――支配する必要がない……という事か?
ふと、軽くなった体に違和感を覚えた。そして嫌な予感が頭を過ぎる。
衣から放たれるオーラには翳りがない。いや、むしろ強まっているとすら思えた。
先ほどまでの海の底に居たかの様な抑圧感はなくなり、まるで体に羽が生えたかの如く体が軽い。今の自分なら、魔物が相手でも決して見劣りしないのではないかと思えるくらいに。もちろん、それは錯覚なのだろうと理解しているのだが。
(今まで以上に警戒しないとな……)
先ほどまでの衣は、海底でツモ和了るというスタイルで、自分が狙われる事はないとわかっていた。それだけに俺も大胆な攻めが出来た。
だが、この局は違う。十中八九、衣は俺を殺しにかかる。いつも以上に守備的に――それでいながら普遍的な打牌は避けねばならない。
南一局0本場 ドラ:{二} 親:杉乃歩
東家:杉乃歩
南家:龍門渕透華
西家:井上純
北家:天江衣
配牌 ドラ:{二}
{二二四赤五六七八③③④456西}
(この配牌で攻めるなって言うのか?)
今が勝負の場でなかったら、俺は盛大にため息を吐いただろう。しかし、それは許して欲しい。
面前ならメンタンピンドラ3で跳満、喰い仕掛けてもタンヤオドラ3で満貫になる今日一番の好牌姿。守備的に行くならば、打{③}で平和を確定させつつ、安牌に{西}を残す。攻撃的に行くならば、打{西}で受け入れを最大限に広げる。
だが、そのどちらもがありふれた打ち方であり、魔物達にとっては格好の獲物であろう。むしろ{③}と{西}は絶対に切ってはならない牌なのだ。{③}も{西}も使い切る形で和了りに向かわなければならない。
(……索子を落とす)
初手で打{5}とすると、衣がニヤリと笑みを深める。
その反応は俺が予想通りの動きをしたからか、それとも想定外の動きをして興味を持ったからかは判別出来なかった。
二巡目手牌 ドラ:{二}
{二二四赤五六七八③③④46西} ツモ{⑦} 打{4}
三巡目手牌 ドラ:{二}
{二二四赤五六七八③③④⑦6西} ツモ{八} 打{6}
「な、何をやってますの……?」
「何も」
俺の河に手出しで並べられた{456}の順子を見て、透華が口元を引きつらせた。もちろんその疑問に答える必要もなく、お茶を濁す。
萬子や筒子の染め手をするには、ロスが大きすぎるし、そこまでする必要のない点差でもある。常識的には考えられない打牌だろう。もちろん、魔物達もそんな打ち筋は想定していないと勝手に想像している。
「想像以上の変人ですわね……記憶がなくなるとこうなるのでしょうか?」
透華はものすごく失礼な言葉を続けた。
確かに随分変わった思考回路を持っていると自分でも理解はしているが、この性格は元からである。そもそも、記憶喪失になると皆が皆、俺の様になるのなら、記憶喪失の人間は隔離病棟に直行だろう。
「くくっ」
純が堪えきれずに笑い出した。こいつはこいつで憎たらしい表情を浮かべている。後でシメよう。体格差的を考慮すると逆に俺がシメられそうな気もするが。やはり麻雀で黙らせるのが一番だろう。
こんなにも和やかなムードで魔物と打った経験はなかった。純粋に金を賭けていないというのもあるがろうが、彼女達の人徳が成す業の様な気がした。
「ポン」
衣手牌
{■■■■■■■■■■■} {七横七七}
一瞬にして場が静まり返った。
衣が透華の捨てた七萬を素早く喰い取った。
そして、背筋が凍り付く様な冷たい視線で俺を睨む。
(“私の事を忘れるな”ってか? 忘れる訳がないだろう……)
俺が何の為にこんな回りくどい方法を取っているのか。それは
四巡目手牌 ドラ:{二}
{二二四赤五六七八八③③④⑦西} ツモ{④} 打{七}
「チー」
透華手牌
{■■■■■■■■■■■} {横七六八}
透華が{七}を喰った。
まあ当然だろう。ここで鳴かなければ{六八}の嵌搭子が埋まる事は永遠にないのだから。
そして打{7}。
「ポン」
衣手牌
{■■■■■■■■} {7横77} {七横七七}
もう一度、衣が鳴いた。
そして、ちらりと俺へと挑発的な視線を送る。
必要ないんだろ? 出しちまった方が良いんじゃないか?
