正義を目指す竜殺し《完結》   作:山中 一

8 / 30
第七話

 メセンブリーナ連合がグレートブリッジを落として一ヶ月が経ち、戦況は刻一刻と変化し続けている。勝利を間際にした大敗戦がヘラス帝国に与えた衝撃は大きく、立て直す間もなく連合による大攻勢を受けて目下のところ常時劣勢といった状態だ。

 国民世論も厳しく、景気は悪くなる一方だ。

 首都が攻め落とされるのではないか。

 そのような噂まで囁かれるようになり、戦場になりうる前線付近では戦争難民や疎開者の南部への移動が日に日に活発になっており、受け入れ先との間のトラブルも報告されるほどになっている。

 国家として戦争で追い詰められているわけではない。

 実際のところ、戦力は拮抗している。

 だが、それでも士気で負けている。国内に漂う厭戦気分がそれに拍車をかけている。

 この日は前線付近の村が一つ焼け落ちた。

 連合の部隊の一つが、帝国の前線基地を要していた村を強襲したのである。帝国軍としてもこの村を見捨ててはならないことは分かっている。だが、彼我の戦力差を考慮すると、とてもではないが守りきれない。敵軍は重巡洋艦五隻と魔法使いからなる強襲部隊だ。通常の編隊から外れた構成は攻略を急いだからか功名心ゆえの暴走か。

