あの背中を、覚えている。
だけど、それは一体誰の背中だっただろう。
目覚めた時、いつも誰かを探している。
でもそれが誰なのか分からず、そして何で自分が探しているか理解できないのに、いつもそうやって何かを求めている。それは寝起きの水分不足だとか、空腹だとか、寝不足だとか、そういった満ち足りていない状態とかではなく、自分の内側に無視できない空っぽがあって、それを持て余しているという事に近い。
だが、この空白が一体何なのか、そして何で空白はあるのか、自分は知らない。いや、忘れているのかもしれないし、気のせいなのかもしれない。ただ、気のせいだというには余りに長い間、これは自分の中にあった。
感傷に浸っていると、少しばかりの頭痛を感じた。
――――気持ちが悪くなる。
線。
視界に、黒い線が見える。
天井にも、壁にも、物にも。
そして、自分の体にさえも。
亀裂のように線が書かれている。子供の描いた落書きの様。滲むように、だがはっきりと視える。
それを見たくなくて、側に置いてある眼鏡を手に取る。何の変哲もない、ただの眼鏡である。
かつて、記憶の中にいる先生からもらった眼鏡だった。
これさえあれば、この世界の気持ち悪さを見ずにすむ。
俺にとって何よりも大切なモノだった。先生との思い出の品というのもある。だがそれ以上に、俺はこれがなければ、真っ直ぐに生きることも出来なかった。
眼鏡をかける。すると、黒い線は忽ち見えなくなって、気持ち悪さも消えていった。
気持ち悪さが収まり、自分の部屋を、ベッドから体を起こして見渡す。何もない。がらんどうな室内。荷物は既に送られている。私物としては随分と少ない量ではあるが。部屋には、制服しか既にない。
きっと、これはこの家から離れる寂寞に違いないと、あたりを点けた。だが、この家の異物で、有間の人と触れ合うことも躊躇っていた俺が、そんな理由で寂寞を消すには、余りに滑稽だと自覚した。
「それじゃおばさん。長い間お世話になりました」
少ない朝食を済まし、身嗜みを整えて制服を着た後、薄い学生鞄を手に抱え、玄関にておばさんに別れを告げた。おばさんは影を顔に纏わせながら、それでも笑んでいた。俺との別れを惜しんでいるのか、と調子のいい事を考える。見やる有間の家は和風の造りで、この家にいるのは心が随分と落ち着いた。別れ難いと、寂しさに中身の虚ろが震える。
でも、呼ばれたならば、そこに帰るだけ。
「向こうでも、元気で暮らすのよ」
「おばさんも、お元気で」
―――今日、俺は実家に戻る。
有間の家は、俺の本当の家ではなかった。
過去に事故を受け、体の弱くなった俺は実家である遠野から勘当を受け、有間の家での暮らしを余儀なくされた。理由は遠野の長男に相応しくないから、と親戚に決められたからだった。それは有間の家に行った時、二度と敷居を跨ぐなと言われた事にも現われているだろう。酷く疎まれた記憶がこびり付いていた。
それから有間の家に馴染もうとして、結局出来なかった。仲は良かったと思う。おじさんも、おばさんも、勘当された俺は二人には他人でしかないのに良くしてくれた。何度か養子にならないかと、言われたこともある。人柄のよい二人に俺は、人の優しさを感じたのだ。だけど都古ちゃんとは、結局殆ど会話することも出来なかったのが、心残りだった。
だが、そんな生活は今日で終わる。
高校に向かう途中、目に入る坂の上の馬鹿でかい洋館。丘の上にあり、平地から見ているというのに、それでも大きい。
アレが、俺の家、らしい。
