空物語   作:向ヶ丘こよみ

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2025.8.15 大幅な内容の変更と加筆修正


かけるキャンサー 其の貳

 005

 

 深夜零時。

 片田舎の更に外れ──街灯などは一切置いていない。夜の闇に全てが溶けている。

 月が僅かに僕達を照らしている。

 前世を含めてこんな田舎に住んでいる僕としては違和感を覚えたりすることはない。勿論、こんな夜の闇には大抵何かが巣食っている場合が多い。この街も、前の街も、内と外の区分けがなくなるほどには危険な時間帯である。

 兎も角。

 僕達は自転車を走らせ──戦場ヶ原さんは自転車を持っていないので、阿良々木の後ろに乗っている──学習塾跡へと辿り着いた。

 その入り口に忍野さんは既にそこで待っていた。

「……え」

 その忍野さんの装束に戦場ヶ原さんが驚く。

 忍野さんはアロハシャツを既に着替え、頭髪も整え、全身白ずくめの浄衣に身を包んでいた。

 黒い闇の中で映える服装である。見つけやすいと言うべきか。

「忍野さんって神職の方だったんですね」

「いや? 違うよ? その道の職にはついてないよ──大学の学科はソッチなんだけど、思うところあって」

「思うところ?」

「まあ色々さ。何、それでも心配はしないで良いよ。これでも付き合い方は心得てる。無作法でもって台無しなんかにはしないよ。お礼ももらう事だしね」

 お礼というかお札だが。

「一応確認しておくけど、お化粧はしてないかい?」

「しない方がいいと思ってしてません」

「そ。正しい判断だ。阿良々木くんと羽川くんも体は洗ってきたかい?」

「ああ。問題ないよ」

「僕も大丈夫です」

「ふうん。羽川くんは水も滴る、だけど、阿良々木くんは代わり映えしないねえ」

「余計なお世話だ」

「じゃ、さっさと済ませちゃおう。三階に場を用意したから」

「場? ですか」

「うん」

 忍野さんを先頭に階段を進んでいく。

 僕はその後をついていき、少し遅れて二つの足音が後ろから響いてきた。

「さっさとって、そんなに早く済ませられるのか?」

「こんな深夜に未成年三人を連れ回してるなんて世間体が悪いからね」

 いや、ホームをレスしている状態でよっぽど悪いと思うが。

「じゃあ、その蟹は手早く退治できるのか」

「退治って、相変わらず考え方が乱暴だなあ阿良々木くんは。さっきも言ったけど、今回はケースが違う。委員長ちゃんのときや阿良々木くんの時と、悪意や敵意を持ってるわけじゃない」

「相手は神様ってことですか」

「ま、そういう事。だからこうやって平和的に解決をしようとしてるんだよ」

 さて着いたよ、と。

 忍野さんは妙に照っている部屋へと入る。

 しばらく暗闇にいたせいで一瞬目が眩んだ。

 そこには儀式然とした空間──扉を潜った瞬間に分かった。ここは既に神前だ。

「さ、頭を低くして。神様は僕ら人間を、人間がいるとしか認識はしないけれど、事礼儀とあっては話は変わる。群れの中に澱みがあればすぐに気が付いてしまう。神様は大雑把だけれど──」

