テオドラとの出会いから七日が経過して、ジークフリートも多少はヘラスでの生活に慣れてきたところだ。
幸いだったのは食習慣が大きく変わらなかったことか。
彼は王族ではあったが、様々な冒険を乗り越えた冒険者でもあり大抵の食事は美味しく平らげる自信があったが、その覚悟を必要とするほどヘラスの人々の味覚はジークフリートのそれから乖離してはいなかった。
それはそうとして、食事というのは活力の源である。
如何なる食事も平らげるという覚悟と美味いものを食べたいという欲求は別物だ。
目にも鮮やかな食事に心動かされぬということはないし、庶民の食事ですらも古代を生きた彼からすれば物珍しい。
そもそも、現代の感覚からすれば古代のネーデルランドの食はかなり質素だった。
それに比べれば、世界のバラエティ溢れる食事の数々には驚かされるばかりだ。
今も、こうして下町に出て庶民の味を楽しむくらいには、ヘラスでの生活を堪能している。
無秩序な荒くれ者共が集う夜の飲み屋。
そのカウンターに腰掛けて、ジークフリートは酒を嗜んでいる。
テオドラを救ってから、ジークフリートは事件の関係者ということで当局の監視下に置かれている。もちろん、第三皇女の恩人であるということを考慮に入れて、待遇は極めて良い。首都から出ないで欲しいという要請を受けているだけで、それ以上干渉されるということもない。
当然か。
ジークフリートの実力云々の話ではなく、二度に亘って第三皇女を救った人間に辛く当たるのは世論の反発を招く。彼の身元がはっきりしないからこそ、こうして最低限行政がするべき対応を取っているに過ぎない。そもそも、これも戸籍に乗っていない正体不明の人間が第三皇女の命を救ったという異例の事態に行政がついていけないのが問題なのだ。
それを、ジークフリートは仕方のない事として鷹揚に受け入れている。
今は戦時中だ。背景のはっきりしない人間を軽々しく信用はできないだろう。ましてやテロに狙われた皇族の身辺に侍るような護衛職を、ただの恩人にさせていいはずがない。
ジークフリートに与えられたのは衣食住と当面遊んで暮らせるだけの金銭。そして、感謝状と勲章という栄誉であった。
当面の生活はこれで保証された。
だが、それだけではジークフリートという男を満足させるには至らない。
確かに、生活が安定するというのはよいことだが、彼はどこででも生きていける自信がある。金銭についても何とかなる。金銭には困らぬ人生を幸運の代償に約束されているからだ。あるいは、今回の突発的な収入も自身にかけられた逃れ得ぬ運命の導きだったのかもしれない。
金があれば生活には困らない。
よって、ジークフリートはそういった点について思い悩む必要がなく、ただただ自分の在り様に問いを向ければいいのである。
まだ理解しきれていないこの世界のこと。
魔法が一般に普及し、生活の中心となった新世界と魔法が公にされておらず、科学技術によって発展する旧世界。
ヘラスの国営図書館で旧世界について調べてみると、自分の知っている世界と瓜二つであることがはっきりした。
西暦では一九八三年なので、ルーマニアに召喚される二十年ほど前ということになろうか。
あるいは、この世界は自分が“黒”のサーヴァントとして召喚された世界と繋がっているのではないか。そう思いもしたが、魔法の性質が根本から異なることを考えると、やはり完全な異世界、あるいは並行世界にやってきたと考えるほうが自然であろう。
いずれにしても、この三ヶ月ほどの間に怒涛の如き驚愕の日々を過ごしており、自分の置かれている状況をきちんと把握できないまま時が過ぎている感がある。
酒――――竜の心臓を持ち、竜種の体質を有する彼はそう容易く酩酊できるものではない。アルコールの風味と飲み物としての味わいを楽しむことが精々であろう。
とはいえ、こうしてカウンターに一人座っているのは、世界を見るためでもある。
酔った頭では、考えを纏めることもできないのでむしろ都合がいい。
「ゴロツキ」たちがところどころで大きな声を発している。
