七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる。
 ならば、殺人鬼となるには何人殺せばよい?



第九話 人殺の鬼 Ⅱ

『糞餓鬼』

 

 

 

 妖刀骨喰が徐に話を始めたのは、皿を片付け終わった頃の事だった。

 

 

 

 互いにある程度腹が膨れ、少なくとも数時間は空腹に悩まされる事はないだろう。つまり、それはいざという時に動けることを可能としているのだから、遠野志貴は骨喰が鍛錬、あるいは討伐かに向かって動くものだと思い、ベッドに胡坐で座りなおした朔を視界に収めながら、骨喰の声音を聞き入れたのだが、続いた言葉は志貴にとって存外な言葉であった。

 

 

 

『ソの眼だけドよゥ、あンま使うナ』

 

 

 

「……へ? どうしてだ」

 

 

 

 思わず声を荒げる寸前、一息に呼吸を飲み込んで志貴は理由を問う。

 

 

 

 志貴にとってこの『眼』は魔に対抗できうる唯一の手段と形容しても過言ではない。それが弓塚さつきのためならば、志貴は意気望んで使用する心意気であった。

 

 

 

 なのに、骨喰は、人外の妖刀はそれを否定するのだ。

 

 

 

『切レ口を見出す眼、あるイは何でモ斬れチまう眼ってェのは確かに脅威ダろう。化物たちにトって対抗手段にナるだろウよ。それハ俺が保障してやる。手前ノ魔眼は充分使エる。他でもネエ俺が言ってルんだ、間違いネえヨ。認メてヤる、糞餓鬼。手前の眼はとんでもねえ代物だ。……シかしなア、そいつは軽くなっチまうんだよ。殺すッつうことがヨ』

 

 

 

 いつか、あの草原で聞かされた先生と同じような内容を骨喰は言う。しかし、その口調も内容も、あの時のように優しい物ではない事は当然であった。

 

 

 

「軽くなる……?」

 

 

 

『手前ハ最早畜生に堕落すル道程を歩み始めてイる。いや、遠野トいう時点で畜生にハ変わラないだろウがよ。その眼ヲ使って殺スって事は命を奪うってェ事の感触を無意味にさセちまうのさ。ひひ、アるいはそれコそ遠野にゃ相応しい末路なノかもしれネエがなア』

 

 

 

「それをお前達が言うのか?」

 

 

 

 多分の呆れを含ませて志貴は言う。遠野が畜生であると言う言葉は、真実らしきものを聞いた今、否定する気にもなれなかった。例え否定したとしても返ってくるのは嘲笑だと志貴もわかってきたのだった。

 

 

 

「殺人鬼と、殺す事を推奨するおんぼろ刀が言う台詞じゃないと思うけど」

 

 

 

『だカらさァ。朔は殺シの手筈をきっチり理解シていル。人間が、化物ガ、或イは魔がどんな風に死んで殺サれるかの筋道を知ってイる。多少、荒々しいがなあ』

 

 

 

 総身の産毛が逆立つように耳障りな声音が志貴を包み込む。

 

 

 

『ひひ、ひ……。何せ、七夜黄理ガ術利を叩き込ミ、刀崎梟がプロセスを叩キ込ンだんだ。如何に命が脆く、儚く、ソして強靭でアるか徹頭徹尾理解さセてあル。だカらこそ、殺すとイうただ一つノ手段を朔は遂行できテいるのサ。……ケどなァ、糞餓鬼。手前がその眼を使った殺害ってエのはきっとソういうもンじゃねえだロ。お前ノ目は殺スためのモんじゃなくテ、相手ヲ死なすたメの代物さ』

 

 

 

「それって、どう違うんだ。なんだか矛盾しているようにしか聞こえないぞ」

 

 

 

『筋道が違ウのサ。……そレに、あんマりに強い力ってェのはそれに依存しがチだ。他の手段を講じレない阿呆にナりがちとナる。そウいうのは、ソういウので確かに通用すルもんだロうよ、アる程度の者相手ならなァ。が、手前の獲物はソういう訳じゃネえんダろ? 真性の化物、魔なんダろうゥ。たったソれだけの眼に引ッ張られる形で殺ソうなンざ、俺ャ嗤っちまうわな』

 

 

 

「……けど、朔だって魔眼を使ってるじゃないか」

 

 

 

 呻くように志貴は言葉を返した。己が敵に唯一対抗できる手段を否定されているのだから、彼の気持ちは複雑きわまりないものと化していた。しかし、そんな矮小な志貴の反抗心を骨喰は嗤って返すのであった。

 

 

 

『ひひ、ひ……手前ハ真逆朔が魔眼のミで殺し尽くしテいるとデも言うのかイ。魔眼ダけしカ使わずニ虐殺を重ねテきたと、本気で思っテいるノかい。ソうだとシたら本気で手前救エねえぜ』

 

 

 

「朔は、違うのか」

 

 

 

「―――――。―」

 

 

 

 視界の端に座る朔は目蓋を閉じている。自身の話をされているのに無反応である。黙考しているのかと思ったが、果たして何を考えているのか志貴には未だ理解できない事だ。

 

 

 

『コいつは特別殺しニ特化した血を宿し、ソの技量モしっかリ叩き込まれテる。なアに、深くは考えなクてもいイ。用は殺しに関して、朔は純度が違うのさ。手前と違って才能ダけじゃなク、ソれを練磨し昇華シ極限まで上り詰めタ。だカら殺人鬼トして、あるイは暗殺者トして名が知レてるのさ。アイツに手を出シたらヤバイ、アイツに狙われたらオ終いだ、て風にナぁ』

 

 

 

 骨喰は純度と表現したが、ようはプロセスの問題であった。志貴が持つ眼は視界に囚われた万物の脆い部分を表出し、志貴はそれをなぞらえる事によって物を解体する事が可能である。それは命も同じだろう。未だ志貴は人を殺した事もなくば、また動いている生命を奪った事のない少年でしかなく、骨喰が言う殺しのプロセスは受け入れる事が難しい事柄であった。それは志貴が理解したくない、という話ではなく、志貴が未だ殺しを重ねぬ青少年であるがための話であり、裏に触れたばかり故に常識と非常識の狭間を彷徨う心を持て余しているからだった。何が良くて、何が駄目なのかが未だ了解できぬのも無理からぬ事である。

 

 

 

 そもそも基準が滅茶苦茶なのだ。死して尚徘徊し襲い掛かる死者と、それを掃討する殺人鬼。今までの常識では通用しない世界である事は明白。だからこそ、志貴は自身が唯一手にしていた非常識を活用しようと決心を抱えたのだが、挙句の果てに裏へと足を踏み出すきっかけとなった片割れが、それを否と言い渡すのである。これでは志貴が混乱するのも致し方の無いことであった。

 

 

 

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 

 

 

 当然のように、志貴は縋るような気持ちで呟いた。

 

 

 

「俺は弓塚さんの仇を取れればそれでいいんだ。それだけでいいんだ。だから、俺はこの眼を使っても構わないって思ってるのに、それが駄目だなんて……」

 

 

 

『だかラこそダ』

 

 

 

 昂然と骨喰は高らかにその嗄れ声をがなりたてた。

 

 

 

『アイツが憎クてたまらナい! アイツが呼吸しテいる事が許せナい! 思い出すダけで腸が煮エくりかエそうなほど恨みガ溜まっテいる! 充分じゃネエか。コれ以上なイってくラい百点満点ノ憎悪だ怨念だァ!』

