アリアドネーは魔法世界の西方に位置する学術都市だ。
多くの学者を輩出してきたこの都市は、魔法界にとって名高い学術都市であると共に、非常に特殊な事情を有する都市である。
それは、固有の兵力を有する完全独立都市であるということであった。領土はヘラス帝国と連合側諸国との狭間にあり、決して広大とはいえないものの、学問を守るために結成された騎士団を要する都市国家は強大な軍事力に裏打ちされた独立国家として長く魔法界の権威としてあり続けている。
今、世界を巻き込む大戦争に於いてもそのスタンスは変わることなく続けられている。
我関せず、とは行かないまでも決してどちらかに偏ることなく中立の立場で魔法世界の行く末を見守っていた。
アリアドネー総長コルドゥラは、この日も憂いを顔に浮かべながら執務に励んでいた。
老年に差し掛かった白髪の女であり、今でこそ学術都市を治める立場にあるとはいえ、元は一介の学問の徒である。政治にも興味はなく、ただ学問を続けていられればそれでいいという青春時代を送っていながら、結局はその行き着いた先がこの椅子だったというのだから、自分でも笑いものだと、日々学術書を読みふけりたい欲求を抑えて仕事を進めている。
だが、そんな彼女の思いを無視するかのように世情は急迫を続けている。
ヘラス帝国とメセンブリーナ連合の戦争は、拡大の一途を辿り、それに呼応するかのようにアリアドネーの軍事費も増大している。中立の立場を維持するためには、この時代の流れに逆らいうるだけの抵抗力を身につけなければならないからだ。
その所為もあって、コルドゥラの時間の大半は学問ではなく各国との調整を初めとする政治に費やされているのが現状であった。
忌々しい戦争め。
と、コルドゥラが眉根を寄せたところで変わるものなどなにもない。
アリアドネーは世界で唯一の独立学術都市。それを守ることこそ、彼女の役目である。
そんな折、彼女の執務室のドアを叩く者が現れた。
「なんだい?」
気難しさが声に現れている。
険のある言葉は、仕事の邪魔をされたことへの苛立ちの顕れである。
ドアが開き、秘書が入ってくる。
「総長、お客様が見えておられます」
「客? 聞いてないよ。予約はあったかい?」
尋ねられた秘書は、いいえ、と短く答える。
「なんだ、失礼なヤツだねぇ。……こんな忙しいときに、アポなしとは。で、どこのどいつだい、その非常識なのは」
「はい、それが……」
問われた秘書が珍しく困惑した風に表情を曇らせる。どうしたことかと、不思議に思っているところに、唐突に真っ白なローブが視界に入り込んできた。
「私ですよ、コルドゥラ総長」
涼やかな笑みを浮かべた男だった。細身で背の高い、色白の男だ。遠目から見れば、女にも見えるほどに整ったその顔を、見紛うことはない。
「お久しぶりです。お変わりないようで、安心しました」
「驚いたね。お尋ね者が何の用だい、アルビレオ・イマ」
これほど驚いたのはいつ以来であろうか。
前回顔を合わせてから何年経ったか思い出せないくらいの古き知人の登場に、コルドゥラはらしくなく目を見開いた。
彼女が驚いた理由は二つ。
一つは、アルビレオが自分の目の前に現れたこと。
もう一つは、彼が連合と帝国から追われている『紅き翼』の一員でもあるということであった。
犯罪者に成り果てていながら、学術都市まで逃げ果せるとは。彼が強大な大魔法使いであることは重々承知してはいるが、連合や帝国の追跡網を振り切ってくるのは骨が折れただろうに、その苦労をまったく感じさせないところに、総身が震えるほどの凄みを感じる。
アルビレオは、コルドゥラの皮肉を綯い交ぜにした問いに、気分を害した様子もなく端的に答える。
「極めて重要な、世界の命運を握るご相談でもと思いまして」
ぴくり、とコルドゥラの眉が上がる。
古き馴染みであるこの男の性格が、決してよいものではないことをコルドゥラは知っている。
見た目こそ瑞々しい年齢を維持しているものの、彼の実年齢は見た目通りではない。古馴染みのコルドゥラですら、彼の幼い容貌を知らないのだ。アルビレオは、こう見えて長き時を生きる賢者の一人なのである。魔法の知識も、あるいは学術都市を治めるコルドゥラよりも深淵に至っているのではないかと思えるほどに。
「ずいぶんと大きく出たね。世界の命運を握るときたか」
「アリアドネーを統べるあなたが、この世界情勢に注意を払っていないとは思えませんが」
