って黄理の鼻腔をくすぐる。黄理は夜を凪ぐ草原に、炎に焼かれた焦土を幻視した。

 

 呼吸が少し荒い。殺すことに息を乱すなど、有りはしなかった。

 

 それを覆した存在、軋間紅摩。

 

 対して紅摩もまた、この状態に言い様のない違和感を覚えていた。始めての経験、殺し合い。そう、両者共に殺し、合う事は無かった。なぜならば彼らは死そのものであったからだ。

 

 卓越した暗殺術に一方的な死を与える七夜黄理。

 

 超越した生命で太刀打ち出来ぬ死をもたらす軋間紅摩。

 

 彼らは、そのあまりの強さに、今まで殺しあう事が無かった。

 

 それこそ、この違和感の正体。命を奪い合うという状況、馴れはしない攻防の連続。神経は尖り、肉体は過剰に反応を示す。猛る筋肉は見逃せぬ疲労を蓄積し、だが、それでも止まらない。攻防は拮抗している。

 

 この状況に、幸か不幸か黄理はこのタイミングで、この殺し合いに精神が高揚しているのを感じた。ただ一方的ではない殺し合い。

 

 殺しに、殺しの中で、生を感じたのである。

 

 それは黄理には感じたこともない、熱であった。

 

 しかし、今この瞬間である。この刹那の間隙において、黄理は算段を見つけ出した。

 

 目前の敵、軋間紅摩の視界は不明瞭と化した。元より紅摩は視界に不利があった。かつて黄理自身が潰した右目。それにより紅摩の右側には死角が存在する。そして今、紅摩は黄理の打ち据えた撥により、左目の機能を低下させている。黄理からすれば、今の一撃で眼球が健在である事に脅威を感じた。かつてよりも生命としての規格が進化している証拠を示されたのである。

 

 人外の混血。規格外の化け物。紅赤朱。恐るべき化生であると、真実黄理は戦慄を抱いた。戦慄を抱くと言うこと事態、黄理にはありえなかった。攻撃が通じない。あらゆる手段を講じても、紅摩を殺すには至らない。状況開始直後に紅摩に届かせようと決めたものの、それは未だ実っていない。理不尽が形を成したような存在である。眼球を突いても潰れるどころか失明もしているようには見えない。

 

 最早一刻の猶予も無いはず。戦況はどうなっているのか、紅摩を相手にしている黄理には判別もつかない。しかし決して楽観視出来ない状況であることに変わらない。紅摩の相手をしてる間に、刻一刻と滅びへの秒針は進んでいく。

 

 ならばと、黄理は決断する。状況を考じるならば、それは極自然の事であった。

 

 そして全てが終われば、今までと何ら変わらない日々へと戻る。

 

 志貴と過ごし、女と在り、朔と家族になり、一族の長として何も変わらない、この暗く鬱蒼とした静かな森に生きていく。

 

 それでいい。それが良い。それこそ黄理にとっては新鮮な日々だ。望むべくも無い。

 

 だから、こいつが邪魔だ。

 

「お互い、損をしたな。小僧……っ!!」

 

 本当に損をした。こんなものを、生の熱を知らず、未来を思うことも知らずに、遠野の狗と化した紅摩に言う。自分にはそれがある。今、分かった。今、理解した。それは果たして紅摩も感じているのだろうか。

 

 息を吸い込む。筋肉を動かすのには酸素が必要だ。それは七夜も変わらない。そして動こうとする筋肉たちは熱を放ち、黄理の全力を許容する。例え疲労がたまり極度の緊張状態に在ろうとも滞りなく。それは即ち黄理が持つ機能を動かすエンジンに他ならない。

 

 そして黄理は、前方に倒れこむようにして、走り出した。

 

 地面に擦れるギリギリまで傾けられた前傾姿勢。地を舐めるような滑走。

 

 加速は一気に最高速度へ。地面が爆ぜる。

 

 この時、黄理は草原を凪ぐ一陣の風と化した。

 

 狙いは始めから決めてある。

 

 そのための布石は幾つもあった。

 