 

 

 

 声音を軋ませて叫ぶ骨喰の声音は、この空間に存在するありとあらゆるものを侵食してしまいそうだった。だからだろう、志貴も苛立つはずのその声音に聞き入ってしまう。

 

 

 

『だかラぶっ殺ソうってぇ決めたんだろ。だカらこそ塵芥ニしてやロうって決めたンだろう。ナのに手前はタだ魔眼だケに頼っテぶち殺そうと思ってヤがった。けどなァ。手前はソれで満足カい? たダ魔眼を使ッて憎念を叩きつける事無ク、それコそあっけナく殺しちマって、お前は満足ナのかい?』

 

 

 

「……ッ!」

 

 

 

 咄嗟に返す言葉が出なかったのは、志貴自身に気付かせなかった核心へと迫るものがあったからだった。

 

 

 

 憎んでいる事に違いはない。

 

 

 

 恨んでいる事にも相違ない。

 

 

 

 けれど、殺すという事に実感が掴めないのは事実だった。

 

 

 

 言葉では、あるいは文字では幾らでも殺すなど表現できる。だが、その反面行為として行なうにはあまりに現実離れしているのだ。幼児が戯れに虫を踏み躙るのは、命の価値を理解していないが故の残酷さだ。しかし、志貴は倫理を知り育った普通の少年であり、とても命を、それも人型の生命を殺そうなぞ思えはしない。

 

 

 

『朔は殺せル。微塵の躊躇もナく、一片ノ後悔もなク鏖殺出来る。こいつは真性の殺人鬼だかラだ。では、手前はドうだ。糞餓鬼、遠野の長子よ』

 

 

 

 どくん、とひとつ心臓が高鳴った。

 

 

 

 気付けば先ほどまで食卓を囲んでいた奇妙な雰囲気は消え去っていた。空気は凍りつき、肌寒さえ感じさせる。それは骨喰が紡ぐ言葉にではなく、ベッドに座り込む七夜朔が醸しだす殺意だった。充満する殺気に骨が軋み、咽喉が渇いていく。この問答は、言葉を違えればこのまま首を縊られてもおかしくない分水嶺だった。内臓を締め付けられるような感覚が襲い、思考を摩耗させていく。察すれば、志貴が紡ぐ言葉次第ではこのまま殺されても致し方のない雰囲気が、この室内を支配していた。

 

 

 

 だから志貴は必死で考える。己はどうしたいのか。己はどうればいいのか。

 

 

 

 弓塚さつきの仇を取るためという呪文の下、己は一体何をしたいのか。

 

 

 

『なんナら朔が殺してヤってもイい。朔が殺シ、手前ハ高みの見物にデも洒落込めばいイ。心臓ヲ抉り、頭ノ脳漿を握リ潰し、全身の骨をバらして内臓を引キ摺りだしテもいい。だが、手前はどウする。どうスるんだ、遠野志貴?』

 

 

 

 彼ならば、七夜朔ならば行なうだろう。何の理由もなく、ただ本能がままに殺しを重ね、屍を積み上げていくだろう。想像しなくても、志貴にはその情景がありありと浮かんできた。悲嘆と怨嗟を踏み潰し、憤怒と寂寞を磨り潰しながら、躍動する姿は殺人鬼の名を冠するのに相応しい。

 

 

 

 全てを朔に任せてしまえばいい、とシエルは言った。暗黒の泥土に踏み込んだ志貴にせめてものアドバイスとして、その手を血で汚させないために、彼女は志貴へと告げたのである。それは、確かに楽な選択である。恐らく何をせずともこの殺人鬼はやがてさつきの仇を見つけ出し、確実に殺してくれるだろう。

 

 

 

 けれど、そうすれば志貴の懊悩と激情は一体どうなる。仇が朔に滅ぼされる光景を遠目に見て、志貴は胸がすくような思いに駆られるのか。否、その時胸に去来するのはただの空疎、空漠ではないのか?

 

 

 

 結果として仇の死を見つめただけであって、この手を下さぬとも済んでしまうという現実に、志貴はきっと耐えられないのだ。

 

 

 

 しかし、それでも。

 

 

 

 それでもである。

 

 

 

「……わからない」

 

 

 

『アあ?』

 

 

 

「わからないんだ。まだ、俺は……このままじゃ駄目だっていうのは分かっているのに」

 

 

 

 あまりに掛け離れた目的は珠玉の意志を求める。それは絶壁の崖を登ると決めた冒険家とは異なり、チャレンジャー精神によるものではなく、ただ怯え震えながらも己がやらねばいけない事を託されたと思い込んだ弱者のそれだ。

 

 

 

『……ッは! 中途半端な野朗だァ』

 

 

 

 志貴の搾り出した苦悩を骨喰は鼻で嗤った。正しくそれは嘲笑だった。

 

 

 

『生粋ノ殺人鬼と思いはシたガ、どウにも手前ハ中途半端に過ギる。温室暮ラしを揺り篭ダと思い違エたかァ。朔ヲ相手に飯作ったり、オまけに俺と談笑するナんざ気狂いノする事ダぜ』

 

 

 

「……ああ、そうかもな。俺はどっかで狂っちまったのさ。あの夕暮れから、な」

 

 

 

 ――――思う事は弓塚さつきの事ばかり。彼女の事を思うと胸が痛んで仕方がない。

 

 

 

 そして、心を苛むと分かっていながらも志貴の意志は仇を取るというワードの下、脳裏に彼女の姿を映し出し、己が罪の意識を積み重ねていく。それは最早足枷というよりも呪いという形容のほうが相応しく、彼はすっかりその泥濘に囚われてしまっている。

 

 

 

 けれど、彼はそれで構わなかった。それで良いと自らに言い聞かせてきた。それしか己が彼女に行なえる手向けはないのだと、思い続けてきた。

 

 

 

 心臓を奪われ、今も尚死に瀕しているさつき。そのために出来る事は何だとくり返し己へと問えば、現われ出でるのはさつきの血に染まった己の姿。あの日暮れの流血に染まった志貴は最早罪人なのだ。

 

 

 

 いっそ、アイツを殺せと命令されたならば、どれだけ楽だったのだろう。

 

 

 

 しかし、決意を固めたのは彼であり、目的を定めたのまた志貴自身であった。果たせなければなるまい。成せねばなるまい。曖昧な事は認めざるをえないが、それでも目標を決めてしまったのは己のみなのだ。シエルの制止を振り払い、骨喰の嘲笑を受け止めながら。

 

 

 

 なのに、志貴は未だ行く果てを見出していない。骨喰が中途半端だと揶揄するのも、無理からぬ事であった。

 

 

 

『まあイいさ。今はマだそれでいイだろウ。ひひ、ひ……なラば後は行動アるのみっテか』

 

 

 

 故に、骨喰は道を示す。志貴の模糊を押し潰し、蒙昧をひき潰すための悪意でもって。

 

 

 

『考えル前に行動すル。愚者のようでアりなガら、ソの様は賢明だァ。……後ハ慣れるノみ。狩りにデるぞォ、殺シにイくぞォ。阿弥陀の唄ヲ歌いなガら、ハレルヤと手を打チ鳴らしナがら、な』

 

 

 

「こんな真昼間からか?」

 

 

 

『だかラだ。お天道様ガ昇ってイるかラこそ、奴らガいる場所ハ限らレるってもンよ』

 

 

 