「二大勢力の激突は、確かに世界の危機だろう。だが、それで滅びるのは世界じゃない」
「ええ、そうでしょう。ヘラス帝国が滅びようと、連合が滅びようと、そこに人がいる限り世界は続きます。ですが、今はそうも言っていられない。今回ばかりは、正真正銘の世界の危機です。文字通りのね」
静かに、言葉の一つひとつに魔力すら込めるかのようなアルビレオの口振りにコルドゥラは内心で首を傾げる。
言っていることは分かっている。
だが、世界の危機などと言われても実感できるものではない。彼女の本質は学者である。実感を得るのであれば、言葉ではなく明確な理論を並べるべきである。
「どういうことか説明できるのかい?」
「ええ。ですが、それはまず彼女の話を聞いていただいてからのほうがいいと思いますよ」
アルビレオは半身を引く。
彼の背後に、いつの間にか佇んでいたのはアリカだった。
「アリカ王女、だと?」
さすがに、これには驚嘆した。
アルビレオが顔を出した時以上に。
「行方不明になったと聞いたが……」
「『紅き翼』と『黒の翼』によって救出されたのじゃ」
有無を言わせぬ力ある言葉だった。
ただコルドゥラの疑問に答えただけの短い応答でありながら、王女としての確かな品格がある。偽物ではないかという思いは、この時点で消えた。アリアドネーの総長として、外交に携わる中でアリカとは何度か会話をしたことがある。聡明で芯の通ったアリカほどの人物は、この学術都市を隈なく探しても見つかるまい。
「そう、でしたか。よくぞ、ご無事で」
上手く言葉が見つからない。ウェスペルタティア王国の王女であるアリカと現在逃避行中の『紅き翼』に属するアルビレオの二人が――――おそらくは同じ要件で――――やって来たとするならば、これは明確な外交であり、個人的な話に収まる話題ではないのは明らかだ。
コルドゥラは背筋を伸ばして二人を応接間に向かわせると、秘書に人払いを命じて自らアルビレオたちの後を追った。
一言で言うならば信じられなかった。
完全なる世界という秘密結社が世界各国に根を張っており、この魔法界全体を揺るがす大戦争を裏から主導してるなどと。そして、その目的が魔法世界そのものの滅亡だ、などという話は荒唐無稽に過ぎる。相手が一国の姫でなければ、話すらまともに聞かなかっただろうと言い切れるほどだ。
だが、その一方でアリカとアルビレオの話には信憑性があることも確かだった。作り話と切り捨てず、こうして今でも向かい合っているというのは、彼女が日頃から抱いていた戦争への疑問に結び付くものだったからである。
終わりそうで終わらないこの戦争は、第三者の視点から見れば異様ではあったのだ。
もともと火種こそあったものの、戦争を引き起こす必要性のなかったヘラス帝国とメセンブリーナ連合の開戦は、意外感すらあったのだ。それが、魔法界全体を巻き込みかねない規模に膨れ上がったことや、数度に渡って互いにチェックメイトを掛け合う展開も、五分五分の戦いを繰り広げているというよりも操作されているような胡散臭さを感じていた。それは、戦争を俯瞰的に見ることのできるアリアドネーという特別な立ち位置にあったからこそ許される感覚であって、恐らく両勢力に属する者は感じる余裕すらないだろう。
「何と言ったらいいか……だね、まったく」
頭を抱えたくなる。
世界を滅ぼすなどということが可能なのかとも思ったが、可能だ。難しいことではない。大戦争を裏から操れるとなれば、それくらいは容易にできるだろう。
「彼らの本拠地は、オスティアです。狙いは、アスナ姫。この二点だけでも、完全なる世界が執り行おうとしている儀式の正体は分かるでしょう」
「…………王家の魔力を用いた大秘法。創世の秘儀か」
「まず間違いないなく」
「何という……それが事実ならば、文字通り世界は消えるな。跡形もなく。いや、成功すれば自由自在に世界を作り変えることもできるだろう」
ウェスペルタティア王家に受け継がれる魔法の詳細は、世間には出ていない極秘情報ではあるが、さすがにコルドゥラほどの立場になればかなり真に迫った情報を把握していた。模倣すらできない血によって為される秘儀。魔力無効化能力という形で顕現するというその力を魔法世界全土に向けたとき、文字通り世界は消滅する。
「なるほどな。そこまで言われると、こっちとしても考えなくちゃいけないね」
「戦争に介入したと言われるかもしれませんが」
「馬鹿言っちゃいけない。戦争に介入なぞ、するものかよ。だけどね、世界がなくなりゃ、学問もなくなる。学問の盾を自負するうちとしちゃ、黙しているわけにもいかんわけだな」
