「…………」
つねった腕が痛いことを実感した俺は、しばらくの間無言でじっとしていた。村上さんの方に視線だけを移すと、彼女も同じように、口を閉じてじっとしていた。俺の手を握ったまま。
「村上さん……ひとつだけ、お願いしないといけないことがあるんだ……」
しかしながら、このままじっとしているわけにはいかない。
村上さんは俺のことを認めてくれたが、これから俺が実行に移そうとしていることの詳細を話してもそれが維持されるとは限らない。ある意味、賭けを俺は行おうとしていた。
「……何でしょう?」
だが村上さんは、訝しがるような表情にはならず、いつもと変わらない穏やかな表情のままだった。まるで、『何でも言ってほしい』とでも言わんばかりの。
「俺は、俺を襲いやがった奴に、報復する」
『この表情を曇らせてしまったらどうしよう』という不安も頭をよぎったが、それでも俺は間を空けずにその言葉を口にした。
「黒川君、やっぱりあの時、誰かに襲われたんですか?」
「……うん、帰り道で10人くらいに袋叩きにされた。初めはここの1年だと思ったんだけど、芹澤くんが言うに、稲山二高って高校の連中らしくて。勝手に勘違いして、醜態晒しちゃったけど……」
「…………」
他校の情報などまるで耳に入れない俺にとって、その稲山二高なる高校はどこにあるのか、どのような校風なのかまるで知らない。……まあ、聖櫻の近くにある高校であること、ろくでなしの生徒の巣窟であることは容易に想像できるが。
「何か芹澤くんがどうのとか言ってたから、多分ろくでもないことして芹澤くんにぶっ飛ばされたんだと思う。それで腹いせに俺のこと狙ったんじゃないかな? 『てめえで憂さ晴らしする』って言ってたしね」
「そんな……ひどい……」
「村上さんは、俺が鞄に付けてた蛇のぬいぐるみのことは知ってる?」
「えっ? あっ、はい、知ってますよ。可愛いですよね」
蛇という生き物は神として崇められることもある一方で、その長い身体や毒を持つ種類もいることから、嫌悪ないし敬遠の対象となることは多い。
だが、俺は蛇という生き物は非常に好きだった。生命力の強さや、基本的に単独で行動する種類が多いことに、誇り高い生き物であるという印象を抱いていた。毒を持つことにも、特別な力のようなものを感じさせる格好良さがあると思っている。まあ、さすがに噛まれたいとは思わないが。
爬虫類の知識は大してないが、一番好きな動物は何かと聞かれたら、俺は『蛇』と即答するだろう。
とは言え、俺がつけていたぬいぐるみはそういった雰囲気はない、デフォルメされたもので、俺個人の感想では『可愛い』と思えるものだった。村上さんが顔を綻ばせながら『可愛い』と言ったことに、俺は嬉しさを感じる。
女々しい趣味と言われそうだが、俺はぬいぐるみが結構好きな人間で、部屋にもそれなりの数が置いてある。あのぬいぐるみは100円ショップで購入したものであったが、俺が好きな動物であること、可愛いデザインであることが加わり、非常に思い入れが強かった。
「だけど、投げ捨てられちまった……」
「えっ……!?」
あのぬいぐるみは紐が付いており、鞄に付けられるようになっていたのが裏目に出てしまった結果であった。
苦笑い気味に呟いた俺の言葉に、村上さんは愕然とした表情になった。俺の方も当時のことを思い出し、怒りが湧き上がる。
「ニンニクみたいな鼻した、汚い顔の野郎にね……。鞄から引きちぎって、ゲラゲラ笑いながら、山の茂みにぶん投げやがった。しかも、何度も『チビ』って抜かしやがってね……」
「…………」
「袋叩きにされるだけならともかく、そんな駄目押しまでされたんだ……。正直、他の連中はもうどうでもいいけど、それでも、あいつだけは……」
歯を食いしばり、拳を思い切り握りながら、俺は言葉をゆっくりと紡いだ。
「あいつだけは、絶対にこの手でぶち殺してやらねえと気が済まないんだよ……!」
