七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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それは、大切な約束。
忘れてはいけない、先生との約束。


シキ編
プロローグ 光


 赤毛と白いシャツにジーンズ。そしてどこか古ぼけたトランクケース。

 

 その人は優しい人だった。自らを魔法使いと名乗りながらも、全然そのような振る舞いを見せず、ただ僕は良い人なんだと思った。

 

 僕はすぐその先生の事を好きになった。

 

 全てから逃げてしまおうとしたあの草原で、その人は当たり前のように僕の横に座った。誰にも相談できず、誰にも理解されなかった悩みをその人は真摯に聞いてくれて、同じように考えてくれた。

 

「それで、誰を探しているっていうの?」

 

「わからない」

 

「うん?」

 

「全然わからないんだ。その人が誰で、僕の知ってる人かもわからないんだ」

 

 胸に貼り付けられた惨い傷跡の奥底にある、空洞に思いを馳せながら僕は言う。

 

 なだらかな草原だった。空気が澄み渡り、草が仄かに香って、緩やかに風は凪いだ。隣に座っている先生の赤毛が心地よさげに揺れている。快晴の空は遠くまで見え、まるで自分も空に吸い込まれてその一部になってしまいそうな気がした。

 

 僕は先生の隣にいながらも、ここにはいない、きっと側にいた誰かの事を思わずにはいられず、きゅう、とおなかの中が痛くなった。

 

「でも、先生。僕はその人のことをたぶん知ってて、きっと大切な人だったんじゃないかって思うんだ」

 

「どうして?」

 

「……どうしてだろう。でも、……僕は」

 

 言葉に詰まった。一体自分が何を思いその人を求めているのかすらわからないのに、それを言葉にするのはとても難しかった。

 

 難しくって、息が苦しくなって、何だか悲しくて仕方が無かった。

 

 でも、先生は朗らかに笑って、応える事の出来ない僕の頭を優しく撫でてくれた。

 

「だったらその人の事を忘れちゃ駄目よ。人は忘れた事さえ忘れてしまった時、もう二度と会えなくなる。だから今はその人の事を忘れたという事だけを覚えておきなさい。縁が合えば、まったきっと出会えるわ」

 

 それだけで、僕はその人の事を好きになり、先生と呼ぶようになった。

 

 だから、先生と呼んだその人をびっくりさせたくなった。

 

 大木に走る落書き。落書きをなぞれば何でも切れる。事故を経てから見える黒い落書き。僕はそれが怖くてたまらなかったけれど、この時ばかりはそんな事も頭から離れていた。ただ先生に自分が出来ることを知って欲しかった。

 

 落書きを果物ナイフでなぞる。するとアレだけ太く育っていた木は訳もなく切れ、みしみしと音をたてながら、ゆっくりと切断面が悲鳴をあげながら倒れ伏していった。

 

「先生、すごいでしょ!」

 

 僕は先生へ振り返りながら言う。

 

「落書きが見えているところならどこだって簡単に切れるんだ」

 

 自分がそれだけすごいのか、特別なのか、あるいは異様なのか先生に教えたかった。

 

 きっと先生はびっくりして僕の事を見てくれる。僕と知り合えたことを誇らしく思ってくれる。そんな事を思いながら。

 

「こんなの誰にもできないでしょ――――?」

 

 ――――でも、それは振りぬかれた先生の掌が与える頬の衝撃に、断ち切られた。

 

「え……?」

 

 呆然と先生を見ると、先生は僕の事を睨みつけていた。

 

 その目元に憂いさえ浮かべながら。

 

「志貴……君は今、とても軽率な事をしたわ」

 

 倒れ伏した大木。生きている大樹が僕の手によって切断され、物言わぬ死に飲み込まれている。

 

 そしてその時、初めてそれがいけない事だと知った。

 

「あ……」

 

 震えて、握っていた果物ナイフが滑り落ちた。でも、それにさえ僕は気づかずにいる。先生が怒っている。その事実に足元さえ覚束ないでいた。

 

 僕の視線に合わせるように眉間に皺を寄せた先生は腰を屈め、じっと僕のことを見つめている。それが責められているようで、ただ怖かった。

 

「……ご」

 

 思わず涙さえ瞳から零れた。

 

