七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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  ―――鎖の、引き千切られる音が、響いた。


第零話 始まりの始まり

 眼球を潰す。

 

 眼球はその造形に反して存外に硬く造られている。硝子体と呼ばれる無色透明なゲル状の液体が眼球の形を整え、外部からの力に反発する役目を持っているのが原因である。外界からの情報を取得するための機関だからだろう。頭蓋に収められながらも同じ五感である聴覚や味覚とは違い、薄い目蓋によってのみ守られるだけの眼球はそのように自己を硬くすることでその形状を保っている。

 

 それを、潰す。しかし、加圧による破壊は時間が掛かる。それを、さして時間の掛かる事、とは思う事なかれ。瞬間の判断によって状況が左右される戦闘時などでは、ほんの僅かな時間が命取りとなる。故に、どの様にすれば眼球を時間の無駄なく潰せるのか。

 

 答えは簡単である。

 

 瞬間的に、眼球の耐久力以上の力で、穿てばいい。

 

 即ち、指による目潰し。それも眼球を貫いて眼底を破壊するほどの威力による。

 

 人差し指に、力を込める。ただし、これは眼球を潰す事のみを想定に置いた選択ではない。

 腕を、揮った。指先が眼球を潰す。眼底を砕く。

 そして、脳を抉る。慣れ親しんだ、張りのある脳の柔らかな感触が指に感じる。

 

 びくん、と、脳の持ち主が身体を痙攣させた。

 

「う、あ、ああぁぁああああぁあうぅぅぅぅうあああ?」

 

 知性ある生命ではない、動物のような鳴き声だった。舌がない事もあるだろう。痛みによるものではなく、脳がやられたのだと推測。今、この人間は今まで感じたこともないような感触を味わっている。脳は頭蓋に守られているものであり、それを直接触れられる事などなかっただろう。

 

 眼孔に潜り込んだ指先によって抉られた脳の部分を出鱈目に動かすことで、それは涎を垂らしながら鳴き声を零し、懇願するのでもなく、声を漏らすのみ。このような手段を選ばずとも、この人間を殺すことは出来た。だが、それをしなかったのは、眼球から脳を破壊すればどのように死んでいくかを見極める必要があったからだった。

 

 眼孔から指を引き抜く。指先に血と硝子体、そして爪の間には、ぐちゃぐちゃになった脳の残骸がこびり付いていた。一瞬それを舐めてみようかと思ったが、自分はカニバリストではないのでそれは行わない。

 

 それに、あまり美味くはない。

 

 先ほど自分が脳を掻きまわした人間が着ていた服で拭き取る。

 

「そのまま、食べてしまうのかと思ったのですが、どうやら違うようですね」

 

 堅牢な室内。余りに広い空間だった。高くそびえる本棚が壁を埋め尽くした、いつも黴臭い場所である。背後の窓から差し込む光がこの部屋を浄化しようとしているようにも見える。

 

 その室内、重厚なドアの前に一人のシスターがいた。

 

「ふむ、もし私がそうしたらどうする?」

「勿論然るべき処置を。教理に反しますので」

「ほう。―――だが、それは本当に教理に反しているのかな?」

「そうです。それは禁忌でしかありません」

 

 シスターは嫌悪に染まる表情を変えず、言う。

 

 血臭漂う女性そのものに対する嫌悪だった。

 

「くっ、それは異なことを言うものだ。禁忌だからやってはいけない、とな。私たちも過去にはそんな禁忌を行っていたと言うのに。十字軍でそれは証明されている。異教徒相手に私たちは何をして、何を口にしたのかね」

 

 かつて、の話である。聖地奪還を目指した第一回十字軍はマアッラ攻囲戦にて、異教徒を惨殺しその肉を喰らった。異教徒を虐殺した後、大鍋で大人を煮込み、子供は鉄串に刺して火に炙っていたと、多数の記録書からも記されている。理由はある。十字軍は強行軍であり食料の確保があまり出来ず、更には占領したマアッラは肥沃な土地ではなかったため、飢えに耐えかねた十字軍たちは異教徒を喰らい始めたのである。

