冬の月 七日
ここ一ヶ月ほど、色々と忙しくて日記を書くことができなかった。
季節もがらりと変わり、秋の紅葉は冬の雪に移ろうようになった。このまま雪が溶けてしまう前に、あれからのことを書き記しておこうと思う。
結局、私は私の狙いどおり、両親の墓参りへの道中からポケモンに操られていたということで決着が付いた。警察の方々はまるで幼児に対応するかのように優しげで良心が痛んだが、これも平穏な未来のためだ。許して欲しい。
解決すると直ぐブラックシティに帰されると思ったのだが、意外なことにそちらはそうすんなりとはいかないようだ。というのも、ブラックシティの我が住居がうっかり更新を逃して契約切れになり、なんとも間抜けな理由で放り出されることになったからだ。
さて、そうなってくると困るのが寝床だ。ただでさえ就職難民に逆戻り。しかも今回はやっかいな経歴までまとわりついていて、今更、新しい職につけるかなどわかったものではない。幸い、あの事件のおかげでイシュタルとセクトがちょっとびっくりするくらい強くなったので、適当なジムのトレーナーにでもなってしまうのがベストかも知れない。
少し話はずれたが、ようは寝床をどうするのか、ということだ。そんな風に迷う私に声をかけてくれたのが、トウヤのお母さんだった。部屋は空いてるから、やっかいになれば良い。代わりに、息子の相手をしてあげて欲しい。そう告げた彼女に、直ぐに頷くことはできなかった。いや、お金も払わず働かずに居着くとか、私の良心が耐えられないから。
だがこれも結局、色々と迷惑をかけてしまったトウヤにどうしてもと言われれば、頷かないわけには行かない。結局、就職が決まったら分割で家賃と生活費を払う、ということで片が付いた。トウヤ母は「うちに永久就職すればいい」と冗談を言っていたが、それには苦笑で誤魔化させて貰ったが。流石に、年下の男の子とか申し訳なくて無理。トウヤも、こんな年増は嬉しくないだろうし。
Nは、それから一度も顔を見せてはいない。
――などということはまったくなく、週に一度は顔を見せにポケモンにのってやってくる。「リードされちゃったからね」などと微笑む姿は、まさに貴公子。お姉さんは、Nの将来が心配です。なんか、こう、女たらしになりそう。
冗談なのか練習なのか素なのか天然なのか、こちらを口説こうとしてくるのはやめて欲しい。なんというか、心が痛い。若い子になにをやらしているんだとか考えてしまう。そしてその度にトウヤに見つかり、二人がポケモンバトルを始めるまでが一つの様式美と化している。トウヤもこうしてNと触れ合いたいのだろう。毎回、私が邪魔をしてしまっているようで申し訳なく思う。
肩を組んで、ぼろぼろになる二人をねぎらい、そういった日は必ずNは泊まっていく。そして、三人で川の字で寝る、という流れが固定されつつあるように思える。なんとものどかで、私としては少しくすぐったい。
思いがけず、色々なことがあった。
けれど、たくさんの出逢いが私を助けてくれたおかげで、私は今も変わらずこうして日記を書けている。
今日までの日々を忘れないためにも、日記を書くのは続けよう。いつか、曇りのない笑顔で人生を振り返ることができるその日まで。
追記
この日記を人に見られたら、詰んでしまうような気がする。
まぁ、ここまで書いて燃やしてしまうのももったいない。この日記帳が終わったら、厳重に保管しておくことにしよう。うん。
冬の月 春へ
――†――
イルは、ふっと息を吐くと窓の外を見る。
冬になって幾ばくかの日が過ぎ、窓の外はすっかり雪化粧に彩られていた。
色々あって落ち着いて、気がつけばトウヤの家に居候となっていたイルは、現状に若干の不安を覚える。
このままではニート一直線。何故か生活保護のような状況になっているのは大事件の被害者であるためであろうが、イルとていい年をした成人女性。働かずに時が過ぎるのも気が気でない。
とはいえ。
「イル! 外に出ようよ! ほら、すっかり積もってる!」
自身を慕ってくれる弟のような男の子。
事件以来、ことあるごとにイルを守ると公言する彼の手を逃れるのは、イルにとって難しいことだった。
なにせ、好感ももちろんあるが、負い目もマシマシなのだから。
「トウヤ……ちょっと待って。コートを着てくるから」
あてがわれた部屋は、もとは倉庫だったという場所だ。トウヤに弟か妹ができたら与えようと思っていたが、妹弟には恵まれなかったのだと、イルはトウヤの母から聞いていた。
『だから、娘のように思わせて』
そんな風に笑った彼女の期待を裏切ることができず、イルはこうしてここで暮らしている。
ハンガーラックにかけられた白いコートも、そんなトウヤの母に譲られたものだ。お古だから気にしなくていいなどと言われたそれは、どう見ても新品だ。イルは、申し訳なさで痛む胃を誤魔化すように、大切にコートを使う。ふわふわでふりふりの、ダッフルコートを。
