――目が覚めると純白の世界だった。
と言っても摩訶不思議な空間に迷い込んだ訳ではなく、至って普通の病室だったのだが。
ベッドに横たわったまま目だけを動かして周りの様子を観察する。
この部屋に俺以外のベッドは置かれていない、どうやら個室の様だ。
結構ヤバイ状況だったのかなと、まだフル稼働していない脳みそで考えた。
右手側には窓。ベージュのカーテンが掛けられており、外の景色は見えなかった。
左手側にはフルーツてんこ盛りのカゴが置かれており、その隣では脳天気な顔をした女がリンゴを食っている。
ちょっと待て、お前は誰だ? そもそもそのリンゴは俺へと誰かが持ってきたものなんじゃないか?
銀髪ショートカットの端正な顔立ちをした女、年の頃は二十歳前後というとこか。椅子に座っているからわかりにくかったが、どうやら身長もそうとう高い。180センチ以上はあるだろう。
こんな目立つやつは俺の知り合いには居なかった。
看護師という線はない。何というか男子高校生の様な格好をしている。
という事は俺の頭に何かを直撃させてくれた張本人、もしくはその身内だろうか。
俺の頭にぶつかったのが何だったのかも気にならなくもなかったが、まあどうでも良い。
ただ一つ確かな事がある。
どうやら俺は生き長らえたらしい。
つまり――、
また麻雀が打てる――これ以上の喜びはなかった。
そう感慨に耽っていると、目から熱い雫が流れ落ちた。
我ながら重傷だと思う。
また麻雀が打てるというだけで涙してしまうとは。
「お、おいッ? 起きたのか? つーか何で泣いてるんだ? 大丈夫か?」
銀髪の女はリンゴを一気に飲み込むと、矢継ぎ早にまくし立てる。
どうやら食い意地が張っているらしい。落ち着きのないこの様子から、もう少し歳は下なのかなと思った。
大人びた容姿をしているが、案外高校生くらいなのかも知れない。
「やっぱ何かされてたって事か! クソッ許せねえ……こんなにかわいい女の子を」
何かもくそも、頭を強く打ったんだ。
ん? こいつの言い分からすると、どうやら犯人は不明らしい。
つまり、こいつの正体は、倒れていた俺を助けてくれた善良な市民Aという事なのか。
今時珍しいタイプだ。いい女になるだろうと勝手に判断を下す。
「大丈夫だ。俺は味方だからな。ここにお前を襲ってくる不埒なヤローはいねえ」
ふむ、あれがもし賭場を荒らした事による報復ならば、俺は生きているはずがない。
何かをぶつけるという回りくどい方法ではなく、鉛玉を撃ち込めば解決する話なのだから。
そうとわかれば、いつまでも黙りこくっている訳にはいかない。
俺の口から何も問題ないと彼女に伝えるべきだろう。
「頭に何かがぶつかっただけで、誰かに襲われた訳では……って誰の声だこれ」
声変わり前の少年の様な甲高い音が流れた。
俺は成人した男だぞ?
少し前に銀髪の女が不穏な事を言っていた様な気もするが……まさか。
「おい!? やっぱりやばいんじゃないか? 自分の声がわからないって……記憶喪失?」
「とりあえず医者だ医者!」と言って、銀髪の女は大急ぎで病室から出て行った。
ナースコールのスイッチを押せば良かったのでは……と思わなくもないが、俺は俺でそれどころじゃない。
体を起こし、自分をまじまじと観察する。
「手が……小さい」
特別ゴツイ方ではなかったが、日常的に牌を握っていた事から通常人よりは太かった指が、三分の二スケールに縮小されている。
皮膚も薄く、ぷにぷにでまるで女の手みたいだと思った。
「という事は……もしや」
口ではそう言ったが最早確信していた。
胸部へと手を滑らせると、そこには「ふにっ」とした双丘が存在していた。
ややサイズは足りないが、まあそういうのが好きなやからもいる。
「……ない」
さらに下へと手を移動させた結論がこれだ。
――今の俺は女になっている。
信じられない事だが、信じるしかない。
助かったと思ったが、どうやら全然助かっていなかった様だ。
目が覚めれば女になってましたというよりも、死んだ後、女に生まれ変わりましたと言った方がまだありえそうな気がしたからだ。
でも、まあ良いかと思えた。
男であるという事にプライドを持っていなかったのか、と聞かれれば非常に痛いのだが。
――女でも麻雀は打てる。
この一言に全ては集約出来る。
一度は死を覚悟した身。もう一度チャンスがあっただけでも儲けものであり、その体に文句を付けるのは贅沢というものだ。
問題は、今の体の外見である。
ブサイクか否かというのも気にならないかと聞かれれば嘘になるが、それよりも重要なのは、ぱっと見何歳くらいに映るかだ。
体付きからして幼児体型という程ではないにしろ、かなり若そうな感じである。
明らかに未成年に見える様なら雀荘に入る事すら出来ない。
「かがみ、かがみ……かがみはどこだ」
しかし、病室内にかがみは備え付けられていなかった。
このまま医者が来るまでおとなしくしておく他ない。
そういえば俺の荷物――というか金はどうなったのだろう。
何だかんだで百万くらいあったはずだがと、辺りを見回すが、見慣れた黒いバッグの姿はない。
そりゃそうか。今は別人なのだから。
前の俺の荷物を今の俺が持っているというのは不自然極まりない。
しかし、今後はどうするべきなのだろう。
金はないし、元より身よりもない。
働いて種銭を稼ごうにも、戸籍がない。
となれば危ない橋を渡るしかない。男の場合ちょっと危険な肉体労働程度だが、女の場合は語るまでもない商売だろう。
流石にそれはごめん被る。男に抱かれる趣味はない。
「おーい! 医者を連れてきたぞ!」
扉が壊れるのではないかという勢いで銀髪の女が突入してきた。
ここは病院だから静かにするべきだろう。その程度の常識は俺ですら持ち合わせている。
まあ俺の事を心配してくれたのだから、全く悪い気は抱かないのだが。少々この女の将来が不安になった。
「はぁはぁ……」
息絶え絶えな中年の女医が少し遅れて入室した。
ただでさえ多忙な勤務医という身分ながら、激しい運動を強要されたのだ。
若干頼りなく見えたが、まあ仕方ないだろう。
「……お」
お?