 あるいは連合であるが故に盟主の意向を無視した戦いを始めた勢力がいるのかもしれないが、帝国軍と共に後方に逃げることができたのはごく一部の者だけだった。

 多くは村に取り残され、敵の襲来に逃げ惑うことしかできない

 どさくさに紛れての人身売買なども常習化しており、戦場の治安は完全に崩壊していた。

 逃げる少女を追うのは、連合の兵士だ。

 正規兵ではなく傭兵。

 最前線に送られる彼らは危険な任を受ける代わりに多少の不義を見逃される。

 こうして、捕らえた少女の角に刃物を向けるくらいはなかったことにされるのだ。

「ひ、あ、は、離して……」

 震える少女に向けられる視線は人に向けるものではなく、商品に向けられるものだった。

 命としてすら見られていない。

「ちょこまかしやがって」

「やっと捕まえたか。こいつらの角は高く売れるからさっさと取って引き返そうぜ」

「こいつどうする?」

「さすがに船に持ち帰れねえだろ。戦利品だけでいいんじゃね?」

 などと、口々に言う。 

 なまじ言葉が分かるだけに狂気の度合いも伝わってくる。少女は自分の運命を推測するまでもなく理解させられてしまうのだ。

「じゃあ、まずは右から取るぜ」

「綺麗に切れよ」

「分かってるって。俺様のテクを見せて――――ぷろぼあっ!?」

 今まさに少女の角を切り取らんとしたとき、連合兵は顔面に殴り飛ばされて宙を舞った。

「あ、な、なんだ、てめえは!?」

 剣を抜き、杖を構える連合兵。

 少女を庇うように立った男はフードを脱ぎ、身の丈ほどの大剣を肩に担いだ。どこからともなく現れた男の顔を見て、有頂天だった連合兵も青褪める。

「て、帝国の竜殺しか」

「『紅き翼』とたった一人で互角に渡り合ったって言う……」

「な、なんでそんなのがこんなとこに……帝国軍は撤退したんじゃないのかよ!?」

 その姿を見るだけで、すっかり相手は萎縮してしまう。

 この一月の間に稼いだ戦績のおかげだろう。もっとも、ジークフリートは決して帝国兵というわけではなく、あくまでも流浪の剣士でしかない。

「退け」

 ジークフリートは低い声で呟いた。

 遠く丘の下の平地には赤々と燃える家々があり、路上に連れ出された人々もいる。不用意な虐殺には及んでいないようだが、それでも力のない人々に対してこの所業は許し難い。

 だが、自分に言い聞かせる。

 恨みつらみでは剣を執らぬと。

 だからこそ、まずは敵に撤退を勧告するのだ。

「は、……ハッ、何が退けだ。一人でのこのこ現れやがって!」

「コイツの首にはばかみてえな額の賞金がかけられてる! 俺たちは、幸運だぜ!」

 この連合兵は賞金稼ぎ崩れだ。

 金に目の色を変えて進んで戦場に足を運ぶ傭兵。

 連合に度々敵対し、その進軍を阻んできたジークフリートに対して、連合側は多額の賞金をかけた。帝国が『紅き翼』に賞金をかけているのと同じようにだ。

「なるほど」

 それだけ聞けば十分だ。

 たった一人と彼らは言うが、たったの五人でジークフリートをどうこうできると思うほうが間違いだ。

 勝負は一瞬、連合に組する賞金稼ぎは為す術なく叩きのめされる。

 目で追えるものでもなく、誰一人としてその結末を認識することもなかっただろう。

「あ、あの、あの……」

 救われた少女は弱弱しく話しかけてくる。

「今は無理に話す必要はない」

 ジークフリートは言う。 

 少女は脅えたのかびくんと肩を震わせた。

「まったく、そのような言い方をするから怖がられるのです」

 そこに響くのは透き通った女性の声だ。

 木陰から現れたのは、アレクシアだった。

「アレクシア。その子を頼む」

「もちろんです。あなたは」

「あの村に行く。移送の準備をしておいてくれ」

 とだけ伝えて、ジークフリートは風のようにその場を去った。吹き荒れる烈風を纏い、たった一人で見捨てられた村に飛び込んでいくのだ。

 その背中を見送って、アレクシアはため息をつく。

「まったく、一人で先行するのは悪い癖です」

 頭痛がするとでも言うように額を押さえてから、仲間に念話をする。

『ジークフリートが村に救援に向かいました。船のエンジンを暖めておいてください』

 森の奥に小型の輸送船を三隻隠している。ここに残された住民を救出し、連れ出すには十分だろう。

『ジークの援護は?』

『出してください。援護ではなく住民の安全確保のためにです』

 ジークフリートの呆れた強さならば、この程度の敵、軽く捻るだろう。よって、必要なのは彼への援護ではなく住民を無事に連れ出すための護衛だ。

 莫大な魔力が地上を舐め、空中の敵艦の精霊エンジンを斬り裂いていく。人間砲台の渾名は伊達ではない。ジークフリートがいれば、輸送船ですら艦載砲を積んでいるに等しいとまで評される馬鹿火力が、瞬く間に敵艦を沈黙させていく。

 空が落ちれば、地上の敵兵は帰る術を失う。

 それが分かっているのだろう。一隻だけは、あえて傷付けずにいる。

 この村は終わった。

 ジークフリートが奮戦したところで、それは変わらない。連合を撤退に追い込んでも、帝国にここを守る力はなくその必要もないのだから。

 

 

 

 ■

 

 

 

「まったく、何度も言うように一人で突っ込んでいくのは止めてください。今回は予定を早めただけで済みましたが、移送の準備だってすぐにできるとは限らないのです」

 金魚を象った輸送艦の中でジークフリートはアレクシアに小言を言われている。

 無理もないことだとは思う。

 少女の危機を救うためとはいえ、彼女たちを置いて疾走したのは自分だ。

「まあまあ、AAもそんなに目くじら立ててると老け顔になるぜ」

「だ、誰が老け顔ですって!? あとその呼び方をするな阿呆!」

 キッとアレクシアは、操縦桿を握る青年に鋭い視線を向ける。

 帝国技官のコリン・ガードナーである。

「何にしても、おかげで四十四人の命を救えたんだし万々歳ってことでいいんじゃないっすかねぇ?」

「それとこれとは話が違います。この船に関連する費用も人件費もすべてテオドラ様がご負担されているのです。それを思えば無駄は許されません」

 ぴしゃり、と操縦士に言い切る第三皇女付警備隊隊長。現在は一時的に警備隊を離れ、ジークフリートを監視する臨時監査官として四六時中彼の行動に目を光らせている。

 『紅き翼』に対して優勢に戦闘を進めたジークフリートの存在は一躍表舞台に知れ渡った。

 正規兵として雇おうと、幾度も交渉が持たれたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。帝国の正規兵になるつもりはない。ただし、帝国の不利益になるような真似もしないと。

 もちろん、グレートブリッジを落とされた今ジークフリートの力は喉から手が出るほど欲しいところだ。その上、彼がジャック・ラカンのように敵に就けばいよいよ帝国は危うくなる。ジークフリートへの刺客の派遣すらも一時は視野に入れられたのだ。

 幸いにしてジークフリートは本当に帝国側に敵対の意思はなく、激戦地を巡っては虐げられる人々に手を差し伸べることをこそ望んでいた。そこに目を付けたテオドラが、ジークフリートのパトロンとなり、帝国兵を一時的に監視者兼サポーターとして就けるという形を取ることで上からの追及を逸らしたのである。

 帝国は見捨てなければならない地域に率先して足を運び、踏み入ってくる敵を跳ね返しながら住民を救出してくれるジークフリートを都合よく利用しており、連合側は『紅き翼』と同等以上の実力者がどこから現れるか分からないということから前線に出る兵の間では恐怖の代名詞としてその名が知られている。