 ──さて、と。

 頭を下げる僕らの前に忍野さんは立つ。

「これを」

 差し出されたのは透明な液体──臭いからして日本酒だろう。それが手のひらサイズの平皿に入っている。

「私、未成年です」

「お酒を飲むと神様との距離を縮められる。ま、ちっとだけ」

 言い方からして御神酒だろう。僕がそう言うと、少し考え込んだ後戦場ヶ原さんはそれを口に含んだ。嚥下し、少しの間があり平皿は忍野さんに返還される。

「さて」

 渡された平皿を神棚へと戻す。

「落ち着くことから始めよう。大切なのは状況、その場だ。場さえ作ってしまえば作法は問題じゃない──最終的にはお嬢ちゃんの気の持ちよう一つなんだから」

「気の持ちよう……」

「そう。リラックスして。警戒心を解くことから始めよう。此処は自分の場所だ。キミがいて、当たり前の場所。頭を下げたまま目を閉じて──数を数えよう」

 すう、と。この瞬間だけ、僕と阿良々木、そして戦場ヶ原さんの息を呑む音が重なった。

「一つ」

 雰囲気にのまれるように、頭が自然と下がっていく。

「二つ」

 蝋燭の炎が揺めく。空気が徐々に冷えていくような錯覚を覚えた。

「三つ」

 四月の半ば──寒いといえば寒いが、しかしこの冷えようは異常に思える。

「四つ」

 ほんのり周囲を見渡す。儀式のメインは戦場ヶ原さんだ。気をあまりはらないようにしなければ。

「五つ」

 忍野さんが数えるたび、蝋燭の灯が揺れるように錯覚する。一見頼りないが、窓のないこの空間で、それは今この場においては確かな明かりだ。

「六つ」

 次いで阿良々木を見る。彼はどうやら落ち着いているらしい。薄寒さを感じている僕とは真逆だった。

「七つ」

 戦場ヶ原さんを見る。微かにその小さな肩が震えているように見えた。

「八つ」

 再び前へと視線を向ける。忍野さんも阿良々木と同様、やはり落ち着いているように見えた。

「九つ」

 数えが終わる。何が始まるのだろうかと、胸中少し穏やかではない。もうすぐカウントダウンは終わろうとしていた。

「十」

 空気が平たくなる。息を吸い、丁寧な雰囲気で、忍野さんは「落ち着いた?」と、戦場ヶ原さんに問うた。

 その言葉に彼女は、さっきよりも明らかに平坦な、それでいて落ち着きを取り戻したらしい。なるほど。気の持ちようでこうも変わるか。

「はい」

 一呼吸置いてそう答えた。

「そう──じゃあ、質問に答えてみよう。きみは、僕の質問に答えることにした。お嬢ちゃん。きみの名前は?」

「戦場ヶ原ひたぎ」

「通っている学校は?」

「私立直江津高校」

「誕生日は?」

「七月七日」

 忍野さんは、戦場ヶ原さんに背を向けたまま、淡々と、変わらぬペースで問いかけていく。対する戦場ヶ原さんも、頭を下げ俯いたままの姿勢だ。

「一番好きな小説家は?」

「夢野久作」

「子供の頃の失敗談を聞かせてくれる?」

「言いたくありません」

「好きな古典音楽は?」

「音楽はあまりたしなみません」

「小学校を卒業するときどう思った?」

「単純に中学校に移るだけだと思いました。公立から公立に行くだけだったから」

「初恋の男の子はどんな子だった?」

 何故か──その質問には、今までの勢いが消え、一瞬の間を置く。

「──言いたく、ありません」

「今までの人生で」

 忍野さんは、続けて、

「一番、つらかった思い出は?」

 遂に戦場ヶ原さんは、問いに詰まった。言いたくないことは言いたくないと。答えられそうなことを応えてきた彼女ではあったが、ここにきての沈黙。

 この質問にこそ、きっと意味があったのだろう。

 僕は、ちらりと忍野さんを見た。

「どうしたの? 言ってごらん。一番、つらかった思い出を聞いているんだ」

「……お」

 言いたくないと拒絶はできない。

 これこそが核心なのだろう。

「お母さんが──」

「お母さんが?」

「あいつらに殺されて、いなくなってしまったことです。」

 直後、戦場ヶ原さんの背が黒くゆらめいた。

 一つ、思い出した事がある。

 否、思い出したくないとそう思っていただけだ。記憶に蓋をしていた。

 熱に倒れた戦場ヶ原さんを、家が近く教師からの信頼はまあまあある良い子ちゃんだった事もあり僕が送って行った事があった。

 電話をしてみても家にいる筈の母が出ることはなくチャイムを鳴らし、出てきた女性こそ、戦場ヶ原さんの母親だった。

 ふと。

 戦場ヶ原さんの母親の顔を見た。

 戦場ヶ原さんに遺伝したのであろう端正できれいな顔、そして、ストレートな黒髪が大人になった戦場ヶ原さん、という言葉がまさにぴったりであった。ただ一つ。彼女とは似ても似つかない、眼。彼女の眼は、まるで何かに取りつかれているようで、狂信的で何かにいつでもすがっているような、そんな眼をしていた。

 だから僕はおまじないをかけた。それは僕が初めて教えてもらったおまじない──不安を軽くする、そういった類のものだ。いつの間にか戦場ヶ原さん母の目の焦点は僕に合っていた。ギョッとするような、そんな瞳孔の開き方をしていた。

