七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 とある男の話をしよう。
 
 ただ殺すために生れ落ち、それゆえに血に塗れ続けた男の物語を。


第七話 人殺の鬼 Ⅰ 

 七夜朔は自らを人間と思っていない。

 

 人間であるはずがない、とさえ思っている。

 そう確信し、確証している。自分は人間以外の何かなのだと、思い込んでいる。

 

 何故なら、彼には望みがなかったからだった。

 

 夢がない。希望がない。理想がない。目的がない。理由がない。価値がない。意味がない。

 そして、生きようとする渇望もない。

 

 彼の中身には何も注がれる事がなかった。七夜朔という器には彼以外から注がれる意というものが何もなかった。彼には何も注がれなかった。

 

 それを是とも思わず、また非とも思わない。

 

 彼には彼のものしかなかった。彼が自ら抱いた願いしか、なかった。

 

 故に、彼は人が理解できない。他人から影響されず生きてきたものが、他人を理解できるはずがなかった。そうして彼は呼吸を続けてきた。

 

 だから、七夜朔は自分を人間だと思っていない。そんな上等な生物である、はずがない。

 もし、彼が人間であるはずならば、彼は人間の感情を理解できるはずだった。

 

 無上の至福に歓喜し、腸の煮えくり返る憤怒を抱き。

 悲嘆に声を上げて絶望し、幸福に唇を噛み締めて涙を流す。

 

 そのような事が、彼には理解できず、共感できない。

 それを彼は不幸と思わなかった。何故なら彼は幸福がどういうものかさえ理解できないのだ。

 そんな存在が、果たして人間であるはずがない。

 

 だから彼は機械だった。自らが持つ機能のままに動き、結果を生み出すだけの機械。ただ無情に、ただ無機質に、己の持つ機能のままに動く。そんな精密機械でしかなかった。

 

 そして、七夜朔の機能とは殺す事だった。それだけが彼の持ちえる唯一で、全てだった。

 

 それ以外を持つことなく、理解する事もなく、ひたすらに殺意を研ぎ澄まし、研鑽を重ねた。内臓を握り潰し、首元を打ち砕き、喉笛を噛み千切り、心臓を抉り出し、脳髄を撒き散らす。それだけが彼にできるたった一つの機能だった。

 

 そして彼の足元には屍が積み上げられ、血だまりの海が広がった。

 彼の周りに生者はおらず、亡骸が道を成した。

 

 そんな者が人間であるはずがない。人間でいいはずがない。

 

 彼はきっと侮蔑と嫌悪に塗れ、畏怖と恐怖に溺れ、憎悪と害悪に歪み、全ての負に晒される。人間を理解できず、共感も出来ず、ひたすらに殺戮を続ける彼が、人間でいいはずがない。それを果たして人と呼ぶべきか。そんな存在が、まるで化け物のような存在が、人間と呼ばれるべきか。

 

 彼はきっと化け物のような化け物なのだろう。

 それ以外にはなれない。それ以外には、成れない。成り果てるしかない。

 

 故に、彼は――――。

 

 □□□

 

 昨夜と今朝の狭間の時間。それは目蓋を薄く開いた。

 

 鉄骨に身を委ねながらも、虚空を思わす深く静謐な瞳はゆれることもない。僅かに届く人工の光も入らぬ埃っぽい暗がりに、虚空を思わすその蒼色は煌々と輝いていた。左肩から不自然に垂れ下がる中身の無い袖。妙に違和感を感じさせぬ出で立ち。

 

 そこは街中にあるどこにでもあるような工場現場だった。乾いた空気が白色の布に覆われた工場現場の中に渦巻き、淀みすらも開かれた天蓋へ吹き飛ばしていく。

 

 そんな場所に人はあまり来ない。来たとしても、今の時刻。従業員すらも立ち寄らぬ深夜に人は侵入してこない。用もない者が好き好んで立ち寄る事もしないような場所である。

 

