翌日。
少し早めに登校した俺は、黒川さんにハンカチを返すために1年生の教室がある棟にいた。当たり前と言えば当たり前なのだろうが、多くの1年生からの視線を感じる。別段気になるものではないが、このまま晒され続けるのもあまりいい気分ではない。さっさと済ませてしまおう。
俺は黒川さんがどのクラスに所属しているのか、当然知らない。それに本人がもう登校しているかどうかも分からないので、しらみつぶしに当たってみるしかないだろう。
とりあえず俺は、A組から当たることにした。ちょうど教室に入ろうとしていた女子生徒がいたので、俺は声をかける。
「あの、すいません」
「はい、何でしょう?」
「黒川さんがいる教室って、ここで合ってますか?」
「えっ、はい、そうですけど……あの、どちら様ですか?」
首を傾げながら、その1年生は俺に尋ねる。彼女の疑問はもっともだ。同学年の人間ならともかく、見知らぬ上級生が突然訪ねてくれば、そう聞きたくなるのは当然だろう。
「ああ、すいません。2年の黒川っていいます。でも、名字が――」
だが、ここで俺は自分の名を名乗ってしまったことで、長く続くかなりの面倒事に巻き込まれてしまうことにまだ気付いていなかった。
『名字が同じってだけで、兄妹ではないんですけど』と言おうとする前に、『黒川』という言葉を聞いたその1年生は、顔を綻ばせながらこんなことを言ってしまった。
「あっ、もしかしてナギーのお兄さんですか!? ちょっと待っててくださいね、すぐ呼んできます!」
「……へっ?」
その言葉に対して反応が遅れた俺を尻目に、その1年生は教室の中へ急いで入っていってしまった。
「ナギー、お兄さんが呼んでるよ」
「お兄さん……? ああ、なるほど」
彼女の言葉通り、黒川さんはすでに登校していたようで、しかも比較的前の席にいた。これなら直接渡す方が、話がこじれずに済んだかもしれない。
用件を伝えられた黒川さんは、初めは訝しげな表情を浮かべていたが、廊下にいる俺の姿を確認すると、合点が行った表情に変わり、にやつきながら俺の方へと歩いてきた。
「わざわざ教室まで来てくれるなんて、お兄さんも心配性だね~。もしかして、ドクペでも買ってきてくれたの?」
「……んなわけないでしょ。ほらこれ。昨日部活行く時に落っことしてた」
「……ん? ああ、そういえばなくなってたし、あそこにも落ちてなかったからどうしたのかと思ったけど、お兄さんが拾っててくれたのね。ありがと。妹思いだね~」
俺は鞄からハンカチを取り出し、黒川さんに手渡す。
一瞬驚いた顔をし、その後笑顔を見せる黒川さんだったが、今まで何度も見せていた、へらへらした感じでのものではなく、純粋に嬉しそうな表情をしていた。とは言っても、相変わらずの妹発言に俺は呆れてしまう。
「昨日も話したけど、お兄さんがいたならもっと早く言ってくれればいいのに~」
苦笑しながら、先ほどの1年生が俺たちのもとに近づいてきた。
……ちょっと待った。『昨日も話したけど』ということは、もしかすると黒川さんは、昨日の出来事を『兄と話していた』とでも彼女にのたまったのだろうか。
「ちょっと待ってください。俺は別に……」
「あ、自己紹介がまだでしたね。
訂正の言葉を言おうとしたものの、1年生――風町さんの自己紹介によってかき消されてしまった。名前から察するに、昨日黒川さんが話していた友人のひとりだろうか。
黒川さんとは対照的に、明るく真面目そうな印象だった。聞くまでもなく分かることなのに、自分の黒川さんの呼び方を律儀に説明しているところからも、それは確信できた。
「どうも……黒川将平です……」
風町さんの自己紹介に、俺もつい律儀に自己紹介を返してしまう。こんなことをしたら、余計に話がこじれるというのに、何をやっているのだろうか。
