神楽坂さんは相変わらず、俺の姿が視界に入るとそそくさと退散する。必要以上に怖がっているのではないかとも思うが、変に近付いてこられるよりかはましと言っていいのかもしれない。
ちなみに神楽坂さん以外にも、関係が好ましくない人がひとりいる。しかし、あまり関わり合いになりたいとは思わない神楽坂さんとは対照的に、その人の方は和解するとまではいかずとも、なんとかこの状況が続かないようにはできないかと思っていた。
「貸出しでお願いします……」
「はい……」
5月も下旬に差しかかろうという頃、図書室で貸出しの手続きの仕事を俺はしていた。そこに、件の人物がかなり古い手芸の本を持って、それの貸出しを頼んだ。
「……6月3日までに返却をお願いします。どうぞ……」
「はい……ありがとうございます……」
常日頃二階堂くんなどに取っているゴマすりの態度でないことはもちろんだが、以前黒川さんに取った態度よりもさらに冷淡――いやむしろ、『機械的』とでも形容すべき態度で俺は手続きを行う。俺に本を手渡されたその人は、俯きながら小声で礼を言うと、脱兎のごとく図書室を去っていった。
「はぁ……」
その様子を見て、俺はため息をつかずにはいられなかった。
「黒川くんさ、時谷さんと何かあった? もちろん、話したくないなら無理には聞かないけど」
そんな俺の様子が気になったのか、先に図書室へ来ていた二階堂くんが俺に尋ねてくる。
「ああ、うん……1年の頃にちょっと色々あってね……詳しいことは、俺の口からはあまり話したくないから、勘弁してもらえるとありがたいかな……」
「いやいや、全然問題ないから」
起こったことがことだけに、迂闊に話しては二階堂くんとの関係もこじれるのではないかと思った俺は言葉を濁す。
「でも、二階堂くんが他の人から詳しいこと聞いても、俺は何も言わないよ。多分俺と時谷さんの間に何があったか知ってる人多いと思うし、その中に二階堂くんが加わったって、そんな変わらないだろうから」
ただ、その現場を見ていた人間はそれなりにいる。当然ながら何があったか知っている人間は多いだろうし、自然と二階堂くんの耳に詳細はそのうち入ってくるだろう。変に隠そうとするよりは、そう告げておく方が面倒事にはなりにくいと判断した。
「黒川くんは嫌なんじゃないの? 見た感じ良い話題とは到底思えないし、そんなら他の誰かに聞くのもやめておくよ、俺は」
「いや、大丈夫だから。俺の口から話したくないってだけだし、それに二階堂くんなら、知っても問題ないと俺は思ってるよ」
「…………」
もちろん、二階堂くんが詳細を知ったところで俺に対しての態度を変えないなどという確信は全くない。俺の言葉は、二階堂くんに対して『こうであってほしい』という願望を込めた、釘刺しと言っても差支えなかった。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、あまり抱え込みすぎないようにね? 芹澤の言葉の真似になるけど、何かあったら遠慮しないで言っていいからさ」
「……うん。ありがとうね」
その言葉に俺は、安堵と『よくそんなことが言えたものだ』という、半ば呆れに近いものが入り混じった感情になった。
「じゃあ、俺はこの辺で失礼するわ。そんじゃね」
「うん。また明日」
俺の言葉に安心したのか、二階堂くんは軽く息を吐くと、本は借りずに図書室をあとにした。俺の呆れの感情は、彼には伝わらなかったらしい。
「はぁ……何であんなことしちゃったんだろ……」
何の意味もない言葉を俺はぼやく。
悲劇の主人公アピールでもしたいというのか、俺は。
――それは、去年の9月まで
帰宅または部活で生徒の数がやや少なくなった廊下を歩く黒川将平に、ある女子生徒が声をかける。
「おっ、ちょうどよかった。お~い、黒川~」
小柄な体格かつ、彼女と比較的会話をする男子生徒という条件を満たしており、彼は
――彼女の性格上、さほど親しくない人間でも無理矢理引きずって行ったかもしれないが。
手芸部部員かつ、高校1年生でありながらファッションデザイナーとしての顔も持ち、行事に用いる衣装の提供もしているという背景から、発言力のある彼女に意見できる生徒は上級生も含めて皆無だった。
「時谷さんか……なに?」
「以前デザインした服のファッションモデルを探していて、黒川のような男子生徒を探していたんだが、本人がいて良かったよ。さあ、行こうか! 今日は図書委員の仕事もないのだろう?」
「……ごめん、時谷さん。委員の仕事がないっていうのは確かにそうだけど、今日はもう帰りたいんだ。悪いんだけどまた今度にしてくれないかな?」
しかしながらこの時、彼はどうしようもないくらいに沈み込んでいた。夏休みに、通っているブラジリアン柔術の道場で、兄弟子の人間に一種のいじめを受けたからであった。彼の練習に対するモチベーションの低下、大会への参加意欲の消失は、これに端を発していた。