酒を飲み、トランプで賭けをして、笑い、怒り、楽しんでいる。なるほど、これも一つの平和の証。優雅さに欠ける風景ではあるが、むしろこのようなごくごく当たり前の雑踏こそがジークフリートの性に合っている。そんな気がする。
ウォッカを舐めるようにしつつ、密かに背後の気配を探る。
自分を監視する複数の視線があるのが気にかかるが、十中八九帝国の人間だろう。誰が彼を監視する任についているのかということは当然ながら知らされていないが、監視しているという事実が伝えられただけ、まだ配慮はされているのだろう。
数は三人。
客として一人、店の外に二人だ。
――――一人、増えたか。
店の外でもう一人合流したようだ。気配はそのまま店の中に入ってきて、ジークフリートの隣の席に座った。
短い黒髪のスーツ姿の女だった。
身長はさほど高くはなく、むしろ平均よりも低いくらいだが引き締まった細身の体形で姿勢もいいからか、比較対象がなければ高身長に見えるだろう。
ややつり眼がちで、真面目、冷淡といった印象を受ける。
だが、何よりもジークフリートの目を引いたのは彼女の足運び。
重心にぶれがなく、極めて自然な足取りだ。身体のゆれも少ない。こうして隣に座っていながらも、いつでも全方位に対処できる。そのような意識をしていることが窺えるのだ。
「帝国の方か?」
ジークフリートは小さく尋ねた。
「分かりますか?」
「隠したいのであれば、わざと足取りを乱すのも手だ」
「……なるほど、御見それしました。テオドラ様が、あなた様を一流の武芸者だと仰ったのは事実だったようですね」
「腕に自信はあるが、買いかぶりが過ぎる」
からん、とグラスの中の氷が音を立てた。
「すみません、わたしもこの方と同じ物を」
と、隣の女性はバーのマスターに頼んだ。
「公務中では?」
「ここに来て飲まないのは不自然かと」
「なるほど」
そういうものか、とジークフリートは納得する。
「それで、俺に用があるのではないのか?」
「はい。……まずは自己紹介からさせて頂きます。わたしは、ヘラス帝国騎士団第三皇女付第二警護隊にて隊長を勤めておりますアレクシア・アビントンと申します」
「ジークフリートだ。肩書きらしいものはない」
簡単な自己紹介だ。
ジークフリートが言うように、名乗るべき肩書きはすでにない。
かつてを振り返ればネーデルランドの王であったり、“黒”のセイバーであったりと名前以外の肩書きがあったのだが、それらはこの世界で何の役にも立たない。
ただ剣を振るうことしか脳のない流浪の旅人。それが、今のジークフリートである。
ちょうどこの時、アレクシアの元にウォッカが届いたので、ジークフリートは改めて尋ねた。
「俺は監視下に置かれているが、わざわざ話しかけてきたのは理由があるのか?」
まさか、話してみたいなどという個人的な事情ではないだろう。
「そうですね。まずは、お礼を。テオドラ様の窮地を救ってくださいまして、ありがとうございました。本来であれば、我等が動くべきところを誠にお恥ずかしい限りです」
「偶然居合わせただけだ。めぐり合わせに過ぎない」
「それでも、あなたがいなければどうなっていたか分かりません。敵に内通していた者どもについてはすでに手配が回っておりますが……」
「警備隊と言ったか。テオドラは……」
「その話はここでは」
「ああ」
世間には第三皇女付きの警備隊に裏切り者がありテオドラを狙ったテロに関与したとして指名手配がされている。しかし、詳しい事情は非公開だ。どこに耳があるか分からないところで、非公開情報を口にするわけにもいかないだろう。
「貴女が率いているのは第二警備隊。第一、第三もあるということか」
「そうですね。現在は第三まで。ですが、これも事件があって本来一つの警備隊を三つに分割しただけですので、今後も再編があるかもしれませんね」
テオドラの身辺を警護する職である第三皇女付警備隊は総勢六〇名からなる精鋭部隊。裏切り者を出したということで徹底的な身辺検査が行われ、再編されて一隊二〇名からなる三つの部隊に分割されたのだという。
「第一皇女様、第二皇女様についても同様です。内憂に精神を裂くのは愚かしいことですが、重要ですからね」