そう語っている様だった。
(……俺はガン牌なぞ出来ないが、お前の手は透けて見える)
衣手牌
{■■③③⑦⑦西西} {7横77} {七横七七}
トイトイのみ等という安い手のはずがない。
最低でも満貫。それが衣の超高火力麻雀だ。
恐らく、その手の中には三色の確定する{⑦}か、ドラの対子があるのだろう。
ドラは俺が二枚使っている以上、{⑦}の可能性がかなり高く思えた。
(絶対に出す訳がない……)
五巡目手牌 ドラ:{二}
{二二四【五】六八八③③④④⑦西} ツモ{六} 打{四}
惚れ惚れする様なツモで瞬く間に一聴向。
ツイている時というのは大抵の場合、何をやってもうまくいく。
だが、運の総量というものは一定である。ツイていたり、ツイていなかったりを繰り返して、平均するとある一定の量に落ち着く。だからこそ、そこで無理すると後のぶり返しが恐ろしいのだが。
(今回は一戦勝負……出し惜しみをする余裕はないし必要もない)
「ポン」
衣手牌
{■■■■■} {⑦横⑦⑦} {7横77} {七横七七}
三度、衣が鳴いた。
間違いなく張っただろう。
六巡目手牌 ドラ:{二}
{二二赤五六六八八③③④④⑦西} ツモ{西}
(聴牌……さあ、めくり合いと決め込もうか)
そして打{⑦}。
その瞬間、体に怖気が走った。
(しまっ……まさか、ここまで衣の思い通りだったのか!?)
セオリーをガン無視しながらも、順調に進んだ手牌。それは俺がツイているから、だから無理をしても大丈夫なのだろうと思っていた。
でもそれは半分正解で半分不正解。
俺がツイていたのは事実、だがそもそも無理をする必要はなかったのだ。
そのまま手なりで進めて即リーをしていれば、あるいはこの局で勝負が付いていたのかも知れない。
だが、それはIFの話であって、今の俺には関係のない話だった。
今までの一打一打、そして思わせぶりな言葉、視線、表情。それらは全てこの局で俺を嵌める為に張られた伏線。
(これは衣の……)
――衣の思い描いていた局面だ。
「ロン」
静かに衣が言葉を紡ぐ。
倒される手牌を俺はただ愕然としながら眺めているしかなかった。
衣手牌
{⑤赤⑤⑥⑧} {⑦横⑦⑦} {7横77} {七横七七}
「7700」
ニヤリと衣が嗤う。
その口元は、あの黒ずくめの男とよく似た形をしていた。
東家:杉乃歩 29300(-7700)
南家:龍門渕透華 22000
西家:井上純 8000
北家:天江衣 40700(+7700)
あれほど自分に言い聞かせていたではないか。
魔物とは攻撃にも守備にも素直さがない。その全ての行動は誰かを嵌める為に行われているのだと。
だが、俺は魔物の上を行った気になって、途中から考えていなかった。いや、それも衣に思考を誘導された結果なのかも知れない。
(手強いなあ……)
俺は衣を侮っていたのだろう。
魔物でありながら他者を傷つける事を恐れる不思議な少女。
俺の本能は目の前のそいつは危険だぞと警告を発していた。だが、俺の理性はこの少女の事をどう思っていたのだろうか。
(哀れだと……そして、傲慢にも助けたいと思った……か)
目の前に座る小さな少女がとてつもない大きさに見えた。
例えるならば、俺は蟻で衣は象。
窮鼠猫を噛むという言葉があるが、ネズミと猫、蟻と象ではそもそも比較対象のサイズが違いすぎる。
万に一つネズミが猫を撃退する事があっても、蟻が象を倒す事はありえない。例えそれが子象であったとしても。
(レベルが違う……)
言い訳でしかないが、俺は本調子ではない。
だが、だからと言って負けが許される訳ではない。どんな状況でも勝ちを拾うのが俺という麻雀打ちに架せられた使命である。
(……)
目を瞑り、耳を澄ませ、大きく息を吸い込む。
胸が熱い、頭が熱い、手が熱い。
俺はまだ麻雀をやり足りない。
もっともっと打たなければならない。
(跳ツモか6400の直撃でひっくり返る……この程度で絶望はしない)
