春の月 三十日
休まずに旅をしてきたので、この辺りで休憩をしようということになった。
その間、ライモンシティで遊び倒したせいで日記を書く暇がなかったが、仕方がないということにしよう。遊んだ、以外に書くこともないし。
初心に帰ると学んだおかげで、大人らしい羞恥心をほとんど覚えずに遊び回ることが出来た。それには、一緒になってはしゃいでくれたトウヤの存在もあるのだろう。
そうして遊び倒した私たちは、春の月の最後にライモンシティを出ることになった。思えば旅を始めて、今日で一週間。あっという間だったように思える。
まぁ先は長いのだし、感傷に浸るのはまだ早いというものだが。
それはともかく。
ライモンシティを出た私たちは、カミツレの協力で跳ね橋を渡ることになり、その途中で久々にチェレンに会った。せっかくなので四人――なんと、カミツレ自ら先導してくれた――で跳ね橋へ向かったのだが、思わぬ人物に遭遇することになった。
その、アデクと名乗る中年男性は、なんとポケモンリーグの現チャンピオンなのだそうだ。こんなところにいるということはよほど暇なのだろう。そう考えると、チャンピオンとは相当楽な仕事なのかも知れない。もっとも、過程を度外視すれば、だが。
そんなチャンピオンを見て不真面目だと思ったのだろう。チェレンが食ってかかったが、逆にやりこめられてしまった。年の功だろう。流石に、口で勝つのは無理か。
アデクさんは同じような問いを、トウヤと私に対しても投げかけた。トウヤもまだ答えに窮してしまうようだが、彼は強い子だ。もうある程度自分の中に形が出来ているのだろう、自分の意思をハッキリと告げると、アデクさんを真っ直ぐと見返していた。
私は、アデクさんに問いに対して少し困ってしまった。言ってしまえば、私の目的は自分の食い扶持を稼ぐことだ。だが、純真な子供達の前でそれを言うのも憚れる。仕方なく、社長直伝の“遠回しで解りづらい”説明で、もっともらしく食い扶持稼ぎと告げることにした。ようは、「今を生きる」的なことを言っておけばいいのだ。
社長のおかげで言い回しに慣れていた私は、子供達の夢を壊さずにアデクさんを納得させることが出来た。アデクさんは最初は難しい顔をしていたが、直ぐにはっと気が付いてくれた。私の回りくどい言い方の裏に隠された本音に気が付いてくれたのだろう。
チェレンに詳しく聞かれ言い淀みはしたが、それでも詳しく言おうとせず「自分で考えろ」と言ってくれたアデクさんには頭が下がる。きっと彼らも、大人になったときに私の言葉の意味を理解して、笑ってくれることだろう。もっとも、その時までには私の言葉なんか忘れてしまっていることだろうけれど。
チャンピオンと別れた私たちは、跳ね橋を渡り、次の街に向かった。だが、何故か跳ね橋の側まで来ていたジムリーダーに遭遇し、面倒ごとを押しつけられてしまった。
なんでも、プラズマ団が彼らに迷惑を掛けて、そのまま逃げ去ってしまったのだという。そのプラズマ団を捕まえれば、ジムリーダーに挑ませてくれる。ギブアンドテイクとは言うが、ジムに挑むのは我々トレーナーの権利だったと思うのだが……まぁ、放っておくわけにもいかないので、探し出すことにした。
あっさりと見つけたはいいが、コンテナで震えていたのは七賢人の一人と名乗る大物だった。プラズマ団の重役に反意をもつものがいたことは驚きだが、それならいつまで経ってもあぶり出しが終わらないのも頷ける。社長に、重役の意識強化を徹底して貰うよう連絡しておかないと。
とにかく。
私たちはヴィオと名乗る重役をさっさと撃退。「おまえは、いや、あなた様はまさか」とか言われたが、私以外に聞かれた様子はないのでさっさと撃退。こんなところで査察官だと他の社員にまでばれたら、査察がやりにくくなってしまう。
意気消沈とするヴィオを引き渡すと、いよいよ、とヤーコンに挑戦することに。チェレンは万全を期す為に鍛えに行ってしまったが。
さて、ジムリーダー戦だが、一言でいえば「いつもどおり」だった。