 竜殺し。

 いつの間にか、そのように呼ばれるようになった。

「ま、実際ジークは連合の船いくつも潰しているわけで、それだけでも大戦果っすよ。これが、実質この船の維持費だけでできてんだから儲けモノでは?」

「ぐ、む……」

 生真面目なアレクシアも、そう言われるとそれ以上ジークフリートに苦言を呈することはできない。

 彼は帝国の命令を受けて行動しているわけではないが、実際に帝国に多大な利益をもたらしている。住民の救出を第一としながらも、時と場合によっては敵の船を落としたり、拠点を叩いたりと右に左に大忙しだ。たったの一月で、国内外に広く名前が知られるようになったのも、彼が無償でもっとも危険な戦場に身を置いているからである。

 となると、あまり口うるさく言うのは気が引けるには引ける。しかしながら、ジークフリートを監視監督する立場としては、聊か勝手な振る舞いをされるのも困る。

「アレクシアの言に間違いはない。事実、俺が先走ったことで少なからぬ迷惑をかけている」

「……んん、まったくです。以後気をつけてください」

「肩肘はってんね、AA。俺が揉み解してやろうか?」

「セクハラは軍法会議にかけるべきですね」

 冷厳とした目つきで剣を構えるアレクシアに、へいへいとコリンは肩を竦めた。

 ジークフリートの活動を支援し、同時に彼の行動を監視上層部に報告するための特殊部隊というべきか。基本的に十名にも満たない少数部隊――――元々は第三皇女付第二警備隊として組織されようとしていた部隊をそのまま編成し直したものだ。ジークフリートを除けば帝国の人間で構成されているということもあり、外面的には帝国部隊としての側面を有している。

 本来であれば、テオドラの傍にいるべき人員だ。

 全員が全員、納得したわけではない。

 そして、納得しない者は第一警備隊や第三警備隊への再配置が認められている。ジークフリートを監視するのに必要な人間だけがいればよく、あまり大人数にする意味もないというのがテオドラの考えだからだ。

 よって、ここに集ったのは物好きだけとなった。アレクシアは物好きというよりも責任感から仕事を断らなかっただけだろう。

「ところで、収容した人々の具合が気になるのだが」

 ジークフリートがアレクシアに尋ねる。

「精神面は別として身体のほうには治癒術をかけたので、命に別状のある人はいません。敵方も、殺戮を目的としていたわけではないようですしね」

「あの賞金稼ぎは、角を切り取ろうとしていたが」

「あの地域に住む亜人間(デミヒューマン)の角は、裏ルートで高値で取引されています。もちろん、亜人間が人口の大半を占める帝国ではとても取引できませんが、連合のほうはそうではありませんからね」

 嫌悪感を露に、アレクシアは言った。 

 アレクシア自身は人間だ。祖先は旧世界から渡ってきた魔法使いだというが、祖父の代に帝国に移住した。それでも、彼女は帝国の人間である。亜人間を差別し、時には家畜も同然に扱う者がいることに不快感を隠しきれない。

「まあ、連合の肩を持つわけじゃあねえけど、向こうだって禁止してるんだよな。ただ、差別意識とかでそういう土壌が払拭し切れてないってとこだろ」

「人身売買など鬼畜の所業。帝国も連合も関係なく処断するべき大罪です」

 と、アレクシアが厳しい口調で言った。

 ま、そうだよな、とコリンも同調する。彼自身も亜人間ということもあって、角狩りを初めとする亜人間差別には強い嫌悪感があるのだ。

 こういった亜人間に関することはジークフリートの苦手とするところだが、この新世界では古くからの諍いの種として現代まで残っているのだという。

 種族の差、というよりも違いか。

 言葉を交わすことができ、しかも同等の知能を有していながらほんの僅かな外見の違いから相手を差別し、争いを激化させている。帝国からすれば、連合は父祖の地を奪い、自らの生存を脅かした怨敵ということになる。

 帝国が連合に戦争を仕掛け、それが世論の反発を招かなかったことなどからしても、根強い反感があることは分かる。

 しかし、優勢ならばまだいいが、今は劣勢。

 互いに恨みつらみがあるだけに、自分たちが敗北したらどのような目に合わされるかといった恐怖が帝国の民間人の間には燻っている。

 敵のほうもしてやられた分は返さなければならないと、息巻いている。

 泥沼の戦争は、こうして拡大を続けている。

 ジークフリートが戦場で剣を振るったとしても、変えることができるのはその時の潮目だけ。数千キロの長さにまで広がった戦線をたった一人で押し返すことなどできるはずもない。目に付いた不運に手を差し伸べ、帝国領内に不利益をもたらしそうな敵の前線基地を叩くというのが関の山だった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 元来、ジークフリートは魔法使いではなく、元の世界における魔術師でもない。魔力を扱うことはできるが、それは宝具の解放や身体能力の増強に使用するものであり術を稼動させるために練り上げることは終ぞなかった。