 男はそんな場所にいた。藍色の和装に身を包み、中身の無い左側の袖を揺らしながら、その男は布を被ることなくこの工場で一眠りした。冬に移行する秋の夜を過ごすには、少しばかり肌寒い時機であるが、男はそのようなものには影響もないように、そこで眠りについた。

 

『よウ。ひひ、目醒めたカ、朔』

 

 そのままその場にて動かない男、七夜朔に対し、頑健な工場の鉄くずが声帯を持ち、口を開いたかのような金属の悲鳴にも似た声がかけられた。

 

 七夜は反応しない。響く声にも、声と呼ぶにはあまりに不快な軋む音にも、まるで聞こえていないかのように反応しない。ただ、そのような事は分かっているのか、金属は引き攣る笑いを堪える事もなかったのだった。

 

『ひひひ……』

 

 けたけたと、金属は愉快に笑う。

 

 工場現場には七夜以外の人間は見えない。それ以上に生物の気配がなかった。害虫や、害獣。それらが一切その現場にはいない。ナニカの存在を感じ取り、近づくのを嫌悪したかの如くに。

 

 故に、そこには金属しかなかった。真っ白な布。朽ちた金属。欠けた鉄骨。

 

 そして、打ち捨てられたように地面へと放り出された日本刀のみである。

 

 鞘に収められた日本刀は七夜の手元に置かれているのではない。七夜からは離れた五メートル以上の場所、それこそ投げ出されたように、それはある。

 不可思議な事に、黒漆塗りの鞘は数枚の札と数珠が巻かれ無理矢理何かを抑え込んでいるかのような印象を与える日本刀だった。これと言って刀を特徴付けるものは鞘に収められているからか見られない。 

 

 ただ一つ、それを何かと現すので在るならば、柄に骨喰(ほねばみ)と銘が刻まれているだけであった。

 そして、日本刀――骨喰は如何様な怪異か、その収められた刀身から軋むような声音を発するのであった。

 

『で、だァ。約束は今日らしいな。ひひッ、勝手なもンだ』

「……」

『朔。手前はどうすル。行くか、行かんのか』

 

 そのどちらを選択しても面白いと、骨喰は言外に囁く。どうせ俺たちには、個人には関係ないのだと、骨喰は笑った。

 

「――――」

 

 考えるまでもなかった。七夜は七夜のままで動く。誰の意志でもなく。自らの意志で。

 

 体を動かす。半端な体勢によって眠りについていたせいか、体の筋肉と関節が僅かばかりに固まっていたが、それを無視する形で立ち上がる。動きに淀みはなく、ゆらりと立ち上がった。隙間から差し込む明るい光が七夜を映し出す。

 

 温もりなく、感情も宿さぬ蒼の瞳。

 深く深く、空を思わすその蒼は、なおも蒼く輝く。

 

 そして、立ち上がるその右腕から、未だ乾かぬ朱の色が肌を伝い、錆色に垂れた。

 

『血ぐらイ拭え。獲物に餓えた獣ガ這い寄って仕方ねエ』

 

 垂れる血は溜まり、やがてソレに伝っていく。

 朔の前方。蒼く全てを映し出すような瞳の中に、ソレはあった。

 

 着物を纏った、白髪の男がそこで倒れ伏していた。投げ出され手足は強ばり、髪の隙間から見える表情は瞳を閉じながらも驚愕を張り付かせている。

 

 呼吸はしてない。

 心臓は、ない。

 

 深夜の始まりに、朔は何かを殺した。ナニカの存在が放つ気配、人外の匂い。魔の匂い。人間とは相容れぬ者の匂い。それらを感じ、朔は名も知らぬ、それが一体何なのかさえ知れない存在の心臓を抜き取り、握り潰した。

 

 その存在が何なのか、朔にとってはどうでもいい。今となってはどのような事を口にしていたか覚えていない。心臓を完膚なきまでに破壊した後、死体はそのまま放置した。それは朔の役割ではない。それは考慮する事ではなかった。その様な事、朔にはまるで関係のない事だった。

 

 アレを殺す理由すら、朔には持ち合わせていなかったのだ。

 

