七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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過去編 Hello darkness 上

 決して快適とはいえぬ空の旅だった。

 

 

 欧州のエアポートから飛び立った機体にただでさえ大柄な体を座席へと押し込み、青い空の景色を窓際から眺めている。雲の下は雨でも降っているのだろう。眼下には途切れなく雲海が広がっている。濛々とした雲が不気味に横たわる光景は、寧ろ心地よささえ感じた。

 

 

 ファーストクラスの広々とした空間に乗客は疎らであった。しかし、整然と揃えてある座席からはそれでも幾ほどかの不躾な視線が寄越された。上等な身なりの人間達の姿は有象無象に他ならないが、それでも鬱陶しく思える。

 

 

 途中それを疎んじ、認識阻害の魔術を座席一帯と自らにかけてそれらを遮断し、更にエンジンの駆動音を聞こえなくする事で、ようやく落ち着いた。

 

 

 始めは乗客全てを喰らいつくすか、と思いもしたが、今己がいるのは空を飛翔する飛行機の中であり、現在飛翔する鉄の塊は上空12000メートルの高さにある。人間全てを喰らい尽くした結果、忽ち機能を維持することが出来なくなった飛行機が辿る末路は考えるまでもない。

 

 

 メリットデメリットを考えた場合、面倒になるのは明らかであり、今の己が満腹状態であるのを考えれば、無駄食いは良くないと自重したのである。文明発展のシンボルとも言える飛行機に乗り込むのは些か気乗りがしなかったものだが、それも旅路がてらの余韻を味わう時間が設けられたと思えば気を許せるというものだった。

 

 

 搭乗する前に食事をしていて正解だった。村ひとつ分の住人を平らげただけの事はある。量は少なかったが、腹持ちが良かったらしく今のところさしたる問題は浮上していない。昼の村をただ闊歩するだけで腹が満たされるのだ。何せ空の旅は長い。一度食事を始めてしまえば加減が効かないのだ。

 

 

 肉体そのものが底なしの胃袋とでも言えばいいのだろうか。つまり、彼はそういう存在だった。

 

 

 今頃あの廃村を教会が必死で浄化作業しているのだろう。たかが代行者風情がどう足掻いても自分に敵うはずはないが、埋葬機関が動けば些か面倒である。それも面倒、というだけの話であるが、と柔らかい背もたれに身を寄せた。

 

 

 やはり窮屈ではある。しかしこれから始まる遊戯を思えば、少しの我慢も必要だった。

 

 

 極東の小さな島。世界地図では日本と呼ばれるその国には、とある用件があった。これを仕組んだ者の思惑を推測するならば、用件というよりはただの遊びであるとも言えなくはないが、自然と張り付く乾いた笑みに頬が引きつくのを男は止められなかった。それは笑みというにはあまりに枯渇し、苦笑と呼ぶにはあまりに影の密度が濃い。しかし、それは瞬きの内に収まり、刻印のような皺を寄せる重々しい顔つきへと忽ち戻っていく。

 

 

「……戯れ、か」

 

 

 ――――真祖狩り。

 

 

 死徒二十七祖が第十七位、『白翼公』トラフィム・オーテンロッゼが提唱した娯楽である。

 

 

 元々真祖は自然発生した生命体であり、自然界がバランスを調整するために生み出した吸血種である。そして彼らによって血を吸われた人間が死徒となり、やがて真祖からの支配を逃れた死徒たちが死徒二十七祖を名乗り始めたのが、死徒二十七祖の始まりである。

 

 

 死徒と真祖。

 

 

 原初彼らの関係は従僕から始まった。しかし、それは最早過去の事である。

 

 

 かつて、真祖たちは自ら生み出した処刑道具『白き姫君』によって殆ど滅ぼされた。これにより今現在死徒に対する真祖の影響力は極一部を除けば皆無と言っていい。

 

 

 現在死徒二十七祖は派閥競争や領地拡大等、さながら貴族のような争いを暇つぶしに行っている。何故そのような愚かな行為をしているのかと言えば、それぐらいしか彼らには娯楽がないのだ。

 

 

 死徒二十七祖の命は他の生命体と比べ遥かに永く、それはあまりにも詰まらない時間の流れを意味している。

 

 

 だからこそある者は自身を現象化させ限りある命と化し、またある者は命題のために動く。死徒の中には彼のように目的意識を持って死徒となった者も存在するが、それも極僅かだろう。

 

 

 だからこそ戯れに提唱された真祖狩り。自然発生する真祖を狩る道楽である。あるいはそこに嘗て身に受けた過去からの意趣返しが見え隠れするのは気のせいではないだろう。

 

 

 白翼公は死徒二十七祖では最大勢力であり、その発言力は並々ならないもの。故に彼の掲げた遊び、真祖狩りは死徒全域にわたる号令の一端として発令されていた。

 

 

 それは男、死徒二十七祖第十位ネロ・カオスも例外ではない。

 

 

 序列からすればトラフィムとネロは上下の地位に座位するが、白翼公トラフィムは死徒の中で最古参の一角にあたる吸血鬼。現在まで生き残った彼の吸血鬼としての力はネロ・カオスにも未知数であり、また死徒二十七祖最大派閥の力も伊達ではない。例え古臭い思考の持ち主と他の死徒から揶揄されようとも、彼の総力という点では無視できないものがある。

 

 

 ただ、ネロ・カオス個人としては白翼公の戯れはどうでも良い。彼は魔術師上がりの吸血鬼であり、おおよそ他というものに興味は無い。ただ追求する事にこそ価値が在る。そうやって呼吸をしてきた彼である。だが、彼は魔術師であるが故に真祖という素体に関心があった。

