七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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過去編 Rhapsody in Crimson 中

 ちん、と鈴を指で弾いたような機械音を響かせてエントランスのエレベーター、その扉がゆっくりと開かれた。

 

 

 誰もいない扉の中には噎せかえらんばかりの血が溜まっていて、扉が開かれた事によりそれが外へと流れていく。

 

 

 そしてその血の中に、一際目立つ金属の色合いが見えた。

 

 

 良く見るとそれは星型のブローチであり、内部に納められた家族写真には壮年の男と、美貌を湛える女性、そしてその間には太陽のような笑みを溢す少女の姿があった。

 

 

 しかし、エレベーターの床を満たす血により写真は殆ど赤く染まって良く見えないし、ブローチもまたその輝きを赤く歪(ひず)ませており、本来の美しさからは程遠かった。

 

 

 ぴちょん。

 

 

 沈黙が横たわるエレベーター内にひとつ、水の滴る音がして緩やかに波紋を生み出した。

 

 

 ぽたぽたと血の滴りは等間隔に繰り返されて、壁際に赤色の水分が伝う。

 

 

 まるで天井に何か在るようだった。誰か、いるようだった。

 

 

 そして、そこには――――。

 

 

 □□□

 

 

 政略結婚ではあったが、妻の事は大切にしてきたつもりだった。

 

 

 結婚し子供を授かる事の素晴らしさを知りつつも、なにぶん恋愛には向いていない性格だと辰無自身が熟知し、それに向いていないと知っていたから辰無は結婚願望を持ってはいなかった。だからだろう、辰無は流れに身を任せる形で久我峰からの縁談を引き受けた。

 

 

 打算が無かったとは言い切れない。久我峰の系譜に期待する価値は大きく、より久我峰との繋がりを強固に出来ると考えれば拒否する理由も無かった。

 

 

 そして出会った唯葉は穏やかな女性だった。

 

 

 決して傾国の美女とは呼べぬ容貌であるが、柔らかな目元と柔和に相手を包み込む女性らしさを始め、当時四十間際とは思えぬ美貌は二十台を思わせ、少しずれた性格や明るい所など大変魅力的な女性だった。

 

 

 辰無よりも年上であると言うのに婚期を逃して初婚という点だけは意外だったが、いつしかそれも気にはならなくなった。

 

 

 ただ、それだけでは辰無は妻を受け止めはしなかっただろう。彼の屈折した人格からして言えば、彼女の人格や態度と言うのはひとつの要因に過ぎなかった。

 

 

 しかし、それでも彼女を妻として向かいいれ、更に受け止めたのは彼女が辰無を理解したからだった。良い様の無い窮乏から這い上がった精神構造を始め、他人への異常な憧憬、己への卑下。彼を成す黒き素養の全ては他人を周りから遠ざけるには十分すぎるものであったが、唯葉はそれを理解したのだった。

 

 

 唯葉は名家に生まれ育った女性だった。彼のような最下層の暮らしを味わった人間など知りもしなかっただろう。腹を空かせて野良犬を喰い、飢えを忍んで腕を噛んだ。死体を漁って服を奪い、泥を啜って咽喉を潤した。大よそ全うな生活ではない。しかし、仇川辰無はそういう人間だった。そして上流階級に生きる存在ならば、汚い存在ほど遠ざけておくことが何よりも賢しいだろう。

 

 

 しかし、彼女は努めて辰無を理解しようとした。

 

 

 政略結婚は本人の意志が介入する余地のない呪縛だ。だから合う合わないの選定基準は論外であり、重要なのは肩書き。あるいはその背景であり、個人というものは蔑ろにされる。それを唯葉は理解しながらも、辰無との結婚を喜んで受け入れた。

 

 

 辰無は不思議だった。何故彼女は自分を受け入れようと努力したのか。どれだけ尋ねても彼女の少々変わった答えに鼻白み、格式ばった結婚を経て、いつしか時が流れた。

 

 

 性格が合っていたのだろう。冷たい虚無を抱く辰無には彼女の包容力は物珍しく思えた。

 

 

 恋愛結婚ではなかったのが良かったのだろう。恋愛結婚によって成立した男女は互いを知り尽くしている故に亀裂が生じやすく、いらぬ部分にまで視線が行きがちで容易く離縁となるらしい。

 

 

 子供が早くに出来たのが良かったのだろう。子はかすがい。古い言い回しではあるが、唯葉の胎が大きくなってから彼女を懇切大事にしてきた。出産適齢期を越えていたから、母体に何かがあってはいけないと辰無は精一杯彼女を守り補助してきた。