 次の日。戦場ヶ原さんは学校を休んだ。きっと熱がひどかったのだろう。

 でもその次の日も、その次の日も。

 彼女は学校へこなかった。熱を拗らせたのか、と、クラスのみんなは言っていた。

 結局。

 戦場ヶ原さんは卒業式まで学校に来なかった。

「母は──私が丁度熱を拗らせた時、宗教団体の人達に多額の献金を渡していました」

 戦場ヶ原さんは語り始める。

「でも──」

「でも?」

「不思議なことに、ある日から母は私をちゃんと看病してくれるようになりました。まるで昔の母に戻ったみたいに……でも、奴らは母を逃がしませんでした」

「奴らは、脱会にも贄が必要だ、と。そう言って。扉の向こうで、母の、身体を」

「犯した?」

 戦場ヶ原さんは震えながら首を縦に振った。

「じっと。耳を塞いで、私は耐えていて、じきに、音が聞こえなくなって……リビング、に、行ったら。母の遺体、が」

 数秒の嗚咽と共に粘着性のある液体が戦場ヶ原さんの口から吐き出される。

 異臭が鼻を付いた。

 それでも、僕は耳を傾け続ける。

「……警察は殺人事件として立証して、そのあとその宗教団体の教祖が捕まりました」

「それはよかったじゃないか」

「……でも、お母さんはもう、帰ってきません。あいつらが捕まって、私には、私達には何も残りませんでした。多額の借金以外は」

 これだけの話が、直江津の町に伝わらなかったのは奇跡に近い。

 きっと彼女も口に出したのもはじめてなのだろう。報道もなく、被害は戦場ヶ原さんの家だけで済んだのもあったのだろうが。

 ただ、この場で僕だけが知っていた。

「あのとき、私が、私が代わりになっていれば」

「そう思う?」

「思います」

「本当に?」

「思います」

「だったらそれは、それこそが君の思いだ。どんなに重かろうとそれは君自身がずっと背負っていかなきゃならないものだ。他人任せにしちゃあいけないね」

「他人任せ──」

「目をそむけずに、目を開けて、見てみよう」

 ゆっくりと、それが明確な意思を持って現れる。

「あ、あああああああっ!」

 戦場ヶ原さんが大声をあげる。

 深海にすむような生物が独特に進化したのであろう節足、そして、その三対計六本の脚には台形のような体がついていて、それとは全く別パーツとして、はさみのような手を、それは持っていた。

 きっと戦場ヶ原さんにしか見えないはずであろうその体は、背景が透けている──所謂透明という奴だった。しかし所狭しと何かが描かれており、かろうじて見えるその姿を形容するならば蟹──。

「何か──見えているのかい?」

 変わらない様子で忍野さんは戦場ヶ原さんに尋ねる。

「あの時と同じ──蟹が。大きい、蟹が」

「そうかい? 僕には見えていないんだけどなあ。阿良々木くんは、何か見えるかい?」

「みえ──ない」

 今度こそ目を剥く。

 忍野さんにも阿良々木にも見えていない? 

 だとすれば、なぜ僕に──。

「何も、見えない」

「だそうだ。羽川君は?」

「あ、み、見え、ない。何も。僕には」

「──本当に?」

「……見え、ません」

「嘘ばっかついてんじゃねーよ。キミ、ずうっと見えてただろ」

 

 006

 

 俺にこんな目がついていると知ったのは、こうなる前の話だ。つまりは前世からの宿縁というわけで。

 色んな物が見えた。見えすぎて生きづらかった。

 そんな俺を拾った女は結局俺を殺すし、本当になんともまあ奇想天外な人生だったと今でも思う。だが、不思議なのはそんな目が羽川翔に成り代わったあとにも続いていたことだ。

 別にその体質で疎まれたことはない、そうならないように生きるのは得意だった。目も疼かない、けれど不思議なものが見えてしまう。ただ余計な手を突っ込んで状況をかき混ぜてしまう。それも悪い方向に。それが僕──羽川翔という男だった。その改善の兆しは、間違いなくあの「おまじない」からだった。今ならば思う。

 それを形容するのなら『油断』。

 僕にあれがずっと見えていた、と。戦場ヶ原さんは頭をあげてしまったのだろう。しかしそんな都合は神様に関係がない。瞬間。戦場ヶ原さんは後ろに跳ねた。

 いや、跳ねたのではない。あまりに驚異的な速さなので見逃してしまったが、蟹自体が跳ねたのだ。蟹はそのまま戦場ヶ原さんを神床とは逆の位置、後方にある掲示板へと叩きつけた。戦場ヶ原さん自身に重さがなかったのも相まって壁には徐々に亀裂が入っていく。