 

「勘違いは止めたまえ。摂理は善ではないのだよ。そして禁忌もまた邪ではない。神こそが唯一の善であり、それ以外は雑多なものに過ぎない。ほら、神こそ絶対であるというのに、それ以外を私たちが悪と定めるのは行き過ぎている。神の決めた事ではないというのに、私たちが悪と定めるのは、私たちこそ悪という存在に他ならない」

 

「……相変わらず、司祭全てを敵に回しそうな考えですね」

 

「既に嫌われているさ。中には私たちこそ異端だというモノもいると聞く。だが、それも意味など無い。雑多な生命は雑多なままだ。それ以外にはなれない。故に、塵は、塵に返る」

 

「……」

 

「それに、だ。私たちに教理とはあまり意味を成さないだろう?構成員を見れば一目瞭然じゃないか。吸血鬼もいる、私のような性癖を持った人間もいる。そして、『蛇』の抜け殻たるお前。ハハ、痛快だな。お前のような禁忌からわざわざ禁忌を説かれるとは」

 

 嗜虐心溢れる笑みを浮かべる。それは見ようによっては妖艶にも見える笑みであった。

 

「……」

 

「おや、だんまりかね?もう少し会話を楽しもうじゃないか。私はお前たちとは違ってここからあまり出られないのだから寂しくてね。たまの会話を楽しむことが最近の私のモットーなのだよ」

 

 ふふふ、とシスターの反応を楽しむかのように笑う。

 

「そこにいるのは、なんです?」

 

 シスターは舌打ちを漏らしながら、女性の側に置かれた人を見た。

 

 それは、もう人とは呼べぬような姿をしていた。

 

 四肢をもがれ傷口を縫合された、達磨のような姿。服を着せられているが、それは人形が着ているような可愛らしい服であった。片目を潰され、口元から涎と泡を零し、それは女性の側にあった。

 

「ああ、これか?新しい玩具だよ。お前が以前やったような事をやってみたのだが、これはあまり面白くない。何より、破壊衝動は私には無縁だしな。……良い機会だ、お前にひとつ聞きたいのだが、人形遊びの何が楽しかったのかな?」

 

「っ!!最低ですねっ、ナルバレック!」

「ああ、私は最低だよ。ではお前は最悪と言った所かな、シエル?」

 

 そう言ってナルバレックと呼ばれた女性は、残った眼球に指を突っ込みそれを抉り出す。眼球の奥から視神経の束が引き千切られた。声を上げることも出来ず、呻きの音が漏れる。

 

 その姿に、シエルはかつての自分を思い出し、すぐさま其れを払いのけた。

 

「いや、もしかしたら最悪ではなく、災厄と言った所か?町ひとつを舐り尽くして悦に溺れたお前には実に似合う」

 

 シエルの瞳が殺意に染まる。がりり、と歯を砕かんばかりに食い縛った。

 

 もしこれ以上ナルバレックが何かを言うのならば、すぐさまその顔面に鉄塊を叩き込んで、その魂ごと打ち滅ぼすだろう。

 

「まあ答えは期待しないがな。さて、一体何の様だ。下らない用件ならばぶち殺すぞ?」

 

 抉り取った眼球を掌で弄びながらナルバレックはシエルの用件を聞く。だが、シエルはナルバレックに対する憤怒と殺意を抑えるのに必死であった。ナルバレックがこのような行いをする事は、極当たり前であった。ナルバレックは人を苛める事を好んでおり、人のトラウマをいとも容易く抉る。それがナルバレックの娯楽であった。その他にも死ぬほど仕事を寄こす為、構成員全員が殺そうと思うくらい嫌われていたりする。

 

 憤りを殺すのにしばしの時間を要した後、シエルは口を開く。

 

「死徒ロアの十八代目転生体対象のあたりをつけました」

「ほう」

 

 知らず、ナルバレックから吐息が漏れた。少しの感嘆が混じる。

 

