黒川将平が村上文緒と結ばれた日の夜、ある人物の携帯電話が鳴り響いた。その持ち主は、画面に表示された名前――つまり、電話帳に登録してある――を見て、慌てた様子で手に取ると、連打するように通話のボタンをタップする。
「しょ、将ちゃんか!? どうした!?」
鳴り響いた携帯電話の持ち主は、芹澤一二三。彼の元へ電話をかけてきたのは、彼が今現在もっとも気にかけている人物である、黒川将平だった。
『もう放っておいていい』と言った彼から電話がかかってきたことに、芹澤は期待と不安が入り混じった感情で応対する。
「芹澤くん……ひとつ頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……あ、ああ! 何でも言ってくれ!」
黒川の口から放たれたのは、頼み事だった。それに対して芹澤は頼み事の詳細を尋ねない。『何でも言ってくれ』という返答は、言葉通りの意味を持っていた。
「俺を襲いやがったクソ野郎をぶちのめそうと思うんだけど、何とか引きずり出すことって出来ないかな? 芹澤くん、そういうのが得意そうに思ったから……」
芹澤の行動力の高さが、他校の人間を引きずり出すことに役立つかどうかは、黒川の勘でしかなかった。黒川が芹澤を当てにしたのは、行動力の高さと言うよりも、『何があっても、俺は将ちゃんの味方だ』という彼の言葉を頼ったためと言う方が近いだろう。
「……ああ。そういうのは大得意だから任しときな。それで、どうする? 全員まとめておびき出してやっても問題ないけど」
ただ、その勘は見事に的中した。友人を自殺未遂に追いやった人間を叩き潰した時から、芹澤の情報収集能力はかなり高いものとなっていたのだ。
「いや、正直どうでもいいんだ。ニンニク鼻の野郎以外はね……」
「…………」
「……あのくそったれだけは、この手で処刑してやらないと気が済まないからね……。何があっても、俺はあいつを狩る」
「…………そうか、分かった」
どす黒く濁った憎悪が、電話越しからでも伝わる。今までに聞いたこともなかった黒川の声音に、芹澤は冷や汗を流すものの、すぐに心を落ち着かせた。
「それなら、来週の月曜の放課後までに何とかするよ。本当は明日すぐにでも将ちゃんのところに引っ張り出してやりたいけど、他校となると情報集めないといけないからな……」
「いや、無理しないでよ。というか月曜日までって、早くない?」
「いや、そんぐらいあれば十分だ。あの手の連中の行動パターンは手に取るように分かる。土日どこに出かけてるかなんてのも余裕だ」
「そ、そうなんだ……」
芹澤の自信たっぷりの言葉に、黒川は感心半分、呆れ半分の様子だった。
「ところで将ちゃん。俺からもひとつ確認しておきたいことがあるんだけど、いいか?」
「?」
「……ニンニク鼻以外はどうでもいいってことは、ニンニク鼻以外の連中を俺が狩っても問題ないってことでいいんだよな?」
「えっ……? まあ、そうなるのかな?」
「ありがとう将ちゃん。俺も久しぶりに、マジでむかついてるからな……ぜってえ許さねえ、あのくそったれ共が……」
「……お、俺がこんなことを言うのもあれだけど、あんまりやりすぎないようにね?」
黒川の方もまた、怒りをたぎらせた芹澤の声音に冷や汗をかいていた。苦笑い気味にそう伝え、何とか芹澤の感情を和らげようとする。『やりすぎないように』という言葉を伝えられたのは、今日文緒が彼に同じことを言ったことが影響しているのは言うまでもなかった。
「その辺りは気をつける。あの手の連中は一撃食らわせればそれで終わりだしな」
「分かった。それなら芹澤くんを信じるよ。……ありがとう」
「…………」
黒川の口にした感謝の言葉は、今までとは違いゴマすりの意図など全くなかった。純粋な感謝の意を示したものだった。
芹澤も電話越しながら、今までとは明らかに違う言葉の重みにしばし沈黙する。
「それじゃあ、あいつを引きずり出したら将ちゃんにすぐ連絡する。悪いけど、それまで待っててくれ」