 その時、両者の会話を打ち切るように簡素な電子音が流れた。ぷるるる、と鳴り響くそれは少し場所の離れた所に設置された電話だった。

 

 

 

『ひひ、チょうどか。オい糞餓鬼、俺を電話の方マで持ッてけ』

 

 

 

「……いいけど、大丈夫なのか? 俺が触っても」

 

 

 

『さアなあ。ドうなるこトやら』

 

 

 

 意地悪く甲高い声で嗤う骨喰の要望に応えようかどうか志貴は悩み、ちらり、と本来の持ち主である朔の方へと視線をやったが、彼はだんまりを決め込んでいる様子で、決して動く気配がなかった。

 

 

 

 これが普通の刀剣の類であるならば志貴も逡巡はしなかっただろう。しかし、自分を持ち運べと嗄れ声で放すおんぼろ刀は見た目そのものから危うい雰囲気を漂わせ、更に鞘から抜けば濁り腐った瘴気を撒き散らせる代物である。まずもって健全な神経の持ち主ならば視界にさえ入れたくなくなるような刀だ。それを手に持つなどまずもってありえない。

 

 

 

『サあどうしタ。早クしろ。なアに、取っテ喰ッたりはしねエよ』

 

 

 

「朔が持てばいいんじゃないか?」

 

 

 

『アイツは駄目だ。機械音痴なンだよ、ボタンひとツさえ押せやしネエ』

 

 

 

 志貴の葛藤を知ってか知らずか、骨喰は愉快気に囁く。その間にも電話は鳴り止まず、志貴を急かす様に鳴り響いている。

 

 

 

「……ああ、わかったよ」

 

 

 

 仕方なく溜め息をつき、諦観でもって志貴は覚悟を決めて、骨喰へと指を伸ばした。しかし、志貴が内心想像していたような出来事は起こらず、骨喰の重心はするりと志貴の掌に収まっていった。その際に、柄に巻きつけられた数珠がじゃらりと音をたてた。

 

 

 

「あれ、なんともない」

 

 

 

『ひひ、ひ……手前、俺の事をどンな風に思ってヤがったんだか。少なクとも鞘に封じ込メられてタら人間が触レても平気なノよ』

 

 

 

 鞘に巻かれた呪札や数珠にはそのような意味があるのか、と志貴は意外な想いを抱きながら、電話口を取りその側に骨喰を立てかけ、受話器を傍らに置いた。

 

 

 

『あア、俺だ。そう、俺ダよ俺。ひひ、ソう口やかまシくがなるな』

 

 

 

 どうやら長くなりそうなので、手持ち無沙汰に朔は先ほどの居場所に戻り、離れているにも関わらず耳元で叫んでるような骨喰の声音にうんざりしながら、瞳を閉じたままの朔を何気なく見た。脱力をしたその姿は、転寝でもしているかのようだった。

 

 

 

「―。―――――」

 

 

 

 何もしないでいれば大人しそうな佇まいであるのに、やはり何かしら危うげなものが漂っているのは、己の中に渦巻く殺意を彼が抑える気もないからだろう。あの目蓋の裏には蒼穹を思わせる瞳が獲物を待ち侘びているのだ。己が殺傷する獲物はどこにいるのだと。

 

 

 

 そう思うと、何故朔はこれほどまでに突き抜けているのだろうと志貴は不思議に思った。最早人の限界を突破した動きは脳裏に焼きついて離れない。その想いは理不尽な感情と言ってもいいだろう。彼が切り開いてきた過去を知らぬ志貴は、今目前にある彼しか知らない。故の慟哭であり、その悲嘆を噛み締める志貴をまた朔は知らぬ。

 

 

 

 どれ程の修練が彼を定め、そして形成していったのか。

 

 

 

 どれ程の後悔を噛み砕き、そして昇華させていったのか。

 

 

 

 互いに知らぬまま、二人は同一の空間で呼吸をし続けた。

 

 

 

 ――――、一体どれだけの時間が流れたのか、着信を切った無機質な電子音が向こう側から聞こえてきた。

 

 

 

『いイぜェ。依頼だぁ、正しく丁度いい』

 

 

 

 眼前でゆるやかに朔が立ち上がり、無造作に骨喰を拾い上げた。

 

 

 

『ソん時にこそ、手前の真価を見定めてヤんよ。今度こそなァ、ひひ、ひ……』

 

 

 

 残酷な反響を広げて、骨喰は唄うように嗤った。

 

 

 

 □□□

 

 

 

 間延びしたようなチャイムの音と共に、授業は粛々と始められていった。

 

 

 

 教師の説明は難解であり、一度では手ごたえを掴めぬ内容であるのは、この学校のレベルの高さが周囲の高校よりも遥か上にあるからであり、しかも生徒達は全員女性しかいない。所謂お嬢様学校と呼ばれるに相応しい格式は、授業ひとつひとつ取っても決してその称号を貶めない程高純度なものだった。故に教師は生徒が理解できるよう、要所要所に要点を話し、授業を受ける側の生徒達は必死にノートを取る。無駄口ひとつ呟かれない時間が流れていく。

 

 

 

 その中に秋葉も生徒の一人としていた。

 

 

 

 昼を過ぎて最初の授業は大抵眠気との戦いを強いられるものであるが、生憎と彼女はそのような瑣末とは無縁であり、それでいてノートを取りながら、脳裏に過ぎ去っていくのは恐らく家にいるはずであろう兄の事であった。昨晩思わぬ場所で再会した兄は傷つき疲れ果てていた。一体彼が何に巻き込まれ、何に首を突っ込んだのか、結局朝になっても目覚めぬ兄からは何一つとして聞き出すことが叶わなかったが、面倒な事態に遭遇している事には間違いないだろう。

 

 

 

〝こんな時期に、兄さんも面倒な事を〟

 

 

 

 自然と心根に呟かれた兄への悪態であったが、それを表に出さず秋葉は今しがた黒板に書かれた図式に注釈をつけて、自らの解釈をノートに添えた。

 

 

 

 決して彼女も兄を悪く言いたい訳ではない。寧ろその本音は兄への心配からくるものだったが、それとこれとは話が別であった。昨晩三咲町を騒がしている吸血鬼事件への解決に向かった秋葉たちであったが、真逆行方知れずとなっていた兄と遭遇とは秋葉も望外の事だった。しかもその姿が傷だらけであったことも質が悪い。運命の悪戯ではないのか思わずにはいられないようなタイミングで、あの時秋葉は兄と出会ったのだ。

 

 

 

 故に本来であるならば犯人を追い立てるため、もっと練り歩く予定であった散策を急遽練り上げ早々に遠野へと引き返した。それを悔やまれるとは思わない。あの時点では、あれがベストの選択であったと秋葉は自負している。ただ、やはりという想いが彼女の脳裏にちらつくのは事実であり――――。

 

 

 

〝琥珀も琥珀で……〟

 

 

 

 そして、問題はそれだけではない。あの時、心ここにあらずな状態と化した付き人が漏らした言葉が現在最も秋葉の気がかりな事であった。もし、もし彼女の言葉が真意であるならば〝彼〟があの街に潜入している事になる。琥珀の報告によれば、〝彼〟は近い場所にいた事は事実であるが、三咲町に近づく事はないと踏んでいた。しかし、蓋を開けてみればどうだろう。そのような事、秋葉の希望則でしかないというのに。

 

 

 

 結局、その事も秋葉は琥珀から聞きだすことが出来なかった。何か問いかけてはならない警報が己の中で鳴り響いたのだった。それを聞けば全てが台無しになるような、そんな感覚が。

 

 

 

 けれど、もし本当に〝彼〟が三咲町にいるのならば、それは一体どのような皮肉であろう。まるで全ての運命が集結していくようだった。ならば契機は一体なんだったのか。聡明な秋葉であってもそれはわからない。全ては正しく運命という名の偶然でしかないのか?