相手方が中々硬く、またもや普通の戦いとなった。というのも、攻撃特化イシュタルレベル四十二が孤軍奮闘してくれたからだ。私のこざかしい戦い方に順応してくれるイシュタルには、頭が下がる。
そんなこんなでジムリーダー戦を突破した私たちは、カミツレさんの推薦もあり、電気石の洞窟の通行許可を認められた。とりあえず今日はホドモエシティで休んで、明日からはまた冒険だ。
そう意気込んでいたのだが、チェレンに呼び止められてしまった。なんでも、ヴィオが言っていた言葉を聞いてしまったようだ。
流石に、大人の世界の暗部を見せたくはない。なのでやっぱり遠回し気味にはぐらかすと、納得はしていないようだが呑み込んでくれた。一応トウヤの味方であることは強調しておいたので、そのおかげだろう。
どうでもいいが、チェレンは将来恋人が出来たら、割と簡単にやりこめられてしまう気がする。お姉さんとしてはそれが少しだけ心配だ。まぁ、余計なお世話だろうが。
追記。
ついでにイシュタルと交友を深めていたら、宿に戻るのが少し遅くなり、トウヤに心配したと怒られてしまった。なんでも、プラズマ団が押し寄せてきたらしい。普通は逆だと思うのだが、彼も一人で寂しかったのだろうと思うと、反省せねばならない気がしてきた。
まだまだ独り立ちするには若すぎるのだし、故郷の家族に会えない分、私が彼の寂しさを紛らわせてあげよう。
春の月 未知なる未来、既知せぬ機知
今日までの怒濤の日々を抜け、トウヤはライモンシティで三日間も過ごすことになった。というのも、大人びた表情を捨て年相応の少女のようにライモンシティで遊び回るイルの姿に絆され、この時間を一秒でも長く、と望んでしまったことが原因だった。
けれど、いつまでもそうしている訳には行かない。幸いにもイルの方から旅の再開を告げてくれたため、トウヤはこの幼い少女を無理に“楽しいこと”から引き剥がさずに済んだことに安堵の息を吐きながら、街を離れることになった。
そんな折り、カミツレの協力の下、跳ね橋を渡ることが出来たトウヤは離れていた友の顔を見つけ、思わず頬を綻ばせることとなった。
「チェレン!」
「トウヤ……まだ、彼女と一緒なのか」
チェレンがそういうと、トウヤはついつい苦笑を零してしまった。人見知りで常に他人を警戒している。そういえば聞こえは悪いが、ようはトウヤを心配しているという事になるのだ。
トウヤとしては、早くイルのことを認めて欲しい。だが、そう思う半面、そうまで気に掛けてくれるチェレンの気持ちが嬉しくもあった。
「いずれ、チェレンもわかるよ」
「彼女の魅力が、かい?」
「いや、それもあるけど、それだけじゃない」
何故、自分がイルとともに在るのか。
彼女の側にいるだけで、トウヤは自分以上になれる。自分の限界を超えて、もっと頑張ることが出来る。えらそうなことを言って置いて、その感情の名前をトウヤは知らない。けれど“それ”は魅力なんて言う言葉では片付けることが出来ない者だと、トウヤはそう考えていた。
「どうしたの? トウヤ」
「あ、ごめんイル」
チェレンに駆け寄っていた為に置いていかれていたイルが、のんびりと歩いて合流してきた。そんなイルにトウヤは置いていったことを謝る。
「チェレン、だったよね? 久しぶり」
「ああ……久しぶり」
未だ警戒心を拭えない様子のチェレンに、トウヤは苦笑する。対するイルがチェレンの反応を気にもしていないように見えるため、イルの方がチェレンよりも“大人”に見えることが、トウヤは少しだけおかしく感じた。
「その子も、一緒に行くの?」
そうしていると、イルの更に後ろから声が響いた。跳ね橋を上げる為に協力を申し出てくれた女性、ライモンシティのジムリーダーであるカミツレだ。
「ええっと、はい。チェレン、カミツレさんが跳ね橋を上げてくれるって言ってくれたんだ。チェレンも一緒に行くよな」
「カミツレさん……、……はぁ、わかった」