 この世には人間のみならず魔と呼ばれる存在がいる。それが神の奇跡によるものではなく、摂理に反し教義に存在ものであり、代表的なものは総称して吸血鬼とも呼ばれる。その大部分は吸血行為を行う死徒であり、それらの頂点に立つ存在が死徒二十七祖である。

 

 そも死徒は始めから吸血鬼だった者達ではない。死徒とは吸血鬼によって血を吸われたモノである。そして始めの死徒は吸血鬼として生を受けた存在、真祖の餌だった。真祖は生物として格別の規格を約束された存在であり、それから血を吸われたモノが与えられる力も別格である。原初の死徒の数は二十七。それは既に人知を越した存在であり、それに対抗するため人類、ひいては教会は異端審問のエキスパートであるエクスキューターの存在を認めた。

 

 そして、彼らのトップこそ、埋葬機関。

 

 それは吸血鬼専門の異端審問機関であり、また教会の切り札。教会の教義には存在しないモノたちを排除する存在であり、また唯一不徳を許された部署。

 

 聖遺物の回収および管理を担当した埋葬教室が始まりであり、それは長い時を経て神の代行者たる殺し屋となったのである。埋葬機関の目的は到ってシンプルだった。

 

 即ち、自然の摂理に反した人間以外の絶滅。死徒二十七祖を始め、あらゆる死徒、あらゆる魔、そして真祖でさえも撃滅させることが、彼らの目的である。そのためならば教義に反し、教会の意向さえも逆らう悪魔殺しの集まりである。

 

 その彼らが狙う死徒の一体こそ、ロア。

 

「中々あいつが顕現する前に探し出すのは骨が折れるものだが、魂が共鳴したとでも?」

「……違います。ロアの転生対象条件から割り出したものです」

 

 何か、含むような目線を無視し、シエルは言う。

 

「ふむ。場所は?」

「日本」

「極東か。確か最近どこかで、吸血鬼騒ぎの報告があったが。使えないな、日本支部の奴等。……そう言えば、あそこにはあいつがいたな」

 

 小さく呟く声にシエルは何を言っているのか聞こえていなかった。

 

 そして、埋葬機関第一位ナルバレックは、第七位『弓』のシエルに命ずる。

 

「まあ、いいだろう。……埋葬機関第七位シエルに命じる。日本へと向かい、ミハイル・ロア・バルダムヨォンを滅ぼせ」

 

「はい」

 

 そしてシエルは踵を反し、室内から退室しようとする。

 一刻も早くこの場から立ち去り、直ぐにでも日本へと向かいたいと、背中に憎悪が揺らめいた。

 

「ああ、そうだ」

 

 しかし、その背にナルバレックの声がかけられた。

 

「今回は日本の退魔に接触しろ」

「……何故です?」

 

 振り向くこともせず、シエルは問う。

 

 基本的に埋葬機関は他国の退魔組織と協力することはない。埋葬機関は埋葬機関として常に単体で行動するのである。だが、ナルバレックはそれを今回は行わないと言った。

 

「理由は二つ。日本は私たちには鬼門だ。独自の退魔組織を形成し、外部からの干渉を良しとしない。そこに外部から許可もなく入り込めばたちまち戦争だ。日本人(あいつら)何をするか分からんからな。故にだ、あちらの退魔組織と交渉を行え。手筈はある程度行おう。……そしてもうひとつ。噂によれば、一人面白い奴がいると聞いた。出来ればそいつと接触しろ。そして、もし接触を果たしたならば、埋葬機関(ここ)に勧誘しろ」

「……?」

「返事は?」

「……前者は分かりましたが、後者は納得しません。理由を」

「断る。お前は私の言う事を聞けばいい」

「では勧誘もしません」

「っち。……話を聞く限りでは、なかなか馬が合いそうな奴だということだ」

 

 埋葬機関第一位ナルバレック女史。

 埋葬教室を立ち上げた一人である初代ナルバレックから教会の埋葬機関に束ねてきた一族の女性であり、埋葬機関執務室に半ば幽閉された身でもある。異常者揃いである埋葬機関を束ねる実力者であり、若いとされる年齢でありながら死徒二十七祖三体を捉えた化け物。ナルバレック以外の名は不明であり、彼女はただのナルバレックとして存在する。

