重い瞼をゆっくり開けると、見慣れない真っ白な天井が目に入った。状況を確認するために身体を起こそうとするが、全身にズキリとした痛みを感じ、再び仰向けの体勢に戻ってしまった。
「おい将平、無理するな」
そんな俺に声をかけたのは父親だった。視線を父親の方へやると、かなり心配そうな表情をしていた。
どうやら俺が寝ているのは病院のベッドらしい。一体何があったのだろうか。
「歩道橋で怪我だらけで倒れてたって病院から連絡が入った時は、心臓止まるかと思ったよ。一体何があった……いや、さすがにそんなこと話せる余裕はないよな。無理に話さなくていい」
「……!」
初めはどうしてこんな状況に置かれているのか理解できなかったが、父親の口にしたその言葉を聞いた瞬間、全てを思い出した。
再び
「お、おい! 何やってんだ!」
即座にベッドから飛び起き、そばのラックに置いてあったリュックをひったくるように取って背負い、病室を飛び出す。
父親の慌てたような声が聞こえたが、そんなことを気にしている余裕などありはしなかった。
俺が運ばれた病院は、今までに何度か行ったことのある総合病院であったことは不幸中の幸いだった。ある程度走ったところで通学路へとたどり着く。そこから俺はさらに速度を上げ、駆け抜けていった。
校門を抜け、向かうのは俺の教室がある棟ではない。1年生の教室がある棟だ。階段を上り、教室がある2階へたどり着いたところで、俺は叫ぶ。
「昨日俺を袋叩きにしやがったクズ共に告ぐ!
俺が今立っている廊下の端から反対側の方まで届くくらいの、今までに出したこともない巨大な怒声を俺は放った。
間もなく廊下はざわつき始め、辺りにいた1年生たちのほとんどが俺に視線をやった。俺は首を動かして視線を移動させながら、昨日の連中がいないか確認したものの、それらしき姿は見受けられない。
「……ざけんじゃねえぞ! くそったれが!」
そんな状況に俺の怒りはより一層強さを増していく。血走った目をぎらつかせ、頭の血管を浮き出させ、口から舌を出しながら、俺は罵声を飛ばして廊下を闊歩した。
辺りに唾液が飛ぶことを、少しも気に留めることなく。
「俺に楯突きやがったあのクソ野郎どもは、どこだぁぁぁっ! ぶっ殺してやる! 腹かっさばいて、晒し首にしてやる! とっとと出てきやがれぇぇぇっ!」
俺の行動は、今まで俺を慕ってくれた1年生全員に対する裏切りだった。
「「お兄さん!?」」
「あんちゃん!?」
黒川さんを、風町さんを、蓬田さんを。
「せ、先輩!?」
「ど、どうしたんでしょう……」
相楽さんを、椎名さんを。
俺は裏切った。醜態をさらして、裏切った。
「隠れてんじゃねえぞ、カスが! 俺にあんだけ楯突きやがったんなら、当然やり返されるのが筋ってもんだろうが! ぶっ殺してやるから、早く出てきやがれぇぇぇっ!」
だが、今の俺はそんなことに悲観的になるほど冷静ではなかった。彼女たちの悲痛な視線を気にも留めず、暴言を吐きながら廊下を闊歩し続けた。
「黒川くん、落ち着け!」
しかし、ある人物によってそれは止められた。後ろからかなり強い力で羽交い絞めにされ、俺はその場から動けなくなる。
「何しやがんだ! 離しやがれ! てめえも俺にぶっ殺されてえのか!」
羽交い絞めにしたその人間に対して、俺は罵声を浴びせながら全力で振りほどこうとしたが、どうやらその主は力がかなり強いようで、びくともしない。
「俺だ! 俺だ! 二階堂だ! 落ち着け、俺だ!」
「!」
そのフレーズでようやく気付く。俺を羽交い絞めにした人間は、二階堂くんだった。
顔が見えなかったと言うことを考慮に入れたとしても、普段の俺なら最初の『落ち着け』という声を聞いただけですぐ二階堂くんと判断できたかもしれない。
「俺を見ろ! 落ち着け、俺だ!」
「に、にかい、どう、くん……?」
「そうだ、俺だ! 俺を見ろ、大丈夫だ!」
「…………」