学園内では平静を装っていたが、一月近く経っても精神状態の回復は芳しくなく、家に帰るとすぐにベッドにもぐって涙を流す日々を送っていた。
とても小瑠璃に付き合えるような状態ではなかった。出来るだけ平静を装い、申し訳なさそうな表情でやんわりと断りの言葉を告げた。
「それなら、私に付き合っても大丈夫じゃないか。家に帰る時間が少し遅くなるだけだし、明日あさっては休みだから問題ないだろう?」
しかし、小瑠璃にはそれも通用しなかった。強引な性格で知られる彼女は余程のことがない限り引き下がらない。そのため、彼女に振り回される生徒は後を絶たなかった。
それに加え、古風な喋り方から姫たる風格を出し、断れる雰囲気にさせないのも、被害者の増加を招く一因と言えるだろう。
「……そうだけど、今は家で過ごしたいんだ。頼むから、今日は帰らせてよ。今度必ず付き合うから」
ファッションに全く興味のない黒川であったが、小瑠璃の資質を素直に称賛していた。さらに1年生当時は、クラスは違うものの、それなりに話す人間ではあり、それが人脈形成――彼は内心『ゴマすり』と称していたが――にも繋がっていたことから、彼は彼女に対して感謝の念も持ち合わせていた。だからこそ、『今度必ず付き合う』と言ったのだった。
「い~や、今度なんて却下だ。絶対今すぐ来てもらう。行くぞ」
しかし黒川のそんな最大限の譲歩も、小瑠璃の前ではあっさりかわされてしまった。腕を掴み、手芸室へ連行しようとする。
「……時谷さん……頼むから……頼むから、帰らせてくれ……」
そんな小瑠璃に若干ながら怒りを抱く黒川であったが、表情には出さず必死に懇願した。
「さあ、しゅっぱ~つ!」
だが、必死の懇願は無視され、小瑠璃は視線を黒川から外し、掴む力を強めて楽しそうな声をあげながら歩き出す。廊下や教室からその様子を見ていた他の生徒たちは、付き合わされる彼に同情しながらその様子を見守っていた。
しかしながら、小瑠璃のその行為はもはや黒川の逆鱗に触れる行為でしかなかった。
この瞬間、彼は彼女を『敵』とみなした。
自分の邪魔をするだけの、忌むべき『敵』だと――――。
「…………帰らせろ、っつってんだろ…………!」
「ん? 何か言っ――」
そう言いながら振り向いた小瑠璃の目に映ったのは、目にも止まらぬ速さで廊下の壁に蹴りを入れる瞬間の、黒川将平の姿であった。
文字で表現するなら、『ドッゴオオオオン』とするのが一番適当だろうか。
彼の放った蹴りは、それほどまでの大きな轟音と、凄まじいまでの振動を廊下に与えた。振動は廊下の端から端まで響き渡り、窓枠はガタガタと激しく揺れた。地震と勘違いした生徒が一斉に廊下へと飛び出す。
だが、廊下に出てすぐに、思考から轟音及び振動に対する驚きは消え失せた。振動の発生源から生じる、禍々しいまでの憎悪による悪寒によって。
「……えっ?」
小瑠璃は、何が起きたのかすぐには理解できなかった。あまりにも唐突に起きたことで脳の処理が追い付かなかったのだろう。
しかし、それは何が原因で起こったのか、その場に居合わせた黒川を除く誰よりも深く、強く理解することになる。
「く、黒川……?」
轟音と振動が彼によって起こされたものだということをようやく理解した彼女は、恐る恐る声をかける。かけたはいいが、まるで初対面の人間に話しかけているような気分だった。黒川将平という人間はまず間違いなくそこにいるのに、そこに立つのは全くの赤の他人のような雰囲気が、彼から出ていた。
「…………」
彼女の声に反応するかのように、黒川はゆらりと顔を上げる。
だがそこに映っていたのは、おとなしいながらも人付き合いが良い、優しく真面目という、多くの人間が抱いていた印象の彼ではなかった。
どす黒い憎悪――否、『殺意』と言っても差支えないものを
「ひっ……!」
生まれて初めて、彼女は怯えの声を上げた。文字通り蛇に睨まれた蛙のように、体が動かない。それなのに全身は震え、特に膝はガクガクと痙攣していた。
彼の後ろでは巨大な蛇が2匹、牙から毒液を滴らせ、『お前を噛み殺してやろうか』と威圧――もちろん、錯覚なのだが――していた。
そんな錯覚を彼女はするほどに、彼の眼光は凄まじいものだった。小瑠璃以外にはその錯覚は見えず、彼女ほどの恐怖は抱かなかったにしても、その場に居合わせた全員が、例外なく震えあがった。その中には、あの神楽坂砂夜の姿もあった。
(へ、変な真似をしないで正解だったわね……下手をしたら、殴り倒されるどころじゃ済まなかったかもしれないわ……)
入学当初から黒川に目を付けており、あわよくば少しいじめてあげようかと思っていた砂夜であったが、その考えを即座に投げ捨てた。今までかいたことのない冷や汗を、大量にかきながら。