チェレンはイルとカミツレと跳ね橋を交互に見て幾らか逡巡すると、やがて諦めたようにため息を吐いて頷いた。トウヤはそんな彼を見て、どこか嬉しそうに笑う。
トウヤはこの心配性で一本気な友達のことが、これでけっこう好きなのだ。
――†――
跳ね橋を抜けると、様々な人達が賑わいを見せていた。大道芸にストリートライブと、どれもトウヤにとってブラウン管越しの光景でしかなかったものたち。その賑わいに、トウヤだけでなく、イルやチェレンも目を奪われているようだった。
このまま通り抜けるには、少し惜しい。そうトウヤがカミツレに話すと、カミツレは快く頷いてくれた。
「お忙しい中、ありがとうございます」
「いいのよ、イル。興味を惹かれる気持ちはわかるもの」
「はは、イルに先を越されちゃったかな。えっと、ありがとう、カミツレさん」
「ふふ、いいわよ、別に」
トウヤは、イルに先を越されてお礼を言われてしまったことを少し恥ずかしく思いながらも、直ぐに頭を下げる。そんな初々しい様子のトウヤを見て、カミツレはどこか楽しげだった。
「でも、せっかく見ていくならそこの自販機でなにか――あら?」
トウヤたちの態度に気をよくしたのか、カミツレはデパート側の自販機に笑顔のまま立ち寄ろうとした。けれどその途中で不意に一点を見つめ、立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「アデクさん――こんなところでなにを?」
不審に思い声をかけたチェレンの言葉を遮りながら、カミツレは視線の先の人物に声をかける。
何事にも動じないように見えたカミツレを動揺させるほどの人物が、彼女の視線の先にいる。その事実に、トウヤは首を傾げながらも、好奇心のままに彼女の視線の先を追った。
「んむ? おお、カミツレか。久しいな」
「ええ、お久しぶりです、アデクさん」
「そちらの子たちは?」
「ジムの挑戦者――いえ、ライモンまでに限れば、ジムの勝者です」
「ほう。では、彼らはチャンピオンを目指しているのか」
「ええ。みな、才気に溢れた“イイ”ものたちですよ」
「はっはっはっ、そうかそうか。それはなによりだ」
ボサボサの赤い髪。それから、ガッシリとした身体。アデクと呼ばれた大柄な男は、カミツレを見ると野性味溢れる笑みを零した。
「彼はどなたですか?」
「あ、ああ、ごめんなさい」
話に置いていかれそうになり、チェレンが慌てて声を上げる。それに付随して、トウヤもイルの手を引いて慌ててチェレンの隣りに立った。
「彼はアデクさんといって、ポケモンリーグの現チャンピオンよ」
『えぇっ?! この人が、チャンピオン!?』
思わず、チェレンとトウヤの声が重なる。
トウヤの、というより一般の少年たちのチャンピオンへ持つイメージは一定だ。まだ見ぬ憧れの座にどっしりと座る姿か、もしくは洞窟や遺跡でポケモンを鍛えていたり、毅然と悪へ立ち向かっている姿だ。
けれど、目の前のアデクに、そのような“イメージ”は当て嵌められそうになかった。なにせ彼は、雑踏に紛れ込んで大道芸に一喜一憂していたのだから。
「――チャンピオンが、何故こんなところで“遊んで”いるのですか?」
その声に名前を付けるとしたら、“失望”だろうか。苛立ちを孕んだ親友の声に、トウヤは思わず目を剥く。
「ははははっ、遊んでいる、とは手厳しいな」
けれどそんなチェレンの失礼、ともいえる発言は、アデクの笑い声に遮られた。
「ワシはこのイッシュを旅している。故に、この地で知らぬものは無い。例え、どんなポケモンの声だろうと、ワシの耳と目と肌は感じ続けているのだよ」
そう断言したアデクの表情は、不思議と力強さに満ちていた。己の在り方に、誇りを持っている。力強い瞳からは、そんな意思の力がありありと見える。
その瞳に押されて、チェレンはぐっと押し黙ってしまった。
「キミたちはチャンピオンになってなにを望む? なにがしたいのかな?」