 蟹は何をするでもなく、徐々に、徐々に壁へと食い込んでいく。壁が崩壊するか戦場ヶ原さんが押しつぶされるか。否。結末はどちらにしろ。戦場ヶ原さんがこのままだと危ないというのは確かだ。

「やれやれ。せっかちな神さんだ。まだ祝詞もあげてないっていのにさ……というか壁になってやれって言っただろう? 阿良々木くん」

 忍野さんが落胆したように言う。

 格闘漫画の如く、クモの巣状に割られた壁に磔にされているその前に忍野さんは立った。

「よっこらせっと」

 蟹の脚をつかみ、軽く、まるで体重がないかのようにいともあっさり蟹の体を背負いなげる。

「大丈夫かい?」

 一応、といった様子で戦場ヶ原さんにそう聞く。面倒くさそうな口調だ。そして、蟹を見下しながら忍野さんはこういった。

「蟹なんて、どんなにでかかろうと、ひっくり返せばこんなもんだよな。こういう平たい物っていうのは踏みつけるためにしかないとしか僕には思えないんだけれど──さて。どう思う? 阿良々木くん。始めからっていうのは面倒くさいし手間がかかる──僕としてはこのままぐちゃりと踏みつけるのが手っ取り早いんだけれど」

「手っ取り早いって──ぐちゃりなんてリアルな音……たかが一瞬顔をあげただけじゃないか。あんな程度で──」

「あんな程度じゃないんだよ。結局こういうのは心の持ちようだからね。お願いできないならこうやって──」

 足に力を込めたのだろう。ギチギチと蟹の体が軋む。

「こうやって危険思想に手を出すしかないんだ。鬼や猫を相手してきたようにね」

「……潰しても大丈夫ならそうしちゃったほうがいいと思うんですけど」

 なるべく蟹の方に目を向けず、忍野さんの顔を見ながらそう尋ねた。

「まあ、うん。このまま踏みつぶしちゃったらこれはこれでお嬢ちゃんの悩みはすぐに解決するよね。形の上だけ──根っこだけは刈り取らない形の姑息療法って感じで。僕としては気の進むやり方じゃあないんだけど、この際それもありかもね」

「ありかもって──」

「それにね──」

 蟹の方に目を向け、自分より格下を、いわゆる見下すような──蔑むような目をして、こう言い放った。

「僕は蟹がとてつもなく嫌いなんだ」

 そう言って、足にさっきよりも力を籠め──

「待って」

 瞬間、壁の前に痛みで震えていた戦場ヶ原さんが制止の声を上げる。

「待って下さい。忍野さん」

「待つって──待つって何をさ。お嬢ちゃん」

「さっきは驚いただけだから──ちゃんと。できますから。自分でできるから」

「……ふうん」

 足を置いたまま、忍野さんは、

「じゃあ、どうぞ、やって御覧」

 と、戦場ヶ原さんにそう言った。

 その言葉を聞いた後に、おそらくは阿良々木の視点からではまるで忍野さんにやっているように見えるだろう所謂土下座を彼女はしていた。

 そして、深々と頭を下げ、

「ごめんなさい」

 と、謝罪の言葉を発し、

「それから、ありがとうございました」

 そこに感謝の言葉が続いた。

「でも──もういいんです。それは──私の気持ちで、私の思いで──記憶ですから、私が、背負います。失くしちゃ、無くなっちゃいけないものでした」

 最後には涙が混じったような嗚咽交じりの声で、

「お願いします。お願いです。どうか、私に、私の重みを返してください」

 そう、懇願した。

 祈った。

 一呼吸おいて、彼女は最後にこう続けた。

「だから。お母さんを──私の中に、返してください」

 その一言を最後に、忍野さんの足が、だん、と床にたたきつけられる。

 居なくなって、当たり前に戻ったのだろう。

 還ったのだ。

 その場には呆然と戦場ヶ原さんを見る阿良々木と、身じろぎもしないまま何も言わない忍野さん、苦虫をつぶしたような顔をする僕──そして、土下座の姿勢を崩すことなく泣きじゃくる戦場ヶ原さんが残った。

 

 007

 

「おまじないなんて千差万別あるけど、キミのそれは人を安心させるようなテクニックだったんだろう」

 テクニック、と忍野さんはそう言い切った。

 月が真上にのぼる頃。本日も快晴である。

 戦場ヶ原には無事体重が戻り、めでたしめでたしだったのだが、もちろん僕はそうもいかない。一つの家庭を駄目にした責任で眠れぬ夜を過ごし、次の日の夜。僕は同じ場所ににきていた。