一ヶ月前、俺の親父遠野槙久が死んだらしい。らしいというのは、その事実を俺は新聞で知ったからだった。親のことであるというのに、そんな事を知らなかった俺は、親父という存在、遠野という存在を過去のものとして、その時既に清算していたのだろう。それを証明するように、俺はソレを遠野から知らされなかったし、知った時、何も感じなかった。それでも親父が死んだという事が分かったのは、遠野が巨大企業家であり、親父が其処のトップだったからに他ならない。遠野グループはあまりに有名な資産グループであり、そのトップが亡くなれば報道されるのも頷ける。
ただ、自分もかつては其処の人間であった事は、あまり実感がない。
しかし、そんな俺の認識など関係なく、先日手紙が来た。新たに成り代わった遠野当主からの手紙。
戻って来い、とたったそれだけの内容の手紙だった。
何を今更、とは思わなかった。
―――ただ、今の生活の終わりを感じた。
それに、秋葉の事も―――。
眼鏡の位置を直す。
「まあ、なんとかなるだろう」
一人呟く。そうして思考停止。
いつも通りの道を歩きながら、この道をもう歩く事もないのだと、感慨深く思っていると高校に辿り着いた。さっさと教室に向かおうと、何気なく校舎を見渡す。
すると。
「―――――?」
二階の教室。そこの窓際から、そ知らぬ女性が手を振っていた。
青みがかった髪の、眼鏡の女性。
にこやかに笑う女性は、こちらを見下ろしている。
「俺?」
取り合えず手を振り返しながら、小首を傾げた。はて、あの人は誰だろう。
結局疑問は教室に入っても解けなかった。誰かも分からぬ人間に手を振ることはないだろう。では、俺はあの人を知ってるかと言えば、素直に首肯できない。なら、あの人とは他人か。でも、女性は手を振っていた。多分、俺に対し。
「……」
手を振り返した手を見る。
何も、分からなかった。
「遠野。お前もスミに置けねえなあ。朝からいちゃいちゃしやがって!」
そんな俺の首に誰かが纏わりついた。
「……何の事だよ、有彦」
赤毛にサイドを借り上げ、制服をだらしなく着こなしながらも、それが実に良く似合う男だった。俺よりも背丈があることもその要因だろう。耳にはピアスを幾つかしており、不良としか形容できない男である。
名前は乾有彦。小学から続く腐れ縁の悪友である。
そして、有彦が言うのはあの人―俺に手を振った女性―の事らしい。
「いや、あれは向こうが勝手に……」
「そうか……勝手にか。なあんて恍けるなっ、ちゃっかりやる事やりやがって!」
首を絞められる。普通に苦しい。朝から何をやっているのだろう、俺たちは。
「相変わらず、仲良いんだね二人とも」
声の先に、一人の女生徒がいた。
染めていない淡い栗色の髪を両サイドで縛った―俗に言うツインテール―女性。
人懐っこそうな雰囲気を持った、クラスでは比較的仲が良い、と思われる人。
クラスメイトである、弓塚さつきさんだった。
「にしても、どういう事だ有彦。万年遅刻魔のお前が何で朝から来てるんだよ?」
有彦の束縛から逃れ、俺は窓際の席による。絞めつけられた部分が痛んだ。
乾有彦は、このように朝から学校に来る人間ではないと認識している。小学からの腐れ縁はこのような妙な信頼を得ている。嫌な信頼だ。大体有彦はこの学校が進学高校でありながらアウトローを貫いている男であり、学校に来ない日だってある。周りに迷惑を掛けないような生き方をしているので、周囲も強くは言えないが少なくとも、このように朝早くから学校に来る人物ではなかったはず。
「おう、最近夜遊び控えてっから早くに起きちまってな。暇だから来てみたってわけだよ。最近物騒だから姉貴が五月蝿いんだよ」
設置された机に寄りかかり、踏ん反り返る有彦を見て思った。
いや、それが普通なんだけど。
とは言え、そんな一般的な生き方を互いにしていないため、そこは強く言えない。
でも、物騒?