 

 

 

 そうであるならば、救いがない。否、もしそうでなかろうとも救いは存在しない。

 

 

 

 何かが狂い始めている。怜悧に秋葉は思う。全ては順調そのものであったはずだ。親戚一同を追い出し、兄を招来する。どこにも問題はなかったし、多少の強権を使ったが、久我峰がバックアップに回ったことでそれもスムーズに事は進んだし、抜かりはなかったはずだった。しかし、何かが狂い崩落を始めているような気がしてならない。その足音は秋葉の背後を捜し歩き、そして秋葉自身へと張り付いて止まないのだ。

 

 

 

 無理はしていなかったはずだ。どこをどう考察してもそう計算できる。では、どこで狂い始めたのか。

 

 

 

 兄を呼び戻した時か。それとも父がとうとう衰弱死した時か。

 

 

 

 あるいは、あの夏の日か。

 

 

 

 ――――もしくは、自分たちが出会った時か。

 

 

 

 ありとあらゆる可能性が眼をぎょろつかせて秋葉を監視する。

 

 

 

 そして言うのだ。全ては自らが遠野であるから故にだと。

 

 

 

 当然だ。宿命からは逃れられない。全ては秋葉が知る由もないままに行なわれ、済まされたこと。とは言え、その血脈がそれぞれに揃えば何が起こるかは明白である。何故、自分が過去の清算に付き合わなければならないのか、と不満に思うことはない。ただ虚しい。

 

 

 

 しかし、己が裁量から溢れ出た結末がいつか下ろうとも、秋葉の心はすでに決まっていた。それは悲壮な覚悟であり、また決別を意味する所であった。

 

 

 

 それを早計だとは思えない。すでに全ての可能性は出揃っているのだ。混ぜられた運命のカードはコールをやがて持ちわびている。その時になって秋葉がどうするのか、あるいは他の人間がどのような選択をするのか脳裏に思い描きながら、やがて訪れるであろう結末をなるべく考えないようにして、秋葉は授業に集中する事にした。けれども、消し去ってしまおうと思えば思うほどそれは姿を現し、秋葉を葛藤させる棘となる。

 

 

 

 そして気付いた。己は授業の内容をノートへ取っているはずなのに、空白に全く無関係な文字がいつの間にか記されていた。

 

 

 

 朔。

 

 

 

 ただ一字。たったそれだけの文字が秋葉の視線を離させてはくれない。血の気が引くとは正にこの事かと、秋葉は〝朔〟の文字に心奪われた。

 

 

 

 いっそ気付かなければよかったのに、と秋葉はその文字を消しゴムで消していく。しかし、朔と記されたノートの後はくっきりと残り、その残像が眼にこびり付いて仕方がなかった。

 

 

 

 □□□

 

 

 

 住宅地を抜け、わき道を逸れていくと三咲町に住んでいる志貴でさえ知らなかったような道に出る。

先導する形で道を行く朔の後方に付き添いながら、志貴は辺りを見回してみたが、ここがどこに位置するのかまるで分からなかった。それでも人通りは在るもので、彼らは異形たる朔の姿に全く気付く事無く通り過ぎていった。これもまた、朔の能力なのだろう。陰行と呼ばれる気配遮断、そして魔眼によって映し出される世界から人の五感に触れられぬように動き回る朔の歩みは、重心がぶれているようにさえ思えたが、それは素人目から見たときの感想であり、朔はあえて重心を悟られないようにしているのだと、志貴は気付いた。

 

 

 

 それほど目的地は遠くないという骨喰の言の下、歩き続けて一時経った。もう、ここは三咲町ではないのではないのかと疑りなるほどの遠出だった。時刻は確認できていないが、恐らくは三時前ぐらいになろうとしているのではないか。温かな光は少しだけ失せて、気温が下がりつつあるのを志貴は感じた。

 

 

 

「なあ、どこまでいくんだ?」

 

 

 

 朔の方はどうせ無反応だと割り切って、志貴は彼の右手に握り締められた骨喰へと声をかけた。

 

 

 

『なアに、あト少しだ。もウ眼と鼻と先さァ』

 

 

 

「……それ、さっきも言ってただろう」

 

 

 

 実はこの会話も幾度となく繰り返されている。しかし、志貴が抗議の声をかけるためにあげた声を骨喰は嘲笑をあげるのだった。この声音に擦れ違う誰も反応しない事が志貴には不思議でたまらなかった。

 

 

 

「――――、――」

 

 

 

 そして先を行く朔もまた揺らぎながら歩み、誰にも注視されない。この異様は目立つ類のものであるはずだが、真横を通り過ぎた主婦も、また前方から走行してくる車のドライバーさえも朔に気付いた様子はない。

 

 

 

 あくまで自然の風景として朔はそこにいた。否、あるいは存在そのものが気付かれないままに、志貴だけそこにいた。故に、彼がぶつくさと文句を言ってもそれは独り言にしかならない、という事だろうか。それはそれでなんだか恥ずかしいものである。

 

 

 

 足並は寂れた町外れに向かっていた。これから先に志貴は行ったことがない。

 

 

 

 あまり活動的ではない志貴は家にいる事のほうが多く、寧ろ朔と出会ったことで知識としては知っていたが廃工場へと赴いたし、またこのように見知らぬ土地を向かっている。

 

 

 

 これがもっと志貴が小さく、幼ければ冒険心が逸り胸躍ったやも知れぬが、志貴は十七歳の青年であり、そして共に歩むのは正体不詳の殺人鬼と、喋るおんぼろ刀。古臭いRPGに登場する勇者達のようなメンバーか、あるいはライトノベルにでも登場するようなメンバーだった。

 

 

 

「なあ、いい加減何をするか教えてくれよ。どこに行くかはこの際もうどうでもいいからさ」

 

 

 

『ひひ、ひ……何、ヤる事は単調サ。単調すギて鼻で嗤うレベルよ』

 

 

 

 明確な答えは返ってこない。否、このおんぼろ刀はどこかで言葉遊びを楽しんでいる部分がある。つまり、今の段階ではこちらに伝えるつもりはないのかと、志貴は胡乱気な瞳で前方の両者を見やった。藍色の背中はゆらゆらと揺れ、呪的に封じられた骨喰は時折数珠の音を鳴らしながら進んでいく。

 

 

 

 元より、志貴に後退するという選択肢は存在しない。二人に教示を受ける身の上というのもある。だが、それ以上に二人についていかなければ、自分はきっと何も果たす事叶わず終わるだろうという通念が志貴を突き動かしていた。それに最早ここまで来てしまったのである。嫌と言えども無事に帰らせてくれる保障はどこにもないし、またここから自分の足のみで自宅へと帰るにはあまりに遠すぎた。タクシーを拾えばどうにかなるかもしれないが、残念ながら志貴には現在財布がない。

 

 

 

 彼はいつの間にか袋小路に佇んでいた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 その事に今しがた気付いてしまった志貴は憮然としながらも、遣る瀬無さを覚えずにはいられなかった。――――と、突然目前を歩んでいた朔の歩みが止まった。どうやら終着したらしい。