 

 

 だからこそ、彼は目覚めた真祖の処刑道具『白き姫君』を追って、日本まで訪れるに至ったのである――――。

 

 

 これから始まる狩りの遊戯に思いを馳せながら、ネロは静かに目を閉じた。睡眠乃至休息はネロにとって縁のないものと化しているが、力を溜める意味でも無駄な行動は慎むべきである。だから彼は魔術によって外界から己を遠ざけ、その戯れに付き合わされた原因に嘆息を吐きながら、闇よりも濃い泥の黒色を纏う男は目を閉じた。

 

 

 □□□

 

 

 記憶かどうかはわからないが、時として脳裏に浮かび上がるものがある。

 

 

 ――――己は随分と小柄で、外見的特徴を考えれば子供の頃だろうか。

 

 

 七夜朔はベッドに横たわっていた。

 

 

 高い天井が見えて、おぼろげな視界を映す眼球を動かせば部屋もまた広い事が伺い知れる。負傷により体が上手く動かせず、身動きひとつで痺れるような痛みが包帯を巻かれた全身に駆け巡った。

 

 しかし思うように体が動かせないとは、甘えのようなものだろう。

 

 

 体を動かすのは意志の力だ。意志が強靭であれば例え死人でも体は動く。ならば、未だ息を吐いて心臓を動かす己が動けぬ道理はないだろう。

 

 

 重心を移動させて、ベッドから転がり落ちた。着地が中途半端な形となり、受け身を取れず床に体が叩きつけられた。木目の見える床はひんやりと冷たく、痛みに腫れぼったい熱を持った体には心地がよかった。

 

 

 恐らく屋敷の中だろう。朔には縁もない調度品が幾つも室内には設置されていた。見上げるほどに巨大な本棚、毛並みよい絨毯、壁際には頑健な机も見える。見るものが見たならば、調度品に凝らされた贅に溜め息をこぼすだろうが、朔にはそれら全てが遮蔽物以外の何ものでもなく、自然とその強度と室内の空間を把握した。

 

 

 ――――ぱち、ぱち。

 

 

 と、己が置かれている状況を調べている最中に部屋の中で軽い音が聞こえた。小さなその音は今にも消え入りそうで頼りなく、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな破裂音だった。けれど、朔にはそれで十分だった。

 

 

 ゆっくりと体を起き上がらせる。何故か力が伝達しにくく、支える右腕は面妖な事に震えていた。どうやら左腕を失ったばかりらしい。回復の兆しを見せぬ体は言う事をなかなか聞いてくれず、鍛え上げた肉体が嘘のように力を失っていて、気を抜けば倒れ伏してしまいそうだった。

 

 

 ――――ぱち、ぱち。

 

 

 それでも、その音は消えなかった。単調なリズムで打たれる手打ち音は朔の先から聞こえてくる。だから朔は動いた。どうにか起き上がった身で足を踏み出すと、膝から崩れ落ちてしまいそうな感覚に陥る。歯を食い縛り、力の限り踏ん張ってそれを耐え、頼りげない爪先に力を入れて、また足を踏み出す。

 

 

 くり返す動作は未熟にも程があり、魔に恐れられた殺人鬼としての姿はそこになく、ふらつきながら歩むそれは死者の行進のようでさえあった。ただ一言で言うならば、無様に尽きる。

 

 

 ぱち、ぱち。

 

 

 ただひとつの音源。部屋の中を等間隔に響く人が掌を叩く音。その音に導かれて、歩く。

 

 

「おいで。ここまで、おいで」

 

 

 幼げな声が聞こえた。音源を辿り、虚ろな視線を寄越せばそこに小さな少女が佇んでいた。少女はゆっくりと歩く朔を導くように手を叩いている。今にも倒れ伏せそうな朔に手を伸ばしている。

 

 

「さくちゃん、ここまでおいで」

 

 

 そして、汗さえ滲ませて傷口に沁みる己を省みずに朔は少女の側へと近寄っていく。そんな少年を見つめる少女の琥珀色をした瞳は一心に定まり、朔以外を映し出さない。まるで世界に二人だけしかいない閉じられた部屋の中で、あと少し、あと少しと言葉少なに声をかける少女の導きに従い、少年は歩いていくのだった。

 

 

 ぱち、ぱち。

 

 

 ぱち、ぱち――――。

 

 

 音が止み、気付けば朔は少女の目前まで辿り付こうとしていた。もう手を伸ばせば届いてしまいそうな距離が二人の間を隔たり、少年は力を込めて右腕を挙げかけるが、力及ばず足元から崩れ落ちそうになりかけて。

 

 

「がんばったね、さくちゃん」

 

 

 少女のか細い腕が朔の腕を捕まえた。

 

 

 どこか空虚な笑みを浮かべながらも少年が己の下に辿り付いた事が本当に嬉しそうで、少女は掌に握った少年の腕を宝物のように柔らかく包み込んだ。白色のリボンが揺れる。琥珀色の瞳が揺れる事無く朔を見つめていた。

 

 

 そして少女の唇が歪な形を象りながら朔の口元へと近づいて――――。

 

 

『ひひ、ひ……。おい、朔』

 

 

 潜在していた意識が汚泥のような悪意に塗りつぶされ、朔の意識が戻っていく。

 

 

 軋み音は全てを切り裂いて、少女の姿さえも不快な金属音に切り裂かれ、どこかへと消え去っていった。

 

 

 そして後には何も残らず、眼は目の前の世界を映し出す。

 

 

 ――――ビル伝いから睥睨する地上はあまりにも汚らしい。

 

 

 夜である。人工の明かりが照らす町だった。

 

 

