夏の月 二十一日
ここ最近、時間が過ぎるのが早い。ので、短い日記を細々とつけていこうと思う。
二十一日
今日は何もなかった。頭痛薬と酔い止めが欲しいと社長に送ったが、返信が来ない。忙しいのだろうか。
二十二日
酔い止めをプラズマ団員の方に分けてもらった。頭痛薬も欲しいが、なんとかならないことだろうか。
二十三日
頭痛薬も来たが、まったくよくならない。が、気休めにはなるので服用している。ただどこのメーカーの薬なのか、百草○ばりに大量に飲まなければならないのがつらい。重病患者みたいに見えて恥ずかしいし。
二十四日
最近、妙に人が増えたように思う。手元のコンソールパネルを開いたら、イッシュからも遠ざかっているように思えた。これはいったいどこに向かっているのだろうか。気になるが、返事がちゃんと返ってくるかもわからないのに頭痛と闘いながら聞くのも億劫だ。
二十五日
船が暗雲に突入した。揺れる、震える、回旋するとアクロバティックなプラズマフリゲートを前に心が折れかけている。贅沢は言わないから、せめて地上に降りたい。
二十六日
かなり久々の地上だ。
嬉しいことは嬉しいのだが、旅の疲れのせいでテンションが上がらない。一日休んで良いそうなのでこのまま休ませてもらおう。
二十七日
今日は新しい同僚を紹介された。
アクロマさんという方で、なんでもこの船の設計・開発に携わった、プラズマ団の開発主任だという。なんで社長の趣味のボランティア団体にそんな部署が必要でこんな船が必要なのかわからないが、無理矢理納得しておくことにする。
もしかしたら、周囲の認識と私の認識に若干のズレがあるのかもしれない。
二十八日
今日と明日丸二日休んだら、また、プラズマフリゲートに乗り込むらしい。テンガン山を徒歩で登らされるより遙かにマシなので、乗り物酔いくらいは我慢しようと思う。
目的地はやりのはしらということだが……旧友から何か聞いたことがあるような気がする。思い出せないからたいしたことではないのかもしれないけれど、一応頭の隅に置いておこう。
追記
Nが父親と話し合う時間を取れたらしい。なんとかなるかはわからないけれど、精一杯、やれることをやってみるそうだ。久々のNの話題に少し嬉しくなった。これでトウヤの現状が聞ければ言うことなし、なのだけれど。
――0――
――ゲーチスにとって、世界とは憎悪の対象だった。
愛した女がいた。共に生きていくと誓ったひとがいた。その頃のゲーチスは表の世界で生きる科学者で、ただ、あまり人から理解されにくいことを研究するだけの一般人だった。
ポケモンに頼らない文化の発展。ポケモンと人が密接すぎることは、均衡が崩れたとき、人は生きていけなくなるのではないか。ゲーチスは危機感を覚えて名乗りを上げた若き天才であり、彼が愛した女はそんな彼の唯一の理解者。
『結果さえ出せば、人は認めてくれる』
ゲーチスはそう信じ、実践のためにたゆまぬ努力をしていた。そのために支えてくれるひとと、己の才を存分に注ぎ込んで。
だが、その恵まれなくとも幸福な生活も、長くは続かなかった。
ポケモン愛護団体。
ゲーチスの愛した女の両親は、ポケモンを保護し、ポケモンを排除する人間に立ち向かう派閥に所属していた。それ故に、ポケモンを生活から追い出そうとするゲーチスを目の敵にしていた。
ゲーチスは結果さえ出せば、彼女の両親も認めてくれる。半ば勘当状態となってしまった女と両親の仲を取り持つためにも、彼女に宿った“新たな命”を認めて貰うためにも、よりいっそうの努力を続ける。
その努力が、ゲーチスと女の仲を、生涯引き裂くことになる。
ゲーチスを悪とし、正義を叫ぶポケモン愛護団体の人間が、愛するばかりでろくに調教もしていなかった大型ポケモンをゲーチスにけしかけた。愛護団体の娘を誑かした畜生、として。
女と二人で旅行に出かけていたゲーチスはポケモンに襲われ、意識を失う。目が覚めたとき、彼の右目は光を失い、愛した女の姿はなく、轟々と燃える森があった。
『は、ははははっ、ポケモンなどという汚らわしい獣が人間の上にあぐらをかき、人間はポケモンに飼い慣らされているというのなら、全てのポケモンは俺が、ワタシが支配して調教して、その上で全ての人間を躾けてやりましょう! ア、ハハハハヒャヒャヒャッ!! ポケモンに頼らない、ポケモンを支配し、ポケモンに支配された人間を征服して!!』