 

 

 

『ひひ、よウやくってエ所かい』

 

 

 

 そこは建設途中のビルだった。所々にガラスで製造されているモニュメントが設置されており、未だ完成には時間がかかるだろう、骨組みと僅かな壁しか製造されていない。そして一番高い箇所にはクレーンと、その下方にはバラけた鉄骨が敷き詰められていた。

 

 

 

「どこだ、ここ」

 

 

 

『ッハ! 知ラねえのか遠野ノ長子。コこはシュラインってえビルの建設予定地だァ。手前ん所ノ遠野も建設にャ関わってンだぜェ?』

 

 

 

「そうなのか? けど、俺は全然そういう事には関わってないから全く知らないぞ」

 

 

 

『知っテて言ってんだよ、ひひ』

 

 

 

「……」

 

 

 

 性格の悪い刀である。

 

 

 

 人払いは済まされているのか、周囲に人はいなかった。普段この時間帯ならば建設業に携わる人々がごった返し、辺りには重機の騒音と人の大声が木霊しているはずなのだが、今現在シュラインは人気もなくひっそりとしていた。朔は一度止めた歩みを再び始め、堂々と敷地内に入っていく。釣られて志貴も慌てながらその後をついていった。

 

 

 

 一度足を踏み込むと、この建築物がどれだけ高く聳え立つのか中々想像できなかった。建設途中の建物というものは大体そういうものであるが、ここの建築に自らの家が関わっていると聞くと余計に志貴は、いずれ出来るであろう壮観なビルの偉容を思い浮かべずにはいられなかった。

 

 

 

 しかし、このような場所に一体何があるのだろうか、とビルの骨組みへと足を運びながら志貴は考えた。

 

 

 

 骨喰は電話口の向こう側にいるであろう人間と話を済ませ、依頼とだけ口に以降まともな内容を話していない。そもそも、まともな言葉を交わすつもりさえないらしく、追求は嘲いと共に流された。

しかし、そろそろいいだろう、と志貴は再度骨喰に声をかけようとした。――――が、それは瞬きの内に朔が掻き消えた事で遮られた。

 

 

 

 そして、悲鳴とも聞こえるような咆哮が雑音と化して響き渡った。

 

 

 

 志貴はその声を知っていた。いや、知らぬはずがなかった。

 

 

 

 ――――それは、以前志貴を襲った化物たちの叫び声だったのである。

 

 

 

「なッ!?」

 

 

 

 気付けば、それは上空で始まっていた。

 

 

 

 幾人もの人でなしが足場から降り立ち、地面へと着地していく。その寸前、僅かに身を強ばらせる瞬間に、ある人型の化物は首を失い、あるものは胴体が泣き別れを果たし、そして上半身だけ吹き飛ばされた。全ては姿を追えぬ朔の成す仕業であろう。彼らは理性を失った瞳を虚ろに閉ざし、粉微塵となっていく。

 

 

 

 まるで出来の悪い三文芝居にでも遭遇したかのような心地で、志貴は未だついていけぬ状況の中で、己の所在を確かめていた。

 

 

 

 未だ三体しか倒されていないのか、辺りからは続々と化物たちが顔を覗かせている。目測で計れば凡そ十は下るまい。小規模な群である。しかし、何故このように日が昇っている時間帯に彼らがいるのか、と志貴が辺りを見渡せば爆発的に理解できた。

 

 

 

 この場所は建設途中であるが故に上空が骨組みで編み上げられ、更に巨大なクレーンまで備え付けられている事から、内部は巨大な影として空間が作られていた。ならば彼らがここに出現することも道理であった。太陽から逃れた者共が隠れ住まう巣穴がつまりはこの建設途中のビルだったのだ。という事は、ここは魔の巣窟に他ならない。自らの住処を襲われた化物たちが襲い掛かってくるのは明白な事だった。

 

 

 

「おい! 俺はどうしたらいいんだよ!」

 

 

 

 姿を捉えきれぬまま不安に駆られ志貴は叫んだ。あちらこちらで血飛沫が破裂している事から、朔は化物共の掃討を断行しているらしいが、この決して狭くはない空間で縦横無尽に飛翔する朔の姿はまるで水を得た魚のようであり、志貴では影さえも発見できない。

 

 

 

 焦燥が志貴を包み込む。真逆いきないこのような場面に連れられてしまうとは望外の事だったが故にである。そして己には何か武装できるものはないのかと、ポケットを探った時、その硬い感触に指が当った。

 

 

 

 七つ夜と銘打たれた短刀がポケットの中に眠っていた。

 

 

 

『ひひ!手前ハ暫く暈ケたようにデもしてロ』

 

 

 

 どこからか骨喰の耳障りな声がしたが、その発声源は常に移動していて所在が掴めない。

 

 

 

『こコは朔の狩場だァ。誰ニも邪魔はサせやしネエ!』

 

 

 

「だからって、ここにいたら危ないだろ!?」

 

 

 

『ひひ、ひひっひひひっひひひひっひひひひひひひひひいひひひいいひいひひいひ!!』

 

 

 

「……ッ! 聞けよ襤褸刀!!」

 

 

 

 聞く耳持たずの骨喰に悪態をつきながらもなるべく日の当たるところへと移動しつつ、志貴は急激に高まる動悸にいつの間にか口で呼吸をしていた。

 

 

 

 いきなり始まった殺し合いという名の刹那、一方が駆り立て、一方が返り討ちにあう。

 

 

 志貴がその光景をようやく視界に収めたのは、いつの間にか抜かれたのか骨喰の黒々とした瘴気が、不気味な塊として脈々と蠢き、這いずりまわり始めたからに他ならない。

 

 

 

 そうでなければ志貴は延々と朔の居場所を特定する事さえ出来ず、あっという間に終わり行く殺戮の観客に成り下がっている。否、最早すでに志貴は一顧だにされぬ観客の一人に成り下がっているのだ。襲い掛かる亡者達は隙間から差し込む光に逃げ込んだ志貴を相手にする事無く、ただ走駆する朔に翻弄されている。これはもう殺し合いなどではない。

 

 

 

〝狩場〟

 

 

 

 先ほど骨喰が哄笑と共に叫んだ言葉そのものの光景が目の前で繰り広げられていく。

 

 

 

 これではいつかの焼き直しだ。あの暗闇で行なわれた惨殺劇とまるで同じだった。志貴はただ見ることしか出来ず、朔の手並みに圧倒され、息を呑む。

 

 

 

 この足場が多重に組まれた空間は疾うに朔の独壇場と化していた。彼は多角に移動し、人では不可能と思える可動さえ意図も容易く果たし、今もまた死者の首が粉々となって消し飛んだ。過程に何を施して行なったのか目視出来ぬ速度は鳥類の飛行ではなく、不可解な現象にさえ成り果てようとしている。事実、志貴は今しがた頭部を砕かれた亡者が一体何をされたのか理解できなかった。ただ黒い塊が残像を置き去りにして通過していった、だけのようにしか見えなかったのである。

 

 

 

 志貴はその光景に圧巻されながらも、どこか惨めな気分となった。これが今の自分の立ち位置でしかないのだと、言葉ではなく行動でもってまざまざと見せ付けられている現状に忸怩たる思いがこみ上げてくる。しかし、志貴は陽だまりから足を踏み出せない。これが己の限界なのだと、今更のように思い知らされる。

 

 

 