 多くの人間と人工物に溢れかえった街並みは地下に広がる蟲の巣のようであり、それらがわらわらと蠢いている。どこか意思を無くした機械のような動作で移動する人間達は明確な目的を抱いて動いているのか。どこに向かうか、あるいはどこかに戻るのか。

 

 

 上空から地上を眺める存在を道行く人間達は気付かなかった。とは言え、道行く人々が気付かないのも無理からぬ事である。

 

 

 夜である事もそうだが、地上三十メートルの付近に位置する建築物の側面に人が直立立ちしている事実など、どうやって気付けばいいのだろう。

 

 

 重力に逆らい、壁に足の裏をつけて、まるで大地を踏みしめるような姿で屹立する人影を。

 

 

 ならば例え彼がいる場所を誰かが見たとしても、発見する事などまずありえない。

 

 

 何故ならば、彼は、七夜朔とはそういうものなのだ。

 

 

「――――」

 

 

 藍色の着流し。左腕のない中身を風にたなびかせながら、朔は重力にしたがって垂れ下がる黒髪の隙間から眼下に広がる地上を見つめている。いや、眺めている。その切っ先のように鋭い蒼い瞳の有様は、眼球に映る景色を情報として収めているに過ぎない。輝かしいまでに澄んだ蒼眼はそう思わせるものがあった。

 

 

 その片手には奇怪な刀を握っていた。幾つもの呪札を鞘に貼り付け、柄には数珠を巻いた日本刀である。一体何を封じているのか、納刀の隙間から嫌な気配が漏れ出ている。

 

 

『三日三晩。よウやっと、到着ってかァ。ひひ、ひ……』

 

 

 そして驚くべき事に、刀は言葉を発していた。錆びた金属同士を擦り付け合うような聞くに堪えない声音で話すこの妖刀は銘を『骨喰』と言った。

 

 

「―――。―」

 

 

 骨喰の嘲りにも似た声に朔は反応しなかった。まるで言語を失ったように、彼は無言を貫きながら、すんすんと鼻を鳴らした。

 

 

 町というものは多くの臭いに溢れている。

 

 

 人の体臭。機械の香り。人工物の臭い。食物の匂い。それらが入り交ざり、複雑な集合と化してひとつの塊のように臭気は淀んでいる。

 

 しかし、よく訓練された警察犬が僅かに残された物品から事件の手がかりとなる匂いを嗅ぎだすように、個にはどれだけ澱み薄くなろうとも確立した匂いというのが必ず存在している。それは町に入り込んだ異物が放つ臭気もまた同じだった。けれど、それは人間が成せるものではない。

 

 

「――――」

 

 

『なんだア? ひひ、ひ……面白エのが入り混じッてやがるな』

 

 

 骨喰は驚愕ではなく、愉快でもって声を張り上げた。

 

 

 町に幾つもの魔臭が紛れている。それもかなり特異な匂いだ。まるで塊のような臭気が幾つもある。それらが強大であり、上手く判別が出来ない。

 

 

 魔の気配を辿る術理。それは七夜朔、あるいは七夜一族の本能とも呼べる感覚だった。

 

 

 意識するしないに関わらず、人とは異なった生物の気配を嗅ぎ取る。例え臭気がごった返す町であろうとも、必ず臭気の根源を探し当てるそれは人の所業と言うよりも、最早統制さえ利かない獣の本能である。けれど、巨大な魔の気配が三咲町に集まりすぎて詳細が知れない。あるいは虱潰しに鏖殺するか。――――と、町を漂う臭気のひとつが丘の頂に向かっていた。濃い。まるで黴のようにこびり付いた魔の気配。どこか馴染み深い、人外の臭い。

 

 

 見つけ出したならば、動かぬ理由はなく、夜空に雲がかかり、月を覆い隠さんとする天上の中、七夜朔は壁を蹴りつけた。

 

 

 □□□

 

 

 日本に来るのは始めてだったが、まずその文化レベルに驚いた。

 

 

 事前知識で日本は高度経済成長を経て急速に発展し、技術レベルにおいては欧州各国あるいは先進国に比肩するほどの国であるとは知っていたが、極一部に混ざっていた資料書の中には今も尚忠義溢れる侍が主をたて、影に闇に隠れる忍びがいて、移動手段は馬である、などという眉唾な物もあり、それら偏ったイメージを合わせれば日本の文化レベルは精々都会化の真っ只中にある片田舎ぐらいのものだった。

 

 

 しかし実際に脚を踏み入れてみれば印象はかなり変わる。

 

 

 人工物の多さは恐らく欧州を越えるだろうし、日本ブランドと呼ばれる精巧な技術力の高さが至る箇所で散見できた。行き交う車に整備された道路。そして空を狭める建築物。西欧の趣とは異なった日本の風景はこの国の意地さえ感じた。

 

 

「まずは自分で見るべきとは本当ですね」

 

 

 感嘆の声を漏らしながら、彼女は一応アジトとして確保しているアパートへと向かった。事前に現地の教会所属協力者の手引きによって確保されたその場所は三咲町で活動する分には申し分のない立地であった。

 

 

 そこは安いアパートだった。認識阻害によって人が入り込む事は無く、更に事前調査によれば他に人も住んでいない事から、例え自分が標的に狙われたとしても住民が巻き込まれる心配は無い。日本でのアジトとしては悪くないといえるだろう。

 

 

 現地に到着したのは夜明けの頃だった。それからシエルは標的がいるはずの学校へと向かい、制服を調達してから生徒の一人として乗り込む事にした。

 

 

 学校の潜入はあっけないものだった。

 

 