「知らないの遠野君?この町で起きてる連続殺人事件の事」
反応も出来ない俺に弓塚さんは親切にも教えてくれた。
最近この三咲町では連続殺人事件が起こっている。それは猟奇事件と評される事件であり、殺された人間は皆全身の血液が無くなっているらしく、巷では「現代の吸血鬼」とまで言われているとか。そして被害者は既に五人にも及んでいる。
こんな身近で、そんな事が起こっていると、俺は知らなかった。
「テレビとか見てないのか」
「ああ。ここんところ、引越しの荷造りで忙し――」
「え!遠野君引越しするの!?」
俺が話している途中、いきなり弓塚さんが声を上げた。そういえば、この話は有彦と学校の先生にしか言っていない。
弓塚さんを見る。この世の終わりを知らされたような、絶望と形容してもいい表情をしていた。何故だろう、あうあう言っている。……そんなに驚くような事だろうか。
「違うよ。住所が変わるだけで、引越し先もこの町」
「――――よかったぁ」
つまり高校は変わらない事を告げると、弓塚さんは心底安心したような表情をした。色々と忙しい人だ。
「と、ところで……」
「うん?」
「遠野君が引っ越すのって、あの丘の上にある……」
「うん、そこだよ」
三咲町に住んでいる人間なら、丘の上にある洋館と遠野の名前は簡単に繋がる。遠野の存在はソレほどまでに大きく、弓塚さんが知っているのも何ら不思議ではない。
そうすると、弓塚さんはもじもじとしながら、それでいて顔を若干赤らめて何かを口にしようとしていた。もごもごと動く口元からぶつぶつと「……そう、勇気出さないと……帰ろって……」何か言っている。何が言いたいのだろう。
そしてキッと顔を上げた弓塚さんは、何やら意志の強そうな瞳を俺に向けて、
「あ、あの遠野君。わたしも家がそっちの方なんだっ」
「へぇ……」
「だからっ、もしよかったら今日私といっ『さつきー先生がプリント運ぶの手伝ってだってー!』」
もう、せんせいのばかあっ。
弓塚さんの消えた廊下から、そんな声が聞こえた。
―――結局、何を言いたかったのだろう。
「まあ、運が無かったと思え。てか、あいつも大概だなあ」
ニヤニヤと笑顔を浮かべる有彦の言葉が、少しだけ気がかりだった。
□□□
授業には身が入らなかった。勉強は標準ぐらいには出来るし、この学校は進学高校なのだから、ある程度真面目にやらないといけないのだが、どうも今日の事が頭から離れなかった。
学校が終われば、向かう事になる遠野の事。今までの有間での日々。
そして―――、妹の事。
八年前、遠野から勘当された俺には、妹がいた。秋葉。それが、妹の名前。
でも事故によって体を弱めた俺は、有無を言う事もできず遠野から追い出された。親父も、親戚もあまり俺の事を良く思っていなかったのが原因なのかもしれない。手続きはあっという間に済んでしまい、勘当された。妹の秋葉を、置いていくような形で。
秋葉は恨んでいるだろう。何も言わず、そして、連絡も取らなかった俺の事を。もしかしたら、俺の事なんて忘れているかもしれない。それならば、そのままで良いのかも知れない。お互いに不干渉なまま、過ごしていければ、秋葉が苦しむ事も無いはずだ。
だけど、今日俺は遠野に戻る。今の当主が誰かは知らぬが、随分と奇な事だと思う。
勘当された俺に、戻って来いなどと。
―――何も言わない。何も思わない。それが一番悪くない。
そうやって、思考を停止させる。
なるようになる。なるようにしかならない。
胸の空洞が、少し痛んだ。
「……」
いつもと違う帰り道を歩く。学校から見てどんどんと大きくなっていく屋敷の外観に、不思議と緊張が高まってきた。
そして慣れない道を進みながら、ふと思い出す。
学校で手を振った女性の事、秋葉の事、いつも良く遊んだ女の子の事。
そして最後には―――。
―――いや、それはいつも、気付けば考えている事だった。
記憶の奥底に映る、―――背中。
夢に出るような映像ではなく、きっと記憶の奥底、あるいは脳裏にある、背中。
誰の背中か、分からない。
肌蹴た上半身。それは子供の背中だった。
細く、それでいて子供らしくもない引き締まった背中であり、簡単に手折れてしまいそうなほど、儚げな姿。
それが一体誰で、いつ見たのか、まるで分からない。自分は子供、だったのだろうか。
その背中は、まるで先に行くように前だけを向いていて、志貴には顔も分からない。
でも何故だろう、そんな背中に、今の自分から見ても小さな背中に。
こんなに、安心するのは。
「……」
考察はいつも立ち止まる。いくら考えても、それが誰なのか俺には分からないのだ。そんなあやふやな感じ。模糊なイメージ。先に進まず、解明されない。