 左目の打撃。

 

 頸部への執拗な攻撃。

 

 そして、かつて黄理自身が奪った右目。

 

 左目の殴打により、紅摩の視界は万全ではない。

 

 頸部に刺さる刃に注意を向け、それを狙うと見せかけた頸部への攻撃。

 

 執拗に狙われた紅摩の首は確かな悲鳴をあげている。例え紅摩が化生であり、人外の固さを誇ろうとも、人間の構造である以上、首の軋みは確かに生まれている。

 

 遥か昔に奪った右目の死角へと潜り込み、そこからの一撃。それで終いとする。

 

 紅摩の喉。

 

 そこを潰す――――!

「―――――――っ?」

 

 紅摩も接近する音に気付いたのだろう。抑えた左目が、黄理を見た。

 

 打撃によるものか、その目は紅く赤く朱く血走っていた。

 

 まるで鬼の如し。

 

 表情は厳しく、迫る黄理に拳を放つ。

 

 しかし黄理が眼前に迫ったその時だった。

 

 紅摩の視界から、黄理の姿が消えたのである。

 

 今までなら紅摩も対応できただろう。反応できただろう。

 

 だが、紅摩の左目は黄理の打撃により、ほとんどその機能を果たしていない。

 

 霞の如くに姿を掻き消した黄理は、その瞬間には既に紅摩の死角にいた。

 

 紅摩の右側。踏み込みと共に、黄理は右手に持った撥を投げ捨て、右手を左手に持つ撥に添える。下から鋭角に突き出された黄理の一撃が、鋼色を残して紅摩へと伸びた。体重、踏み込みの力、地面の硬さすら加わって、それは紅摩の首を破壊せんと奔る。

 

 今こそ勝負の時。

 

 これぞ乾坤一擲。

 

 終いの一撃必殺――――!

 

 紅摩の喉に、金属が肉薄する。

 

 それが、皮膚を押し潰し、筋肉を破砕し、喉笛を噛み千切る――――。

 

「――――っあ?」

 

 ずんっ、と表すればいいのだろうか。

 

 言い様の無い、鈍い衝撃が腹部から生まれた。

 

 何かを引き千切るような、そんな音と共に。

 

 不思議に思い、腹部を見ようとした。

 

 最初に見えたのは、草だった。赤い草原だった。

 

 そして、下半身が消えうせていた。

 

 否、ギリギリ皮膚によってくっついている。

 

 腹から溢れた臓物が場違いな彩りを持っている。中には原型を留めていない胃袋があった。

 

 赤い液体は止め処なく零れていった。液体は、草を赤く染めていく。

 

 あと少し、あと少しで、紅摩の首を壊せた。僅かばかり、体重を傾ければ、破壊できた。

 

 だが、踏み込もうにも、黄理には脚がなかった。

 

「……死角は、慣れた」

 

 どこか、遠くから、ナニカの声が聞こえた。

 

 そちらを見やる。なぜか力が入らない。ゆるゆると定まらぬ視線の先、紅摩がいた。

 

 その喉には鉄の撥。突き刺さっているはずの銀色。それによって紅摩は死ぬはずだった。

 

「貴様が、来る前」

 

 しかし、紅摩は死んでいない。生きている。喉は潰れているはず。それに近い感触が黄理の手にはあった。

 

「……似たような、奴が、幾度も狙った」

 

 掠れる声で在りながら、その声ははっきりと黄理の耳に聞こえた。

 

 似たよな、奴。

 

「……さ、く?」

 

 呟く声が、己の耳には聞こえない。

 

 朔もまた、黄理と同じように、死角からの攻撃を狙い、それも幾度となく行っていたのならば、紅摩はどれほどその攻撃に晒されたのか。そして紅摩は次第に適応し、死角を死角と思わないようになったならば――――。

 

 思考は続かない。

 

 闇へと解けるように、意識が消えていく。

 

 視界は失われつつある。

 

 その中で、黄理は見た。

 

 遥か昔、自身が朔を抱いたあの時を。

 