「ごめん……なさい」

 

 柔らかい感触が僕の体を包み込んだ。気づけば、先生が僕を抱きしめてくれていた。

 

「謝る必要はないわ」

 

 先生は優しく囁いてくれた。耳元で聞こえる先生の声はどこかくすぐたくさえあった。

 

 思えば、誰かに抱きしめられるなんて目が覚めて初めてのような気がする。病院では知り合いは誰も尋ねてこなかったし、医者は診断しかしてくれない。誰かが僕の事を思ってくれて抱きしめてくれるなんて、はじめての事だった。

 

「志貴は確かに怒られることをしたけれど、それは決して志貴が悪いって訳じゃないんだから」

 

 側にいる先生は温かく、柔らかい匂いがした。

 

「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。その代わりに志貴は私のことを嫌ってもいい」

 

「ううん……先生の事、嫌いじゃないよ」

 

 涙が止まらなかった。鼻のつんとして痛い。胸の奥にある虚ろが温かくなったけれど、だからこそ際立っているようで余計に悲しく思えた。

 

「そう、……よかった」

 

 少しだけ強く、先生は僕を抱きしめてくれた。

 

 

 □□□

 

 

「すごいよ先生! 落書きがちっとも見えない!」

 

 果てしないような草原での出会いは、僕にかけ値のないものを与えてくれた。眼鏡もその内の一つだった。それをかけると視界に走る落書きが消え、空を見上げれば眩しい青色が阻害されずに見えた。あれだけ僕を苦しめていた気持ちの悪さが、まるで嘘のように見えなくなる。

 

 まるで、魔法のようだった。

 

 そういうと先生は「当然よ」と笑いながら言った。

 

「だって私、魔法使いだもの」

 

 眼鏡を外してしまえば落書きは再び見える。一時的な誤魔化しにしか過ぎず、根本から消え去る事は決してない。それでも、僕にとっては例え嘘でも落書きが見えなくなることが嬉しかった。安心して歩ける。触れただけで簡単に壊れない。それだけで嬉しかった。

 

「いい? 志貴、その線をいたずらに切ってはだめよ。君の眼は「モノ」の命を軽くしすぎてしまう」

 

 別れ際に、先生は言った。

 

 出会いが偶然のようなあっさりさであったように、別れもまた偶然のようにあっさりとしたものであった。

 

「でもそれは君個人の力よ。君の未来にはその力が必要になるからこそ、その直死の眼があるともいえる」

 

 二度と出会えなくなるかもしれないのに、僕たちの間に悲しみはなかった。心のどこかで、これで終わりではないという確信が何となく心のうちにあった。馬鹿げた考えだとは思えない。もし、運命という言葉を知っていたならば、その文字ほど相応しいものはない。それでも別れは切なく、僕はずっと先生を見つめ続けた。

 

「どうしても自分の手に負えないと判断した時だけ眼鏡を外して、自分でよく考えて力を行使しなさい」

 

 不意に近づく先生の顔。そして僕たちは額を合わせあう。先生の額から、僕の頭のなかに何かが暖かいものが伝わってくるような気がした。

 

「志貴」

 

 いよいよ、別れが近づいてくる。

 

 離れていく先生の体温がどこか名残惜しい。

 

「聖人になれなんて言わない。君は君が正しいと思う大人になればいい。そうすれば、きっと君の会いたい人にもめぐり合える」

 

 先生は僕の胸に手を当てる。そうすると、確かにそこには消え去らない虚ろがある。

 

 でも、これを忘れなければきっと出会える。例えそれがどんな出会いであれ、信じ続ければ、きっと再び会える。先生、そして。

 

 ――――どこかに見える、あの後姿へ。

 

「いけないという事を素直に受け止められて、ごめんなさいと言える君なら」

 

 先生は最後まで笑顔だった。風の中で揺れる柔らかな赤毛。トランクケースを片手に笑うその姿は、いかにも先生らしく、魔法使いには見えない。

 

 でも、先生は僕に奇跡をくれた、誰よりもすごい魔法使い。

 

「10年後には、きっと素敵な男の子になっているわ」

 

 彼女が紡ぐ言葉。

 

 

 ――――それはきっと、再会の約束。

 


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