だけど、不思議と不快ではない。中身の空洞が少しだけ、満たされるような感覚。
これは、あるいは―――。
「で、でかい」
気付けば、辿り着いた。
かつて暮らしていて、そしてこれから過ごす事になるだろう、遠野の洋館。
見上げるほどに大きな外観。その構造は正面から見て翼を広げた鳥のようにも見えた。何だこの学校のグラウンドぐらいありそうな広さは。
開かれた門の前で愕然としつつも圧倒されるという、見事な混乱っぷりを展開させながらも、俺は進んでいった。門から洋館までなかなか距離がある。今なら遅くない、有間の家に戻れる、と怖気づく内心を無理矢理ねじ伏せて、これまた大きな、見上げるほどの高さある玄関に辿り着く。
普通の家で、両開きの扉など、クローゼットぐらいしか思いつかないが、それが門のように設置されていた。現実味の無い場所に、自分がいるのである。それでも玄関に呼び鈴があるというのは、ちょっとした親近感が沸いた。
「お待ちしておりました」
パタパタとした軽やかな走り寄る音の後に、玄関が開かれた。目の前には、いつか見たような、それでも靄がかった記憶の中にある光景に似たロビーが見える。奥にはグランドピアノらしきものまで置かれていた。そして、淡い紅色の髪を青いリボンで纏め、着物に白くフリルらしきもののついたエプロンをつけた女性が、其処にはいた。
「よかったぁ。あんまりにも遅いから、道に迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ?日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかと思っていたんですから」
妙な組み合わせを着こなした女性のいきなりの朗らかさに、軽い戸惑いを覚える。
「あ、ああ。心配かけたみたいだ。ごめん」
「え……」
女性の顔が固まる。不意をつかれた、感情の無い表情だった。
でも、それは一瞬の事で、それはすぐさま消えた。
「すいません。すぐに秋葉様のところにご案内しますね」
取り付くような感じではなく、其れでいて慌てた様子も無く、一瞬の空白めいた表情がまるで夢だったかのように、少女は笑みながら先導を始めた。
自分が気にする事ではないと、俺は努めて屋敷の構造を思い出そうとしながら、少女の後をついていく。ロビーを横切り、立派な内装の内部を進む。
確か、この先は、リビングだったような気がする。
「お帰りなさいませ、志貴さま。今日からよろしくお願いしますね」
先導していた少女が振り向きざまに俺を見た。
「ああ、こちらこそよろしく」
「どうもありがとうございます。居間はこちらですよ」
辿り着いた居間には、二人の少女がいた。
備え付けられた高そうな、実際高価なのだろうソファに腰掛ける深窓の令嬢のような黒髪の少女と、先導してくれた女性に似た給仕服の少女がその傍に佇んでいる。
「琥珀、ご苦労様。下がっていいわ」
「では、失礼します」
凛とした声。琥珀と呼ばれた少女はそのまま一礼し、居間から離れていった。
そして、残されたのは黒髪の少女と、給仕服を身に纏った少女。
「お久しぶりですね。兄さん」
予想は、していた。だが、人はこれほどまで変わるものなのか。目の前にいる少女が、あの。
「兄さん?」
「秋葉、か?」
記憶にいる少女は、こんなにも美しくなるなんて、想像してもいなかった。
「ええ、そうです。秋葉は私以外いません」
若干の棘が混じる声音。
「そ、そうか。……久しぶりだな、秋葉。綺麗になってて分からなかった」
「……兄さんはお変わりないようで」
「……」
「体調がよろしいなら話をしましょうか。立ったまま話すのはお疲れになるでしょう」
「……ああ」
目の前にあるソファに座る。やはり、考えていた通り秋葉は俺に対しあまり良い感情を持っていなさそうだった。まあ、当然だ。
そして俺らは様々な事を話した。
親父の死を直接伝えなかった謝罪、秋葉が当主と成り親戚一同及び使用人に到るまで殆ど追い出した事、親戚に対する悪態、俺はこれまでの生活、遠野の館に対する率直な感想など。どうにも長い年月に遠野の家の事は忘れているので、これから思い出すだろう、と最後に付け加えた。だけど、やはり秋葉は少し表情を変えて俺を見ていた。最早感覚では遠野ではなく、他人に近い俺がこんな事を言うのは変かもしれないが、でもこれから一緒に暮らす事になる秋葉には伝えたかった。
そして、最後に。
「この子は翡翠です。これから兄さん付きの侍女にしますけどよろしいですね?」
有無を言わさない秋葉の声。そして翡翠と呼ばれた女性は無表情のままにお辞儀をした。
え?