――それから、ゲーチスは女を殺した人間たちに復讐をして、表舞台から姿を消す。
そして森で生活する、動物と暮らす子供を引き取ると、駒として育て始めた。
全ては、自らの野望のために。
女と過ごした幸福の日々の全てを、過去に葬り去って――。
夏の月 父と子
――1――
Nは、バッヂを集め終えると、建設中のプラズマ団の新しいアジトへ足を運ぶ。
話がしたい。そう願ったNに、ゲーチスは頷き、この場所を指定した。
「イル……君に背を押してくれたから、ボクは成すべきことをするよ」
そう呟いて、ゲーチスのいる玉座の間に踏み込む。
おそらく計画が最終段階に入ったからだろう。ゲーチスは機嫌良くコンソールパネルに目を落として作業に勤しんでいた。
「ゲーチス」
「ん? おお、N様ではないですか。話があるということですが、しばしお待ちいただけますかな」
「ああ、待とう」
ゲーチスはコントロールパネルに打ち込みを続け、一段落するとパネルを閉じてNに向き直る。
「お持たせしました。それで、ええと、ワタシに話、ですかね」
「いや、いい。そうだ、ゲーチス。いや……父さん」
父と、そう呼ぶと、ゲーチスの雰囲気が僅かに鋭くなる。Nはこうなることを知っていたから、父を父と呼ばず、ゲーチスと呼んでいた。だが、父の顔色を伺うのも今日で最後だ。
頑張り屋さん。そう言ってくれたイルの言葉に応えるためにも、Nは一歩踏み出すことを心に誓う。
「貴方の本当の目的が知りたい」
「本当の目的、ですか? ははは、ナニを仰るのですか? N様。いいですか、ワタシはポケモンの解放を――」
「建前は、もう、いい」
「――ほう?」
ゲーチスは未だに笑っている。だがその笑みは普段のようにへりくだったようなものではない。見極めるような、確かめるような、あるいは嘲け笑うような、
――哀れな実験動物に向けるような、そんな無機質な笑みだった。
「思えば、貴方はいつも闇を抱えていた。底知れぬ闇だ。まるで世界そのものを憎むような、漆黒の闇だ。ボクはその闇から目を背けて、ただ、触りの良い言葉を揺り籠にして微睡んでいた。だけど、それももう終わりだ。本当の意味で王となるのであれば、清濁から目を背けるわけにはいかない」
Nは目を伏せる。
思い浮かべるのは、これまでの人生だ。ハルモニア。そう刻まれた部屋で孤独に過ごした幼い日々。
もしもイルにもトウヤにも逢うことがなければ、Nの心は未だあの部屋で培われた世界で完結していたことだろう。
だが、トウヤは自分を正面から見て、間違っていると声を張ってくれた。イルは自分の全てを包み込み、本当のNという名の少年を救い出してくれた。向き合う、勇気をくれた。だからNはもう、逃げないことを誓う。友達になりたい少年、トウヤにでもなく、隣に立ちたい少女、イルにでもない。
ただ、イルの言ってくれた、“頑張り屋のN”に、逃げ出さないことを強く誓う。
「応えてくれ、父さん。なにが貴方をそんなに駆り立てる。なにが貴方を、そこまで追い詰める。貴方の闇を教えてくれ、父さん!!」
Nの叫びに、しかしゲーチスは応えない。笑みを消し、顔を俯かせ、黙り込んだままだ。
だがやがて、そのまま肩をふるわせ始めた。
「父さん……?」
「――っ、く」
「え?」
「くっ……はははっ」
口を歪め。
「あははははっ」
声を上げ。
「ひっ、ははっ、ひゃはははははっ」
腹を抱え。
「ひ、ハハハハハハハハッ!!」
笑い声を響かせる。
その異様な様子に、Nは一歩後ずさった。
「くくくくくくっ、とんだイレギュラーです。彼女と関わった人間は、つくづくワタシの計画から遠ざかる」
「父さん?」
「父と呼ぶな。貴方はただ王であれば良いのですよ、N様」
ゲーチスの笑みは冷たく、瞳の奥には虚無が広がっている。
その暗黒の眼差しに、Nは思わず息を呑んだ。これが、Nがずっと目をそらしてきたモノ。深い闇を讃えた、ゲーチスという男の正体。
「いいや、呼ぶ。貴方がどう思おうと、貴方はボクの父親だ!」
「それが間違いだというのですよ、N」
「なに?」
「貴方はワタシが拾ってきた子供でしかない。拾い、過去を忘れさせ、王となるように育てた子でしかないのですよ、N」
「……拾った……?」
言われて、Nはふらりとよろける。
過去の、もっとも古い記憶は、玩具で溢れた部屋で、一人孤独に遊んでいたことだけ。時折連れてこられるポケモンと触れあい、過ごした日々があるだけだ。