村上さんに八つ当たりすることになってしまうため、怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑えながらも、俺は汚い言葉を交えながら気持ちを搾り出す。
「俺に馬鹿のひとつ覚えのようにチビチビ連呼しやがった、俺の大切なものを投げ捨てやがったあのクソ野郎を野放しにできるほど、俺は人間ができちゃいない……!」
「…………」
「いくら村上さんが相手でも、俺はこの考えを曲げるつもりは全くない……。だから、これが受け入れられないなら、悪いけどさっきの話はなかったことにしてほしい……」
「…………」
自意識過剰だが、村上さんが俺の考えを受け入れてくれるかどうかは、五分五分だと思う。『暴力や罵倒を好きじゃなくなるようにしてみせる』という彼女の言葉は本心から来るものだと俺は信じているが、復讐を決行するつもりという俺の考えを聞いても、そう言ってくれるかは分からない。
彼女が俺の考えを受け入れられなければ、振り出しに戻るだけ――――いや、ゲームオーバーだ。
「……分かりました。黒川君がやろうとしていることに、私は何も言うつもりはありません。でも……」
「…………」
私のその言葉は、暴力の容認に他ならなかった。
言い訳するつもりも開き直るつもりもないが、私は許すことができなかった。ただ傷つけるだけでは飽き足らず、古傷を抉り、大切なものを投げ捨てるという卑劣な真似をしたその人を。
『泣き寝入りしろ』だとか、『気にするな』などと言えるほど、私も人間ができてはいない。好きな人を傷つけられても、黙っていられるような人間にはなりたくない。絶対に。
私の返答に、黒川君は驚いたような表情を見せた。意外に感じていたのだろうか。
たとえ黒川君が復讐する考えでも私の思いは揺らがない。彼を好きであることに何も変わりはない。しかしひとつだけ、彼にお願いしなければならないことがあった。
「でも、やり過ぎないようにしてください。これだけは、約束してほしいです」
「…………」
「多分私が黒川君なら、同じことを言ったと思います。でも、やり過ぎて黒川君が悪者になることだけは絶対に嫌なんです」
先ほどの表情から、黒川君の怒りは計り知れないものであることは容易に想像できる。だがその怒りに歯止めが利かなくなり、相手を過剰なまでに打ちのめしてしまっては、どんな理由があろうと一方的に黒川君が悪いことになってしまう。私は、それだけは避けたかった。
「……分かった。約束するよ、絶対に。ありがとう、村上さん」
しかしながら、実のところ私はあまり心配はしていなかった。黒川君なら大丈夫だと信じていたから。
私の言葉に、険しかった彼の表情は穏やかなものへと変わった。
「……さて、ここでじっとしてるわけにもいかないし、帰ろっか」
「……あっ、そうでしたね」
立ち上がってそう言った黒川君の言葉にふと時計を見ると、戸締まりの時間からもう30分近く過ぎていた。早く戸締まりをして鍵を返却しなければ、先生方に迷惑がかかってしまう。
カウンターと閲覧テーブルの椅子を軽く整頓し、忘れ物がないか確認をして、消灯と戸締まりを行って早々に図書室を後にした。
黒川君と一緒に帰り道を歩くのは、先月望月さんも交えて一緒に帰った時以来、二度目だった。
しばらくはお互いに無言だったが、黒川君のある言葉で沈黙が破られた。
「村上さんは、誰かと付き合ったことってあった?」
「い、いえ。黒川君が初めてです」
人付き合いが苦手な私が、誰かを好きになるであろうと明確に意識し出したのは、高校生になってからだ。そういった背景もあり、私がはっきりと恋愛感情を持った人も、ましてや付き合った――いや、『付き合っている』か――人も、黒川君が初めてだった。
そう考えると、私は中々に貴重な経験をしているのではないだろうか。夏目さんがこのことを知ったら、どんな反応を見せるだろう。