 

 

 しほ子が可愛らしい子供だったのが良かったのだろう。唯葉に似て愛らしい彼女はすくすくと育ち、これからの未来をそれとなく楽しみにしている己がいた。

 

 

 理由を探せば幾らでも探せる。それこそ取るに足らない些細な事柄であろうとも、理由としては充分だった。それほどまでには辰無は唯葉を妻として、しほ子を娘として認識していた。家族として認識していた。

 

 

 □□□

 

 

 目的地である仇川マンションは容易に発見できた。

 

 

「―。――――」

 

 

 昼の風が硬く朔を包みこんだ。入り組んだ街の構造に地上二十五メートルを越える高さではビル風が巻き起こり、隣接するマンションの壁へと張り付く朔の体を突き飛ばそうとしている。少々埃っぽい匂いが風に紛れて何処かへと消えていく。

 

 

 眼前に視える仇川マンションは発展を遂げているこの街に於いてもまず見ない特徴的な姿で、それはまるで天を貫く鉄塔のようだった。近代的な外観を呈する建築群の中にあるその佇まいには異様な物悲しさが秘められていた。

 

 

「――――、―」

 

 

 仇川マンションの隣に建てられたビルの側壁に朔は、壁の僅かな凹凸を頼りとして直角に佇みその様を見やっている。地上三十メートル以上の付近にある壁に直立するその姿は、まるで人の後をついてまわる不気味な影法師のようだった。

 

 

『ひひ、漸く見つけた、なァ』

 

 

 物理法則に従い今にも地上へと落下しそうな骨喰が朔の腰元からぶら下がっている。ゆらゆらと揺られた金属の悲鳴にも似た声音が地上へと降り注ぎ、道歩く人々の神経を無意識的に苛立たせていた。

 

 

『しかし、こいつア面白え。ひひひ、仇川って野郎にゃ冗句の才能があるじゃねえか』

 

 

 ケタケタと骨喰はマンション内で何が〝起こっているのか〟を容易に見透かして笑った。不気味に歪(ひず)んだ哄笑には毒々しい愉快が含有されている。

 

 

 朔はマンションの構造を見やる。

 

 

 地表から生える氷柱のような外観。空へと近づいていくと階層が狭くなっていき、先端に至っては一部屋しか存在しない。

 

 

 そして、目標は恐らくそこにいる。

 

 

 情報は聞き流していたから骨喰に任せる事にはなるが、判断は全て朔が下す。

 

 

 だからだろう。真正面から入り込もうとする朔を骨喰は止める事が出来ない。

 

 

 ふわり、と朔の体が側面を離れて落下する。

 

 

「――、―――っ」

 

 

 刹那に堕ちる。急速に増していく浮遊感が朔の内臓を押し、体を潰す。眼下には幾人かの人間が見えるが、気付かれる事はないと確信している。

 

 

 ふわりと風に漂う白色の靄が渦を巻いていく。その空白に朔は舞い降りた。

目前に反り立つ尖塔、仇川マンション。

 

 

『ひひ、手前よ少しは忍べ。暗殺者が紛れずどうすんだィ』

 

 

 自動扉が開いた瞬間に朔の鼻腔へとたどり着いた乾燥の匂いへと入り混じる、異様な臭気。大よそ一般生活を送る場所においては嗅ぐ事もない臭いだった。

 

 

 エントランスから朔が堂々と侵入した時、仇川マンション内部は死んでいた。

 

 

 一階に居住スペースが存在しない。その広々としたエントランスには絵画や骨董など趣向を凝らした調度品や芸術品が数多く展示されている。数量で考えれば十五点以上、その壁に沿って配置されたそれはここを美術館のように錯覚させる。

 

 

 否、寧ろ錯覚を目的としてこのエントランスは作られていた。

 

 

『ハっ、こいつは良イ。なかなか上等な地獄だ』

 

 

 厭らしく骨喰は言う。

 

 

 目に見える調度品の数々は確かに芸術品として価値のあるものだ。朔にはそれに類する眼はないが、骨喰からすればそれなりには骨董品として価値がある程度のものらしい。

 

 

『こいつらを視ろよ朔。薄汚えなァ、少しばかりだが埃が被ってやがるゼ。ひひ、人間がイたらこんなもン直ぐにでも拭うだろうよなァ』

 

 

 壁際に飾られた壺の表面をなぞれば、微かにざらついた感触があった。埃が僅かに積もっている。

 