 しかし、朔は殺した。

 

 完膚なきまでに心臓を破壊した。心臓を握り潰し、破裂する心房を磨り潰し、千切れた肉片と化すまで握り続けた。

 

 もし、七夜朔に理由があるとするのならば――――。

 

『オい、俺を忘れてンじゃねえ』

 

 骨喰の言葉を朔は無視しながら、歩み始める。

 

 そして死体だけが残された。

 

 右腕を血流に赤く染め、地面に血痕を残しながら、勇気の如くにゆらゆらと歩むその姿。

 

 ――――その姿は、殺人鬼以外の何物でもない。

 

 頭上、開かれた天蓋。

 そこに、月はなかった。

 

 □□□

 

 日ノ本の国とは魑魅魍魎たる者の巣窟である。

 

 人が存在するからこそ、人とは対極的な魔も存在する。その関係性は喰うか祓われるかのものであり、極僅かに人間社会との共存を果たす魔もいなくはない。国としての気質とも言うべきか、周囲を海に隔離され、その国土の殆どが山であるため、古来に産声を上げた怪異はその独自性を保ち続けた。それ故に他の魔とは一線を書く者が多い。それ故に日本は独自の組織形態を形成し、それらに対抗してきた。

 

 退魔、と呼ばれるモノがいる。彼らは悪霊、あるいは怨念と言ったものや、果ては物の怪と称される存在に対応するものたちである。彼らは祓い、封するものたちであり、其処が殲滅を是とする教会とは異なる。更に行ってしまえば、彼らは魔の存在を考慮し、受容している部分さえある。それが教会と、日本の退魔が折り合わない根本の理由だった。

 

 神の教義では対応できぬものへの絶滅を第一とする教会と。

 人間の生活を守るための手段として魔に相対する退魔。

 

 彼らはそもそも目的が違っているのだから、反りが合わないのは道理である。

 

「……」

 

 其処は香辛料の香りが満たされた店内であった。スパイシーかつエスニックな香りが鼻腔をくすぐり食欲を誘う。時間は昼時であるから、店内には人が多い。中々繁盛している様子だ。なればこそ、早めにいて良かったと、シエルは改めて思った。

 

 店内の奥、一番端のテーブル席であり、そこからは硝子越しに店外の道なりや行き交う人々が良く見える。そこでシエルは片手にスプーンを握りしめ、黙々と真剣に、それでいて笑顔を惜しみもせずにカレーを口に運んでいた。

 

 食事中である。シエルはここ、メシアンのカレーを食していた。

 

 一人でカレーを食し、一口食べるごとに笑顔を零すその姿は料理人冥利に尽きるやも知れないが、一人っきりで食べているのにその満面の笑みは少々不気味ですらある事を今ここに記しておく。しかしながらシエルはただひたすらにカレーを食していた。

 

 目の前にカレーがあるのにそれ以外を優先させるのはカレーに対しての無礼である、とさえ思っている彼女はカレーを食している間、他の作業を行う事を良しとしない。嘘偽りなく、自分の全てをカレーに対して曝け出す。それはあたかも神に跪く聖職者の如く。

 

 そんな彼女の仇名はインド。正しく彼女を表した名であろう。

 

 だがこのような時間帯。食事時の頃に制服姿のシエルがいるのはあまりに不自然なようにも思える。それでいて彼女は西洋人。注目の的にならないほうがおかしい。

 

 しかし、事実はどうだろう。

 

 周囲の人々、そろそろ満席となり始めた頃に、彼女の座るテーブル席には相席する者もおらず、誰も彼女を見ていない。それどころか、誰も彼女に気付いてすらいなかった。

 あまりに不自然だ。一種異様とも呼べる。

 

 だが。

 

「失礼。相席をしても?」

 

 シエルに近づく男がいた。

 

 男は少し寄れた背広を着こなし中肉中背の男だった。穏やかな表情に銀縁眼鏡をかけた、何処にでもいるような姿の男だった。一見してサラリーマンが食事に来たような、そんな気軽さと気だるさを醸し出した男である。