アデクはそう、力強さの中に温かさを秘めたような表情でそう語りかける。それに、チェレンは真っ直ぐと見返すことも出来ず、唇を噛みながら俯いた。
「……チャンピオンになる。……その先が、必要なんですか? 強さを求めるから、チャンピオンを目指す。それだけです」
「それではいかん。手に入れた力で何を成すか。何を為したいと願うのか。その方向性を定めなければ、力はただ暴走する。なんでもいい。やりたいことを見つけなさい」
「やりたいこと……それがわからないから、強くなって、みんなに認めて貰おうとしているんじゃないか」
そう言ったきり俯いてしまったチェレンを、トウヤは心配そうに覗き込む。けれどアデクの質問は、まだ終わった訳ではない。続いて、その矛先はトウヤに向けられた。
「キミはどうだ? チャンピオンになって、なにがしたい?」
「俺、は……」
言われて、Nの顔が脳裏を過ぎる。ポケモンの解放を求め、何度も自分に“問いかけて”きた、友達になりたい少年。彼の純粋すぎる問いかけは、何度もトウヤを揺さぶった。
その問いに対する答えを、トウヤはまだ、持っていない。
けれど、思うことはある。漠然と、言葉に出来なくても、胸の裡に燻る、篝火のような想いがあった。
――あの夜、月の下で見た、鮮やかな炎のように。
気が付けば、トウヤはイルの手を握りしめていた。その手が小さく、自分を安心させるように握り返してくれただけで、トウヤの心の炎が僅かに大きくなったような気がして、トウヤは微笑む。
「わかりません」
「ほう?」
そう、力強く前を向くトウヤに、アデクは面白そうに笑う。
「でも、考えるのを止めたくありません。だから、強くなります!」
「くっ、ははははっ、そうか、そうか! それは重畳! ならば大いに悩め、少年よ!」
「はい!」
あまりのことに、チェレンもカミツレも、ぽかんと口を開けて固まってしまう。そんな中、ただ、イルだけがほんの僅かに微笑んでいる。そのことが、トウヤはたまらなく嬉しかった。
「ふぅ――さて、キミで最後だな」
アデクがそう言うと、トウヤとチェレンは不思議と身体が強ばった。いったい、何故チャンピオンを目指すのか? トウヤはイルに対してそんな疑問を抱いたことは無かった。
いや、聞く機会はこれまでいくらでもあった。けれど何故だか言い出せずにいたことだった。
いったい、どんな答えが返ってくるのか。自然とトウヤの手から抜け出していたイルの小さな指が、彼女の唇に当てられる。そして彼女は幾分か瞳を伏せると、やがて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「――夜空に雲が浮かべば闇に覆われるように、日が昇れば大地が焦がされるように」
唄うような、美しい声だった。
「芽が出れば木が伸び、種が落ちれば鳥が啄み、鳥が墜ちれば獣に喰われるように」
頭の中に、“唄”が映し出される。トウヤはその事実を、自然と受け入れる。彼女の唄は、それほどまでに人に“イメージ”を喚起させる力に満ちていた。
「世界はただ、自然に流れる。けれどただ蒙昧に俯いていては、獣は墜ちる鳥を見つけられない」
そうだろう。動かない物に自然の摂理は与えられない。動いてこそ得られる“当然”なのだ。それは、まだ経験の浅いトウヤにだって、理解出来る。
「だから私は、上を見なければならない。例えそれが定められた道だとわかっていても、歪めることが出来ないのなら、私はただ足掻かなければならない。それが唯一、己を保てる方法だから」
それでは、まるで――チャンピオンになって当然でなければ“ならない”ようではないか。そう想いながら、トウヤはアデクを見る。するとアデクは幾分か逡巡したと思うと、当然、はっと目を瞠った。
「――まさか、P2ラボの?」
アデクの呟きが、ほんの僅かに耳に響く。けれど直ぐに風にかき消え、なんと言ったのかわからなくなってしまった。
「イル? それはいったいどういう」
「まぁ待て、少年」
イルに詰め寄ろうとしたチェレンを、アデクが止める。