 その身体に宿る魔力は莫大と言っても過言ではなく、竜の心臓の効果で呼吸するだけで魔力を精製できる。しかし、魔術を使用するのに必要な魔術回路に恵まれているということもなかった上に彼の知り合いに名のある魔術師もいなかったため、その魔力は剣と肉体にのみ費やされてきた。

 この世界の魔法はジークフリートの世界の魔術に比べれば幾分か優しく、言霊の力を使えば大なり小なり一般人でも練習するだけで使えるようになる。初級魔法に至っては、専門的な知識は必要ではなく呪文を知り、コツを掴めばいいというお手軽なものだった。

 もちろん、魔法理論が存在するために、初級以上のものとなると専門的に学ぶ必要性があるがそれにしても呪文と修練で習得できるようになるという点で見れば、学問というよりも体術に近い面もあるのではないだろうか。

 いずれにしても、魔法使いとしての力量は個人差がある。魔力としては莫大に過ぎる貯蔵量と非常識なまでの精製量を誇るジークフリートだが、魔法を扱う才能があるかというと試してみないことには何ともいえない。

「とにかく、ジークフリートは正面からの戦いには滅法強いのですが、魔法関連の絡め手に弱いという問題があります。魔法戦闘を想定するのならば、そちらを補う必要があります」

 というのが、アレクシアの自論であった。

「アルビレオ・イマのようなあの手この手を使ってくるタイプの魔法使いは、必ずしも正面から挑んでくるとは限りません。事実、グレートブリッジでも裏をかかれたことですし、その辺りをきちんと学んで損はないはずです」

「ああ、言いたいことは分かる。しかし、今から魔法を学ぶというのも難しいのではないか?」

「理論ではなく、どのような魔法があるのかだけでも知っておくのは悪いことではありません」

「……まあ、確かにそうだが」

 正直に言えば、座学は苦手な部類。身体を動かしているほうがいい。

 船が故障してドック入りしてしまい、七日ほど活動できなくなった日のことだ。地方都市としてはそれなりの大きさを誇るこの街に足止めを食っている間に、どれだけの人々が涙を流しているだろうか。

 ホテルの一室で椅子に座っている今も、ジークフリートは思わず戦場に意識を割いてしまう。

「そもそも、あなたが正規兵になると言ってくれれば、このような地方都市で安穏とする必要はなかったのです」

 このような恨み言にも慣れたものだ。

 ベッドに腰掛けるアレクシアが不機嫌そうに唇を尖らせている。

 一緒にいる時間がそれなりにあるために、この真面目な性格の少女のことも何となくだが分かるようになっていた。口うるさく言葉を紡いでも、それは畢竟帝国――――特にテオドラのためだ。

 かつてのジークフリートならば、帝国の誘いを蹴ることもなかっただろうが、今は能動的に生きると決めている。それが、自己満足に過ぎなかったとしても、帝国の正規兵になることで見過ごさねばならない命があるのではないかと思えばこそ、気侭な傭兵家業に身を窶している。とはいえ、それすらもこうして帝国の手を借りねばならない始末だ。どこまで自らの理想と現実をすり合わせていくべきか、悩みどころではある。

「ま、せっかく七日も休みなんだし、働いてばかりもよくねえぜ。帝国の英雄さんにも休暇は必要じゃねえの?」

 窓から外を眺めていたコリンが気楽なことを言った。

 ジークフリートを初めとする面々は、この一月戦場を渡り歩いてばかりだ。彼らからしても休みくらいは欲しいだろう。

 厳密には監視者兼サポーターだ。

 完全な仲間というほどのものではないが、それなりに一緒の時間を過ごすと自ずと仲間意識は醸成されていくものだ。

「確かに休みは重要ですが……ジークフリートの致命的弱点を克服する機会と考えて、せめて虚空瞬動くらいは習得して欲しいところです」

「虚空瞬動、とは何だ?」

「……やはり、魔法戦闘理論くらいは押さえたほうがいいですね」

 うむ、とアレクシアは大きく頷いた。

「虚空瞬動は、空中で移動方向を変える歩法です。瞬動の一種なので、初見で瞬動をほぼ完成させたあなたなら、簡単にできると思います」

「ほう……空中で」

 空中戦はジークフリートの苦手とするところである。先のグレートブリッジでの戦いでも、相手は飛べるのに、自分は飛べないというのがハンデとして圧し掛かっていた。

 この世界では魔法で空を飛ぶのが珍しくないらしく、むしろ上位陣での戦いについていくのならば空中戦ができなければならないというほどなのだ。

「今後も考えて、空中戦の鍛錬は必要かと思います」

 そういうことならば、ジークフリートにも否やはない。

 『紅き翼』の策にまんまと嵌ったことや、足場の悪さもあって追い込まれたりもした。それらを反省し、次に活かしていかなければ、彼らはあっという間に追いつき、追い抜いていくだろう。忘れて久しい、「努力」をジークフリートも積み上げていかなければならないのだ。