「秋葉、お前、今なんて言った?」
呆然とする俺に、秋葉は不思議そうな表情。
「分かりやすく言えば、召使という事です。……有間ではどうだったのかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすのです。兄さんには遠野としての嗜みを覚えていただかなくてはなりません。なので遠野の人間としての待遇は当然受け入れてください。それに、食事掃除洗濯それ以外の雑務、兄さんに出来まして?」
何も言えない。それに、何も出来ない。情けない事であるが、生活力には自信が無い。
「分かった」
捲くし立てるように言い放った秋葉の勢いに押された俺は、結局其れを受け入れてしまった。何とも弱いな、俺。
「では翡翠、兄さんを部屋に案内して差し上げて」
「畏まりました、秋葉様」
静かに歩み寄る少女の人形めいた雰囲気に、少しばかり身構えるが、それは意味の無い事である。
「それでは、お部屋にお連れ致します」
「ありがとう。じゃあ、秋葉また後で」
「はい、兄さん」
秋葉は、少しだけ笑んだ。
ロビーを抜け階段を上がって二階へ。淡い光の中、翡翠に先導される。そして一つの部屋に辿り着く。
「こちらが志貴様の部屋です」
案内された部屋に、俺は圧倒された。高校生が使うにはあまりに立派な造り、無駄に広い中はリビングと言い張っても通用しそうだった。これが、俺の部屋?
「……志貴様?」
圧巻とした部屋に飲み込まれていた俺を、翡翠は僅かにだが心配そうに声をかけた。人形めいた、と先ほどまで思っていたが、どうやらそんな事は無いらしい。
「いや、なんでもないよ」
俺は場違いな感じがしてならない。
「お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合は無いかと思われます」
「もしかして、ここって俺の部屋だった?」
翡翠は戸惑いに表情を変えた。
「そのように聞いておりますが……」
女の子にそんな表情をさせるのは良くないと、罪悪感が働いて咄嗟に言葉を紡ぐ。
「八年経てば違和感があるのも当然か。けどやっぱり落ち着かないな、高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちは分かります。ですが、どうかお慣れください」
そう。馴れなくてはならない。でなくてはここでの生活なんて無理だ。
「志貴様のお荷物は全て運びました。何か足りないものはありますか?」
「いや、ないはずだけど。どうしてそんな事を?」
「……いえ、差し出がましいようですが、お荷物は足りているのでしょうか。少なすぎるような……」
「ああ、もともと荷物は少ないんだ。大丈夫」
「そう、ですか」
すると翡翠は安心したように、息を吐いた。本当に、表情豊かだ。
そうして翡翠は部屋から立ち去っていった。
改めて部屋の中を見る。広すぎる部屋に、大きなベッド。イスも幾つか置かれて、本当にここは俺の部屋なのかと、不安感というか落ち着かなさを味わう。
しかし、時機に慣れるだろう。
俺は、自分の家に、帰ってきたのだから。
□□□
食事とは和やかな雰囲気なモノで行うものだと、俺は思っている。硬い雰囲気のまま食べる食事というのは空気に感化されて、硬くなり、冷たくなり、味気ないものになってしまう。
例えば、今日の夕食のように。
料理は素晴らしかった。今まで口にしたこともないような、所謂高級な料理である。恐らく食材から調味料の段階までこだわっているのだろう。庶民的な生活に馴染んでいた俺には、美味いには美味いがどうにも舌がついていかない様な料理だった。それでも、美味いと正直に頷けるモノだった。
「……」
「……」
無言。
冗談のように長いテーブルの端、対面するように座りながら、俺と秋葉は黙々と食事を進ませていた。馴染みの無いナイフとフォークに四苦八苦する俺に、秋葉は若干ではあるが苛立ちを滲ませていた。いや、そんなテーブルマナーなんて知らないぞ俺。琥珀さんと翡翠は主人と同じ食卓には立てないと、二人とも食事を取らなかった。
胃袋を満たすための時間だというのに、結局胃袋を痛める様な時間となってしまった夕食を終え、俺と秋葉は食後の紅茶を飲むことにした。取り合えず、秋葉と何か同じ事をする事がいいのではないかと、思った結果だった。
「どうです、お口に合いますか?」
「ああ、種類は分からないけれど、美味いなコレ」
食後のお茶は、夕食と打って変わって和やかな雰囲気だった。神経質な空気は消え去って、俺たちは同じ空間を楽しんでいた。
「有間では紅茶を嗜んだりはしなかったのですか?」
「ああ。向こうはどちらかと言えば日本茶だとか飲んでたような気がする。でも、それも趣味の範囲ではなかったなあ」
あの和風な家で紅茶を飲む機会はあったが、それでも日本茶よりは少なかった。
「秋葉は紅茶が主か?」
「そうですね。紅茶は種類も多く、更に時間によって味が変わっていくので、様々な味を楽しめますし。今度よろしければ教授差し上げましょうか?」
「うん。秋葉が良ければ」
秋葉は本当に楽しそうだった。それにつられて俺もなんだか楽しくなっていった。そして、これが家族としての時間なのかと、俺はしみじみ実感した。今まで離れ離れで交流も無かった、たった一人の肉親とこうやって同じ時間を楽しむ。そんな事が、とても心地よい。
秋葉も、この時間を楽しんでいるだろうか?