「はい、よろしくお願いします。……わぁ、確かにナギーの言う通り、本当にそっくりですね。だけどナギー、お兄さんにあんまり迷惑かけちゃ駄目だよ? 忘れもの届けに来てくれたんでしょ?」
そんな風町さんは、やたら嬉しそうな表情をして勝手に話を進めていく。黒川さんも黒川さんで、否定の言葉を言うことなく、にやにやと笑みを浮かべたまま突っ立っているので、余計にたちの悪い事態になりつつあった。
「ですから、俺たちは別に兄妹ってわけじゃ……」
「ハルー、ナギー、何してるんだがやー?」
今度こそ兄妹でないことを風町さんに伝えようとすると、後ろから女子生徒と思わしき声が聞こえた。つい後ろを向くと、髪の両サイドを団子ヘアにした、小柄な女子生徒が近付いてきていた。彼女の発した呼び名から考えても、風町さんと黒川さんのことであるということに間違いはなさそうだった。
「……ん? もしかすると、この人がナギーのあんちゃんだがや?」
「うん、そうだよ。忘れ物届けに来てくれたんだって」
「ほうほう……確かによく似てるのぅ……」
勘違いしたままの風町さんの言葉を聞いた団子ヘアの1年生は、まるで物色するような目つきでまじまじと俺を見る。一通り見終わったところで、にやりと笑みを浮かべたかと思うと、突然自己紹介を始めた。
「ハルやナギーと同じ軽音部の、
どうやらこの1年生が、昨日黒川さんが話題に出していた友人のもう一方のようだ。話し方からしても、黒川さんとはもちろん、風町さんとも印象の異なる人だった。『
しかし、黒川さんと風町さんの『お兄さん』に続いて今度は『あんちゃん』とは。余計誤解が生まれそうな呼び方だ。
「だから俺は黒川さんの兄貴じゃ……」
「……まあまあ、それは分かってるだがや。だけど、いずれにしてもあんちゃん、アタシたちともう関わろうとしないんじゃないだがや?」
「…………」
蓬田さんはなかなか鋭い。彼女の言う通り、もう俺は彼女らとこれ以上関わろうという気はなかった。かなり面倒くさいことになりそうなのに、わざわざ首を突っ込んで規模を広げるような馬鹿な真似をする気力は俺にはない。他の人のようにゴマをすろうという気も起きない。
「それじゃあ寂しいだがや。ハルの言葉を聞く限りじゃ、あんちゃんいい人そうだし、ナギーと兄妹じゃないにしてもアタシは興味が湧いたがや!」
「…………」
「だからハルの誤解を解くにしても、もう関わらないってことはなしにしてほしいだがや。アタシは、もっとあんちゃんと話してみたいからのぅ」
白い歯を見せながら、まるで漫画のキャラのような笑みを浮かべる蓬田さん。
……どうして、会って数分も経ってないような人間に対して、そんな表情ができるんだ。それだけ、黒川さんがふたりに話した内容は惹きつけられるものだったとでも言うのか。
――これなら、あのハンカチは拾わず、放っておけばよかったと思ってくるじゃないか。
「……」
沈黙を続けていると、予鈴のチャイムが鳴り響いた。このまま突っ立っていては遅刻してしまう。色々言いたいことがあったが、俺は一言だけ告げて自分の教室へ戻った。
「……図書委員やってるから、用があるなら図書室に来て」
我ながら、俺の行動はつくづく意味不明だ。関わり合いにならないんじゃなかったのかよ、俺は。何で自分から、繋がりを求めるようなことを言っているんだ――――。
悪い予感は、俺の予想をはるかに超えて当たってしまった。
俺が自分の教室に戻った後、黒川さんらに話しかけてきた他のクラスメイトに、勘違いしたままの風町さんが、俺を黒川さんの兄貴だと言ってしまった。それを黒川さんだけではなく蓬田さんまで否定しなかったせいで変に話は広まり、1年生のほぼ全てが、俺と黒川さんは兄妹だと誤った認識をしてしまったのだった。
黒川さんはともかく、蓬田さんまでなぜ否定しなかったのか俺には分からなかった。
いずれにしても俺は――――。
「何だってんだよ、ちくしょう……」
そう、ぼやくことしかできなかった。