「ここに貴女がいるのも、テオドラ姫の関係ということか」
「そうです。あなたに正式に騎士の職に就いていただきたいというお願いに参りました」
「どこの誰とも知れぬ輩だぞ」
「ご存知の通り、あなたに関しては我々も調査は行いました。三ヶ月の間の資料しかなく、空白期が余りにも多いのが問題と言えば問題ですが、黒竜退治の件やテオドラ様を救出された際の圧倒的な実力もあって、帝国政府としても協力を願いたいという結論になりました」
どうやら集落での黒竜についても調べがついたようだ。
これまでどこで何をしていたのか、という点についても話をしていたから現地で聞き込みなどの調査活動がされたのだろう。ジークフリートを騎士団に取り込むのなら、彼の人となりや前半生を知る必要がある。戸籍に乗っていない以上、人づてでの情報収集を図るほかない。
そして、今になって接触してきたことを考えると、その調査活動も終わったということなのだろう。
「仮に俺が騎士の職についたとして、どのような職務に励むことになるのだ?」
「まずは第三皇女付警備隊に勤めていただきたいと思っております。給金についても十二分にお支払いいたしますし、その他手当ても取り揃えております。契約は書面で結びますが、契約の精霊を間に挟み、強制力を発生させます」
魔法を使って契約するということは、真っ当な方法で契約を違えることはできないということだ。
ジークフリートにその契約の魔法が通じるかどうかは甚だ疑問だが、この契約は使用者と被使用者に同時に結ばれるもの。つまり、給金を不当に支払わないなどの雇い主側の不正を禁ずる意味もあるので、使用者側からすればかなり重い契約と言えるだろう。
契約内容についても簡単に聞いたが、非常に好待遇だ。
この辺りの物価を考えても、かなりの高水準の生活を営むことができるだろう。
だが、――――第三皇女付というのが気になるところだ。
「テオドラ姫の警備を担当することになるはずだが、流浪の人間をいきなり引き入れてよいところか?」
「それについては、方々に話を通す必要があるのは事実です。しかし、陛下の心象がいいこともあり、まず受け入れられないということはありませんし、信用の置ける者を個別に雇い入れる権利をテオドラ様はお持ちです」
「だと言うのなら、貴女の先の言葉は少々拙速だ。未だ帝国政府としては俺を雇い入れる件について了承しておらず、その可能性があるにしても審議中といったところだろう。貴女がここにいるのは、どちらかといえばテオドラ姫の意向なのではないか?」
「ッ……その通りです。誤解を招く言い方をしてしまいまして、申し訳ありません」
「謝らなくてもいい。契約の内容がそれで変わるわけではない。テオドラ姫が個人で契約を結ぶ権利があるというのならば、なおのことだ」
例え、上がジークフリートの採用を見送ったとしても、テオドラが認めれば第三皇女付警備隊には入ることができるのだ。ただし、その際は帝国騎士団員としての契約ではなくなるが仕事内容に違いがあるわけではない。転属などが存在しないという点に違いがあるくらいだろう。
「ありがたい申し出だ」
ジークフリートは言う。
自分の力を認めてもらえるというのは、本当にありがたい。
「だが、その申し出を受けることはできんな」
「理由をお聞きしても?」
「俺は確かに水準以上の力を持っていると自負している。だが、その一方で貴女方からすれば過去が分からぬ不審者でもある。そのような者を受け入れるのは、仮に権限があったとしてもするべきではない。それは内部の不和に繋がるものだと俺は思っている」
ジークフリートの圧倒的な実力を、テオドラとその関係者の一部しか知らない。言葉では聞いても実感が伴っていないのだ。もしも、実感を以てその実力を判断していたのなら、テオドラの使いだけがこの場に来るというのはありえない。なんとしてでも味方に引き入れようとあの手この手を使うだろう。