 恐らく退魔乃至混血関係の手がかかっているであろうとの危惧が拍子抜けするほど容易く、シエルは高校に入り込む事が出来た。あまりの状況にシエルはしかし、現地の退魔組織の危機意識の欠落を見出した。

 

 

 そこでシエルは朝早から学校へと向かってくる生徒ひとりひとりに暗示をかけて情報を会得し、その片手間に自分が元からここの生徒であると錯覚させるために情報操作を行う。これで彼女は三年生の生徒として高校へ潜伏が完了した。

 

 

 準備には少しの時間が必要だったが、それも問題なかった。

 

 

 周辺地域の足固めとして練り歩き、如何なる場所であろうとも対処できるよう立地を脳に叩き込んだ。その恩恵としてカレー専門店メシアンを見つけたのは僥倖だった。

 

 

 ちなみに食べてみるとかなりの美味であった。美味しい食事は生活に欠かせぬ要素であり、過酷な戦いが予測される今回の遠征ではありがたい出会いだった。それがカレーとなるならば尚更の事。とある出来事によってカレーを愛して止まない彼女にとってカレーのあるなしは命にも関わる、何せポテンシャルやテンションが変動するのである。

 

 

 だからこそ彼女がカレーを求めるのは必然の事、いや運命とさえ形容してもいい。嗚呼、ビバカレー。どうして貴方はそんなにカレーなの? などと思いながらシエルは一口一口に幸福を感じて一皿平らげた。

 

 

 それから彼女はメシアンの常連として幾度も足蹴無くその店へと赴く事になるのだが、今回の話には関係ないだろう。

 

 

 夜になると再び彼女は町を練り歩いた。しかしそれは調査とは他なる散策である。死徒を探す自体は容易い。彼らは暗闇の眷属であり、日のある内は行動を起こさない。強固な個体であれば異なるが、彼女の遭遇した死体は吸血鬼に襲われた犠牲者に過ぎず、悉くが簡単に対処できた。

 

 

 問題は親玉だった。

 

 

 彼女の調べたところ、今回のターゲットとして狙いをつけた少年に動きはなかった。周囲に不審な動きも無く、実際に動き回っているか定かではない。しかし、事実として町は吸血鬼騒ぎが起こっている。必ず親玉は動いているのだ。

 

 

 後は確証が得られれば彼女はすぐさま動き、ターゲットを殲滅する。それが例え本人の意志から離れた所業であり、本人は憐れな犠牲者にすぎようとも、救世者ではなく断罪者でしかない彼女は救わない。

 

 

 救わずに滅ぼす。助けずに抹殺する。

 

 

 それこそ教会の異端審問専門であり、扱いそのものが異端である埋葬機関第七位の成すべき事であった。

 

 

「……ロア」

 

 

 夕闇の中、低く呟く彼女の瞳は怨嗟と憎悪に揺れる。

 

 

 脳裏に浮かぶはあの日々の地獄絵図。

 

 

 町中を舐り尽くし、好きだった隣人達を人形代わりに弄ぶ――――。

 

 

「……」

 

 

 首筋がずきりと痛む。これ以上穿り出したくないと体が受け付けていないのだろう。けれど、思い浮かぶ情景の原典は全てあの煉獄へと回帰する。

 

 

 シエルはひとつ溜め息を吐き、夕暮れの街並みを、かつて滅ぼした故郷に重ね合わせた。

 

 

 目蓋の奥が痛む。しかし、涙は流さない。きっと気のせいだ。

 

 

 □□□

 

 

 三咲町の坂の上には豪奢な屋敷がある。一息に町を見下ろす館の様はまるで監守塔のようであり、堅牢な雰囲気を思えば牢獄のようでさえあった。

 

 

 夜の気配は深くなりつつある。館内から人の息遣いは聞こえず、夜は梟の声が聞こえる以外には静寂を保ちつつあったが、どこからか重く響く獣の呻り声がすると梟の鳴き声は止んで、沈黙が舞い降りた。

 

 

 道路脇。夜の闇より現われたるそれは、最初泥のような何かだった。

 

 

 コンクリートから滲み出るように現われた泥はやがて形骸を形成し、巨体を揺する黒犬へと姿を買えた。黒犬は、その犬としてはありえぬ巨体から魔獣の類だと容易に知れた。猛々しく揺らめく毛並みに、獰猛さをそのままに爛々と輝かす瞳から理性の光は見えず、剥かれた牙が獲物を探している。まるで腹を空かせた獅子のように、黒犬はその厚い鉄柵の門構えを前にしながら、遠吠えを上げた。その様は犬と言うよりも狼であった。

 

 

 黒犬がここに現われたのは、何も偶然ではない。餌食を求める性は獣の道理、潤う事なき本能である。ならば獲物の匂いを嗅ぎ探り、この場へとやってきたのは彼の手柄だった。

 

 

 体を揺すりながら誘い火のように遠吠えをあげる黒犬は歓喜の最中にある。餌食を前に興奮するのは人も獣も変わりはしない。

 

 

 しかし、獣の食事と言うのはおおよその所邪魔立てが入るもの。

 

 

『ひひ、ひ』

 

 

 耳障りな声が耳に入り込んだとき、黒犬は不思議な心地に晒された。

 

 

 一瞬の浮遊感と共に、頭部が硬い地面を叩いた。

 

 

 そして目前に己の体を目の当たりにして、彼はようやく己の首が落とされた事を知った。

 

 

 刹那の出来事で理解は追いつかない。

 

 

 ただ不思議だった。衝撃はあったのかも知れないが、それでもそれがわからぬとは。

 

 

 首元から溢れ出す血溜まりは生温かい。

 

 

 その中で黒犬は意識を遠のかせたのだった――――。

 