もっとも、正式に完全なる世界と対峙するとなると、動かぬ証拠が複数必要となる。状況証拠だけでなく、『紅き翼』がこれまでに集めてきた映像、音声、書類の類を総合的にチェックする必要もある。他国の政治に関わらないというスタンスを取り続けてきたアリアドネーが戦争に口出しするとなると、内外からの批判も避けられないだろう。ならばこそ、完全なる世界の実在を示す確たる証拠が必要だった。軍を動かすにしろ、声明を発表するにしろ、必要な手続きを経ることは重要であった。
「とりあえずは信じていただけるようですね。安心しました」
「まあ、連合のナンバーツーがテロをしている明確な映像資料を出されるとね。ほかにもいろいろとあるんだろう」
「ええ。一つ二つではないですよ。何せ、有能な捜査官が友人にいますからね」
と淡く微笑むアルビレオではあったが、内心では五分五分の賭けに出たという感は強い。
永世中立を掲げるアリアドネーに両国の間に入ってもらいつつ、完全なる世界を告発する。一先ずは戦争そのものを小康状態にした上で、世の中の視線を敵対国から完全なる世界へ向ける。そうすれば、本格的に完全なる世界と戦える状態を作り出せることだろう。壊滅に追い込むには多大な時間を必要とするだろうが、現段階でそこまで視野に入れる必要はない。重要なのは敵の最終目標である儀式を止めることだ。
アリアドネーの助力は何が何でも欲しいところであった。
「検討に値する話ではあったな。ああ、クソッタレな戦争の闇ってのは知りたくもなかったがね」
口悪く言いながら、本気で頭を抱えるコルドゥラは、アルビレオの事ここに至っても平静でいる姿に内心で苛立ちつつ、魔法世界の今後を憂うのだった。
■
夜。
まだ明かりが消えきらない午後十一時過ぎ。
コルドゥラは自室でウィスキーを引っ掛けていた。酒に強いほうではないが、気に入らないことがあるとこうして酔いに身を任せるのが習慣となっていた。もとより長命種。人の何倍も時間があるから、健康などさして気にすることでもない、というのが自論であった。
頭にほどよい高揚感が湧いてきたところで、知った声に呼びかけられた。
「また、そんな強いお酒をお飲みになって」
それは秘書だった。
常に傍にいる彼女は、アリアドネーで学び育った優秀な人材であり、前総長の頃から秘書として活躍している。プライベート空間への出入りも特別に許可していた。
「別にいいだろう。今はプライベートだよ」
「ええ。ですが、お酒は身体によくありません。正常な判断を鈍らせ、肉体の反応を遅らせます。あまり、深酒が過ぎると大変ですよ」
まったく、と秘書は余ったグラスを盆に載せて戸棚の中に仕舞う。ダメだといいながらもボトルまでは奪おうとしない。何度注意しても止めないから、すでに諦めているのだ。
彼女は個人付けの秘書ではなく、総長という立場に付けられている秘書だ。だから、コルドゥラに何かあったとしても職を失うというわけではない。もちろん、そこまで対人関係がドライというわけではないが、危機感自体は低いのかもしれない。
「で、あんた何の用だい?」
「……先ほどの件」
「先ほど、ね。アルビレオの件かい」
秘書は頷く。
「どうされるのですか?」
「どう、とは?」
質問に質問で返す。
険しい表情で、秘書を見つめる。
彼女は、何も言わない。ただ、黙ってコルドゥラを見返すばかりだ。
「あんたには関わりがない、とは言わないがね。まだ、言うわけにもいかないことだよ」
「わたしはあなたの秘書なのに、ですか?」
「何のために人払いをしたと思ってんだい。人に聞かれたくないからだろう」
「彼は犯罪者です。その犯罪者の言葉を受け止められるのですか?」
「ここは犯罪者であろうと学ぶ意思さえあれば受け入れるとまで言ってる街だよ。まあ、アイツに学ぶ意思云々はどうかとも思うがね。重要なのはそこじゃあない。で、あんた、あたしが何を受け入れるって? あの男があたしに何を言っていたか、分かってるってことかね」
そもそも、彼女がアルビレオに異様なまでに警戒心を抱く必要性がない。だというのに、何故彼女はここまでアルビレオを敵視するのか。何よりも、彼女の口振り。人払いをして話をしていたその内容にまで理解が及んでいるというのだろうか。
ざわ、と室内に不吉な気配が充満する。
秘書の目がすっと細められた。
「……へえ、まさかこんな身近にいるとはね」