では、それより前は? どうしても思い出すことができない過去に、Nは愕然とした。
「本来は、貴方を王に据えることでこの世界のポケモンを全て手中に収め、世界をワタシの支配に置く予定でしたが――まぁ、代案もできました。こうなってしまえば、代案に移すだけのことです」
「え、なっ」
言われた言葉に、追いつくことができない。
だが無性に、代案という言葉が胸に残った。
「父さん、代案とは、いったい……」
「この歪な世界。征服が難しいというのなら、一度、平らにしてしまうことも考えてはいたのです。ですが、その手段も理由もなかった。だが」
「なにを……なにを言っているのかわかっているのか、貴方は!!」
「だが!」
「っ」
ゲーチスは笑う。
その笑みは今まで見てきたどんな表情よりも凄惨で鋭く、荒々しい狂気に包まれていた。
「だが、その代わりができた! 闇に愛された少女! 復讐の代行者! 彼女にアレが適合してしまえばその全てが、そう、全ての天秤が闇に傾くのです!!」
「まさか、いや、父さん! イルに、イルになにをした!!」
「ワタシは彼女になにもしていません。ただ運命が、宿命が、彼女を導いたのですよ!!」
闇。
運命。
導き。
その響きに、Nはこれまで考えたこともないような恐れに身を震わせる。
だが混乱した頭でも、一つだけ、わかることがある。それはこの狂気に囚われた人間を、止めなければならないということだ。
「くぅっ!」
Nは歯を食いしばると、ゲーチスに向かって一直線に駆け出す。
そして薄ら笑いを浮かべるゲーチスの胸元に組み付――
「あっ」
――こうとして、その身体をすり抜けた。
「立体映像?!」
「くくくっ、あはっ、あひゃひゃひゃひゃひゃっ! ワタシは準備に戻らねばなりません。貴方は一人、その空の玉座で終焉を見守っていてください」
「ッ、待て、父さん! くっ、父さん、イルをどうする気だ!!」
叫びは届かない。
ただ消えゆく立体映像を前に、Nは焦燥の雄叫びをあげることしか、できなかった。
「く、そォッ!!」
ダンッ、と強く玉座を叩く。
ゲーチスは今頃、準備とやらのためにどこかに潜んでいるのだろう。
「ボクは、君のために何もできないのか、イル……」
ふらりとよろめき、絶望を浮かべる。
どうすればいい。どうしたらいい。そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
思い返すのは、いつだってイルのことだ。あまり笑うことはなかった。だが同時に悲観にくれることもほとんどなく、いつも寂しげな顔を押し隠し、Nに柔らかな言葉を投げかけてくれた。
「そうだ、あのときも――」
迷い、立ち止まり、どうにもできなくなったとき。
Nを助けてくれたのは、誰よりも苦しんでいたはずの少女の言葉だった。
Nの戸惑う背を押してくれたのは、誰よりも運命に翻弄され、絶望の中にいるはずの少女の、温かな声だった。
『Nは、頑張り屋さんだから』
胸の裡から響く声。
絶望から、闇から掬い上げてくれるのは、いつだってあの幼い少女だった。
「そうだね、イル。負けるわけにはいかない。何度だってぶつかるんだ。ボクの過去がなんであれ、ボクの父さんはあの人しかいない。だったら、ボクがぶつかる相手もゲーチス、父さんただひとり」
Nは気持ちを入れ替えると、しっかりとした足取りで歩き出す。
まずはゲーチスの行方。それから、現在のプラズマフリゲートの位置を確かめる。ゲーチスのことだ、もう、Nの端末やアジトの端末から連絡はとれないようになっていることだろう。
だが、動き出した未来は、どんなに足踏みをしようと止まらない。
いつも運命とは、常に常人の及ばぬところで嘲け嗤うのだから。
「N様、大変です!!」
「どうした?」
玉座の間に飛び込んできたのは、アジトに残ったプラズマ団員の一人だった。
彼はNを見ると大きく息を切らせながら、告げる。
「プラズマフリゲートが操作を失い暴走! 禍々しいポケモンとイル様のみを乗せ、上空に移動! 空間の歪みが発生して位置の特定ができません!!」
「なっ」
運命は、常に先を歩く。
その善悪にかかわらず、無情にも、敷かれたレールを踏み歩いて行く。
闇が蠢く。
最早、止めるモノもいないままに――。
二十九日
終わった。
やだなにこれどうしよう。
どうしよう。
――了――
ゲーチスの設定は捏造です。
お持たせしました。