「彼女の言った意味は、己で考えてみると良いだろう。彼女が確固とした意思を胸に抱いているというのならば、キミたちは己の胸から導き出した“答え”によってそれを知らねばならん」
「わかり、ました」
言われて、チェレンは渋々とではあるが引き下がる。そして、イルを見て幾らか逡巡し、直ぐ目を逸らしてしまった。
トウヤは、アデクがなにに気が付いたのかわからない。けれど少しだけ、トウヤにもわかったことがあった。それは、イルはチャンピオンにならなければ“ならない”のだということだ。
いずれ、己の夢の為に、トウヤはイルとぶつからなくてはならないだろう。その時にイルに対峙することができるのか。トウヤはイルの背中が酷く儚いもののように見えてしまい、ただ強く拳を握り込んでしまった。
――私はただ足掻かなければならない。それが唯一、己を保てる方法だから。
イルの言葉が、声が、“唄”が、耳から離れない。トウヤは心配そうに己を見上げるイルに無理矢理笑顔を作ると、ただ、彼女の手を強く握ってアデクの元を離れるしかなかった。
――†――
跳ね橋を降ろしたせいで、捕まえていたプラズマ団員が逃げた。それを捕まえなければならないという状況に、チェレンは思わずため息を吐く。
事の始まりは、橋を渡った後、ホドモエジムのヤーコンという男に出逢ったことにある。彼はプラズマ団員が逃げたと知るや否や、すぐさまチェレンたちに“提案”を突きつけた。
『奴らをつかまえたら挑戦を受けてやるよ。世の中ギブアンドテイクだ』
そう言われてしまえば、動かない訳には行かない。
「こんなところで、時間を潰している余裕はないのに……っ」
自分と同じスタートをして、けれど自分よりも力強い“答え”をアデクに突きつけたトウヤ。自分よりも幼いのに自分よりも強く、確固たる意思を持ったイル。こことは違う場所に居るであろうベルも、チェレンよりもずっと力強い意思を持っていた。
周囲に、置いていかれようとしている。それがチェレンの抱える、“焦り”の正体だ。
「僕は、いったい何がしたいんだろう……?」
一緒に行こう。笑顔で手を取ってくれたトウヤに首を振り、拒絶したのはチェレン自身だ。手分けした方が効率が良い。そう告げたチェレンにトウヤは笑って『さすが、チェレンだ』などと言ってくれたが、別れた理由はそんな高尚の物じゃない。
ただ、チェレンは嫉妬心からトウヤの元を離れた訳ではない。焦りもある。だが、それを差し引いたとしてもチェレンにとってトウヤという少年はかけがえのない友人だ。
なら、何故、チェレンはトウヤの元を離れたのか。答えは単純だ。
「情けないな、僕は。あんな小さな少女が――イルが、“怖かった”なんて」
翠玉の瞳に射抜かれて、チェレンは目の前が僅かに霞んだ。強大な力を持つポケモンをモンスターボールに入れもせずに連れ歩き、ただ気配だけで大の大人を震え上がらせる。その姿に恐怖せずには、居られなかった。
『いずれ、チェレンもわかるよ』
わかるはずない。親友の言葉を思いだして、チェレンはそう自嘲する。いったい彼女にどんな魅力があるというのか、チェレンは解りたくもなかった。
けれどだからといって、トウヤからイルを引き剥がすことは出来ない。そんなことをすれば、あの誰よりも心優しい少年は深く傷ついてしまうことだろうから。だから、チェレンは言い出せずにいた。
「臆病者の僕に、いったい何が出来るんだろう?」
チェレンは親友を助け出すことの出来ない歯がゆさから、ほぞを噛む思いで走り出す。なんでもいい。この状況を打開するような“答え”が知りたくて、チェレンは奔走していた。
「見つけた!」
「!」
そんな折りに、想像していた友の声が響く。慌てて近くのコンテナに乗り込むと、そこにはプラズマ団員たちと相対するトウヤとイルの姿があった。
「トウヤ、加勢する!」
「チェレン! ああ、頼む!」
チェレンはジャノビーを繰り出すと、トウヤに並ぶ。チェレンとしては不服だが、フタチマル、ジャノビー、メラルバの水と草と火のトリプルバトルは非常に相性の良い物だった。