「イル」
イルが扉に手をかけようとしたとき、不意に、冷たい風が入る。
声と風に気がつき振り向くと、窓から身を乗り出すNの姿があった。
「おかえり。でもなぜ、そんなところから?」
色々解放されたイルとしては、もうちょっと明るく声をかけたい。だがあまり多くを喋るとポエム調が飛び出してしまいそうなので、イルは必然的に口数少なくなってしまう。
イルとてそれが自業自得だと理解してはいるが、世知辛い。
「イルに、早く会いたかったんだ」
Nはそう言うと、微笑みながらイルの手を取る。
「このままキミを連れ去ってしまいたいよ」
「だめだよ、N」
「わかっているさ。ボクだって――大切なキミを、悲しませたりはしない」
Nの言葉に、イルは苦笑することしかできない。
身内が一番最初に異性を認識するのは、家族であるという。姉貴分として接してきたイルに、Nは不器用に異性を意識してしまっているのだろう。
聞けば周りの異性の居る環境でもなかったようだし、仕方にないことなのかもしれない。
イルは、そんなことを考えながら優しく微笑むと、Nの頭を柔らかく撫でた。
「ぁ――イル、キミはずるいよ」
「いやだった?」
「いやじゃないよ。でも、そうだな。お返しにボクも」
そういって、Nはイルの頬を撫でる。
そう、頭ではなく頬だ。Nの将来が心配になる行動だ。女たらしになって刺傷沙汰になるようであれば、姉貴分として庇ってあげなくてはならない。そう、イルは密かに決心する。
「で? その続きはどうしようっていうんだ? N」
「どうするって、一つしか無いだろう、トウヤ」
Nの後ろからそう声をかけたのは、トウヤだ。
イルが遅いから気になったのだろう。
「雪合戦って知ってるか? N」
「ユキガッセン? それはどんな――へむっ?!」
振り向いたNの顔に、雪玉が命中する。
それだけで雪合戦の意味を理解したのだろう。Nはどこかゲーチスに似た笑みを浮かべると、イルに振り向く。
「イル。どうだろう? 勝者にはキミの口づけを賜りたい」
「なっ? お、おい、N?!」
言われて、イルは最近増えてきた苦笑を浮かべる。
ませているな、と思わないこともない。だが、どうせ彼らが自分のような年増を相手にしてくれるのも、同世代の素敵な少女たちと出会うまでのことだろう。
だったら、少しくらい、“お姉さん”として応えてあげてもいいのかもしれない。
「ほら、イルが困ってるだろ?」
「む、そうか? イル、やはり――」
「……で、いいなら」
「――え?」
口づけには、意味がある。どこかの劇作家が考えた物だったとイルは覚えていた。なお、調べたときの相方は留学先のズッ友、アカギである。ぶっちぎりの黒歴史だ。
その内容を、イルは少しだけ反芻する。
唇なら愛情。
頬なら満足感。
手の上なら尊敬。
閉じた瞳なら憧憬。
では、額なら?
答えは、“友情”の口づけだ。
「額なら、いいよ」
Nとトウヤは、とたんに無言になる。
そしておもむろに互いに向き合い、雪玉を作り始めた。
「イル! 俺が勝つ!」
「イル。勝利をキミに!」
それが合図だったのだろう。
そっとよりそうセクトに腰掛け、イシュタルを抱きしめて見学の姿勢に入るイル。そんなイルに良いところを見せようと、雪玉を投げ合う二人。そういえば勝利条件は何だったのだろうか? そう疑問に思うも、もう質問できる雰囲気ではなかった。
「イシュタルはあったかいね。もちろん、セクトも」
イシュタルはイルの言葉に、嬉しそうに身を捩る。
セクトルも、イルの勘違いでなければ喜んでくれているようだ。
思い返せば、激動の一年であった。
就職氷河期から、迷い込んだプラズマ団。
年下の男の子と旅をして、謎のポエマーに昇格。降格?
気がつけば色々なことの中心人物になっていて、こうして丸く収まったのは奇跡のような偶然の連続だった。
「雪解けとともに闇は流れる。陽光と共に絶望の夜は終わる。希望の曙光は――と、危ない危ない」
振り返っていたせいか、ポエム調になっていた。
気恥ずかしく思いながらも、誰にも聞こえていなかったことにほっとする。もう、謎のポエマーの称号は捨て去りたい。
「さて、と。行こう? イシュタル、セクトル」
立ち上がり、二匹に手を伸ばす。
歩く先には、ダブルノックダウンして、仲良く倒れ伏すトウヤとNの姿がある。そんなに喜んでくれるのなら、健闘賞として二人に唇を落としても、流石にショタコン呼ばわりはされないだろう。
微笑むイルに、トウヤとNは気がつかない。
ただ彼らを見守るポケモンたちだけが、楽しげに身体を揺らしていた。
さぁ、日常を始めよう。
新しい春を、幸福で彩るために――。
――了――
長い間、応援ありがとうございました。
これにて完結です。