 

「ええ、よろしいですよ」

 

 そして、それにシエルは眉を潜めることなく微笑で応えた。

 

 シエルの言葉に男は「よっこらせ」と零し、シエルの対面の席に座る。

 

 それから暫く二人は無言だった。二人のいるテーブルはまるで周りから切り離されたかのように喧騒が遠い。男は何も喋らず、ただ口元を緩めてシエルを見つめ、シエルはそんな男を気にすることなくカレーを堪能していった。カレーの盛られた皿が綺麗になり、そこで一段落したのち。

 

「驚きましたよ。教会の、それも埋葬機関の人間が日本の退魔に正式に接触してきたなど」

 

 口元をハンカチで拭きなおすシエルに、男は声をかけた。

 

「ええ。私も少々驚いています。けれど機関長の命令なので、命令には従わなくてはなりません」

「そうですね。私も上からの指示には逆らえません」

「お互い、苦労していますね」

「全くです」

 

 上辺だけの言葉を互いに並べる。

 

 しかしながらその苦労は推して図るべきだろう。上司に苦労する部下の構造は何処に行っても同じと言う事だろうか。二人は全く同時に己の上司を思い浮かべ、そしてため息をついた。

 

「埋葬機関第七位シエルです。今回は協力要請にお応えくださり感謝します」

「私はこの一帯を纏める退魔の人間です。今回は教会の協力要請に答えるため、ここへ」

 

 二人は、所謂日の目に当たることなき世界に属する両者である。世界には表に出すべきではない闇がある。それを殲滅し、撃滅し、封殺し、隠蔽する事が二人の仕事でもあった。そしてシエルは教会の暴力である埋葬機関に所属する者であり、今回は日本へとある存在の討伐に赴いてきた。

 

 基本的に教会は他の退魔組織に関し協力を要請することなどない。そも、彼らすら教会の教義に従わない異端である。そのような存在に対し、協力など結べるはずがない。だが、今シエルはここにいて、退魔はその目の前にいる。

 

「しかし、何故制服なのですか?」

「潜入していた学校から抜けてきて直接ここに来たので。着替える暇がなかったのです」

 

 シエルの言葉に、男の表情が僅かに曇る。

 己の管轄を他のものが勝手に潜入し探りを入れているなど、決して良い感情は与えないだろう。

 しかし。

 

「それはあまり他の者には言わないでくださいよ。手続きやら工作が増えて仕方がありません。最近はただでさえ忙しいのですから。強硬派が挙って行動を始めたら胃が持たない」

 

 気苦労を吐くように、男は肩を落とす。

 

「すいません」

 

 悪びれもせずにシエルは言う。その姿に男は更にため息を吐くのだった。しかし、その対応は、シエルの行動を黙認すると言う事に他ならない。なるほど、とシエルは男を見る。組織としてではなく、役割としての実を取る。中々賢しい人間であるようだ。

 

「しかし、ここにいるという事は協力関係を結んでもいいということですね」

「ええ。中央の命令には逆らえません。それに今は協力してくれたらありがたいです」

「今は、ですか。それは最近の吸血鬼騒動ですか?」

「まあ、それもありますが」

 

 どこか歯切れ悪く、男は肯定を示す。

 

 ここ数日。この三咲町一帯で吸血鬼騒動と称される事件が巻き起こっている。それは被害者の首元に日本の穴があり、そこから血が抜き取られているというものであり、被害者の数は増加の一途を辿る。マスメディアや警察では愉快犯の犯行と見られ調査が進められている。

 

 しかし、それは表での話しだ。

 

「吸血鬼が登場してから行方不明者の後が絶ちません。今は表沙汰になっていませんが、しかしこのまま犠牲者が増え続ければ、大変なことになります」

 

 吸血鬼は実在する。いや、正確には吸血種と呼ばれる存在は確かにいる。

 

 そして今、三咲町を騒がす犯人の正体は吸血鬼。

 

「正確な数は?」

「五十は下らないかと」

 