 

 しかし性格悪く、埋葬機関全員が殺そうと思うぐらい嫌われており、その悪名は敵対関係にある魔術教会にも響き渡っている。何故彼女が其処まで嫌われているのか。その理由のひとつが彼女の殺人癖であった。

 

 ナルバレックは殺す。殺す事に歓喜を感じる。殺しに悦を見出した異常者であり、人間が苦痛に顔を歪め、屈辱に震え、絶望に沈み死んでいく姿を見て悦楽を覚える人間であった。無作為に人間を殺す性癖を持った彼女の犠牲者は絶えない。埋葬機関からも何人か犠牲者は出ている。今、彼女が弄ぶ憐れな犠牲者はどこか適当なところから運んできたものだろう。

 

 そんな人間が目をかける人間など、まっとうなはずがない。

 

「……実力は?」

 

 またそんな人間が増えてたまるかと、シエルは嫌々ながらも話を聞く。

 

「ああ、実力は折り紙つきだそうだ。少なくとも、純粋な殺し合いであるならばお前を下せるほどには」

「私を?」

「まあ、これには憶測も混ざっているがな。しかし、向こうの教会からの報告と日本で起こった事件を合わせてみると、なかなか……」

 

 そしてナルバレックは犯しそうに笑う。狂気交じりに堪えきれないと身体を震わせて。その姿にシエルは舌打ちを打ちたくなる。理由はともあれ、ナルバレックが愉悦を感じることがただただ不快であった。

 

「総合的にはお前に劣るだろう。だが、限定的な条件でならば、お前は確実に負ける。ま、補欠程度と考えればいい。だが、確実に会い、確実に勧誘しろ。もし、そいつがいるならば、私の退屈も消えるだろう」

 

 待ち遠しくて堪らないと、ナルバレックの視線は遠い。

 

 埋葬機関第七位に所属するシエルは『弓』のシエルとも呼ばれる代行者であり、これまで数多くの死徒を滅ぼしてきた。未だ死徒二十七祖を倒すには到っていないが、ある事情から戦闘を優位に進めることが出来るシエルが敗北を喫するなど、そう多くはない。

 

 そのシエルが負ける。それは彼女の持つ特性を覆す何かを持っているということだろうか。

 

「名前は?」

 

 それが少し気になり、シエルは対象の名を聞いた。

 

「七夜朔」

「七夜、朔……」

「そうだ、よく覚えておけ。……もういいだろう。早く行け」

 

 ナルバレックはシエル事などどうでも良い、と見ていない。その手はギリギリ生かされた生命の腹を裂いて内部に潜り込んでいた。決して少なくない血がナルバレックを汚す。だが彼女はそれをむしろ楽しみながら、その腕を深く深く潜り込ませ、心臓を掴んでいた。最早、助かる見込みもないだろう。痙攣を繰り返すその様は死ぬ兆候であった。

 

「……分かりました。至急準備し日本に向かいます」

「ああ、早くしろ」

「ですが、その前に――――」

 

 ――――弾丸が炸裂した。

 

 驚異的な速度でシエルから射出されたそれは、視認も出来ぬ速さでナルバレックの側にいる犠牲者を打ち抜いた。その数三つ。心臓、頭部、腹に突き立ち、勢いのまま物体と化したそれを壁に貼り付ける。

 

 それは、十字架にも似た剣であった。

 

「――――私は貴方と違って、吸血鬼を娯楽の対象と見ていません」

 

 吸血鬼の残骸が、発火した。

 

 □□□

 

 夜である。

 

 寒くなり始め月は遠く、空気が澄んで星が良く見えた。夜に吊り下げられた半分の月は町を見下ろす坂の上に立てられた洋館を淡く照らし出していた。洋館は静まり返り、夜の寂しさを際立たせている。大きな洋館である。その敷地もまた広い。その外観は左右対称に展開され、翼を広げた鳥のようでもあった。

 