俺の前へと回り込み、俺の肩をつかんで必死の形相で連呼する彼の姿を見た俺は、崩れるようにその場に座り込んだ。
「……おい、お前ら! 見世物じゃねえんだ! とっとと散れ!」
それと同時に二階堂くんは、周囲に向かってそう怒鳴り散らした。野次馬となっていた1年生に向けて放った言葉だろうが、その中には黒川さんなども含まれていた。
ほとんどの1年生がすごすごと去っていく中、黒川さんだけは憤ったような表情で二階堂くんに詰め寄ろうとしたものの、風町さんと蓬田さんに制止され、仕方なく自分の教室へと戻って行った。
「悪いが春宮も、教室に行っててくれないか? そもそもお前、着替えないとまずいだろ」
二階堂くんの発した『春宮』という言葉に俺はわずかに後ろを向く。そこには黒川さんたち以上に悲痛な表情を浮かべた、春宮さんの姿があった。
そう、俺は春宮さんまでも裏切ったのだ。あそこまで俺に笑顔を振りまいて接してくれた彼女を。
二階堂くんに制止されてしまったことで、俺は冷静になってしまっていた。それによって罵声を発していた際にはかけらほども思っていなかった、醜態を晒したことで多くの人間を裏切ったことによる自己嫌悪が、じわりと滲み出してきた。
二階堂くんは春宮さん、それに加えて騒ぎを聞きつけやってきた教師たちと何かを話していたようだったが、俺の耳には入ってこなかった。
その最中に、俺は二階堂くんに肩を貸され、立ち上がらされた。教師たちに何かを伝えた二階堂くんは、そのまま俺を支えるようにして歩き出す。
「どいてくれ……ひとりで歩ける……」
だが俺は、そんな二階堂くんの支えを振りほどこうとした。こんな醜態を彼の目に晒し続けたくなかったからだ。
「お、おいおい。いくらなんでも無茶だって」
「……邪魔だ!」
慌てたようにそう言いながら、彼は脇を締めて俺の抵抗を阻止しようとする。しかしながら、そんな彼の気遣いも今の俺にとっては邪魔なものでしかなかった。怒鳴り声を上げて力を振り絞り、無理矢理振りほどく。そのせいで、身体はよりズキズキと痛んだ。
「…………あっ」
階段に差し掛かった俺の目に映ったのは、村上さんだった。なぜこんなところに来たのか初めは分からなかったが、大方二階堂くんの後を付いてきたのだろう。二階堂くんにしても、春宮さんから話を聞きつけてきたのかもしれない。
だが、そんなことはこの際どうでもいい。俺が裏切ったのは1年生や二階堂くんだけではなく、村上さんもだった。
愕然とした表情を浮かべる村上さんを軽く一瞥した俺は、そのまま横を通り過ぎて行った。
そのまま俺は、自分の教室へと戻った。病院を飛び出した時から背負いっぱなしのリュックサックを下ろして机の横にあるフックに引っ掛け、椅子に座る。
「おいおい、どうしたんだよ……何であんなに傷だらけなんだ?」
「えっ、もしかしてあれ、黒川君なの?」
「何があったんだ?」
予鈴のチャイムが鳴り響くと同時に、教室はざわつき始める。視線を左右に動かすと、ほぼ全ての人間が俺に視線を送っていた。
――時谷さんだけは俯いていたが。
今の俺は自己嫌悪や、冷静になったとは言ったものの再び滲み出してきた憎悪などが入り混じった感情に支配されていた。
――ヤラカシテシマッタ。ヤバイヨドウシヨウ。
――アイツラハドコニイル。ハヤクブッコロサセロ。
「やばい奴と喧嘩でもしたんじゃねえの?」
「黒川君、真面目な人だと思ってたのに、ちょっと幻滅したな」
俺の感情をよそに、クラスの人間はそんな言葉を口にしだす。
それは何も間違いではなかった。やばい奴とやり合ったことも、俺は真面目な人間ではないということも、全て事実だ。
だがそれは、俺が今までゴマをすってきた、小野寺さんや有栖川さん、村上さん、二階堂くんなどだけが口にしていいことだ。
――てめえらのようなどうでもいい連中に、そんなことを言われる筋合いなどこれっぽっちもねえ。俺はてめえらの見世物じゃねえ。てめえらの野次馬根性に応える義理なんざ、持ち合わせちゃいねえんだよ!