心が負ければ、麻雀でそいつに勝つ事は絶対にありえない。
だから、俺は心のエンジンにガソリンを注ぎ込む。
もっと燃えろと、もっと動けと。
「あの……歩さん?」
「透華っ!」
俺を心配する透華の声、まだ勝負の途中だとそれを制止する純。
「あ、あ……」
そして動かなくなった俺を見て、今にも泣きそうな表情になる衣。
また壊してしまった――とでも思っているのだろうか。
数十秒前に浮かべていた悪魔の笑みと、現在の童女の様な悲哀の表情。今にも涙がこぼれ落ちそうで、実際数分も経たない内に大泣きしそうな気すらした。
俺はその姿を目にしたくなかった。
堪らなく嫌になる。
そんな表情をさせてしまう自分が。衣の本気を受け止めてやれない俺自身の事が。
だから、変えなければならない。
自分を、衣を。
「嫌いだ」
「えっ……」
俺がそう言うと衣は目尻に大粒の涙を浮かべた。
この世の終わりを目にしたかの様に、顔を絶望色に染め上げて。
「歩さんっ!」
「歩っ! テメェ!」
血相を変えて透華と純が俺に詰め寄った。
家族を傷つけるものは許さない。二人の表情はそう物語っていた。
だが、俺はそれを無視して衣へと言葉を投げる。
「泣き顔は嫌いだって言った」
「へっ?」
きょとんと目をまんまるにして衣が俺を見上げる。
「歩は――恐くないのか? 衣の事……」
恐る恐る、確かめる様に衣は問う。
お前は魔物に恐怖心を抱かないのかと。
そんなの決まっている。
だから、胸を張って答えてやった。
「俺は――好きだな。麻雀を打っている時の衣が」
「――本当か!?」
喜びというよりは驚きの色が濃すぎる反応だった。
確かに信じられないのだろう。
だが、そんな尺度で俺を測って貰っても困る。
「俺が嘘を言うとでも?」
「わからない……衣にはわからぬのだ。衣と麻雀を打って、その後も衣と共に在ってくれるのは、透華に一、純、そして智紀。此処にいる四人だけ。それ以外は……全て去った。だから、歩の言う事が真なのか偽なのか、衣には判断出来ない」
再び不安げな表情で衣は指折り数える。
右手の指を四本立てると、それ以上進む事はなかった。
「なら、俺で五人目だな」
「でも……」
また何か余計な事を考えているのだろう。
衣は俯いて顔を見せない。
これ以上何を言っても無駄なのかも知れない。
だから、俺は透華に顔を向ける。
「サイコロ回せよ。いつまで経っても始まらないだろう?」
「あっ……ええ、そうですわね」
一瞬、呆然とした透華の表情は衣によく似ていた。
各人の手元に配牌が揃った後も衣は動きを見せない。
「俺は衣の様な打ち手を“魔物”と呼んでいる」
魔物という言葉を聞いて、衣はビクンと体を震わせた。
「そんな魔物とぶつかるとどうなるか。圧倒的な力差の前に絶望し、二度と牌をさわれなくなるやつも少なくない」
「うぅ……」
やっぱり受け入れてくれないではないかと、衣は悔しさと悲しさで涙を落とす。
「だが――」
「えっ?」
「魔物に魅了され、魔物に憧れて、魔物を目標にして、麻雀を続けるバカもいる」
「其奴は底抜けの阿呆だな……」
自嘲気味に衣が呟く。
「そうだな……だけどそんなやつの気持ちは良く分かる」
――俺もそのバカの一員だから。
俺がそう言うと、一拍置いて、その場にいた俺以外の人間が笑い出した。「キミって面白い人だねえ」一が腹がはち切れんばかりに抱えながら、「流石の俺もそこまで言えねえ」純がクサイものを見たかの様に、「変人……っぷ」智紀が吹き出す様に、「アーハッハッ、ヒーヒッヒッ」透華は最早言葉をしゃべる事が出来ないらしい。
愚かだと、無謀だと、蛮勇だと言いたいのだろうか。確かにそうかも知れない。
「歩は……莫迦なんだな」
「ああ」
「衣は莫迦が嫌いだった。でも、」
――今日から好きになれそうな気がする。
そう言った時、衣は喜怒哀楽の入り乱れた今日一番の変な顔をしていた。