 その館のとあるテラス、石造りの柵に寄りかかるように、一人の少女が町を見下ろしていた。物憂げな感情を顔に滲ませ、艶めく長い黒髪の少女は僅かに吐息を零しながら、しかしその瞳は穏やかに、言葉を紡ぐ。

 

「明日……」

 

 短く、たったそれだけの言葉に、万感の想いが込められていた。

 

 明日。明日になれば、この洋館にとある人物が訪れる。いや、戻ってくる。

 

 長かった。どれほどの季節を数えたのだろう。変わりゆく町並みに、変わらぬ屋敷。そこに取り残され、時間に取り残されたよう、外観の変わらぬ屋敷に少女はいた。

 

「兄さん」

 

 かつて、この大きな館にいた男の子。その人が、戻ってくる。戻した。

 

 切欠は、父の死だった。

 

 ある事情により身体を弱めていた父は、あっけなく死んだ。■■によって、殺された。それがついこの前のことだった。それから父に代わって当主の座についた少女は、媚びた顔ですりよる大人を払いのけ、我が物顔で屋敷内を闊歩していた親戚一同を追い出し、父が逗留させていた者共は悉く追っ払った。使用人すらも殆ど解雇した。そのうちの一人には、もうこの町に足を踏み込まないことも了承させている。

 

 故に、この屋敷に人は殆どいない。少女を含め、たった三人だけである。しかし三人には屋敷は広すぎる。使わない部屋が増大し、管理も追いつかないだろう。それゆえ厨房、屋外浴場は閉鎖してある。

がらん、と人気のない屋敷はまるで死んでいるかのよう。敷地を囲う壁は高く、外界と屋敷を隔離している。町の喧騒も届かぬ屋敷は静かに沈んでいた。

 

 しかし、それも今日で終わる。

 

「秋葉さま。そろそろ中に入らないとお体に障りますよ?」

 

 夜を見下ろす少女の後方、着物姿の少女が一人、室内からテラスへと現われる。薄い紅色の髪を青いリボンで纏めた女性はその顔に柔らかな笑みを浮かべ、少女―秋葉を見る。

 

「ええ、分かっているわ琥珀。でも、もう少しだけ」

 

 琥珀の言葉にはにかみながら、秋葉は夜風に揺れる髪を流す。

 

「長かったわ。本当に、長かった」

 

「……」

 

「兄さんがいなくなって、この屋敷は時間が止まってしまった。だけど、それもお終い。ようやく、この屋敷は動き出す」

 

「確かに、今のままじゃ少し寂しいですよねぇ。翡翠ちゃんも、志貴様が帰ってくるの楽しみにしてるようですし」

 

「そうかしら?」

 

「はい。翡翠ちゃん、今日はずっとソワソワしていました。明日を待っているのは翡翠ちゃんも同じですよ」

 

「そう……」

 

 この誰もいなくなった屋敷が、それでも機能しているのは琥珀と翡翠のお陰であった。遠野当主として動く秋葉をサポートし、遠い学園に秋葉が通っている間、屋敷の全てを二人に任せている。苦労をかけていると秋葉は自覚する。だが、それでも果たしたい願いがあった。

 

 過去。秋葉、翡翠、志貴、そして■■はこの広い屋敷の敷地内で遊ぶほど仲がよかった。志貴と■■、そして翡翠が先で遊んでいて秋葉はそれについていくのが、あの頃はいつもの通例であった。そして、その秋葉の隣にはいつも――――。

 

 頭を、少し振る。

 

 そこから先は、考えてはいけない。今は、明日からの未来を想像していれば良い。

 

 しかし、それを確実のものとするためにも、■■は始末しなくてはならない。

 

 それが、遠野当主として務め。

 

「それで、琥珀はそれだけの為にここに来たのではないのでしょう?」

 

 一瞬過ぎる映像を消し、秋葉は琥珀に問う。

 

「はい。今日の報告を」

 

 それは、翡翠もさえも知らぬ、二人だけに交わされる情報であった。

 