 

 

 虚空瞬動は、瞬動の派生技法で、何もない宙を蹴って瞬動に入るというものだ。これによって空中戦が可能となるだけでなく、瞬動の弱点であった入ると進行方向を変更できないというデメリットを打ち消すことができる。発動には魔力や気を身体強化に用いる必要があり、こうしたエネルギーを扱う能力のない人間は、まずそれらの力を練り上げるところから始めなければならない。

 その点、ジークフリートは恵まれた魔力の持ち主であり、肉体を極限まで鍛えていることから理論上は気も使えるだろう。修練をすれば、そう遠くないうちに虚空瞬動に到達するものと思われた。

 強くなる可能性があるのならば、試したい。

 空中での戦いが今後必要となってくるのならば、真摯な態度で学ぶべきだ。時間は少ない。僅かの時間の中で、実戦で利用できるレベルにまで仕上げるとなれば、寝る間を惜しむことも覚悟するべきだろう。

「むう……」

 難しい顔をして、ジークフリートは空を見上げた。

 虚空瞬動の練習のために郊外の平地にやってきたのだ。

 幸か不幸かジークフリートの存在は帝国内でもかなり知られるようになっていた。危険を承知で住民を救出し、しかも連合の侵攻を食い止めるべく利害を無視して戦場に赴く傭兵剣士は街を歩けば黄色い悲鳴が上がるほどの人気を博している。

 虚空瞬動の練習をしようにも、人目がありすぎて練習どころではないのだ。

 人目を避け、かつ誰の迷惑にもならないところとなると、街を出て郊外に向かうしかない。

「また埋まっているのです?」

 アレクシアが呆れたとばかりに声をかけてきた。

 虚空瞬動の練習を始めて二日目。できるにはできるが、力加減がうまくできずに地面に突っ込むことが多かった。

 今も、虚空瞬動の方向を誤り、地面を抉ってしまっていた。

「もう少し、力を抜いて地上で瞬動をするのと同じ感覚ですればいいのです」

「なかなか難しいものだな」

 まず地上と同じ感覚で宙を蹴るというのが分からない。足場がない以上、そこに足場を用意する必要があるが、それを感覚でやれというのが難しいのだ。魔力による足場の生成まではいったが、その強度が足りず蹴りぬいて失敗することもある。

「ジークフリートは魔力の精密な操作が苦手なようですね」

「ああ」

 と、ジークフリートは頷いた。

「どうやら、その通りらしい」

 魔術師であれば、難なくこなしたかもしれない。

 だが、ジークフリートにはもとより魔術の才はなく学ぶこともなかった。魔力は自然と湧いてくるので、感覚的に扱うことができたが、有り余る魔力を、宝具に注ぎ込むことで敵を薙ぎ払うという大雑把な使い方しかしてこなかっただけに、術として扱うような緻密な操作には縁がなかったのだ。そのため、必要以上に魔力を注ぎ込んだり、足りなかったりしてしまう。魔力が有り余る人間が陥る、初歩的なミスである。

「ですが、虚空瞬動そのものはできているようですし、ならば魔力の扱いをきちんとするのがいいですか」

「魔力を扱う鍛錬が先か」

「ええ。少し待っててください。メニューを考えますので」

 アレクシアはそう言ってベンチまで歩いていき、カバンから本を取り出した。

 魔法学校に通っていたころの教科書だ。

 彼女は数分、教科書に目を通した後で、ジークフリートの下に戻ってきた。その手には五本の羽ペンが握られている。

「では初歩の初歩として、小物を動かす魔法をやってみましょう」

 アレクシアは羽ペンを地面に並べた。

「見ていてください」

 アレクシアは呪文を唱える。すると、右端の羽ペンがふわりと浮き上がり、地面から三十センチばかりのところを浮遊し始めたではないか。

「こんな感じですね」

「分かった。試してみよう」

 呪文詠唱の後、弾丸の如き速度で吹っ飛んでいく羽ペンをアレクシアは唖然とした表情で見送ることになるのだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。