テオドラの陣営に入ってからジークフリートの実力が評価されることになれば、皇女間のパワーバランスが一挙に崩れることになる上、第三皇女付警備隊の中でも一部の隊が突出することになってしまう。それでは軍としての機能にすら支障を来たす。
これが、他の実力者ならそのような心配はいらないのだ。
英霊ジークフリートだからこそ、このようなありえないほどのバランス崩壊が現実のものとなる可能性を含有してしまう。そして、それが表面化したとき、危険に晒されるのはテオドラのほうだ。
「宮廷内での力関係にも気を配るべきだ、彼女は」
ウォッカをさらに一口、口に含む。
「なるほど。大した自信ですね」
とアレクシアは言った。
「つまり、あなた一人で帝国の騎士団に多大な影響を与えることができると」
「そこまでは言っていない。だが、そう受け取る人間がいる可能性があるということだ。別の言い方をすれば、付け入る隙を与えることになるとも言えるだろう」
実力で排除できるのであれば排除しよう。
力を示すことで悪しき風聞を打ち消せるのならば打ち消そう。
だが、ある種正しい理屈がある場合それをただ力で押さえつけるのは危険だ。
ジークフリートが、何の後ろ盾もない流浪の民であることに変わりなく、そんな人物を皇女の傍に置くのは痛くもない腹を探られることに繋がる。ましてや、ジークフリートが常軌を逸した力の持ち主だったのなら、それはテオドラを不幸にするかもしれない。
「あなたのご意見は分かりました。ですが、わたしも納得がいかない部分もあります」
「仕方ないだろう」
「はい。ですので、お願いがあります。不躾ながら、手合わせを願いたいのです」
「唐突だな」
本当に、唐突だ。
「わたしも帝国騎士の端くれです。テオドラ様に力を認めていただき、こうして今の地位に上がることができました。同じくテオドラ様に力を認められたジークフリートさんの実力を肌で感じてみたい。これは、個人的な興味です」
彼女は言葉を区切り、グラスに口を付ける。
「それに、仮にあなたをわたしが倒せれば、あなたは帝国内部の力関係を気にする必要もなく入隊できるかもしれません」
一人で無双の強さを発揮できるのならば、確かに第三皇女という継承権で見ても下位に位置する姫が個人で有するには危険であろう。
だが、そうでないのならば野良を一人拾ったところでいい拾い物をしたという程度で済むだろう。
どちらに転ぶかはジークフリートの力次第と言ったところだろう。
「どこまでも職務に忠実な方だ」
と、ジークフリートは苦笑する。
何とか、ジークフリートと引き入れる理由を作ろうとしているのだ。テオドラの命を果たすためだろう。
「その話を受けるとする。正直に言えば、俺は魔法には疎くてな。魔法戦闘に興味があった」
「決まりですね。人目を憚りますので、この足で演習場に向かってもよろしいですか?」
「構わない。どの道、夜は手持ち無沙汰だからな」
店の閉まる夜間は剣を振るか、寝るか、本を読むかのどれかしかないのが今のジークフリートの生活だ。
魔法戦闘を体験できる機会を逃すのは、惜しい。
そう思った。
■
支払いを済ませた後で、アレクシアと彼女と合流した部下を交えてヘラス帝国騎士団所有の演習場にやって来た。
郊外にある広大な敷地の演習場は、「演習に使用する平野部」と言うべきもので、ローマ帝国が有した史上空前の大建築コロッセオのようなスタジアムではなかった。
夜間、それも個人のためにそのような施設を使うわけにはいかないと分かっていながらも、少しばかり期待していたので残念だった。
一キロほど離れたところに、ヘラスの町明かりが見える。不夜城と言うに相応しい都市の明かりが、夜空の星々を打ち消し、浮かぶ雲を照らし出していた。
ああ、この光景ですらジークフリートにとっては珍しい。
「軍事演習に使用する平原です。軍が使わないときは一般にも開放して、様々な催し物をしているのです」
と、生真面目な口調でアレクシアが説明した。
個人の戦闘ではなく、軍団規模の演習を行うための場。
魔法使いの戦いは往々にして派手になりがちだ。人目を憚るという意味もあるが、周囲への配慮もあるのだろう。