「うん」
黒川の返答を確認した芹澤は、通話を終える。大きく息を吐き、「よし、やってやろうじゃねえか……」とゆっくり呟く。黒川のために動くことが出来るという高揚感と、彼を袋叩きにした連中への怒りが入り混じった感情が、芹澤の心中に渦巻いていた。
翌週の月曜日の放課後。ホームルームが終わってから30分近い時間が経過していたが、黒川は席に座ったままじっとしていた。黒川以外に教室に残っているのは、わずかに不安そうな表情を浮かべた、文緒だけだった。
「……ん」
そんな中、黒川のポケットに入ったスマートフォンが震えだす。画面を確認すると、芹澤からの電話だった。通話のボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし、芹澤くん? うん……うん……分かった。すぐ行くよ」
20秒にも満たない短い通話を終え、黒川は席から立ち上がる。文緒の方へ視線を向け、小さく頷くと、教室を後にしていった。
黒川が向かった先は、聖櫻学園からそう遠くない場所にある野原だった。見晴らしがよく、レジャーシートを敷いて食事をするには最適の場所と言える。しかしながら、今は時間も中途半端なせいで、黒川と芹澤、そして『ニンニク鼻』と呼ばれた稲山二校の1年生以外には誰もいなかった。
「将ちゃん、こっちだ!」
黒川の姿を確認した芹澤は、大きく手を振って叫ぶ。彼のそばにいた1年生は、小突かれでもしたのか僅かに鼻血が垂れている。黒川が辿り着くと同時に、不満げな表情で悪態をついた。
「て、てめえら……ふたりがかりで俺を袋にするなんて卑怯な真似しやが……あぎゃっ!」
しかし、言い終わる前に芹澤の裏拳が顔面に炸裂する。かなり手加減したものであったが、血の垂れた鼻に当たったこともあって威力はそれなりにあったようだ。鼻を押さえてうずくまる。
「ひとりを10人がかりで襲いやがった奴の言う言葉じゃねえだろ。それにてめえを狩るのは俺の役目じゃねえよ」
芹澤は視線を黒川の方へやりながら、1年生のそばを離れる。
「将ちゃん、これで大丈夫か?」
「うん、大丈夫。あとは全部俺の仕事だから」
黒川の声音と表情は端から見れば穏やかだったが、実際にはどす黒い憎悪を紛らわせるものでしかなく、それも大して意味を成していないことは、芹澤にも1年生にも、そしてこっそり後をつけて、少しだけ離れた木のそばで見つめていた文緒にも分かり切っていた。
「……久しぶりだな、クソ野郎」
「て、てめえ……」
「てめえをぶち殺すことばかり考えていたから、怪我も普段よりはるかに早く治ってくれた……。今からてめえに『チビ』って言われまくり、蹴られまくって、大切なものまで投げ捨てられた痛みを、全て返してやる……」
背負っていたリュックサックを近くに放り投げ、顔に貼られた絆創膏を次々と剥がし、笑みを浮かべながら黒川は言葉を紡ぐ。傷は綺麗に治っていたばかりか、痕すら見受けられない。本当に怒りが治癒力を高めたのか、元から彼の治癒力が高かったのかは定かではない。
だが絆創膏を今日まで貼り続けていたのは、挑発の意味合いが込められていたことは間違いないだろう。わざと貼りっぱなしにしていたのだ。
「……へ、へへっ。俺のパンチ一発で失神したくせに、何言ってやがんだ? なら今度は、時間をかけていたぶって……」
「……てめえなんぞとじゃれ合うつもりなんかないわ。本当は100回くらいぶち殺してやりたい気分だが、生憎俺は約束している人がいる。だから安心しろ。一撃で終わらせてやるわ」
「……っ! ひっ、ひぃ……」
必死の強がりは、黒川の全く意に介さない様子で放たれた言葉が終わると同時にかき消された。穏やかな表情から一転、双眸に凄まじいまでの憎悪を宿し、拳を構えて戦闘態勢に入る姿がそこにあった。
神経毒を持つコブラと、出血毒を持つクサリヘビ。2匹の蛇が牙から毒を滴らせる。『早く噛み付かせろ』と言わんばかりに。