「まず、今日全国で起こった殺人事件がおよそ六件。ですがこれは隠蔽工作が行われた数を含んでいませんので実際は十一件。更に行方不明者は総計五十名弱。そこから退魔組織からの情報を合わせるともっと数は増えます。そこから条件を当てはめ、死者の数が一人以上の事件は二つ。このどちらかには関わっているかと思います」

 

「場所は?」

 

「××県とN県」

 

「規模は?」

 

「××県では死者数五名。こちらは犯人は捕まっています。しかしN県では数が分かりません。そして犯人も不明です」

 

「と言うと?」

 

「ぐちゃぐちゃになりすぎて数が掴めないそうです。死体がバラバラではなくて、もう原型を留めていないような状況らしくて、詳細は未だハッキリとしていません」

 

「……それで?」

 

「はい。殺されたのは久我峰傘下の人間。場所は仇川マンションの最上階。隠蔽工作も行われていますので、間違いありません」

 

「そう……」

 

 報告を聞いた秋葉の表情は先ほどとは打って変わり暗い。それは凍えを無理矢理抑えているかのよう。そして、いつしかその顔には笑みが張り付いていた。暗い笑みだった。

 

「……N県。近いわね」

 

「はい」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……風が、冷たくなってきたわね。そろそろ戻るわ」

 

「……はい」

 

 部屋に戻る秋葉を琥珀は見ていた。何を思っているのか、その表情からは分からない。ただ、近い未来に喜びと悲しみが、秋葉の心に訪れることを、琥珀は何となく悟った。

 

 その秋葉の背中を琥珀は、笑みながら、見ていた。

 

 そして夜は深みを増し、月は夜空に輝きを増す。

 

 日月の繰り返しを重ね、明日は再開の時。

 

 琥珀は秋葉の部屋を離れ、一人廊下を歩いていく。その顔は少しばかりの笑みである。口角を上げた、挑発でもなく、悪意を放つわけでもない、ただの笑み。それが一体何に対しての笑みなのか、琥珀自身でさえも分からない。ただ、琥珀は―――。

 

「姉さん」

 

 廊下を進み、広いロビーに訪れると給仕服を着こなす少女に出くわす。薄い紅色の髪にカチューシャを飾る、琥珀と良く似た顔立ちの少女であった。どうやら見回りを行っていたらしく、反対側の館は既に消灯されている。

 

「あら翡翠ちゃん?もう見回りの時間だった?」

 

「そうです」

 

 簡潔かつ表情に起伏のない翡翠であるが、実は感情表現に富んでいる事を琥珀は知っていた。

 

「もう時間も遅いし、翡翠ちゃんもそろそろ寝た方がいいわ」

 

「でも、私まだ眠たくなくて」

 

「ふふ、本当に明日が楽しみなのね」

 

 琥珀の言葉に、翡翠は僅かに顔を俯かし、頬を赤く染める。

 

 

「でも、それなら尚更ですよ?睡眠不足は乙女の敵。乙女の肌が傷ついちゃう。翡翠ちゃんも、志貴様に綺麗な姿を見て欲しくはない?」

 

「そ、そんな事は……」

 

「あらら、余計に赤くなっちゃいましたか」

 

「……!」

 

 頬の火照りが増していく翡翠を、琥珀は柔らかな笑みで見つめていた。しかし、翡翠は少しばかりの不安さを顔に表す。

 

「でも、姉さん」

 

「なあに?」

 

 琥珀は翡翠といる時、必ず柔らかな対応を行う。やはり双子の姉妹であり、琥珀が姉であるからなのか、妹の発言というのは不思議な優先順位を持っている。

 

「……志貴様は、私のこと覚えているかどうか」

 

 かつてこの屋敷にいた少年が、少女たちの前から消えたのが八年前の事。それから顔を合わすことも、連絡を取り合う事もなく、少年と少女たちは歳を重ねた。少女の不安は正鵠を得ている。人間は忘れる生き物。例え、大事な事があろうとも、それも次第に薄れ掠れ磨耗し、最後には姿なく消えてしまう。そして少年の事もある。少年はあの時―――。

 

「大丈夫よ、翡翠ちゃん。志貴様はきっと覚えてくれている」

 

 それでも。人には忘れない事もある。

 