 

 死に逝く魔犬を目の当たりにする七夜朔は、感情の宿らぬ瞳で眺めていた。

 

 

 錆び付き刃毀れした刃の骨喰から噴出する闇を纏う彼は、幽鬼か化生のようであり、倒れ伏す黒犬よりも魔という言葉がよく似合っていた。

 

 

『こいつア……使イ魔って奴かァ』

 

 

 興味深げに骨喰は嘯く。

 

 

 彼らの面前、瞬きする間に黒犬の体は溶け出し、遂には零れ出た出血さえも混ざって泥のようなものと化していた。

 

 

 まかりなりにも退魔として暗躍する彼らは、闘争をくり返す合間に使い魔の類と遭遇した事がある。魔道に関わる者ならば容易に使役できる使い魔は魔術師を代表とする魔道の基礎段階として習得できる術理の一部だ。その役割をざっくりと述べるならば感覚器官の延長と捉えてよく、言葉通り目となる存在である。

 

 

 無論、使い魔と一言で表現しても操る対象の霊格は千差万別である。単純化された使い魔を始めとし、精霊をはじめ、挙句の果ては過去に存在した英雄を降霊する途方もない術まであるとされる。とは言え、それは大魔術であり、然るべき手順と腕を持たなければならないので、魔法一歩手前の大魔道である。このように使い魔は術者の力量を示すものであり、強力な魔を従える者はそれだけ異様な存在なのだ。

 

 

 故に、この使い魔を使役する存在が如何なる魔性を秘めるか、骨喰は察する。正に生物として生み出された魔を操る魔術師、あるいは魔そのものの姿を推移するが。

 

 

『ま、大したことはネエ。いつぞヤの蟲野朗と同じだ。簡単ニ狩れる』

 

 

 如何なる者だろうと抹殺する。愉快極まりなく骨喰は豪語した。

 

 

 軋む金属音は傲慢とも取れる言葉だった。

 

 

 どのような者が相手だろうが関係ない、必ず殺そうとすでに見出された真実を告げるような軽い口調で吐き出されたそれは、正しく自信の裏づけに他ならない。

 

 

 確かに、骨喰の発言は最もなところ。七夜朔が積み上げてきた屍の総数を思えば、そして七夜朔が殺人鬼として積み重ねた技量を思えば、殺せぬ相手など存在しないだろう。幾つもの屠殺をくり返し、嘆きや怨嗟を殺してきた。ならば七夜朔が殺せぬ存在はない。骨喰はそう思っている。それは翻れば己そのものの自信だ。驕り慢心甚だしいとは正にこのことだろう。連綿とくり返される妄執ではあるが、だからこそ底の見えぬ不気味さを骨喰の言は秘めている。

 

 

 ただ惜しむらくは、両者が吸血鬼の頂点がどれほどの怪物か知らないでいること。それだけの話だ。

 

 

「―――――。―」

 

 

 ふと、七夜朔は最早影さえ残さぬ死骸の残骸から目を外し、聳え立つ屋敷を瞳に映した。

 

 

 西洋の館を思わせる出で立ちは、あるいは古城のようでさえある館だ。とは言え、朔には感慨は浮かぶはずもなく、あるのは屋敷がかもし出す気配のみ。

 

 

『ひひ、ひ……相変わらずここハ。……朔、こコが手前ノ仇の根城。こレ見よがしの伏魔殿だァ』

 

 

 闇よりも深い黒々とした声で骨喰は囁く。

 

 

 覆い隠す城壁にも似た外壁。

 

 

 しかし、溢れんばかりに漂う魔窟の臭気。

 

 

『手前の一族が滅ぼされたノも、手前が約束ヲ守れなかっタのも、仇が見当タらなイのも、全部ぜーンぶここノやつらのセいだ。ひひ、ひ……』

 

 

 肌が粟立つ感覚。全身を駆け巡る拒絶の反応。

 

 

 骨喰の言によるものではない。

 

 

 退魔者だからこそわかる、遠野邸の強大な気配が朔を包み込んだ。

 

 

 朔の肉体を構成する筋肉、骨、血潮と内臓が敵を見つけたと歓喜の絶叫を上げている。ぎりぎりと軋み音を上げる筋繊維に蒼い瞳が輝きを増して、熱砂のような殺意が渦を巻いた。事実朔の肉体は熱を生み出し、外気が低ければ蒸気さえ生み出してしまうほどだった。

 

 

 それを止める術を朔は持たない。そして持つつもりもない。己が衝動のままに、目の前に打ち倒すべき魔がいるからこそ、愉悦を持たず、憤怒を持たず、計画性も目的もない。ただ殺すだけ。それだけが朔の行動指針であり、性能であった。それは機械的というよりも、己が本能のままに動く生物の欲求にも似ていた。

 

 

 そして朔はひとつ、地面踏み抜いて――――。

 

 

「そのように怨霊を率いて、どこに向かおうというのですか」

 

 

 降り注ぐ声を耳にした。

 

 

 □□□

 

 

 朔の後方、道路脇に立つ街灯の天辺。そこに人影はあった。

 

 

 修道女が身に纏うカッソクを女は着ていた。

 

 

 けれどそこに教会の清廉さや質素さはなく、かもし出す雰囲気は戦闘者のそれであり、黒一色に染まる修道服は夜へ紛れるようだった。

 

 

『ひひ、ひ……覗きはよくねエなあ、嬢ちャん』

 

 

「黙りなさい、死霊如きが」

 

 