 

 しかし、埃を被っているのは壺だけではない。壁に高く飾られた絵画の縁、それ以外にも置かれた芸術品は元より、エントランスには意識しなければ気付かないほどに薄っすらとした埃が被っていた。

 

 

 歩みを進めていくと観賞用のプラタナスが生えた中央部分を通り過ぎた。その芝は伸びたままで、人の手が入っているようには見えない。良く確認すれば、プラタナスの葉も幾つか萎れている。

 

 

 それはつまり、そういう事だった。

 

 

「――――、―――」

 

 

 朔はエントランスホールをひたりひたりとその床を裸足の脚でなぞる様に進んでいく。まるで物音一つしない空間内は朔の静かな呼吸音が僅かに聞こえるのみであり、湿った黙然が重く沈んでいた。

 

 

 エントランス奥に並んだエレベーターの扉に朔は差し掛かった。左右どちらも稼動はしているようだが、今現在は動いていない。二つともどうやら最上階に止まっていた。

 

 

『ボタンを押せば来るんだろうがァ……手前に操作を期待するだけ無駄だな』

 

 

 珍しく骨喰の呆れた声音が木霊するが、朔の意識は既に骨喰には向けられていなかった。小言を紡ぐ骨喰には分からぬであろうが、七夜たる朔には感じとれるその気配。

 

 

 眼下、足元。滑らかな素材で作られた扉の隙間から、臭いが滲んでいた。

 

 

「――――、―っ」

 

 

 藍色が閃く。

 

 

 腰元にぶら下がっていた骨喰が忽ちの内に抜かれ、鞘からその刀身を露にした。刃毀れした刀身は今にも折れてしまいそうな姿だった。朽ち果てた刃は寒気すら感じ、その闇が朔を黒く抱きしめた。滲み込む重圧に朔の内臓が呻き、それを咽喉元で飲み込んでいく。

 

 

 そして朔は亡霊と化して刃を揮った。

 

 

 亡霊はその刀身を扉の隙間に差し込んで、力任せに動かした。機械によって制御された扉を開く事は容易なことではないが、梃子の原理などを用いれば扉は直ぐにでもその狭間を僅かに開く。 

 

 

 本来ならば、今にも折れてしまいそうな刀でこのような事は行えるはずが無い。刀剣は鋼を鍛えられてはいるが存外に脆く作られており、耐久力に難がある。刀工の粋を凝らした刀は武具と言う領域を越えた芸術品だ。

 

 

 ひたすらに切れ味を求めた鋼の刃は、それゆえに頑丈さは度外視される。だから遥か昔の武士などは戦に於いては刀を複数所持し、一本が駄目になれば他の刀を使用した。

 

 

 しかし骨喰は妖怪刀崎梟最期の一作。

 刀崎最高峰と謳われた刀工職人が人道を踏み躙り狂気以外の何物でもない経緯によって生み落とした刀剣が、並みの刀であるはずがない。

 

 

 故にその見かけに騙されてはならない。その朽ち果てた刃に内包された禍々しさは例え機構によって統制された機械であろうと、一切軋む事無く扉を切り開いたのである。

 

 

『ひひ、お誂え向きじゃねエか。行き先は底の其処。聞いた話はそんなもんなかったンだが、なァ』

 

 

 骨喰は楽しげだった。

 

 

 恐らく人としての面影があるならば、あからさま過ぎるそれに舌なめずりでもしそうだった。

 

 

 全てをこの時点で把握し、理解しながらもそれを見下し惨劇を喜劇と受け取り愉悦に腹を抱える邪悪の刀剣。流石は妖怪が鍛えた刀と言うべきか。まともではない。

 

 

 扉の中は空洞だった。エレベーターボックスは上のほうにあるようで、朔の視線には剥き出しのコンクリートが見える以外には一本に伸びる鉄のロープが繋げる上と下との奈落が見えた。しかし、視えるのはもっと濃いものだ。

 

 

「――――。―」

 

 

 昇りたつ臭気が空洞を仄かに染めていた。恐らくは地下、むわっとする禍々しき気配は凝固するかのような濃度でもって霧散しており、肌に触れると僅かに刺激が生じた。

 

 

『嗚呼、視つけた』

 

 

 故に朔は気軽に脚を踏み出し、再びその身を宙に委ねた。

 

 

 側面を囲われた空間は一切の光源を失った暗闇だった。冷たいコンクリートから放たれる圧迫感により窒息しそうな質量が立ち上っていく。

 

 

 ――――落ちる。

 

 

 朔が堕ちるのは先ほどと異なり落下は奈落の底、そこが地獄の道行きである。

 

 

 亡者の怨念が朔を飲み込んで、その身を隠した。

 

 

 そして朔は握りしめていた骨喰を無造作に壁へと突きたてた。

 

 

 ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャ――――!!