「黒川君は、誰かと付き合ったことはあるんですか?」
「……あるわけないよ。というか付き合うとか、ましてや告白されるなんて少しも考えたことなかったから」
「……そう、ですか」
「…………」
私が黒川君の返答にそう返してから、再び沈黙が訪れる。
――付き合い始めたと言っても、これからどうすればいいのだろうか。
彼も私と同じように、誰とも付き合ったことはなく、私が初めてだったことに、小さくない嬉しさを抱いてはいたものの、彼とこれから先どんな交流をしていけばいいのか、中々思い浮かばずにいた。
教室で話す頻度を増やしたり、一緒にどこかへ出かけたりすればいいのかもしれないが、私が出来る話題は精々本のことぐらいで、出かける場所も本屋や図書館などといった、本に関するところぐらいだった。
自分の引き出しの少なさに、先が思いやられる。何とかこらえたものの、ため息が出そうになってしまった。
気が付けばお互い無言のまま、駅に着いてしまっていた。
「それじゃあ、また明日……」
それと同時に私は別れの言葉を切り出す。
せめて、『次の土日にどこかへ出かけないか』くらい言えばいいのに。
こんなところでも人付き合いの苦手さを発揮して、尻込みしてしまっている自分が情けない。
「……村上さん!」
黒川君を軽く一瞥し、軽く項垂れながら改札へ向かおうとする私の腕を、彼が掴んだ。
「ど、どうかしましたか?」
あまりに唐突だったので、思わず身体が飛び跳ねそうになるが、何とか抑えて黒川君の方へ振り向く。
「……次の土日って、何か予定入ってる?」
「……い、いえ。何もないですけど……」
「……もし村上さんが嫌じゃなければ、俺の家に来ない?」
「……えっ?」
『他力本願だ』と叱られるかもしれないが、正直に白状すると、私は黒川君が何か言ってくれないだろうかという願望があった。とは言っても、いざそれが叶ったことに私は、嬉しがるより先に心を読まれたのではないかと錯覚してしまった。
「俺って、自分の部屋に親以外……ああ、そういえばエアコンと火災報知機の点検業者の人もそうか……まあ、それ以外入れたことがないからさ……」
「…………」
「受け身なものじゃなくて、能動的っていうか……本当の意味で初めて俺の部屋に入る人の1号は、村上さんになってほしいんだよ」
「…………」
そう言い終わってから、『1号って言い方はまずかったかな……』と呟く黒川君だったが、私はまずいだなんて少しも思わなかった。むしろ、強い胸の高鳴りを感じている。
黒川君の過去を考えると、嬉しがるのはあまり良くないのかもしれない。それでも私はその言葉を聞いて、彼の支えになることができたのかもしれないと、喜ばずにはいられなかった。誰かを支えられる人になりたいと思っていた私にとって、『1号』というものは特別な称号のように感じられた。
「村上さんに興味のあるものは大してないと思うから、来てもつまらないかもしれないけど……」
「いえっ、そんなことありません!」
苦笑い気味に呟いた黒川君の言葉をかき消すように私は叫ぶ。望月さんと以前彼の話題をした時とは違って、周囲の視線など気にはならなかった。
「黒川君のお家に、行ってみたいです」
「……そっか」
軽く息を吐いて黒川君は微笑む。それは私が今まで見てきた彼の笑顔とは、趣が異なるように感じられた。もしかすると、これが彼の本当の表情なのかもしれない。
「じゃあ土曜日、駅で待ってるね。昼過ぎくらいでいいかな?」
「……はい。楽しみにしてますね」
「あんまり期待しない方がいいと思うけど……まあいいや。じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
二階堂君や、仲良し3人組よりも先に、文字通り最初に黒川君の家に行くことができるという優越感に胸を高鳴らせながら、私は改札を抜けていく。
彼は私の姿が見えなくなるまで、ずっと立ち続けて見送ってくれていた。