「……でも」

 

「不安になっちゃ駄目よ。それに、翡翠ちゃんと志貴さまはあんなに仲良しだったじゃない」

 

 記憶とは曖昧ながらも、断片的な切欠さえあればそれが復元する。記憶が消えることは稀である。記憶は忘れるものであり、それはどこにあるのか分からないようなもので、発見することが出来ないだけなのである。記憶の成層は消滅することなく、脳の中に残されている。

 

「だから、安心して。翡翠ちゃんは翡翠ちゃんの思うままにすればいいの」

 

「私の、思うままに?」

 

「そう」

 

 翡翠の中にある不安を取り除くのは琥珀の役目だった。そう、姉はいつだって妹の味方。

 

「でも……姉さんは」

 

「何?翡翠ちゃん」

 

「……なんでも、ありません」

 

 姉の表情を見て、翡翠は言葉を紡ぐことも出来ず、そのまま引き下がる。

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「変な翡翠ちゃんですねぇ。兎も角、翡翠ちゃんはそろそろ寝ないといけませんよ?あとは私がやりますから」

 

「……わかりました、後は姉さんに任せます」

 

「はい。じゃあ翡翠ちゃん、おやすみなさい」

 

「姉さんも、早くおやすみください」

 

 翡翠が離れていく。それを確認し、琥珀は消灯を行うため廊下を歩く。

 

 静かな館に琥珀の歩む音が頼りなく響く。

 

「そう……」

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「――――思うままにやればいいの」

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「思うままに、ね」

 

 琥珀は、笑んでいた。

 

 そして――――。

 

 □□□

 

『ああ~、こちら■■。仕事は終わりだ。いつもどおりやってやったぞ。……五月蝿えなあ、手前らは何時もどおりにやりゃあいいんだよ。――――はいはい、わかったわかったワカリマシタっつってんだろ木瓜が!!喧しいんだよギャーギャー騒いでんじゃねえっ。手前が依頼したことだろうが!あ、何だ?だったら余計な仕事増やすんじゃねえって?だったら依頼すんじゃねえよ!……だからどうした?それを俺に言っても意味ねえ事ぐらい手前知ってんだろうがっ。だからなんとかしろって、何で俺がそんな面倒な事やらにゃいけねえんだよ、大体俺が止めねえ事分かってて言ってんだろソレ。……余計な仕事増やすんじゃねえって、そんなちっちぇえ事気にすんじゃねえよ、禿げんぞ?ああ禿げてたか。――――はっソレこそ笑わせるな、そんなもん意味ねえよ。さっさと無駄な抵抗やめて剃っちまえ!!――――っち、分かった分かった泣くんじゃねえよ。手前がヅラに手えだそうとしてんのは、俺と手前だけの秘密だ。――――あ?ヴァチカンがどうしたっつんだ?……埋葬機関、だと?あの殺し屋共が日本に来るってのか。いい度胸してんなあいつら、独逸に持ちかけて戦争でも仕掛けんぞ。んで何処で調べたんだ?……は?あいつらから話が来たってか?なんだソレ、キチガイどもがどういうつもりだ……?それで、埋葬機関がどうしたっつんだ。……は、莫迦だろソイツ、なんで態々接触してくんだ?死にてえのか?――――ああ、あいつらは死にたがりの殺し屋だったな。んでだ、用件は何だ?……何?ソレは直接話すってか。――――ハイハイ手前があいつらに恨みがあんのは分かったから、俺に呪詛呟いてんじゃねえ。にしても狙いがわかんねえなあ。日本にわざわざ攻めてくる理由は何だ?……ああ、それを知るために行けって事か。――――あ、おいちょっと待て、何処に行くつもりだ。……気配だと?俺には何も感じねえが。……ああ、そうだ。手前、何処に行けばいい?三咲町?――――方角はそっちに向かってるな。そっちになにがいるつんだ……わからんか。――――ああ、わかった。多分辿りつくだろう。んじゃ行くわ。――――しっかし、あそこにはつくづく縁があるってことかねぇ。なあ、お前?』

 


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