『今日も遅くなってしまった』と内心ぼやきながら、時谷小瑠璃は学園から家への帰り道を歩いていた。もうすぐで夏至とはいえ、時刻は午後の7時を過ぎており、周囲は薄暗くなっていた。
「…………」
2年生になってから、ファッションデザイナーの仕事はますます順調だった。各方面から高い評価を受け、引っ張りだこの状態だ。
所属する手芸部の方においても、イベントで用いる衣装の発案及び作成を先導して行っていた。帰りが遅くなったのも、ずっと衣装作りに追われていたせいであった。そんな彼女の手腕に3年生はもちろんのこと、入部してまだ2か月の1年生からも非常に大きな信頼を得ていた。
「…………」
だが小瑠璃は、そんな今の自分を取り巻く状況を少しも嬉しく思っていなかった。その原因は、彼女が過去に逆鱗に触れた人物、同じクラスに所属している黒川将平であった。
今朝、なぜか傷と痣だらけの顔で登校してきた彼は、かつて彼女に見せたどす黒い憎悪の表情をむき出しにしていた。いやむしろ、彼女にはあの時以上のどす黒さだったようにも感じられた。
加えて、ひそひそと彼の身勝手な噂話を始めた同級生に対する怒りの咆哮。小瑠璃を含む、教室にいた同級生の全てが、心臓が飛び出す錯覚に陥った。
さらに、以前同じクラスの男子生徒、二階堂正美から『なぜ自分を見ると怯えたような顔になるのか』と問われた時には、自分の馬鹿な行為を思い出し、激しい自己嫌悪に陥った。
手芸部の部室でそれを問われたが、他の部員が誰ひとりとして責めることや変な詮索をしなかったことに、彼女は深く感謝していた。
「……ん?」
ふと上を見上げた時、小瑠璃の目にあるものが映った。それは歩いている歩道の左側をずっと覆い尽くす山の茂みに生えた木に引っかかった、蛇のぬいぐるみだった。
彼女はそれに見覚えがあった。そのぬいぐるみは、黒川が自分の鞄に1年生の頃から付けていたものと同じだった。
蛇というのは、多くの人間から敬遠される生き物だと彼女は考えているが、そのぬいぐるみはそれを感じさせない、可愛らしくデフォルメされたものだった。彼女も内心『どこで買ったのだろう』という興味がわずかにあった。
そういえば、ホームルームが終わって無言で教室を出た彼の鞄を見た時、それが付いていなかったことを思い出す。
もしかしたら、誰かに投げ捨てられて、ここに引っかかったのだろうか。そうでなければ、こんなところに引っかかっているわけがない。今日見た彼の痛ましい傷と痣も、それに関係しているのだろうか。
「よいしょ、っと……」
反射的に彼女は行動に移していた。
近くに落ちていた手頃な木の棒を使ってそれを引っ掛ける。小柄な彼女には骨の折れる作業だったが、それでもどうにか回収できた。
特に汚れや損傷は本体にはなかったが、よく見ると頭部に付いていたはずの紐が損傷している。どう見ても、誰かの手でちぎられたものだった。
間違いなくこれは黒川のものだと、彼女は判断した。
「…………」
だが、これをどうやって彼に返却すべきだろうか。何があったのかは分からないが、今の彼は極めて深刻な状態であることは容易に想像できる。今すぐ返しに行くのは正直好ましくないだろう。
だが、それ以前の問題がある。それは拾ったのが、小瑠璃であるということだ。
以前二階堂にも放った言葉だが、きっと彼は今でも自分を激しく恨んでいるに違いなく、彼にとって自分は一番拾って欲しくない人間だろうと小瑠璃は思っていた。少し時間を置いて返しにいったとしても、感謝されるどころか罵声を浴びせられる可能性は非常に強かった。
『何でてめえなんかに拾われなきゃいけねえんだ! また俺に喧嘩売りたいってのかよ、てめえは!』
『1度ばかりか2度も俺にふざけくさった真似しやがって! とっととくたばったらどうなんだ? このカスが!』
「……っ」
そういった暴言を吐かれることは想像に難くなかった。しかし、そう言われても仕方ないことをしてしまったのだ。
それでも、誰かに依頼して渡しておいてもらうということは、絶対にしたくなかった。そんなことをしては、自分が彼との問題から逃げていることになる。
彼に許しを請うつもりはない。だが、
自己満足ということは分かっている。きっと罵倒もされるだろう。だとしても、このぬいぐるみを、彼が大切にしているこれをそのままここに放置してしまうのは、もっといけないことだ。
「…………うん」
小瑠璃は決心した表情をすると、ぬいぐるみを大切そうに制服のポケットにしまい、その場をあとにした。
「……いや、待てよ?」
二階堂正美、高桑源五郎、鴨田克之の3人が黒川将平に対して何のアクションも起こそうとしないことに業を煮やした芹澤一二三は、怒りをあらわにした表情で1年生の教室がある棟へと向かっていた。
しかし、ふと湧いた疑問に彼は足を止めた。二階堂は、黒川が『ここの1年に袋叩きにされた』と言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか、という疑問だった。
黒川が嘘を言っているということではもちろんない。彼はそんなことをする人間ではないし、そもそもそんなことをしても何の意味もないからだ。
「……まさか」
考えを巡らせた結果、芹澤はひとつの答えに辿り着く。
――まさか将ちゃんを襲撃した奴は、聖櫻の生徒を
「…………」
――落ち着け、情報を整理して考えろ。急いては事を仕損じる。考えなしの行動は、余計に事態を悪化させるだけだ。あの時みたいに友達を守れないなんてのは、死んでもごめんだ。
ここまで黒川に対して必死になるのは、中学時代の友人に、自分が守れなかった大切な友人に、彼が極めて似ているということも関係していた。重ね合わせて見てしまっていることは事実だった。
しかしながら、黒川は黒川であって、その友人ではない。顔が似ているだけの全くの別人なのだ。
それでも、このまま彼を放っておくつもりは毛頭ない。こんな形で拒絶されても、納得などできない。全力で力になり、支えるのが友人というものなのだ。
「…………」
――それなら、本人に聞いてみることにするか。正美に比べりゃ俺は信用されていなかったかもしれない。それでも、何か少しでも手がかりがあれば答えを導き出せるかもしれない。
踵を返し、芹澤は所属する軽音楽部の部室へ歩を進めた。
――とりあえず今は俺のなすべきことをするだけだ。おそらく将ちゃんは来週の月曜日、間違いなく登校してくる。将ちゃんは真面目な人間だ、よほど体調が悪くなければ休むなんてことはしない。その時がチャンスだ。
部活の後輩である黒川凪子、風町陽歌、蓬田菫の3人から、一体黒川の身に何があったのかと、悲痛な面持ちで問い詰められたが、『俺が何とかするから、まずは落ち着け』と説得した。
黒川将平が、鱗を剥がされ、肉を削がれて暴れまわる毒蛇のごとく怒り狂った事件を機に、彼を取り巻く人間の心理は、めまぐるしく変化してゆく。勝手な憶測を始める者、困惑している者、
だがひとりとして、黒川がゴマすりをしていたなどと思ってはいなかった。否定的な考えに至った者もそうでない者も、彼を真面目な人間と評していたのだから。
ましてや、彼が進学して最も恐れていた『×××』をしようと思う人間など、誰ひとりとしていなかったのだから。