「……アリアドネーは独立都市。他国の戦争に肩入れをするべきではありません。騎士団の編成は考え直されるべきでしょう……受け入れられないというのなら」
秘書が杖を抜いた。
即座に光が舞って、コルドゥラを弾き飛ばす。
即製の魔法障壁が、その攻撃の大半を打ち消してくれたが、腰を強かに打ちつけることになってしまった。
「……この堅物め。ミクロな視点しか持てないヤツはマクロな流れに乗り遅れるよ。世界が崩壊してからでは遅いだろうに」
毒づきながら、護身用の杖を取り出したが、そのときにはすでに第二射が放たれていた。
咄嗟に飛び退くも、反応が遅れて足をやられた。
氷の矢だ。
爆発や光を放つ属性と違い隠密性が高く、殺傷性もある。急所に当たれば、弱い魔法でも致命的。魔法の矢だからと油断はできない。
「お酒の飲みすぎは身体に悪いと申し上げていたはず。普段のあなたならばともかく、アルコールの回ったあなたならば、わたしでもやれます」
「く……ッ」
氷の剣を装備した秘書が、コルドゥラに襲い掛かった。魔法の矢よりも威力が高く、即製の魔法障壁では斬り裂かれるだろう。
相手の狙いは心臓で、この一刺しで雌雄を決しようとしているのは明らかだ。それが分かっていながら、対処する術がない。数センチ先にまで至った死は、しかしコルドゥラに届くことはなかった。
漆黒の球体が秘書の頭上に突如として現れ、そしてその身体を押し潰したからだ。
「が――――ッ」
何が起こったのか、彼女には理解できなかっただろう。
奇襲に対処することもできず、秘書は意識を喪失した。
「やれやれ、半日も経たずに動きが出るとはさすがに想定外ですよ」
冷や汗をかきました、と魔法陣から現れたアルビレオが言う。
「女の部屋に無断侵入かい。誉められたもんじゃないね」
腰を摩りながら、コルドゥラが立ち上がる。痛みに顔を顰めてはいるが歩けないほどのダメージではないらしい。
「まあ、助かったよ。しかし、あたしも焼きが回ったかね」
傍にいた人物が謎の結社と繋がっていたとは思いもよらなかった。それは、コルドゥラの不徳であったか。
「まだまだ、頑張ってもらわないと困ります」
「ふん……」
嫌そうにしつつ、コルドゥラは衛兵を呼ぶ。
駆けつけたのは戦乙女たち。重い鎧に身を包んだ、アリアドネーが誇る自衛組織である。乙女からなる騎士団の団員は、秘書が倒れ伏しているのを見て驚き、アルビレオを視界に入れて息を呑んだ。
「アルビレオ・イマ?」
「『紅き翼』の?」
「何故、ここに……」
困惑の声が広がっていく。
それも当然であろう。アルビレオは反逆の汚名を着せられているのだ。それが、総長と親しげにしていれば戸惑いも当たり前である。
「あんたたち、そこに裏切り者がいるじゃないか。倒れてるほうだよ」
「え、あの。ですが、秘書官殿では……」
「そうだよ。あたしを殺しにきたのさ。どうにもきな臭い……とにかくこいつを取り調べるんだよ。アリアドネーが内側から攻撃を受けている可能性がある。非常事態宣言を出すから、さっさと吐き出させな!」
「りょ、了解しました!」
秘書を引き連れた騎士団が部屋から去っていく。
それを見送って、アルビレオが悠然と微笑んだ。
「中々に錬度の高い騎士ですね」
「お世辞かい? あんたから見れば、全員ひよっこだろうに」
「長く生きた私を基準にするのは、不公平でしょう。あの年頃で、あの錬度は中々ですよ」
素直に、アルビレオは言う。
一目見た限りではある。が、しかし、ヘラス帝国やメセンブリーナ連合の正規軍に勝るとも劣らない実力を有した魔法使いたちであることは一目瞭然であった。
「うちの者たちを戦力に数えるのは早すぎるよ」
「状況は切迫しています。多少、楽観的に考えさせてくれてもいいでしょう」
などと、話をしながらアルビレオは交渉の手応えを感じていた。
飛んで火にいる夏の虫とはこのことで、今回の襲撃はアリアドネー側に完全なる世界の存在を明確に認識させることとなった。迂闊な行動ではあったが、それは完全なる世界の構成員同士の意思疎通が機能していないことも意味している。巨大になりすぎた組織の弊害であり、アリアドネーの構成員の質は高いものではないのだろう。戦争への参加をしない、日和見主義が脅威の度合いを引き下げていたからだ。
そこに隙が生まれた。
今回の事件をきっかけにして、相手の牙城を切り崩す。そのための一手がここに成った。
フレのジャックちゃん強すぎ。星がボロボロ落ちるとか気持ちよすぎるわい。