 

 

 勢いを殺すために突き立てられた骨喰は衝撃を切り裂く事叶わず、暗闇に火花を散らした。すぐさま消えてしまう火花が絶え間ない悲鳴のように降り注いだ。

 

 

 呼吸が難しい。臭いたつ血潮の香りが鼻を擽り、肺を侵す。

 

 

 ――――堕ちる。

 

 

 ふと見やれば朔の魔眼にはコンクリートの壁に赤い手形がぽつぽつと視えた。それは下に落下するほど数を増やしていくようで、終着の訪れを予感させる。風斬り音と共に呻き声と罵声が入り混じる阿鼻の絶叫が反響しながら聞こえてくる。そこに骨喰が刃を削る金切り声を叫ぶ事で虫唾が走った。

 

 

 ――――堕ちた。

 

 

 闇も見えぬ暗がりの暗黒が口を開く。

 

 

 間際に迫る地面へと殺された勢いによりゆるりと着地した。ぬめり気のある空気がどろりと朔を捉えた。それが骨喰の闇衣と相まって朔の周囲を覆う。しかし光源なき底の暗闇であろうとも朔の瞳は青々と蒼く、寒気がするほどの輝きでもってその道筋を映し出し、再び歩む。

 

 

 地下は不思議と澄んでいた。埃が宙を舞い、足元にも塵が積もっているが空っぽの気配が地下を支配している。そして瞬間に見えた、あの赤き手形はどこにも見えず、壁は不気味な側面を露にしていた。

 

 

 前方へと続く乾いた道が空間を広げていた。設計上エレベーター内にあるには些か不自然な横の空間であり、その先にぽつんと一枚の扉が見えた。

 

 

『ひひ、終着か』

 

 

 朔の視界には扉から溢れんばかりの嘆きが視えた。理不尽と悲嘆に絶望し、怨嗟の呪詛を呟く亡者の影が朔を捉えんと姿を見せる。しかし朔はそれを一顧だにせず、仲間を増やさんとする幽かな存在を無視した。

 

 

「―。――――」

 

 

 そして、扉の前で歩みは止まった。

 

 

 扉の向こうには確かに感じられる化物の気配。

 

 

『ひひ。莫迦は天上に昇りたがるものだガ、地下に潜るのは魔性と相場が決まってるッテもんだ。さテ、鬼が出るか蛇が出るかナ』

 

 

 骨喰の耳障りな声音と共に、扉はやけにゆっくりと開かれた。

 

 

 □□□

 

 

 しかし、そこに家族に向けられる大切だという感情に自分が含まれているか、と思えば辰無は素直に首肯することが出来なかった。

 

 

 そも辰無は家族というものを知らなかった。

 

 

 気付けば彼は一人であの極貧を生きていた。夏は腐敗したゴミの匂いを嗅ぎ、冬は霜焼けに腫れ上がる指先を懐に潜り込ませたが、彼には保護者と呼べる人はおらず、その匂いを防ぐ人も指先を温めてくれる人も辰無にはいなかった。親の名前も、顔も、そして親と言う存在も彼は知らず理解もしていなかった。

 

 

 彼の周りにも薄汚い顔ぶれの個人というものがあっただけで家族という集団には出くわした事がない。だからだろう、彼は家族というものが何なのかまるで分からなかった。

 

 

 それでも辰無は家庭を持ち、夫となり、父となった。

 

 

 会社を経営し利益を求めながらも、帰りを待つ妻を想いながら仕事をこなし、帰宅する事が少なく、一緒にいる時間が少ない娘のためにプレゼントをなるべく買った。なかでもしほ子は写真を収められるブローチを大層気に入っているようで、欠かさず身につけている様子が幾度となく見られた。

 

 

 しかし、それらは算段を伴った行動に過ぎない事も辰無は理解していた。男性で家庭を持った人物がそのような行動を取っているため、自分もそれを真似ただけに過ぎない。本当は何の意味があるのかと疑りながらも、辰無はそれらを真似て実践してきた。

 

 

 唯葉はそれを『あなたらしい』と微笑んでいた。

 

 

 しほ子はそれを『ぱぱは優しいね』と抱きついてきた。

 