 骨喰の戯言を一蹴し、修道女シエルは油断のない目つきで眼下の人物を見定めた。闇に抱きしめられながら屹立する人影、その長身と遠目から見てもわかる頑健な肉体はシエルと同業者のものである。しかし、その蒼い魔眼の輝きと骨喰が漂わせる瘴気は危険な存在であると、シエルは脳裏の警告音で知った。

 

 

 感情を伺わせない、空の蒼の瞳。それが誰でもいない世界を映し出している。

 

 

 そして、死臭と血臭を隠す気もなく溢れさせる骨喰の闇。意識しなければ視界になど入れたくないような嫌悪感に目を細めて、シエルは天上から泰然と声を降り注いだ。

 

 

「何者ですか」

 

 

「――――、―」

 

 

『何者、何者かァ。けひ! こいつァ久々の問答だ。今更ながらの問イ掛けだワな』

 

 

「死霊には聞いていません。私はあなたに聞いているのです」

 

 

 しかし、シエルの呼びかけにも朔は無言を貫いた。

 

 

 いや、正確には答えられる脳に障害を持ち言語を失った朔は言葉を持っていなかった。

 

 

『無駄無駄無駄無駄。手前、そんな臭イ振り撒いた尼如きニこいつがまともナ反応する訳はネエだろウ?』

 

 

 空間に亀裂を入れるような軋み声で骨喰は言う。――――と、七夜朔の姿が掻き消えた。

 

 

 豪、とシエルは風を感じた。

 

 

 荒ぶる強風ではない。それは死を誘う禍風だった。

 

 

 シエルが思わず瞬きをする。すると、目前に七夜朔がいた。

 

 

「――――! いきなりですかっ」

 

 

 駆け上がるでもなく、言葉を選ばないなら行き成りそこに出現したと形容しても過言ではない移動術。魔力を感じなかった事から、単純な肉体での移動速度。その一動作にシエルは舌を巻く。そして心臓を狙う刺突の切っ先がシエルに向かって振り被られた。

 

 

 一直線に臓腑を抉り貫こうとする罅割れた刃は不意打ちとなって、確かにシエルの肉体へと突き刺さろうとする。しかし、心に常とするは戦闘者であり、断罪者であり、また魔への暗殺者であるシエルだからこそ、朔が燻らせる殺しの気配を咄嗟に感じ取ることで、半歩重心をずらして街灯から降り立つ事で襲い掛かる刃を回避した。

 

 

 だが、落下の途中、ぞわりと背筋が震えた。

 

 

 ――――死ね。死ね。死ね。

 耳に響く死の絶叫。

 

 

 死ね。死ね。死ね。

 

 

 肉体を滅びつくさんと唄う亡者の声音。

 

 

 死ね。死ね。死ね――――!

 

 

 それは魂まで及ぶ滅びの歌だった。憎悪と怨嗟の声が木霊する。刀身の匂い立つ闇から幾数もの惨憺がシエルに向かって幻聴を聞かせる。魂まで捉えるほどの嘆きと憤怒が、声を伴ってシエルへと襲い掛かる。

 

 

 それは、いつかシエルが耳にした地獄の騒音だった。

 

 

 物言わぬ死者たちが訴える生者への憎しみだった。

 

 

 背後から、七夜朔が電信柱を走っていた。裸足の指先で電信柱を叩いて掴み、シエルに向かって推進する。急襲めいた移動に舌打ちひとつ、身動ぎでもってシエルはその場を離れることで、彼我の距離は開かれた。

 

 

『悪いなァ、ひひ。こいつは我慢知ラずなんだ。目ノ前に魔がいるナら、それコそ抑えがきかねエ』

 

 

 急襲を仕掛けてなお、骨喰の言には謝罪の感情は込められていなかった。寧ろ愉快でたまらないという嘲りさえ声音にはある。

 

 

「……そのようですね。ですが、それなら貴方たちこそ魔ではないですか」

 

 

『ひひ、ひ……ちげえネエ』

 

 

 げらげらと骨喰は嗤う。神経に障る嘲り声だ。これまで人知を超えた化物たちと幾体も退治してきたシエルだったが、骨喰ほど悪意と邪気、憎悪と憤怒等あらゆる負の感情を持つ怪物と遭遇するのは始めてのことだった。

 

 

 物質そのものと化した化物の類がこの世に存在する事はシエルも周知している。かの二十七祖の末席にあたる第二十七位は己自身を錠前に変え、研究の成果を自らでもって封印していると耳にしている。

 

 

 しかも、それが魔術師の類ではない存在が持つ武具なのだから尚更の事。眉根を寄せて、未だ戦闘態勢を解かないままにシエルは問う。

 

 

「……私は埋葬機関第七位、シエルです。恐らくあなた方は退魔の者でしょうが、再度問い質します。あなた方は何ですか」

 

 

「――。――――」

 

 

「現在こちら側はそちら側に対し協力要請を行う手筈を整えています。なので私たちが争う事は好ましくありません。なので――――」

 

 

『で?』

 

 

 シエルが紡ぐ言葉を途中で切り捨てて、骨喰は嘲った。

 

 

 ありったけの邪気と瘴気を臭わせながら。

 

 

『んな事関係ネエ。それコそ朔には意味ネエ。目の前ニ魔がいるンだったら、縊リ殺すだけだァ。……こいツが七夜朔なラば尚更ダ。違えかイ? 尼ァ、皆殺しの輩さンよ』

 

 

 鼻白み、シエルは対峙する七夜朔を直視した。

 

 

「――。―――」

 

 

「なるほど、ナルバレックが関心を持つのもわからなくはないですね。貴方のようなものが共にいるならば、必定の事」

 

 

 闇に紛れながらも煌々と輝く魔眼の輝き、藍色の着流しから覗くワイヤーで引き絞られたような肉体、そしてその妖しい雰囲気と佇まいは人間というよりも魔的だった。

 