「…………」
当の黒川は、そんな彼女らの恐怖など知る由もなかった。意識は目の前の『敵』にのみあった。
ふと彼は、視線を下へ向ける。その先には未だに自分の腕を掴む、『敵』の手があった。
「……あっ」
慌てて彼の『敵』――もとい、小瑠璃は手を離す。『放せ』とは言わず、かといって払いのけることもせず、ただただ眼光を飛ばし続ける彼の姿は、より一層どす黒く、禍々しかった。
「ご、ごめんなさい……引きとめてしまって……ど、どうぞ、お帰り下さい……」
引きつった笑みを浮かべながら、同学年の人間に敬語を話す彼女の姿を一体誰が想像できただろうか。いや、誰もいない。彼女の目の前に佇む者を除いて。
正直なところ、その言葉を発した小瑠璃は後悔していた。彼女のプライドに反したからではもちろんない。黒川の怒りを余計に増幅させるだけになってしまうと思ったからである。怒りを爆発させた彼に、殴り倒されると思ったからである。他の面々も同じ考えを抱いていたが、その予想は意外にも外れることとなった。
「…………ふん…………」
すぐに身体を180度回転させて、階段を下り、彼は姿を消した。
それでもしばらくは、廊下の静寂が喧騒に変わることはなかった。それから2分後、『本当に、黒川君なのか、あれ……?』という男子生徒の言葉を皮切りにざわめき出していったが、その言葉を発した男子生徒は、その2分はまるで1時間近くに感じたという。他の面々も、似たような感覚がしたそうだった。
黒川の姿が消えてすぐに、小瑠璃はその場にへたり込んでしまった。駆けつけた同クラスの女子生徒に支えられて立ち上がろうとするも、2人がかりで支えないと立ち上がることすらできず、まともに歩けるようになり、自宅へと帰るまでに3時間も要した。
この日より、姫は毒蛇に屈服した。
後に学園トップクラスの発言力を持つと言われる彼女であるが、彼にだけは一切逆らうことができなくなった。
彼女は、今もなお毒蛇の眼光に怯える学園生活を送っているのであった。
この事件の目撃人数は、当時の状況が状況であったためか、さほど多くはなかった。目撃者自体も、ことがことだけに話そうとする者はほとんどいなかったが、それでも噂などでそれなりに生徒間での広まりはあった。
また、当事者の知らぬところで、どちらを擁護するのかというやり取りもわずかながらなされた。
『あれは全面的に時谷ちゃんが悪い』とした小野寺千鶴、『黒川くんが怖いと思った』と話す笹原野々花、中立気味ながらも、『もう少し黒川くんの気持ちを汲んであげるべきだった』と言った望月エレナ、何も話さない神楽坂砂夜、そもそも事情を知らない有栖川小枝子など、反応は十人十色であった。
時谷さんに反抗したことそのものを、俺は後悔してはいない。反省しているかどうか聞かれても、恐らく首を傾げてしまうだろう。
時谷さんは風格があるとか、発言力があるとかいう評判は、1年生の頃からかなり頻繁に耳にしていた。しかし、正直なところ俺にはどうでもいい話だった。自分がやりたいと思っていることでもなければ、義務というわけでもないのに、勝手な都合で自分の時間を他人に浸食されることが、俺は大嫌いだった。
時谷さんに限った話ではなく、誰かの『命令』などと称した強引なやり口に、俺は従ってやるつもりなど毛頭ない。
時谷さんに反抗したのは、当時の精神状態が不安定だったというのが大きな要因ではあるが、衣服のモデルという、俺にとって興味のないことであったことも少なからず関係している。
『必ず付き合う』と言いはしたが、仮に時谷さんが引き下がったところで本当にそうしていたかどうかはかなり怪しい。
俺が後悔しているのは、壁を蹴り、彼女を睨みつけたという行為であった。別にそんなことをしなくても、無理矢理にでも掴まれた手を引きはがし、走って逃げるくらいはできたはずだった。小柄かつ、力もそこまで強くはない時谷さんなら、なおのことそれはできたはずだった。
後日時谷さんに文句を言われたり、また連行されそうになったりした可能性はあるが、その都度逃げればいい話だった。いずれにしても彼女を利用してコネを作ることなど、もうできないのだから。
とは言ったものの、一種の愉悦を俺は感じてしまっていた。誰もが逆らうことのできない、『姫』と形容される人間を屈服させたというカタルシスを。
今思えばやらなくて良かったとは思っているが、あの時の俺は時谷さんをぶちのめしてやろうかとすら思っていた。
――それなのにこの状況が続かないようにしたいだって? 笑わせるなよ。お前なんかが時谷さんと和解なんてできるわけねえだろ。屈服させて滅茶苦茶嬉しがっていたくせに、綺麗事をほざいてるんじゃねえ。
その通りだ。これが俺の本性だ。俺は称賛されるような人間では、断じてないのだ。
俺はプライドばかりが過剰に高い、蛇のように