「確かに、ここならば多少派手な魔法を使っても問題にはならないだろう。手合わせをするには、いい環境だ」
ジークフリートは周囲を観察して、そう言った。
背後に街明かり、前方には遠く見える黒々とした連山。そして、見渡す限り続いていく草原。下草は芝ほどの長さしかなく、ところどころに背丈のある植物が寂しげに自己主張している程度。足場はしっかりとしていて、踏み込みに問題を生じさせることはないだろう。
つまり、戦う分には何一つ障碍がなく、敗北の言い訳は成立しない。
「あなたたちは離れて、結界を張ってください。市民に迷惑をかけないように」
アレクシアに命じられた部下は、素早くアレクシアとジークフリートから距離を取り、魔力を振り撒いた。淡く輝く魔力光が魔法陣を描き出し、防音と対魔法、対物理障壁を形成した。
一〇〇メートル四方の不可視の壁に囲まれたジークフリートは、その異質な魔法に見惚れる。
なるほど、この魔法は見たことがない。やはり、この世界は未知に溢れている。
「これで、流れ弾で市民に危害が及ぶこともありません。もっとも、一番違い住宅まで一キロは離れていますからその心配は少ないのですけどね」
けれど、何事も注意しておくに越したことはない。
それに、この場合最も苦情の要因となるのはやはり騒音なのだし。
「この結界の中で手合わせというわけだな」
「そうなります。ルールは……」
「先ほど聞いたことに変更がないのならば、問題はない」
まさか、本気を出して戦うわけにはいかない。
ルールに則り、安全に配慮しつつ戦わなければならない。
勝敗は戦闘継続不可能の状態に追い込まれるか敗北を認めることで決する。
死に直結する大規模攻撃魔法や障壁貫通効果付与の使用は厳禁。
呪詛の類も同じく厳禁。
そうでないのならば、ある程度の怪我は治癒魔法で治療可能ということで容認される。
それが、今回の手合わせの内容だった。
「分かりました。それでは、始めましょうか」
アレクシアは魔法を使ったのだろう。スーツから動きやすい軽装に一瞬で衣服を変えた。
「騎士団で使用している修練用の服です。身体強化などの魔法は仕込んでませんよ」
不正を疑われることを嫌ったのか、わざわざ説明してくれる。魔法が込められた武器の使用も許容範囲内のはずだが、事前に申告していないと反則だという認識なのだろうか。
武器は刃を潰したという訓練用の槍。それ自体が魔法の発動媒体にもなっているという。
小柄な女性が振るうにはさすがに大味が過ぎる武器だが、これが彼女が持つと存外しっくりする。
槍使いと戦うのは、久しぶりだ。
無論、かの大英雄と比較すれば劣るのは当然だが、彼女の立ち居振る舞いには厳しい鍛錬に裏打ちされた武の気配を感じる。
ヘラスの騎士は、魔法のみならず武術についても鍛錬を欠かしていないというのが、ジークフリートにとって嬉しい誤算だった。
アレクシア・アビントン。
戦闘能力の格付けはBB+とかなりの高評価を受ける魔法騎士だ。未だ十代ながら、要職を任されたのもその将来性を期待されてのこと。
そして、自分の実力には過不足なく自信を持っている。
ジークフリートというテオドラのお気に入りに対して、興味とわずかばかりの嫉妬を抱いているのは認めざるを得ない。
彼の実力を見極める。
それもまた、今宵の仕事の一つ。
対峙する青年――――ジークフリートはこちらで用意した一メートルばかりの訓練用刀剣を手に悠然と立っている。
彼我の距離は一〇メートル弱。
身体強化の魔法を使えば、ものの一歩で零にできる程度である。
「いきます」
わざわざ宣言したのは、不意打ちを言い訳にされたくないから。
魔力を身体に流し、発動する身体強化。陽炎のように光が全身を覆い、そして会心の瞬動で八メートルを跳ぶ。
リーチの長さと瞬動の速度を活かした刺突。
胴体を狙った一刺しをジークフリートは難なく剣で逸らす。
――――やはり。
剣を持ち、対面したときからその強さを感じていた。
彼は生粋の剣士であり、近接戦に於いては比類ない力を持っていると。理屈よりも先に本能が理解してしまう。こうして槍を打ち込んでも、表情一つ変えずに剣で打ち払ってくる。これだけでも相手が加減しているのが否応なく伝わってくる。