 情報では死者ばかり報道されているが、しかし実際は行方不明者の数が増加してる事が問題だった。現在は情報規制を行い、混乱を防いでいるが、もしそれが表沙汰になってしまえば三咲町は恐怖の町として恐慌状態になる可能性がある。余計な混乱を防ぐためには致し方ない事なのかも知れないが、住民の安全を確保するためにはある程度の情報は流すべきではないだろうか。

 

「公表は現在不可能です」

「え?」

「情報規制を行っているのは私たちではないのです」

 

 思っていることを当てられ、シエルは思わず声を漏らす。

 表情を全く変えていなかったのに、この男はシエルの疑問に答える。

 

「では、誰が?」

「遠野です」

 

 そこで、男はカップに注がれている水を口元に傾けた。

 溜飲を押さえ込めるように。

 

「現在三咲町では退魔と遠野の協定が結ばれています。なので三咲町のことに関して表も裏にも名がある遠野がそこらへんを纏めているのです」

「ですが、それでは住人の安全はどうなるのです」

「今現在、起こっている事に関しては何とも言えません。確かに報道を規制する事で無用な混乱を防ぐ事はできます。しかし、それでは安全ではないのです。どれほど隠そうとも危険には変わりありません。だから私たちは誰にも知られる事なく人々の安全を守らなくてはなりません」

「そうですか。……遠野は何故その様な事を?」

「さあ。現在の当主である遠野秋葉の決定らしいですが、詳しくは分かりません。しかし、私たちのやることに変わりはありません。ただ私たちは原因を取り除けばいいのです。所詮末端でしかない私にはどうでもいいことなんです」

 

 所詮上が何を考えているかなんてどうでもいい。

 ただ実を取り、ひたすら命令に従う。

 それはまるで軍人のような意志であった。

 

「……」

「ああ、そうだ。シエルさん。吸血鬼に関して、何か情報はありませんか?お恥ずかしい限りですが、私たちは対応に追われる一方で犯人像……犯鬼像を掴んでいないのです」

「ある程度、ならですが」

「それは話しても差し支えのない内容ですか?」

「未だ憶測でしかないようですので、教えても問題はないかもしれません。しかし、それを聞くと言う事は協力していただける、という事ですか?」

「……私に確約できる事は情報の共有ぐらいでしょうか。共闘となれば難しいかもしれません」

「それでもかまいません。情報だけでも充分かと」

 

 男は暫し黙考する。そして「協力しましょう」とだけ言った。

 

 そしてシエルは己の考えである犯人像をつかませない程度の情報を話す。全てを話すには信頼と言うものがあまりに足りない両組織である。男もそれは分かっているだろう。何も言わずに頷くだけで、深くは追求しなかった。しかし、シエルの人柄ゆえに、ほんの少しだけの確信にも似た憶測を言葉にする。

 

「もしかしたら、犯人に遠野の人間が関わっている可能性があります」

「それはつまり、遠野が犯人であると?」

「いえ、それは尚早です。ただ、可能性での話です」

「何故、そう思うのですか?」

「遠野が情報に関わっている、というのも一因ですが。あとはそうですね、勘、でしょうか」

「……」

 

 シエルにとっても、男にとっても勘というのは意外と馬鹿にならない。それは魔に関わる二人だからこそ分かる、常識外の力であった。ただ、シエルにとって違うとすれば、それは感でなく、確固たる理由があるからこそ。そして犯人の特徴が分かっているからこそ。

 

「分かりました。それとなく遠野に探りを入れておきます」

「よろしくお願いします」

 

 そこで話し合いは暫しの落ち着きを見せた。気付けば時間は少々経ち、人が少なくなり始めている。その流れに身を任せることはない。何故ならシエルには学校へと戻る理由がやってきていないし、何より目の前の男に対し、もうひとつだけ聞かなければならないことがあるのだ。

 

「もうひとつ、聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」

「かまいません。時間にも余裕があります」

「はい、それでは」

 

 そこでシエルは一端言葉を区切る。

 

「七夜朔という人物をご存知ですか?」

 