 そして、それから時が流れ、暗い森の自分の屋敷。そこの縁側に黄理は腰を下ろし、自分の視線の先で、志貴と朔が遊び、隣で女が笑んでいる光景を。

 

 その中で、朔は振り向き、今まで一度も変わることのなかった表情が、少しずつ笑みへと変わり、黄理に向かい、父上と呼んだ。

 

 それを自分は嬉しく思い、朔の名を呼びかけ、優しく、抱きしめて―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――………………………………………………………………………………………。

 

 □□□

 

 物言わぬ屍が、そこにはあった。

 

 身体は半分なく、その顔も爆ぜたように散り散りだった。

 

 良く見ればその周囲に、その中身だったものが散らばっていた。

 

 それを見て、紅摩は不思議と昂っている自身を思った。

 

 あの瞬間、黄理の一撃に、紅摩は死を見た。回避できぬ、死を見たのである。迫る銀の一撃は確実に紅摩を食い破り、彼に死をもたらすはずだった。それを塗り替えたのはひとえに黄理よりも前に殺しあった、子供の存在があったからである。

 

 あの子供の戦闘方法は、紅摩の死角へと執拗に移動し続け、そこから紅摩を狙う戦法であった。幾度となく、紅摩は子供の攻撃に晒された。それにより紅摩は死角からの攻撃に、適応を見せたのである。

 

 あの時、確かに紅摩は黄理の姿を見失った。黄理の打撃により、左目は酷く痛み、視界は驚くほど狭くなっていた。歪む視界に、黄理の姿はない。

 

 それが分かった刹那。紅摩は死角への一撃を放ったのである。

 

 そしてその結果が、今紅摩の前にあった。

 

 屍、骸、死体。それこそ、紅摩が生き残った結果だった。

 

 紅摩は、僅差のところで黄理に打ち勝ったのである。

 

 其れに対し、喜びはない。

 

 ただどうしようもなく、自分の死を思った。そしてそれは反面、黄理との殺し合いは熱を感じ、それを紅摩は楽しいと思えたのだった。

 

 この熱は、紅摩が生きている証に他ならない。

 

 身体が昂る、精神が温度を放つ。

 

 それを紅摩は忘れたくはなかった。始めて紅摩が手に入れた生の実感。

 

 熱い。気付けば、草原に火が灯り始めた。

 

 それは次第に広がっていく。嗚呼、熱い。それが心地よい。

 

 やがて草原は炎の海と化した。周囲は明るく、ひたすらに燃えていく。

 燃える。燃える。

 

 空が紅く焦げて燃える。

 夜を染め上げて、紅く燃える。

 

 紅摩は、その光景に見入っていた。

 

 この熱さに、一入酔いしれたのである。

 

 そして、これを忘れたくないと、再度思った。

 

 では、どうすればいいのだろうか。

 

 もしかしたら、黄理と同じような姿、技ならば、それを実感するかもしれない。

 

 それならば、と。紅摩は進んだ。

 

「嗚呼……」

 

 そう言えば、黄理に酷く似た存在がいた。

 

「さく」

 

 黄理の死に際に聞こえたナニカの言葉。それを名前だと、紅摩は漠然と感じた。

 

 何故だかわからない。だが、それは紅摩に確信を与えた。

 

 あいつなら、あるいはあのわらべならば、この熱を感じさせてくれるのではないか。

 

 そう思う。そしてそれを紅摩は、素晴らしい事だと思った。

 

 しかし、先ほど紅摩は既にその子供を破壊しかけた。

 

 未だ、生きているのだろうか。

 

 ―――いや、きっと生きているに違いない。アレは随分と生き汚い。死に掛けの身体で紅摩を殺しかけた存在である。黄理に似た子供である。

 

 それならば、期待できるやも知れない。

 

 燃える草原。歩むは赤い鬼神。

 

 その後方、鬼神の死体がひとつ。

 

 目指すは、わらべ。

 

 

 

 

 

 鬼神の口角が、僅かに持ち上がった。

 

 




以下今回のおさらい。
軋間紅摩はストーカー予備軍と化した。
七夜朔は男にモテて仕方がない。

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