 あるいは自分も朔のようになれたら、と志貴は脳裏に想像する。そうすればこのように怯まず、恐れずあの化物たちへと勇猛果敢に立ち向かう事も出来るし、弓塚さつきの仇も難なく取れるやもしれない。しかし、そのためにはどれ程の時間をかけ、練磨を経てば良いのか。途方もない屍を重ねぬ限り、己はあのようには慣れないという確信が志貴に芽生えた。

 

 

 

 それでも、その眼に輝く瞳の色は、志貴自身気付かぬ事ではあったが、純然なる憧憬の眼差しであった。そして今また更に頭部から両断され、右半身と左半身が裂けていった手並みを見て、志貴は目を、心を奪われる。圧倒、なんてものではない。まるで魂そのものが朔の殺戮に囚われ、逃れられない。

 

 

 

 自然と志貴はポケットに入れたままだった手を開き、掌に短刀を握り締めた。七つ夜と銘打たれたそれは一度しか使われた事のない代物である。当然、志貴はこれを満足に揮う事は叶わないだろう。しかし、その掌の皮膚に触れた硬い感触は志貴の心を不思議と落ち着かせた。

 

 

 

 何故だかわからない。ただ、この遣る瀬無さと憧れに戸惑う心に区切りを打ち込んでしまいたかったというものもある。けれどそれ以上に、自分も勇気を振り絞りたかった。

 

 

 

『ひひ!雑魚ばかリだ、芥子粒バかりダ! 全くもっテつまらネエなあ、全クもって飽き飽きスる、そうは思わないか? えエ? 朔ゥ!』

 

 

 

 血祭りという言葉以外の形容が見当たらない。あちらこちらで鮮血が迸り、ぶちまけられていく。そしてその中を愉快気に嗤う骨喰の嘲笑。嗚呼、それはまるで舞踊のようでさえありながら、疾風の如くに加速する様は黒い流星のようだった。

 

 

 

 そして、目に見える化物たちが残存数二匹となったところで、それまで禍つ風の如くに飛翔し続けていた朔が、ぴたりと動きを止めた。何故だ、と疑問を浮かべると。

 

 

 

『さア、問答の再会ダあ』

 

 

 

 軋み響く骨喰の哄笑が、置き去りにされていた志貴の心を鷲掴みした。

 

 

 

 よく見れば上空の足場にいる化物たちは両手両足を砕かれており、まともな形状を保てておらず、それが朔の容赦なき蹴りの一撃によって地面へと落下してきた。ばん、と盛大な音をたてて墜落した化物は背中の骨がへし折れたのか、体そのものが可笑しな方向に曲がっており、志貴にはその様が子供に壊された玩具のようにさえ思えた。確かに朔の力量を思えばこのように無意味に生き永らえさせる理由は無い。ならば、痙攣し口から泡を吹きながらも芋虫のように這いずる事さえ出来ない化物は一体何なのか。不可解な朔の行動に嫌な空気が流れ込んできた。

 

 

 

『糞餓鬼、手前ハ仇を取りてェ』

 

 

 

 上空の足場から俯瞰するように、黒い瘴気に包まれた朔が志貴を見下ろしていた。

 

 

 

「――――、―。――」

 

 

 

 その瞳に濃縮された殺意の渦は未だ収まりを見せず、炯々と亡者達を睥睨している。ならば殺せばいいものの、あえて生かしているという事は何かがあるのだろう。

 

 

 

『が、手前ハ未だ殺しヲ知らぬ童貞だァ』

 

 

 

 朗々と響く声音は反響しあい、まるで神託のように志貴を取り込んでいく。

 

 

 

『何時ぞやカは咄嗟の事だッたが、今度ばカりハ違え。手前ノ意志、衝動デはなク、手前の意識デ持って殺してモらおうか、ひひ』

 

 

 

「……なんだよ、それ」

 

 

 

 嘲笑が紡ぐあまりのおぞましさに、声が震えた。

 

 

 

『片方はソの眼を使っテもイい。が、モう一体は使ッちマったらいケねえ。何、簡単ナ事だァ。首をモぐなり、心ノ臓腑を抉るナり手前の好キにすればいイ』

 

 

 

「なんなんだよ、それ!」

 

 

 

 思わず、上空に佇む両者に向かって叫ぶ。

 

 

 

「意味がわからないぞ、こんな事に一体何の意味が……ッ!」

 

 

 

『意味ぃ? 意味ダとォ? んなモん手前ノ無知に実感を叩キ込むために決まッてるジゃねえカ。それ以外ニどうシて俺がわざワざ朔の殺しを止メなきャならねエ。悪いが、こっちダって必死に朔を止めテるんだぜェ? 殺シたくて殺したクてたまラないってなア。ひひ、ひ……』

 

 

 

 とてもそうとは思えぬ声音で骨喰は嘯く。

 

 

 

「――――、――」

 

 

 

 しかし、遠目から見て瘴気に抱かれた朔の体が僅かに震えているのを見つけてしまった志貴は、それが事実である事を思い知る。

 

 

 

「だからって、こんな事しなくても……」

 

 

 

『本当にソう思うのカい。もシ本当にそウ思うのダとしたラ、手前はマすます救えネエなぁ。練習モせずに、殺しノ感覚を知ラずに仇ヲ取りてエとかホざくナら、手前ノ末路は決マったも同然だァ。屍と成り腐ッて朽ちて果テる末期が口ヲ開いて待ってるぜェ?』

 

 

 

「……ッ、だけど」

 

 

 

 眼前で虫の息と化している化物共を見やる。彼らは僅かに身動ぎするだけの力しか残されておらず、そして移動しようにも周囲を日差しによって遮られているため、移動する事さえ叶わない。それは自然に作られた化物達の牢獄だった。檻に囚われてなお彼らはのたうち、何とかしようとしているのか、首をあらぬ方向に曲げたり、砕けた足をもがきながら、地下室からくぐもって聞こえる風のようなおどろおどろしい呻り声をあげている。

 

 

 

 そんな彼らを見て志貴は、ここに来てようやく骨喰が志貴を依頼に連れ立ったのかその理由に感づいた。つまり彼は端から志貴に化物を自らの意志で殺させるため、わざわざ志貴を朔の狩場まで連れて来たのだ。それだけが彼の目的だったのだ。

 

 

 

 悪辣かつ陰湿な骨喰の狙いに志貴は冷や汗を流せずには入られなかった。そして未だ覚悟を決めず、言いよどむ志貴に対し骨喰は囁くのだ。それは、まさしく悪魔の囁きだった。

 

 

 

『そイつらも憐れナもんよなァ。ひひ、元々人間だっタ奴ラが血を吸ワれて死人トなり、そノくせ未だ蠢キ餌を求メて徘徊してる』

 

 

 

「こいつら、元は人なのか!?」

 

 

 

 思わぬ台詞に志貴は瞠目し、驚愕をもって化物達を見た。確かに形は人のそれである。けれど、その褐色色の肌や、理性を失った瞳に濁りきった輝きは魔性のそれであり、とても元々人間であったなどとは思えない。しかし、いつぞや志貴が襲われた夜に彼を殺そうと蠢いたのもまた、あのような造形をした化物だった。殺せば粉塵となって消え去る理法外の化物。

 

 

 

『おウよ。そイつらは死ンでも死にキれねエ惨めな亡者よ。なラ、いッそのこト楽にしてしマうのがァ道理だと思ワねえかァ?』

 

 

 