 瞬間。恐らく七夜の名が飛び出た時、男の表情が一変する。それまでの表情、まとう雰囲気とは打って変わる。凍えるような無表情。気軽さ、気だるさは掻き消され、銀縁眼鏡の奥にある瞳はひたすらに冷たい。氷のような、瞳だった。

 

 あるいは、この表情こそ彼の真実の顔なのだろう。今までの表情は全てがフェイクであり、しかしその仮面の内側には怜悧が湛えられていたのか。

 

「どこで、その名を?」

 

 慎重に、あるいは荒を探すように、男は言葉を選ぶ。

 

「冬木の報告書から。私たちの部署の物好きな機関長にその内容が目をつけられたのでしょう。私も少しだけ目を通しましたが、詳細が全く掴めないのです」

「蟲翁(むしのおきな)の件か……」

 

 舌打ちを一つ。

 

 とある異変がここ数年の内、日本で起こった。

 

 妖怪、蟲翁が討伐されたのである。

 

 蟲翁とは、かつての資料によれば西洋より日本に渡った魔術師の一族の妖怪だった。それが時を重ね、その体を蟲に組み替えた事により各地の人間を襲い始めたのである。魔術師であることもおこがましいものだと言うのに、ただの人を襲い始めたのは許されざる事ではない。

 

 それ故幾度となく討伐隊が組まれたのだが、悉く撃退され、殲滅された。肉片すら残されずに、討伐隊は蟲翁の腹に収まったのである。そのあまりの非常識さ、強大さ、狡猾さに、ここ数十年蟲翁は放置されてきた。

 

 しかし、それが討伐されたのである。

 

 そして、討伐した人間が七夜朔という存在だった。

 

 七夜朔の存在が教会に知らされたのは、とある報告書だった。その近辺を纏める教会の男、蟲翁の討伐に共闘した男が記した報告書が、気まぐれを起こした埋葬機関ナルバレック女史の目につけられたのである。あるいは、共に性格の悪さに評定のある二人が何らかの縁を生み出したのかも知れないが。

 

「流石に、教会の人間への隠蔽は不可能だった。という事か」

 

 苦渋を舐めるように、唸りが漏れる。

 

「あなたは七夜朔を知っているのですか?」

「……」

「教えていただけますね?」

 

 念を押すシエルの言葉に、男はくぐもる。

 

「だが、それは――――」

「情報の共有」

 

 口元を濁そうとする男を、シエルは逃がさない。

 

「貴方は先ほど情報の共有なら可能だと、言いましたよね?」

「……それは今回の吸血鬼事件に関することだけだ。それ以外の情報を提供する事は認められない」

「認める認めないの問題ではありません。あなたが七夜朔を知っているかどうかです」

「……」

 

 そして二人は見つめあった。若干の敵意と、疑念を秘めた視線。シエルの瞳が、僅かに煌く。それは美しさを湛えながら、空洞のように怪しく揺らめく。

 

「強引だな、教会の人間は」

「ええ」

「傲慢だな、埋葬機関は」

「はい。それに関しては自負があります」

「魔眼まで用いるとはね。それも命令か?」

「残念ながら。確実にと言われたので」

「……七夜朔に関しての情報開示は認められない。それは最早中央でも決まっている。私の逆らえるものではない」

「……そうですか」

 

 男は相変わらずの無表情である。しかしながら、その冷たさは少しばかり変質し、若干の呆れを含ませていた。シエルの無理矢理な行動に、ありえなさを見たのであろう。交渉役としての行動ではない。

 

 命令を遵守する。それは末端の役目なら極自然なことだ。当然守らなくては成らないものである。そうでなければ、疾うに切り捨てられる。それは裏の世界の住人であるならば尚更な事だった。

 

「ただ」

 

 そこで、はたと男は言葉を止めた。

 

「中央の情報は駄目だが、私自身が聞いた話だけならば提供が出来る」

 

「……何故、教えてくれる気になったのですか?」

 

 ありがたさよりも先に、疑念がシエルを包み込み、口を開かせた。

 