何だろう、「おはようございます」だろうか? 「お体の調子はいかがですか」だろうか?
「おぇぇぇぇぇ」
吐いた。
女医が盛大に吐き出した。
「ちょ!? あんた医者だろ? なにしてんだよ!?」
「うっぷ……」
結局、まともな診断は数時間後にスライドされたのだった。
銀髪の女とはすぐに仲良くなった。
学生の上、住み込みで働いているという彼女とは週に二、三回しか会えなかったが、とにかくウマが合った。
学校であった面白い事、勤め先でのハプニング等、聞いていて相手を飽きさせない。
聞き上手なタイプではなく、話し上手なタイプだった。
それでいて彼女も麻雀が好きだというのだから、俺は色々な事を聞いた。
好きな役は? どんなスタイル? 流れは信じる? といった具合に。
「タンヤオと役牌」
「鳴き中心だなあ」
「むしろ信じないヤツの方がおかしいぜ」
麻雀の面でも俺と気が合うかも知れない。
俺の様な博打打ちという刹那的な生き方ではないが、勝負師としては似たようなものだ。
何でも彼女の学校には麻雀部があり、大会でも良いところまで進んだと言う。
麻雀部がある高校というのは聞いた事があるが、高校生の麻雀大会というのは初耳だった。
どんなレベルかはわからなかったが、弱くはないだろうと感じた。この感覚が間違っていた事はない。一度彼女と打ってみたいなと思う。
そう伝えると、「いいぜ、いつでも受けて立ってやる」という男前な返事を貰った。
それから数週間の時が流れた。
今俺は、寒空の下で彼女と肩を並べ、とある場所へと向かっている。
――外傷後健忘症。
これが俺に付けられた病名だ。
実際は記憶を失っている訳ではないが、この体で元は男でした等と言っても頭のおかしい人にしか思われないだろう。
そもそもの自分が健全な精神構造をしているとも言えない気がするが。
「お~い
どうやら俺は杉林の中に倒れていたらしく、名字はそこからとって
名前の歩は記憶のない俺がこれから歩んでいく道のりを……などと考えられて付けたらしい。
通常こういった身元不詳の上、記憶喪失の患者が出た場合、捜索願が出されている人物と似通ってないか調べられた後、専門の施設へと入れられる事になると聞いた。
しかし、俺はそうはならず、俺を発見した銀髪の女――
何でも龍門渕家のご令嬢が、「最後まで面倒を見ずに放り出すのでは、龍門渕家の名が廃りますわ!」と啖呵を切ったとか。
かっこいいというか、ちょっと恐いというか、変わった女がいるんだなと少しそのお嬢様に興味を持った。
「どうした? 緊張してんのか?」
「いや、別に」
「相変わらず中身はかわいくねえな……」
俺がぶっきらぼうに答えると、純はつまらなさそうに口を尖らせた。
今日はついに退院し、その龍門渕家へと挨拶に行くのである。
“中身は”と評された様に、俺の外見は見目麗しい絶世の美少女……とまでは行かないが、かわいらしい女の子である。
どこにでもいそうなレベルという注釈は付けるけど。男子学生ならクラスに一人くらい居るだろ? あっ、この娘かわいいなっていう女の子が。
年齢はどう高めに見積もっても高校生程度で、中学生とでも言った方が自然だった。
実際、仮の戸籍にも15歳(中学三年生相当)として記載された。
何故そうなったかと言うと、まだ高校一年生だという純が「お前の方が年下だろ、外見的に」と言ったから。
そんなに適当で良いのだろうか。そして俺は言いたかった、「お前より大人びた高校一年生はいない」と。
一刻も早く成人したい俺にとっては全く歓迎できる事ではなかったが、勝負でも何でもないのに恩人に噛みつく程、礼儀知らずでもなかった。
「早く大人になりたいもんだ」
「ませてるなあ……わからなくもないが、学生っていう身分の良さは、手放して初めて価値がわかるもんだ。今はその身分を享受しておけよ」
「……お前
「ジューロク」
「絶対うそだろ」
二人して笑い合う。
彼女は、時折年齢不相応な説教じみた話をする。
とても他人事の様には聞こえず、過去にそれなりの修羅場の体験があるのだろうなと感じさせられた。
それもまた井上純という女の魅力なのだが。
今の体が女ではなく男であれば……口説いていたかも知れない。
「お前、いい女だな」
「当たり前だ」
からかい半分に言った俺の台詞に、純は自慢げに胸を張った。
ちょっと頬を赤く染めてみるとか、慌てふためいてみるとか、そんなかわいらしい反応を期待したが、どうやら相手は強敵らしい。
女子校の王子様的な見た目をしているので、こんな言葉は聞き慣れているのかも知れない。
「おっ、あそこだあそこ。見えるか?」
純が指を差す方向には、遠目で見てもバカでかい門があった。
龍門渕家というのは想像以上にすごいところらしい。
しかし、俺の心の大半を占めているのは、最期の時と変わらなかった。
――ああ、麻雀を打ちたいなあ。