「……この人達を助ける事は」

 

 

 

『ない』

 

 

 

 即答だった。間髪入れず、志貴の動揺を甚振るように骨喰は断言した。

 

 

 

『一度死人とナっちマった奴らが元に戻るナんざ、もしあっタとしテも誰もしやしネえ』

 

 

 

「……それは、どうしてだ」

 

 

 

『面倒だロうがァ』

 

 

 

 縋るような志貴の言葉を一蹴して骨喰は瘴気を撒き散らす。風下にいるからか、志貴の鼻腔に骨喰の死臭が届いた。

 

 

 

「めん、どう……?」

 

 

 

『ひひ、ひ……糞餓鬼、手前はまアだ勘違いヲしてやガる。コの世は慈悲で動いチゃイねえし、憐憫で回ッちゃいネエ。そンなもん死後ノ仏様にでモ望むこッた。……いいか、糞餓鬼、コの世を動かすハいつダってソんな優しイ感情じゃねえノさ』

 

 

 

「……っ」

 

 

 

『そレでも手前が己の道を貫くなラば、ソこにイる奴らを殺してヤるのが救いだと思うがなァ。ひひ、ソの懐に仕舞いこンだ獲物でなァ』

 

 

 

「―。―――――」

 

 

 

 志貴の体内を複雑な感情が奔走していく。今まで培ってきた道徳、常識が錯綜しあい、そして今という現状に押し返され、非道徳という現実が押し寄せてくる。それはまるで波濤のように志貴を飲み込んで、もがけばもがくほど苦しくなっていく。呼吸が荒いのは、緊張のためか、それとも禁忌に触れるためか。

 

 

 

 ――――わからない。

 

 

 

 何が何だか自分でも知らぬままに、志貴は選択を迫られた。否、これは最早選択を過ぎ去った決定事項なのだろう。志貴が亡者を殺す、元人間を殺すというすでに定まった事柄なのだ。故に骨喰はにやにやと嗤い、朔は静観を決め込んでいるのだ。あくどい、なんて想いはこの時には浮かんでこなかった。ただ、どうすべきなのかという感情だけが頭角を現し、志貴を攻め立てる。

 

 

 

 あいつ等は哀れな存在なのだ。

 

 

 

 あいつ等は運がなかったのだ。

 

 

 

 だから化物となり、死して尚動き回る亡者となっているのだ。だから人間ではない。人間ではないのだ。そう自分に言い聞かせて、それでも尚納得のいかない自分に気付けば、志貴は当惑のままに再び上空を見上げ、朔の姿を見やった。

 

 

 

 あそこにいる殺人鬼ならば、あそこで佇む殺人鬼ならば迷いなく、惑いもなく鏖殺出来るのだろう。現に先ほどまでそうではなかったか。彼は己が思うままに駆け巡り、化物を殺し、滅ぼした。そこに迷いは見えなかった。

 

 

 

 人でなし。それは誰に向けられた言葉なのか。未だ痛みに身悶える化物の事か。それともそれを難なく処理した殺人鬼の事か。あるいは、これから自らが行なうであろう未来の自分の事か。

 

 

 

『ドうした糞餓鬼、早くヤっちまワねえか』

 

 

 

「……」

 

 

 

『それとモ、びビったかァ。別二そいツらじゃナくても良イんだぜェ? 例エば有間の連中トかを狙っテも俺たチは構わねエんだぜェ』

 

 

 

「ッ! それは駄目だ」

 

 

 

 咄嗟に、思考する事無く反射するように志貴は吼える。

 

 

 

 有間の家で過ごした日々は安穏の記憶として志貴の中に収められている。

 

 

 

 それを自ら切り崩すなど、あってはならない。

 

 

 

 だからこそ骨喰は有間の名を出した以降、骨喰は愚弄する事はなく志貴がどうするのかを観覧するように押し黙った。

 

 

 

 昼の明かりが僅かに翳る。夕暮れが近づこうとしているのだろう。シュライン内部に届く光は淡く、

それでも取り残された化物達を囲う太陽の日差しは変化を見せない。そのまま見届けてしまえば、やがて彼らは時間の経過と共に日差しの中に入り込んで、滅びてしまうのかもしれない。

 

 

 

 けれど、それは本当に正しい事なのか。否、そもそもこの一時に正しさなど入る余地すらない。全てはすでに志貴の手へと委ねられている。最早これは己がやらなくてはいけない事なのだ。

 

 

 

 ――――ポケットに入れたままだった右腕を抜く。掌には硬い感触があるが、寧ろその硬質な肌触りは志貴の表面的な何かを削り取ってしまいそうな感覚があった。それは心と呼べるものなのか、それとも常識という名の忌諱感なのか、志貴には判別できない。もし判断できたとしても、正常な状況にいない志貴ではどちらでもよかったのかもしれない。

 

 

 

 ぱちん、と音をたてて仕込みナイフが飛び出した瞬間、腕が、指先が震えた。日差しを浴びて輝く刃の無慈悲な煌きは、これから行われる事への暗示を伴っていた。

 

 

 

 そろり、と足は踏み出された。半ば夢遊病者のような足取りは、果たしてこれから殺す化物と志貴、どちらのほうが死人と呼ぶのに相応しいか。少なくとも、顔を顰めさえ、青白くさせている志貴もまた死人と同類に近い状態だろう。

 

 

 

 ぐるぐる、ぐるぐる、と視界は回り、脳内は思考停止を始める。

 

 

 

 そこには天も地もなく、故に七夜朔と骨喰は姿を消し、いるのは志貴とのた打ち回る死人のみ。いつの間にか観客であったはずが、遂に舞台のスポットライトを浴びたというのに、その心持は冷え凍り、罅割れてしまいそうだった。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 耳元で心臓が脈動しているような気がした。

 

 

 

 でも、それは嘘で、体そのものが心臓となっているような感覚。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 足取りは遅く、心臓が脈打つたびに立ち止まってしまいそうな眩暈を覚える。それでも目指すべき未だ暴れようとする対象の姿だけは憎々しくも、やけにはっきりと映し出されている。

 

 

 

「は――――、は――――」

 

 

 

 呼吸の荒さに唇が震えた。あまりの気持ちの悪さに立つ竦んでしまいたかったが、頭上から見下ろされる朔の視線に怯えさえ感じた志貴にそれは許されなかった。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 間近に屹立し死人を見下ろすと、彼らは志貴の存在にようやく気付いたようでどうにか動こうとするが、人体を動かす主要な箇所を破壊された彼らに成す術はなく、志貴にはそれが裏返しにされた虫がどうにかして体を反転させようともがく姿にしか見えなかった。

 

 

 

 だからまず一体、こいつらは人ではないのだと自分に改めて言い聞かせ、ナイフを振り上げた。スーツ姿の化物はどこにでもいるような人と同じような姿をしていたが、最早その存在が明らかに違うと志貴がようやく思い知ったのは、彼の眼が映す光景にあった。

 

 

 

 黒い線。それが化物の体を蹂躙していた。注視すれば吐き気を催すほど、化物は死に満ちていた。生きている人間とはあからさまに太く這った黒線は押してしまえば崩れてしまいそうなほど、化物の体が脆く、そして弱い事を志貴は知った。

 

 

 

 ――――ならば殺さなくてはならない。

 

 

 

 これが人間でないのならば、これだけ死に近いのならば殺さなくてはならないと、もう一度自分自身に言い聞かせ、志貴はナイフを一閃した。煌く刀身は男の左胸元から首まで続き、そこに潜り込んだナイフはまるで泥沼に触ったような感触を志貴に伝えた。