「……黙れ! てめえら全員ぶっ殺すぞ!」
俺は叫ぶ。
どうでもいい連中を、黙らせるために。まともな人間に、俺の本性を知らせるために。
「な、何があったんだ……?」
静寂に包まれた教室に僅かな間を空けて入ってきた担任は、冷や汗を垂らしながら困惑した表情を浮かべていた。
身体の痛みを気に留めることもなく、結局俺は全ての授業を受けていた。見栄を張ったのか、やけくそになっていたか、あるいはその両方か。
授業が始まる度に、担任を含む全ての教師から何があったか尋ねられたが、俺は一切口を開かなかった。
「…………」
ホームルームが終わると同時に、俺はリュックを背負って教室を出る。
「待ってくれ!」
廊下へと出てすぐに、背後から俺を呼び止める二階堂くんの声が聞こえた。首だけを後ろにやり、彼の姿を見る。
「少しだけでもいい。何があったのか教えてくれ」
悲痛な面持ちの彼を見て、『以前と立場が逆転してるな』とこの状況を冷静に分析していた。だが、俺と彼では決定的に違いがある。彼は俺と違って、人を自分の利益のために利用するような人間ではない。
「……ここの1年に、昨日襲撃された……」
「……へっ?」
「……10人近い人数で、袋にされたんだよ。俺が言えるのは、それだけだ……」
「そ、それはどういう……」
「結局俺は、どこに行ってもおもちゃにされるだけだったってことか……まあ、ふざけた真似をしたツケが回ってきたんだろうね……」
「……?」
俺はまだ、二階堂くんに対して未練があったのだろうか。こんなことを話しても何の意味もないというのに。
「二階堂くんは、俺なんかがいなくても大丈夫だよ……。高桑くんたちともよりを戻せたし、それ以外にもたくさん話が合う人ができたんだ。俺ひとりがいなくなったって、大して変わらないよ……。もう、俺のことは無視してくれ……そこらへんの石ころみたいにね……」
「…………」
――君はもう、大丈夫。俺と違って、全てを持っているのだから。
「ばいばい、二階堂くん……」
「…………」
俺は彼に別れを告げた。
それは、ゴマをすってきた日々が、俺の偽りの人間関係が、全て
「おい将平、何病院飛び出してるんだ! 心配させるな!」
校門まで着いた時、父親が怒鳴りながら俺に詰め寄る。いきなりあんな真似をすれば、そうしたくなるのも無理はないだろう。
「……ごめん親父、少しだけそっとしてくれないかな? 病院には戻るからさ……」
「…………」
俺の様子を見た親父は、俺の心情を察してくれたのか、険しい表情を緩め、軽く息を吐く。
「まあ、あとは軽い検査だけだし、今日には退院できるって話だったからな……。とりあえず戻ろう。病院に話して検査の時間をずらしてもらったとはいえ、その時間までそんなにないからな」
「うん……」
親父の言葉に小さく返答した俺は、後ろを向いて校舎を仰ぎ見る。
数秒ほど見つめた後、俺は視線を正面に戻し、親父とともに病院へと戻って行った。
みんな僕のことを、忘れてくれますように。
もしくはろくでもない奴だったと、軽蔑してくれますように。