――――焦るな。
自分に言い聞かせる。
戦場に於いて、格上と戦うことは珍しくない。
怪物的な実力者ならばともなく、アレクシアは最強格の戦士ではないのだから。それを自覚しているが故に、油断なく手を変え技を変えて敵を倒す。槍術は得意としているだけで、他に脳がないというわけではないのだ。
「……
雷撃を槍に纏わせたことによる、突破力の向上。閃電による目晦ましも兼ねる。近接高速戦闘に於ける目晦ましは、極めて効果が高い。卑怯などとは言うまい。魔法戦闘とは、殴りあうだけではないのだから。
鋭い刺突は、しかしそれまでのフェイントを織り交ぜた技巧的なものではなくただ愚直な突き込みだった。
あからさまに高威力の攻撃に対してジークフリートがどうでるか。
魔法で防ぐか。
それとも躱すか。躱すとしたら左右どちらか。あるいは後ろに下がるか跳ぶか。
どう対処する。
何通りもの行動を予測していたアレクシアであったが、ジークフリートが実際に取った行動はさすがに想定外だった。
剣で受けることもなく、また避けることもなかった。
彼は左手を突き出して、アレクシアの槍を手の平で受け止めてしまったのだ。
――――馬鹿な。
という叫びを飲み込んだのはさすがと言っていいだろう。
雷撃で強化された武器だ。如何に刃を潰してあるとは言っても、その威力は肉を抉るには十分だった。治癒術の存在を前提にして強化だったのだから。それを、素手で止めるなど常軌を逸している。驚くべきは魔法障壁すら張っている気配がないことだ。彼は自分の肉体の強度のみで、アレクシアの雷撃槍を完全に封殺している。
驚愕は隙となり、ジークフリートの反撃を許すきっかけとなった。
右手に軽く握られた剣が一閃。
魔力風を纏った剣がアレクシアの小さな身体を押し返す。
「く……ッ」
バランスを崩さないようにバックステップをするアレクシアは憎憎しげに歯噛みする。
「わざと、外しましたね」
「気のせいだろう」
と、いけしゃあしゃあと言う。
彼の実力ならば、至近で動きを止めたアレクシアの胴を薙ぐくらいは簡単だっただろうに。
「しかし、見事な槍だ。それに、先ほどの踏み込み。噂で聞いた瞬動というものか」
「ええ、近接戦の基本です。あなたは、ご存じなかったのですか?」
「知ってのとおり、教えを請う相手もいなかったのでな」
「ああ、なるほど」
ジークフリートほどの戦士ならば使えて当然だとばかり思っていた。
しかし、彼の経歴を見る限りその力は独学によって成り立ったもの。当然、技法という面では未熟な点もあるのだろう。それで、この強さなら、まだまだ発展性があるということでもある。末恐ろしいことだ。
だが、それならばアレクシアにも十分に勝機がある。
彼は魔法についての理解が浅く、瞬動も初見だという。
それらはアレクシアが当然のように修めている技法である。技という点でアレクシアはジークフリートの上位にあり、それらを駆使することで彼を翻弄できるかもしれないという希望がある。
その希望を、ジークフリートはあっさりと覆す。
瞬きの間に、ジークフリートがアレクシアの隣に移動していたからだ。
「な……!」
気付けたのは、単に彼が攻撃してこなかったから。
「なるほど、瞬動か。魔力を用いただけの体術ならば、まあ、この程度か」
などとジークフリートは嘯く。
その言葉は、アレクシアではなく自分に対して言い聞かせたものだろう。
アレクシアは咄嗟に瞬動で距離を取った。
冷や汗が止まらない。
「すばらしい瞬動ですね。入りも抜きも、実に……見事でした」
そう評価せざるを得ない。
気配すらも置き去りにする速過ぎる瞬動術。
認めるしかない。この男は、こと体術という点に於いて帝国最強クラスの怪物だと。
ジークフリートもまた驚愕している。
目の前の少女――――アレクシア。若くしてすばらしい戦闘技能の持ち主だ。無論、それはジークフリートに届くものではないが、それでも並の兵では太刀打ちできないだろう。この世界ではどうか分からないが、彼が生前に率いた兵の中でも上位に入ることができるのではないか。