 

 七夜朔。ナルバレックが是非に勧誘をと告げた人物。

 

 

 日本へと訪れる前、教会でシエルが七夜朔に対し調べると姿を始め年齢及び出自は一切不明だった。てだれの教会関係者、あるいは日本の退魔組織と関わり在るものを介しても殆どの情報は得られず、唯一手に入れた情報は七夜朔が凄腕の退魔能力に特化した殺人鬼である旨のみだった。

 

 

 退魔。そして殺人鬼。

 

 

 この繋がりの見えない文言からシエルは七夜朔とは凶暴な人格を持つ厄介な人物だと想像していた。

 

 

 しかし、今シエルの目の前にいるこれはなんだ

 

 

「―――――、―」

 

 

 つぶさにシエルは七夜朔を見やる。

 

 

 確かに、先ほど魔物を屠殺した技量を見れば賞賛の具合も頷けるというものだった。対象に気付かせず、首を斬り落とした後で殺したと発覚させる速度でもって振り落とされた刃。あのような刃毀れした剣ならば切れ味など皆無に等しいだろうが、刃の能力か、それとも朔の武技か、あっけなく頸椎を寸断した腕は確かに熟練のもの。

 

 

 しかし、その威容と比べ意思の感じさせぬ佇まいは七夜朔に対してちぐはぐな印象を与えた。

 

 

 自分の知る退魔の人間とも、あるいは殺人鬼とも違うこの威容は一体何なのか。

 

 

 それは外れてなお理解できぬ場所に佇むものに対する警戒と疑念だった。

 

 

「簡潔にお話します。七夜朔、貴方が今何を倒したかは把握していますか?」

 

 

 しかし、内心ささくれ立つ感情を表に出す事無く、シエルは言葉を紡ぐ。

 

 

『ひひ、なンだ……手前の獲物だッたかァ?』

 

 

「……あれは教会でさえ容易くは手出しできない化物の末端です。それを退治したのならば、貴方は狙われる可能性が高い」

 

 

 骨喰の物言いを意図的に無視し、シエルは続ける。

 

 

 すでに彼女がここへと到着した時には朔が魔獣の首を落とした頃合だった。しかしシエルが垣間見た化生の末路は彼女の持つとある情報源と一致しており、ひとつの不安が彼女の胸中に過ぎった。

 

 

 数日前のこと、シエルが日本へと飛び立つ頃に北欧の寒村で怪事件が起こり、村民悉く行方不明と化している。寒村が人里からは離れた僻地にある事が災いし、事件が発覚したのは丸一日経った頃の事だった。

 

 

 そこで現地に派遣された代行者が発見したのは大量の血痕と、そこに混ざる獣の剛毛であった。僅かな情報量ではある。だが代行者である彼女には凡その予測が計算されていた。

 

 

 敵はシエルでさえ完全装備を持ち出さなければ相手取りたくない怪物。人から魔道に、魔道から魔へと上り詰めた元人間だ。長い歳月のあいま幾つもの代行者が滅ぼされ、数え切れぬ犠牲者が生み出されている。だからこそ、シエルは忠告を行ったのだが――――。

 

 

『ひひッ! そレこそだ、それコそが願っタり叶ったり、ソれこそが本望本懐ヨな!』

 

 

 やることは変わらない。殺す事に変わりはない。

 

 

 例え如何な化物が相手だろうとも必ず殺す。

 

 

 寧ろ、対象が近づいてくるならば好都合。

 

 

 だから骨喰は嗤うのだ。

 

 

『それトも、化物は化物が殺すトでも言うノかァ? ひひ、ひ……手前、そンな匂いさせヤがって。腐ッた血と屍の匂イが染み付イてやがル。鏖殺に虐殺を重ネた屠殺の果テしか嗅げネエ匂いダぁ』

 

 

 予測されていなかった言葉が夜の道路に劈いた。

 

 

 がつん、とシエルは脳が揺さぶられた気がした。

 

 

 七夜朔と骨喰は契約を行い感覚共有のラインが繋がっている。朔の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そして第六感とも称される超感覚が常時骨喰にも流れ込んできているのだ。だからこそシエルが行ってきた所業は訳も無く骨喰によって看過された。

 

 

 それはきっと地獄を生み出し、殺しを重ねる彼らだったからこそ判る事だった。途方も無い血の道を歩んだ朔には、シエルが匂わせる死臭は馴れきった香りでさえあった。

 

 

『どウだい尼ァ? 楽しカったか? 殺シは愉快だッたか? それトも悦楽か快楽だったかァ? 今マで積ミ重ねた屍の数は幾つダア?』

 

 

「……」

 

 

 歯噛みして、シエルの瞳は凍えるような温度を放った。

 

 

 拭い去りたい過去。

 

 

 忘れてはならないシエルの原罪。

 

 

 在りし日よりシエルを苛み続ける傷――――。

 

 

 指摘されるまでもなく、わかり続けていた事だった。この身はすでに汚泥と腐臭にまみれるべきなのだと、地獄よりなお地獄であるあの暗がりで、咎と共に理解していた。罵倒され、後ろ指を差され、今すぐにでも死に果てるべきなのだと思い続けてきた。全て納得の上だ。承知の上だ。

 

 

 そう、わかっているはずなのに。

 

 

 何故こんなにも骨喰の言葉を不快に思うのか、シエルには皆目わからなかった。

 

 

『朔ニゃ誤魔化せネエよ。どレだケ臭いを落としても、どれダけ違エ臭いを振り撒イても、体臭は消えはしネえ。そンナ輩が尼ってエのが傑作だァ。……だガよ』

 