楽しんでくれたら、俺も嬉しい。
そして気付いた。冷たく、刺々しいと思っていた秋葉だったが、話しているうちにそんな意識は変わっていき、お堅いような感じはするが、決して嫌な性格ではない。
秋葉は、俺の妹なのだ、と改めてこの時実感した。
すると、何故だろう。
―――空っぽな内側を感じた。
今までよりも、強く、響くように。
「そう、言えば」
だからだろう。こんな質問をしたのは。
「親父は、どうして死んだんだ?新聞にも書いてなかったし」
少しの間を置き、秋葉は言う。
「お父様はお体の弱かったお方でした。なので、其れが原因で」
「ああ、そうだったか」
記憶の中に映る父の姿は妙にやつれ、床に伏せている事も多かった。それが何故なのか、俺は終ぞ知らなかったが、それでも親父が健康体ではなかった事は覚えていた。
そうか、親父の最期はそんなものだったか。特に記憶にもいない親父の事を思ったが、結局感慨深さは浮かばなかった。しかし、体が弱いか。
「やっぱり、俺も親父の影響を受けてるんだなあ」
「え?」
一人呟いた言葉に、秋葉が反応を示した。
「ん、どうした秋葉?」
「いえ、影響がどうとか……」
「ああ、俺の体が弱いのも、親父の影響があるかもってさ。最も、俺の場合は事故が原因なんだけどな」
「そう、ですか。そういえば兄さんもお体の方が、その、あまり……」
「そうだな。貧血持ちで良く倒れるし、あまり多く食べる事も禁止されてるし」
「……今日は、大丈夫なのですか?」
「今日は調子いいな。貧血も起こしてないし、だから安心だ」
そう言うと、秋葉は少しばかり柔らかな笑みを浮かべた。
「安心しました。もし、調子が悪かったらすぐに言ってくださいね」
それを聞いて、少しだけ可笑しくなった。
「どうして笑うのですか。私は兄さんのことを心配していて……」
「だからだよ。秋葉結構優しいんだなって」
すると、秋葉の顔はあっという間に真っ赤になってしまった。
「……当然です。兄さんは遠野の長男なのですから。……心配して、何が悪いんですか」
そっぽを向いて小さく呟く秋葉の姿が、妙に可愛く思えた。
□□□
自分の部屋に戻り、そのままベッドに横になる。
慣れない部屋で寝れるのかと少しだけ心配になったりもしたが、果たしてそんな事は関係なく順調に睡魔がやってきた。視線の先、天井が随分と高い。
それを見ても、全く違う内装を見ても、やはりここは自分の部屋なのだろうかと、改めて思う。でも、今更有間の家に戻っても、居場所なんて無い。今日、別れを告げたのだ。
帰る、か。
「帰って、来たんだよな」
実感は無いけれど、それでも秋葉と会話して、少なくとも足がかりのような、折り合いのようなものは出来たような気がする。
記憶の中にいる少女たち。そして自分。
不安はある。杞憂もある。
だけどまあ、これから馴染めばいいだろう。
なんとかなる。
今は、このまま睡魔に任せて眠るに限る。
そうして、俺はまどろみ、やがて眠りにつく。
内側にぽっかり空いた虚ろは、結局虚ろのままだった。
□□□
遠く、どこからか犬の鳴き声が聞こえる。それは月に届かんばかりに響く遠吠えであった。夜を切り裂くように、犬は吼え続ける。
でも眠いから、自分には関係ないと眠り続ける。
どうせ外の事。時間が経てば、犬もどこかに消える。
だが、犬たちは喧嘩でもしているのだろうか。
遠吠えはやがて吠え立てる犬の鳴き声へと変化していく。
まどろむ意識の混濁に聴覚は次第に機能を失っていく。
そして、犬の悲鳴が聞こえたような、気がする。