「なぜ、こんな…」
あまりの出来事に、命が消えるその恐ろしさに、白井の体はすくみ、動くことができなかった。助けることも、殺すことも。ただ、その理不尽さに、口からは嘆きが漏れていた。
「ま、しょうがないんじゃない?」
麦野は、そんな白井の顔を見て、軽くため息をつくと、絹旗を見て、顎で何かを指示した。
「超無駄骨でした」
そう言いながら、絹旗は、息も絶え絶えな男の顔を踏み潰した。潰れた肉片が辺りに飛び散る。
白井は思わず顔を背ける。だが、その足に、それがかかる。
「」
声を失う。人間だったものの破片が、白いソックスを朱色に汚す。白いソックスが次第に赤く染まり、それと同じように有機物だったそれの頭部であった場所から、穏やかに朱色が広がっていく。
それはまるで、命が広がり、土に還っていくようだった。
「これ、殺したの私なんで。超気にしないでください」
絹旗はそう言うと、踵を返して、その部屋を出ていった。それは彼女なりの気遣いだったが、それが白井に届かない。
殺したのが誰であろうと、助けられなかったのが誰であろうと、目の前の死は変わらない。消えていった命は変わらない。戻ることもない。
白井は何もできなかった。目の前で起こった殺戮と、消えゆく命に恐れ、身がすくんだ。
助けられなかったかもしれない。何かできたかもしれない。だが、それをしなかった。ただ、立ちすくんでいた。
そんな後悔が、憤りが、ようやく白井を奮い立たせた。
「なぜ! こんなことができますの?!」
その怒りは、腹の底からの叫びだった。
「強者だから死ぬわけがないと驕っていますの?! あなたが死ぬことだってありますのよ!」
そんな怒気を麦野はサラリと受ける。
「なに当たり前のことをいってんの?」
そして、そう、サラリと言った。白井は、その返答に呆然とした。麦野は、そんな白井を見て、目を細めて怪訝な顔をすると、何かに気づいたように真顔になった。
「あなた…もしかしてだけど、その程度の覚悟もないの?」
白井は、その言葉に、反応できない。
「驚いた…。まあ、そんな、ものなんでしょうね。ちょっと私が世間ずれしすぎてたみたい」
麦野は、ため息をつく。
「ちょっと刺激が強すぎたのね。それに、あなた、まだ綺麗すぎるみたい」
そして、不敵に笑いながら言う。
「あいつらを助けたいなら、やってみればいいわ。私があなたへ次に狙う連中の情報を渡すから、やるだけやってみなさい」
白井は怪訝そうな顔をする。
「そんなことをして、あなたたちは大丈夫、なんですの…?」
「私たちの心配してくれるのね? でも、大丈夫よ」
「なぜ、そう言いきれますの? 私が説得して、あなたたちが仕事できなくなるのは、困るのではなくて?」
「だから、大丈夫なのよ。
麦野は不敵に笑う。
「だから、あなたは、あなたが納得するまで、好きなだけ頑張ればいいわ」
そうして、白井と麦野はその廃ビルを後にした。
その時、白井の心には、炎が灯っていた。廃ビルで起きた惨劇を止められなかった自分に対する責や、麦野の言葉を否定したい気持ちがそうさせていた。
そうしてしまうのが、白井黒子である。
そうなってしまうのが、白井黒子である。
だから、そうならなかったことを想像することは、詮無きことである。
だが、敢えて想像してみよう。
もしも、目の前で起こった殺戮を、仕方ないことだと、自分に関係ないことだと考える白井黒子であったならば。
きっと、自分に利益のない、まだ見ぬ誰かを助けようとは思わなかっただろう。
きっと、何度も説得し、諭し、それでもその行為をやめない誰かを見て、落胆することはなかっただろう。
きっと、助けようとした誰かに裏切られて、命を奪われそうになり、絶望することもなかっただろう。
そんな想像は詮無きことである。
しかし、そんなもしもが出来なかった今の白井黒子をみれば、誰もがそう思うに違いなかった。