 

 ひひひ、と不快な金属音が実体を持ってシエルを嘲う。

 

 

『俺はよゥ、ひひ、ひ……手前ノ善人面が鼻ニついテ仕方がネエ。常識ブったつモりだかしラねえし、何ノ興味もネエ。だがよォ、喜悦慟哭悲嘆憤慨なぞがアる殺害なンぞが――――』

 

 

「―――、―――」

 

 

 ふいに、骨喰が言葉を切った。

 

 

 何事かと思い、シエルははたと気付く。

 

 

 周囲から音が消え、生物の呼吸が聞こえなくなっていた。

 

 七夜朔の膝が深く落ちて、背中が丸まった。

 

 

 その姿は獲物に飛び掛る寸前に、力を溜めつける様にも似ていた。

 

 

 そして、それまで押し黙るだけだったシエルもまた、表情を変えてあらぬ方向へと顔を向けた。

 

 

 夜の闇に紛れて、獣の呻り声が聞こえてくる。

 

 

 朔たちの足場に撒き散らされた黒い泥が揺らめく。生命を落とされた使い魔の形骸でしかなかったはずの泥が泡を発して煮え立つ。それはまるで呼び水のように震えて、己が主の到来を待ち望んでいた。

 

 

 夜の道路。そこに男は現われた。

 

 

 男は黒かった。身にまとう硬質のコート、そしてその影となった体もまた黒く、ただ猛禽類を思わせる金色の瞳は凶暴な理性を湛えていた。

 

 

 しかし、それだけが彼を構成するものではないことは容易と知れた。ただ傲然と屹立し、あくまで自然体の佇まいでありながら、彼が放つ禍々しい瘴気は人間が触れてしまえば忽ちに気をやってしまうようなものであった。

 

 

 だからだろう、男の姿を視認したシエルは予想できた未来でありながら事実として現われた彼にくぐもった舌打ちを溢した。

 

 

「ふむ――――」

 

 

 男は、その場で佇む両者を物質の観察を行う瞳で眺める。顔は刻まれた深い皺と相まって、人の姿でありながら獣の相貌にさえ見えた。

 

 

「よもや、姫君が到来した思い足を運んでみたが……代行者と怨霊がいるのみとは」

 

 

 翻るコートの内側が不気味に蠢く。

 

 

 そこには、夜にも勝る粘着質の闇が広がっていた。

 

 

「まあよい、旅先の腹ごなしも享楽のひとつ……」

 

 

 厳かに、男は呟いた。

 

 

 男が無意識に解き放っていた殺気が質量を生み出し、爆散する。

 

 

 その凄絶さに草がさざめき、空気さえ硬質を帯びていく。人外めいた膨大な殺気にシエルは無意識だが息を呑み、そして朔は潤沢の殺意を滾らせた。

 

 

 今この時、存在するという理由のみで男は空間の支配者となったのだ。

 

 

「晩餐の時間だ」

 

 

 ――――魔獣が牙を剥く。

 

 

 かつて■■■■■・■■■■という男がいた。

 

 

 彼は欧州の名だたる魔術師の家に生まれ、幼少時から類稀な才能を持ち合わせていた。魔術の世界においてまず重要なファクターは血筋である。魔術師は一代ではなく、一族でなす探求者だ。綿々と一族の秘術を紡ぎ合わせてやがて果てへと到らんとする魔術師の宿命を思えば、確かに彼は天才と称されるべき頭脳を持ち合わせていた。

 

 

 やがて彼は周囲の期待をそのままに魔術協会のひとつ、彷徨海へと在籍した。

 

 

 彷徨海は北欧に根を張った複合協会として、時計塔、アトラス院に並ぶ魔術協会三大部門のひとつとして数えられており、またの名を移動石柩と銘打たれている。

 

 

 別名の由来は彷徨海という本式名からも読み取れる通り、彼が所属した協会は海を漂う巨大な山脈だったからである。

 

 

 北は大西洋。その海中を彷徨う巨大な山脈は時折陸地に上がり、その雄姿を見せることがある。海面より飛沫を上げて現われる岩肌を見た周辺住民が、果ては幻の大陸が現われたのかと仰天に駆られ、次の瞬間には周辺海域に施された認識阻害の魔術が彼らの記憶を改竄させるので、移動石柩は衆目に晒されぬまま今も存在する巨大な魔術協会だった。純粋な規模であるならば時計塔はもとより、アトラス院にさえ比肩を許さぬ巨大な魔窟。

 

 

 そこに彼はいた。

 

 

 正確な在籍年数は不明だが、少なくとも彷徨海に所属していた旨の書状が千年前に発見されている。そこで彼は多くを学び、多くを吸収していった。彷徨海でも彼は魔術師としての才を存分に発揮し、遂には鬼才とまで称されるに至ったが、彼はそれだけでは満足がいかなかった。

 

 

 更なる未知を。更なる叡智を。更なる未踏を。

 

 

 周囲の賞賛を無碍に扱い、彼は更なる飛躍を目指した。

 

 

 それは正に魔術師として当たり前の思考であった。己が目的以外を排斥し、己が目的のみを珠玉の命題として掲げる姿は真の魔術師としての手本とさえ言ってもよい。

 

 

 ただ、彼の場合はそれ行き過ぎたのだろう。

 

 

 探訪の果て、更なる最果てを目指した彼は遂には人をやめ、吸血鬼に成り果てた。

 

 

 それが、かつて■■■■■・■■■■と呼ばれた男の生涯である。

 




ネロ・カオスが窮屈そうな感じで飛行機に乗っている姿を想像すると面白いよ。

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