襲いかかるプラズマ団員を切り抜け、奥で震えていた七賢人の一人と名乗るプラズマ団員の幹部、ヴィオの喉元にポケモンを突きつける。
「さぁ、もう逃げられないぞ、ヴィオ!」
チェレンが来るまでの間にどんなやりとりがあったのか、チェレンは知らない。けれどこうまで追い詰められていると言うことは、“悪い人間”なのだろうということだけはチェレンにも察しが付いた。
「ぐ、ぐぬぬぬ。ええい、おのれ小娘ェェェッ!!」
追い詰められたヴィオは、一番組み敷きやすいと思ったのか、または一番近くに居たからか、イルに襲いかかった。その光景にトウヤが動き出そうとするよりも遥かに早く、メラルバの【ニトロチャージ】がヴィオに炸裂する。
「イシュタル」
イルは、ただ一言告げただけ。通常のトレーナーではあり得ない、指示。たったそれだけでメラルバはイルの意思を汲み取ると、【いとをはく】によってヴィオを締め上げた。その流れるような手さばきにプラズマ団員すら見惚れる中、ヴィオが、小さく呟く。
その声を、偶然、チェレンは耳にする。
「おま……まさか……は」
断片的にしか聞こえない。けれど自分の抱く恐怖を解き明かす“鍵”がそこにあるのならば、と、チェレンは必死に声を聞き取ろうとして――ヴィオに追い打ちの炎が迫る寸前、その声が響いた。
「――“紅蓮の断罪者”」
ごうっと強い炎に包まれて、ヴィオの身体が落ちる。その光景を、チェレンはただ呆然と見ていた。
――†――
チェレンの足に、迷いはなかった。
ヤーコンとのジムリーダー戦を終え、宿に戻ろうとするイル。ヤーコンと話をしているというトウヤよりも一歩先に帰ろうとする彼女を引き止めるのは、さほど難しいことではなかった。
「ヴィオの言葉を聞いた」
たったそれだけ告げただけで、イルは足を止める。
「……そう」
聞かれてしまったことに何を思っているのか。チェレンは、緩く目を伏せた彼女に詰め寄る。
「キミは、いったい何者なんだ? 何者でもない、だなんて答えは受け付けない」
「私は何者か、か」
チェレンの言葉に、イルは初めて瞳を揺らす。その瞳が何故だか悲しげで、チェレンはどうすればいいのかわからなくなってしまった。何を言っても、いつものように無表情で、毅然とした答えだけを持つのではなかったのか。
そんな疑問が、チェレンの中を駆け巡る。
「私は私。けれど、私で居てはならないときもある。使命、宿命、運命。命運を賭けるときはいつも、私は私で居てはならない」
「き、キミは――誰の味方なんだ?」
「ひとつだけ、言えることがある。私はどうあっても、トウヤを裏切らない。だからお願い――それだけは、信じて」
イルの言葉に、チェレンは目を伏せる。
使命、運命、宿命。その全てが、簡単には退けられない物だ。そしてヴィオの言った言葉――“紅蓮の断罪者”という、名。その全ての意味するところは、ひどく単純な物だ。
おそらくイルというこの幼い少女は――プラズマ団と“戦わされて”いる。それも、とても“正義の味方”とはいえないような連中の元で。
「わかった。けれどキミがもしトウヤの敵に回るというのであれば、その時は――」
「ええ、わかっているわ」
「――なら、いい」
彼女がなんのために動いているのか、はっきりとしたことはわからない。けれど、と、チェレンは考える。
イルの背中が見えなくなり、モンスターボールを片手に夜空を見上げ、呟く。
「僕はいずれ、真実を見つける。やりたいこと探しも、彼女のことも、なにもかも――僕は、必ず自分の手で真実を見つけると言うことを、ここに誓おう」
チェレンの声に、揺らぎが無くなる。
この日、この夜、この言葉が、チェレンというひとりの少年の心が力強く一歩を踏み出した瞬間だった。
今回から未投稿分です。
紅蓮の断罪者は、プラズマ団員の査察官への陰口です。
何故か一般団員が零す陰口の類を知っちゃってる根が小心者のヴィオさん。
2013/03/19
誤字修正しました。