 

 

 

 最初の死人はあっけなくそれで死んだ。血を噴出することなく、灰と成り塵と化した。

 

 

 

 本当にあっけない。まるで人の形をしたものを殺したような感覚すら与えず、化物の一体は消滅した。

 

 

 

 問題は、その傍らで今も尚身動ぎするもう一体の化物だった。そいつは女の姿をしていて、どこか既知感を志貴にもたらした。そして気付いた。そいつは最初に襲ってきた化物に似ていた。

 

 

 

 こいつもまた殺さなくてはならない。しかも、今度は眼を使わずに。寧ろ、体中に這う崩壊の線を思えば、線に触れぬ方が難しいとさえ思える。化物は未だ呻り声を挙げ、近づく志貴を警戒するように牙を剥いている。そんな様でさえ、嗚呼こいつらは本当に人間ではないのだという事実を志貴に知らしめるのみ。

 

 

 

 けど、どうやって殺せばいいのだろう。志貴は三度上空にいる朔を見やった。確か、彼はよく首を狙っていたが、自分もそのようにすればいいのだろうか、と志貴は夢現のような感覚のままに、ぼんやりと考えた。

 

 

 

 何れにせよ志貴のナイフでは長さの問題もあり、人体を胴から両断するのは不可能と言っても良い。技量的、あるいは膂力的なファクターを強化すれば、あるいは可能なのかも知れないが、ナイフを揮う志貴に当然それは見込めぬし、もし技量云々が備わっていたとしても、やはり人型をナイフで唐竹に両断するのは無駄な労力を必要とさえする。故に志貴が呆け様に考えた方法はこの現状だと満点に近い。ただ、それは対象がただの人であったならば、という注釈がつくだろうが。

 

 

 

 と、志貴がゆらゆらと呆然とした足並で最後の化物に近づき、そのナイフを振り上げた瞬間を上空で静観を決め込んでいたはずの骨喰は見逃さなかった。

 

 

 

 肉厚の刀身、ひたすら頑丈さだけ求められた刃。

 

 

 

 その柄は黒く、打たれた銘は七つ夜。

 

 

 

『槙久の野朗メがァ』

 

 

 

 吐き出される感情はドス黒く、そしてひたすらに邪悪であった。

 

 

 

『道理で見つかラねエはずだ、道理で探セなかッたはずダ。奴め、隠シてやガったのか』

 

 

 

 苛立ちを隠しもせず、骨喰は志貴が握る短刀を見やり、ぶつくさと文句を並べる。

 

 

 

 志貴が握り締めるあれこそは怪物、刀崎梟さえ見つけ出せず散逸したとされる七夜の宝物。その切れ味は暗殺一族七夜が宝刀と証し、また決して七夜以外が揮う事を成さなかった伝説の銀色。終ぞ、作刀の怪人でさえ見ることが出来なかった輝きが、今陽光を浴びてその真価を見せ付ける。

 

 

 

 ――――ひゅん、と風が斬られた。

 

 

 

 一息に振り落とされた刃は肉を切り裂き、咽喉へと潜り込んだ。刀身と肉の隙間から僅かに血と呻きが零れる。張りのあるものを破ったという感触は志貴にはない。しかし、そのまま深く突き刺そうと力を込めると頸骨の硬い感触に当った。

 

 

 

 これ以上は無理だ。そう思い、ナイフを引き抜こうとすれば化物の頸部に入った力によって、なかなか抜く事は出来なかった。寧ろ、引き抜くには振り下ろすよりも力を必要とした。

 

 

 

 最早化物は瀕死の状態にあった。しかし未だしぶとく足掻き続け、どうにか馬乗りになっている志貴を跳ね上げようと身もだえしている。

 

 

 

 ――――殺さなさくちゃ。

 

 

 

 忘我のままに、志貴は血を吸い挙げた刀身に再び力を込めた。今度こそ、今度こそと指先にまで入り込んだ力は伝達し、冷やかに艶めく刃を震わせた。

 

 

 

 そして、一閃。

 

 

 

 横凪ぎの一撃は深く、抉るように首を切り裂き、今度は骨まで砕いて頭部を首から切り離す事に成功した。

 

 

 

 さらさらとそれまで馬乗りになっていた化物の肉体が粉塵と成り、風に飛ばされていく。すとん、と今まで座っていた支えを失った志貴はそのまま地面に座り込む形となった。

 

 

 

 頭は何も考えられなかった。寧ろ、先ほど自らが行なった殺害が脳内にリフレインして、それ以外の何も思い描く事さえ出来ない。

 

 

 

 ――――これが、殺すという事か。

 

 

 

 漠然と、そう思う。

 

 

 

 命を断つのと、命を殺すほどでは遥かに異なる断絶を志貴は知った。

 

 

 

 力の抜けた体は根幹を失ったかのように項垂れ、首を上げることさえも難しい。志貴がいる場所には彼以外には最早何もない。暗闇の中で塵と化した化物達にも取り残され、志貴はたった一人で自失した。けれど、それを許さぬものこそが邪悪であった。

 

 

 

『ひひ、ひ……マあ及第点ってェ所カね』

 

 

 

 天上から降り注ぐ軋んだ声音に志貴は力なく上を向いた。不思議と首筋がぎしぎしと鳴った。そこには黒い瘴気を禍々しく放出する骨喰と、そしてその闇に羽衣のように包み込まれた朔の姿があった。先ほどと何も変わらず、先ほどと少しも変わらずに。

 

 

 

『ドうダい糞餓鬼、そレが殺すってェ事だ。命ヲ殺すッてえ事だ。眼を使っタのトは明らかに違ェだろウ?』

 

 

 

「……ああ、そうだな」

 

 

 

 呆然と座り込んだまま、志貴は骨喰に応える。その精神の磨耗は計り知れぬものがあった。前日に行なわれた殺し合いなど生温い消耗である。

 

 

 

『童貞卒業だなァ。コれデ手前も血塗られタ真っ赤よ』

 

 

 

「―――。―、――」

 

 

 

 朔の視線は真っ直ぐに志貴を見つめている。その殺意渦巻く蒼き瞳を一直線に、志貴を見ている。

 

 

 

『気ニなる事ハ多々あレども、まア今の所はドうでもいイさ。今の所はナ。取り合えず課題は終了、ってかァ? 依頼モ終わっタ事だシ万々歳っテえ所だな』

 

 

 

 ひひひ、と骨喰は愉快気な声を漏らした。それを悄然と聞きながら、その右腕に残る人体を解体した感触を噛み締めていた。ナイフを片手に握り締めたまま、まざまざと見せ付けられた生の断末魔が消え去らない。

 

 

 

「……なあ、朔」

 

 

 

 頭上の足場にいる殺人鬼へと志貴は問いかける。答えなど無いと分かっていながらも。

 

 

 

「これで、よかったんだよな……?」

 

 

 

「―。―、―――――」

 

 

 

 慰めの言葉は無く、労いの言葉もまた彼の口からは零れない。当然だ、志貴はそれを知りながら、聞いたのだから。

 

 

 

 それでも、何故だろう。志貴には口を閉ざし、静謐な眼差しを向ける朔の姿が志貴の行いを肯(うなべ)ているように見えた。

 





命は儚く尊いものです。だから大切にしましょう。
――――でも、それはどうしてですか?

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