 情報提供を拒んだ相手が、突然翻意し七夜朔の情報を晒す。あまりに納得のいかない事である。故にシエルは疑りの目を向ける。

 

 それに、七夜朔の情報を提供しても、この男には役得がない。七夜朔の情報はシエルが現在追っている吸血鬼とは別な案件であり、ここでシエルに話したとしても今回の三咲町には全く関係がない。組織は情報の開示を殊更に拒絶する。故に情報を話したとしても、この男の身辺に影が差し込む危険があるばかりで、実利がない。

 

 シエルの疑念を浴びて、男は柔らかく笑んだ。

 

「シエルさん。私は今日、捨て駒にされたのです」

 

 柔らかな仮面。態度が変化していった。厚い、感情を隠す仮面。

 

「埋葬機関の対応とは、恐らく貴方が思っている以上に厄介です。別に敵対していれば問題のですが、埋葬機関(貴方たち)と退魔(私たち)は今まで互いに不干渉を貫いてきた。しかし、欧州を遠く離れたこの極東の地でも教会の暴虐は聞き及んでいます。その横暴とも取れる実力行使と他を省みぬ振る舞いは、日本人たる私たちには脅威以上の恐れすら抱かしたのです。その相手が自らこちらに接触してきたのですから、上は歯噛みしたのでしょう。それ故にどうするかを検討したのです。碌な手続きすら行わずに強引な接触ならば、まだやりようがあった。敵意を剥いた相手には悠然と立ち向かえばいいのです。しかし、現実は正式な手続きを踏んだ接触です。そのような相手を無碍にする訳にはいかない。誠意には誠意を返さなければならない。突っぱねれば良かったのかも知れませんが、悲しいかな日本人の性質は真に度し難いものです。受け入れてしまった。あまりに強大な存在を懐の内にです。でなればどうするかという訳で、選ばれたのが私です」

「……」

 

 埋葬機関が他の組織に正式な接触、しかも協力要請を行ったのは、埋葬教室から始まる歴史においても前例を見ない。彼らが動いた結果は常に事後承諾だった。

 

「今、私の体には爆薬が巻きつかれています」

「なっ――――!?」

「ここら一帯、一キロ以上を地獄に出来るぐらいには威力のあるものです」

 

 シエルの目の前で、男は背広の中身を開く。背広の内側には糊の効いたワイシャツと、それを覆い尽くすように、薄いプラスチックの入れ物が到るところに張り付いていた。背広を着こなしていればまるで分からぬ凹凸のない滑らかな入れ物だった。

 

 その中には特別製の爆薬が納入されている。爆薬とテルミットを複合させたようなそれは猛火と爆炎を徒に撒き散らす代物であり、小規模な街ならば丸ごと消毒せしめる威力を誇る退魔特製の一品だった。

 

「もし、今日ここにきた埋葬機関の代行者が無作法にも実力行使に出るのであるならば、せめて一矢報いる。それが上の消極的な結論です。それ故に、下っ端であり碌な働きもしない私が選ばれたのです。捨て駒として」

「そんな事などして、意味はないはずです」

「そう。意味は無い。しかし、ただでは返さない。必ずや抵抗を行うべし。そんな命令です。どうです?あなたには理解できないかもしれません。けれど、一矢報いる。もしかしたら起こるかもしれないその時のために用意されたのが、私です。どうです、シエルさん。あなたは笑いますか?」

「―――――」

 

 シエルは絶句を、しなかった。

 ただ瞠目し男の言を聞き続けた。

 そして脳裏に映るのはかつて自らが体験した筆舌にし難い地獄だった。

 

「……笑いません」

「……」

「私はそれを笑いませんよ」

 

 そうしてシエルは男が見惚れるほどの笑みを見せつけた。

 

「――――そんな貴方だから、話す気になったのです」

 

 どこか安寧を滲ませて、男は言葉を漏らした。

 

 しかし、男は見逃したのだった。

 シエルの双眸、瞳の奥に覗く影を纏わりつかせた執念の業火を、執着の憎悪を。


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