かつて小瑠璃が目にした毒蛇の姿が、芹澤、1年生、文緒の3人の目に映る。その憎悪が誰に向けられているかは言うまでもないが、対象以外のふたりも、冷や汗をかくほどに凄まじいものだった。
「だけど俺から仕掛けたんじゃつまらねえ。てめえに攻める機会を与えてやるよ。かかってきな……」
「……こ、こんの、クソチビがぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
逃げることなく向かってきたという意味では、彼はまだ勇気のようなものがあったのかもしれない。だが、それはもはや蛮勇でしかなかった。
せめて、『チビ』という言葉を使っていなければ。
「やっぱりてめえは、ただのゴミだ……」
「ぶごっ……」
構えから、パンチか以前食らわされた肘打ちを使ってくると予想していた。しかしその予想は外れる。頭を両手で掴まれ、『しまった』と思った時には後の祭りだった。
跳び膝蹴り。
ムエタイの教本に載っていた技で、最も黒川が練習に費やした技が、人中――人間の急所――に鋭角に突き刺さった。
距離にして2m近く吹っ飛び、ドタッという音を立てて倒れた1年生は、白目を剥き、口から泡を吹いて失神していた。
蛇は己の毒を、一瞬で対象に流し込んだのだった。
「…………二度と俺の眼前に姿見せんな、ボケ」
追撃したい気持ちはあったが、約束を守るために押さえ込む。見下すような視線を飛ばしながら悪態をついたのは、それを紛らわせるためだったのかもしれない。
しかし悪態をついて間もなく、怒りと憎悪はみるみるうちに引いていった。追撃する気も、押さえ込む必要を感じなくなるくらいに霧散していく。
(跳び膝蹴りをあんな的確に叩き込める人間、初めて見たな……。三角極めたって聞いて戦闘能力高いとは思ってたけど、打撃も出来るなんて……。ここまで強かったのか、将ちゃんは……)
(す、すごい……)
芹澤も文緒も、驚きを隠せなかった。芹澤の場合は予想以上の戦闘能力の高さに、文緒の場合は全く予想していなかった戦闘能力の高さに。『予想以上』と『予想外』とで異なりはするが、いずれも黒川の戦闘能力の高さに驚いたということでは共通していた。
「将ちゃん、大丈夫か?」
「うん……なんとか……」
黒川を労うためと、自身の驚きを紛らわせるために、芹澤は黒川のもとへ近づいて尋ねる。まるで肩の荷が下りたような清々しい表情を、黒川は見せていた。
「……芹澤くん」
「……ん?」
「……よかったら、俺の家に来てよ」
「……! ほ、本当に、いいのか?」
『家に来て』。
他の人間にとっては他愛もない言葉だが、黒川にとってその言葉は非常に重要な意味合いがあった。芹澤もすぐに意図を理解したが、念を押して確認する。
「……うん。大したもてなしはできないけど、歓迎するからさ」
それは、黒川が芹澤を『友人』と認めた瞬間であった。
芹澤一二三は、黒川将平にとって初めての友人となったのであった。
「……ありがとな、将ちゃん。これからも、よろしく頼む」
「うん。俺のほうこそ、ありがとうね」
冷静に振舞う芹澤であったが、内心ではのた打ち回りたくなるほどに歓喜していた。高桑でも鴨田でもなく、ましてや黒川といつも行動していた二階堂よりも先に、黒川からの信頼を勝ち取った独占欲に入り浸っていた。
(うおっしゃああああああああああっ! 見たか3人とも! 動いたから俺はお前らよりも早く将ちゃんからダチって認めてもらえたぞ! 早くお前らもここに来い!)
しかし、いつまでも芹澤は独占欲に浸ってはいなかった。他の3人にもこの喜びを味わって欲しいと願っていたのだった。
『怪我の功名』と形容してしまうのは些か語弊がありそうだが、他校の生徒に襲撃されたことは、黒川将平に数多くの恩恵をもたらした。心の底から友人と呼べる人間と、コンプレックスも本性も、全てを肯定してくれた恋人を。
一筋の光を手にし、人生最後の日を新たな人生へと昇華させた彼は、その光を大きくしていく。蛇のごとき生への執念が、そうさせたのかもしれない。
誇り高き毒蛇の人生は、ようやくスタートラインを離れ始めたのだ。