 

 辰無はそのように二人が自分を受け入れてくれる事に歯痒さばかりを感じていた。

 

 

 自分はそんな立派な人間ではなく、もっとどうしよう無い畜生である事実を二人に認めさせたかった。そしていっそ自らを否定して欲しかったのかもしれない。

 

 

 魅力的な唯葉のこと、こんな男よりも魅了される男に出会った時もあっただろう。辰無よりも年上で初婚という、名家の生まれにしては少々特殊な彼女である。何かしら事情があったに違いない。

 

 

 しかしそれを聞くと彼女は『好きなひとはいたけど、結婚したいと思えるひとがいなかった』とあっけらかんに言った。

 

 

 それに何故、と問いかけると彼女は『さあ?』と言い、好きと結婚は違うのかと問うと彼女は吟味するように悩んだあと、感覚的に違うと言った。

 

 

 そして、自分と結婚したのは何故か、と問うと唯葉は笑顔で。

 

 

『なんか、こうビビっ!と来たの』

 

 

 と言った。あの時の朗らかな笑顔は彼女が変わってしまった今も忘れられなかった。

 

 

 つまり唯葉の合格基準を辰無はクリアしていた、という事なのだろうか。それが一体どの様なものなのか詳細は依然として不明であるが、ただ納得した。

 

 

 だが、そう思うほどに辰無は己の無力さを痛感し、彼女を幸せにする事も、こんな結末を迎える事も無かったはずだと悔やんでいた。

 

 

 もし、彼女がいたならばあの明るい表情で励ましてくれるのだろう。『大丈夫!』と可愛らしく力瘤を作ってくれたのかも知れない。そしてそれに気付いたしほ子が近づいて抱きついてきて、結局苦悩なども有耶無耶になったのかもしれない。

 

 

 しかし彼女は変わってしまった。彼女は彼女のままでその人格が変化してしまった。人が生きている以上、価値観やその精神においても何らかの変容は見せるものであるが、彼女の変容はそれを超えていた。

 

 

 健忘症やアルツハイマーとは異なる認識の変化。脳の機能が低下し認識能力が落ちたのではなく、肉体的には何の問題はなかった。少なくとも全うな医者の診断ではそうだった。

 

 

 精神あるいは人格と呼ばれるものが彼女を変えたのだった。彼女は彼女のままであるのに、価値観などの認識がそのままにひっくり返った。怒りではなく、虚しさでもってそれが反転なのだと、彼は自然に理解した。

 

 

 人外の血が混じる混血という存在がいると知ったのは、久我峰に聞かされた時だった。

 

 

 彼は酷く楽しそうに辰無へと告げたのである。それまで彼が生きていた世界とは異なり、しかし偏に重なっている裏の世界を。日本に存在する退魔組織と混血。さらには荒唐無稽な話ではあったが魔術師の話をそれとなく聞かされた事もある。

 

 

 自分が今まで過ごしてきた日本にそのような御伽噺が今も尚行われている事に辰無は目を見張った。そしてこの世には理不尽と不可思議が横たわり、それを知らずに生きていく事も出来た、と久我峰はこちらを逆撫でるような声音で囁くのだった。

 

 

 だからこそ、彼は彼女が〝そういうこと〟に成ってしまったのだと理解した。

 

 

 そうして思考はぐるぐると螺旋を描いて深みに堕ちていき、先も見えぬ暗闇を終着として光を失った。最果てを照らす星の道標さえ失った彼は、もうどこにも行けない。

 

 

 何も出来ない。彼女を救うことも、殺す事も出来ない。

 

 

 だから彼は全てを受け入れた。

 

 

 やがて訪れるであろう終末の時、永遠の別れが二人の前に現われるその時まで、彼は彼女を受け入れようと決めたのである。

 

 

 □□□

 

 

 埃と時間が混合した空気は金属を容易に侵食し、錆びついた扉は不快な亀裂音を響かせながら重々しく開かれた。

 

 

 部屋は個室であり、出入り口は扉一つのみ。不思議と空気は澄んでいて黴の臭いはしないが潤沢な香りは濃く、あまりの濃度に香りが固体と化してしまいそうだった。

 

 

 部屋の中心、そこには一人の女性が椅子に腰掛けていた。

 

 

 光源なき室内、仄暗い部屋にいる女の姿は明瞭に視認できない。朔の瞳からは形が視えるが、それだけだった。

 

 