魔法を多用する戦闘というのは、それだけ脅威度が跳ね上がるのだ。
今も、雷の斧がジークフリートに叩きつけられる。
魔術的な防御がなければ、一撃で勝敗が決するような強力な魔法だ。
しかし、叩きつけられる雷撃も『
晴れた粉塵の中から無傷のジークフリートが現れるのを、見越していたのだろう。さらにアレクシアが怒涛の攻撃を仕掛けてくる。
「闇夜切り裂く一条の光、我が手に宿りて敵を喰らえ――――
アレクシアの右手から迸る雷光がジークフリートの身体を打つ。
だが、それも効かない。
すでに十を越える雷撃魔法を直撃させていながら、彼の身体には傷一つつかない。
要塞の如き堅牢さで数多の敵の攻撃を封殺する伝説の肉体。ジークフリートの代名詞たる、不死身は固すぎる肉体という形で顕現している。
肉体に付与された力であるために、自分の一存で制限するということも儘ならない。彼女には申し訳ないが、大魔法ですら傷を与えることができるか怪しいジークフリートの肉体に試合のルールの中でダメージを与えるのは土台無理な話なのだ。
そして、ジークフリートの特性はその肉体の頑強さだけに留まらない。
積み重ねた武威は、齢十九の少女では決して辿り着けない高みにある。
天性の才能は瞬動を初見で高い水準で再現することを可能とした。もとより人間を越えた身体能力を持つが故に、ただの瞬動も速度からして桁外れとなる。もちろん、ただ速く動くだけならば瞬動を使う必要すらない。ただ、思いのままに一歩を踏み出せばいいのだから。
ジークフリートの踏み込みに、反応できたのは彼女の才覚故だろう。
「
ジークフリートの斬撃を、アレクシアの不可視の障壁が受け止める。無詠唱ながらも高い精度で編み上げられた風の障壁は、十トントラックの追突にすら耐えるという。
傷付けぬように加減したジークフリートの斬撃であれば、これで止めることはできる。
「ああっ!!」
アレクシアは槍を振るった。この剣の間合いでは威力に期待をすることはできない。しかし、ジークフリートの速さを考えれば、逃れること自体が難しい。何かしら、彼の気を逸らす程度の隙を作らなければならない。その槍をジークフリートは剣で受けることもなく、ただ絡め取り、打ち落とした。
「ッ……!」
そこから先をアレクシアが理解することはできなかった。
ただ、気が付けば尻餅をついてジークフリートに剣を突きつけられているという状態だった。それが、ただ単に転ばされたというだけのことなのに、意識の間隙を突いた巧みな技の前に呆然とすることしかできない。
「これで、負けを認めてくれると助かるのだが」
と、彼は困ったように言った。
ジークフリートは初めから本気を出すつもりは毛頭なく、ただ魔法戦闘とはどのようなものかと計るつもりで戦っていたのだ。そのため、アレクシアがここまで喰らい付くことができたが、その気になれば瞬時に終わらせることも難しくなかっただろう。
手を抜かれたことについては悔しいが、それも実力の差があったからだ。
事ここに至って敗北を認めないほど、アレクシアは子どもではない。
「ええ、はい。分かりました。わたしではあなたには勝てないようです」
頷いて立ち上がる。
実力の差は明白で、言い訳の余地はまったくなかった。
不自然なまでの肉体強度とアレクシアとは比較にならないほど高いレベル剣術を併せ持つ移動要塞。そういう印象を受けた。
「確かにあなたほどの実力者を姫様の一存だけで引き入れるとなると風当たりも厳しくなりそうです。上がきちんと結果を出すまでは、早まったことはしないようにするのが賢明ですか」
ジークフリートもテオドラの立場を慮ってくれている。
人となりについても問題はないので、是非ともテオドラ派に引き入れたいところだ。とはいえ、今は戦時中。宮廷内の権力闘争を意識して、外患をおろそかにしては元も子もない。
ジークフリートという強大な力が敵に渡るのは阻止しなければならないが、敵対しないのであればそれでもいい。勝ち戦ということもあり、不要な波風は立てないに越したことはないのである。