 女性は眠りについているのか木製の椅子にもたれかかり、崩れた体勢によって柔らかな茶色をした髪が垂れて顔を隠している。居眠りなのか、昼寝なのか判断はしかねるが夢見が良いようで朔の耳には女の穏やかなる寝息が伝わった。

 

 

『ほう……、これは、なかなか』

 

 

 明かりの見えない室内に骨喰の声音が反響する。金属の悲鳴にも似た声音は常と変わらないが、音の悪意に混じり確かな感嘆があった。

 

 

 一歩、朔は踏みしめた。

 

 

 ぐちゅり、と何かを潰した。

 

 

 一歩、朔は踏みしめた。

 

 

 ずぶり、と何かが砕け散った。

 

 

 裸足の指先に柔らかな粘着質の弾力が纏わりつき、一歩一歩踏みしめるたびにそれらが朔の脚を絡め取る。

 

 

 そして朔は己が手、骨喰の柄をぎりりと握りしめ女の首を狙いつけたその時。

 

 

 女の傍らに置かれている小さな机の上、古びたランプシェードが明かりを突如として灯し、ぼんやりとした光が辺りを淡く照らし出した。

 

 

『ひひ、良い地獄だ』

 

 

 ――――見えたのは、赤色だった。

 

 

 赤く赤く、明かりは赤い床を照らして一面に広がる血と塊を映す。広い室内一杯に溜まっている血の湖面に混じり、壁には積まれた生者の名残が一つの塊となって置かれていた。

 

 

 腕や脚は森に積み上げられた小枝のように、内臓や脳は海岸に打ち上げられた漂着物のように。

 

 

 それが幾つも点在されており、その様子は三途のほとりで懺悔に積み上げられた石塔のようだった。

 

 

 なかには腸が巻き付けられた子供の顔まで見えている。

 

 

 そして床を良く見れば解かされた筋肉繊維がペースト状と化し、それが血と混じりぶよぶよとした感触となっていた。

 

 

 赤い惨状は床だけに留まらない。天井まで汚した血は首を奪われた者の血だろう。体内を循環している血は首を切断すると圧力によって高く噴出する。隙間なく血によって彩られた天井はその量だけ首を奪われた者がいると言う事実だった。

 

 

 詰まれている死体は数も計れず、男、女、老人、子供分け隔てなく死体として殺され詰まれている。

 

 

 そして不思議な事に壁際に詰まれた肉の塊の天辺には先ほど見れた子供の顔と同じような趣旨の奇怪なオブジェが飾られていた。

 

 

 抉られた眼球が口内に飾られており、それが一様に前を見つめる男の首。首に足を突っ込まれた死体。果ては裂かれた腹の中から取り出された胎児たちが無言で陳列されていた。

 

 

 だがそれらに共通する点は死体の大よそが欠損しており、元の形状を留めていない事にある。引き千切られた胴体を始め、破られた内臓に零された脳漿、奇怪なオブジェと人間の残骸が多々とあるが原型を保った死体とは一つとして残されていない。

 

 

 明かりが灯す範囲は狭い。しかしその狭い明かりに於いて屍の見えぬ場所は無く、高く詰まれた死体やペースト状と化した肉、ばら撒かれた内臓は数え切れない。室内の大半は未だ闇の底で、その先にあるだろう惨状は一体どれほどのものか。骨喰は愉悦をもって待ち望んだ。

 

 

「――――、―」

 

 

 朔は無言だった。いや、無反応だった。そこらに広がる死者の惨劇をその蒼き瞳に収めても尚朔は無反応のままであり、その表情に変化もなし。

 

 

 尋常の剣ではない骨喰でさえ愉悦と歓喜を感じていると言うのに、朔の内心には細波立つ感情は宿らなかった。

 

 

 恐怖は無い、嫌悪も無い。快楽も無ければ悲嘆も無い。血液を掻き分け、肉の山を横切りながらも屍山血河の有様を朔の視線はそれらを一顧だにせず、価値も見出さない。

 

 

 まるで見慣れた光景のように、あるいは馴染み深い景色のように朔は腐臭を撒き散らす肉の壁に囲われた肉の床を踏みしめた。

 

 

 そしてランプシェードの光が淡く照らす女の元へとたどり着いた。

 

 

 朔が近づいてなお女は健やかな寝息を立てて眠っていた。俯き加減に傾けられた頭部、垂れる髪が女の顔を隠している。

 

 

 亡霊は躊躇いも無く晒された首筋に骨喰の朽ち果てた刃を振り降ろし。

 

 

 ――――不可視の衝撃音が朔を襲った。

 


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