「おもし蟹と奇しくも似たようなことをしようとしたんだね」

 思い上がりも甚だしい、と吐き捨て、「素人根性で手を出してんじゃねえよ」軽薄に、忍野さんは言った。

「でもようやっと、儀式のタイミングで思い出したわけだキミ、今も?」

今も(、、)見えています(、、、、、、)

 うっすらと。僕の視界の端に、それはいつでも佇んでいた。僕の思いを守るように、人間としての重さを彼らは負担してくれているのだ。

 あの日、僕は、重し蟹に出逢っていた。

 出会ったことも忘れて、しかし、体重の変化がなかったのは間違いなく、僕にとっての記憶がその程度(、、、、)だったわけだ。

 恥の上塗りとは、僕のために作られた言葉だったのかもしれない。

「じゃあ、ま、ちゃっちゃと始めようか」

 言って。忍野さんは昨日見た白装束のまま、やはり昨日入った教室へと向かった。

 僕もそれに倣う。

 ──同時に、視界にうっすらと映っていた影が今度は色濃く浮かんできた。

「お神酒は──必要無いみたいだね」

「ええ。あとは自分で」

「どうぞお好きに」

 言ってはいるが、その目線は僕の方に向いている。

 しかしその視線は監視というよりは見守っているように見えた。

「……ありがとう御座いました」

 頭は下げたまま、目の前の影に挨拶する。

「そして、すみませんでした。謝って済むことじゃ無いってのは分かってます。それは間違いなく僕の過ちで、禍根です」

 ゆっくりと、頭を上げる。

 影は、僕の目を捉えた。

「それでも、どれほど僕の中で小さかろうと、僕が持っていなきゃいけないものです。ありがとうございます。その預けていたものを、お返しください」

 ゆっくりと。一歩ずつ蟹は近づく。

 瞬きの後、その姿はかき消えた。

 ──そして、思い出した。

「キミ、おまじないを使うとき、本気で心配していただろう。初めて会った同級生のお母さん程度にさ」

 まじないは呪いにもなりうる。

 所詮その程度と言われてしまえばそのとおり。しかし本気でかければその効力は認知をも乗り越える。僕は、彼女の母に同情してしまっていたのだ

 だから、余計なことに手を突っ込んだ。

 戦場ヶ原さんの母は正気に戻り、歪んだ認知は正常に。しかし、それは間違いなく宗教団体の人間には関係のない話……どころか、余計なお世話だったはずだ。

 俺が、何もしなければ。

 彼女は少なくとも母親を失ってはいなかった。

「うまくいったかい」

「そうですね。少なくとも、彼女は」

「そりゃ重畳だ」

 ありがとうございました、と。忍野さんに頭を下げる。

 ひらひらと手を振って僕を見送り、教室のドアが閉じられた。

 階段を下り学習塾跡を出る。

 ……黄昏時を過ぎ、既に月があたりを照らしている。

「あれ」

 そんな夜遅くに、月明かりに照らされた戦場ヶ原さんが佇んでいた。

「戦場ヶ原さん。どうしてこんなところに」

「羽川くん。少し話があるのだけれど」

「……なんで今?」

「明日明後日は私病院にかかりきりなのよ。急に症状改善したせいでお医者様がどったんばったん大騒ぎ」

「まあ、バナナの皮で滑って転んで階段落ちるような体重の持ち主が急に健康体になったらそりゃそうなるわな」

「ちょっと待って頂戴。そのバナナの皮ってなに」

「いや、今朝阿良々木から聞いて」

「……後で灸を据えておく必要があるみたいね」

「で、話って」

「……そうね。この可憐な美少女を送りがてら話しましょう」

「本物の可憐な美少女は自分では言わねえよ」

 と、しばらく黙って並んで歩き、僕から声をかけようかと思ってやめてを数回繰り返したあたりで戦場ヶ原さんは重い口を開ける。

「私、中学生のころ貴方の事好きだったのよ」

「………………は?」

 突然何を言ってるのか理解できないままでいると、畳み掛けるように「下ネタとかそういうのを言う男の子っていうのはあなただけだったわ」といった。

 戦慄であった。

 いや、それはあくまで友好だと思っていた。まさかあの時の僕に対して恋愛感情というものを向けていたと思うと、顔が熱くなってくる。すっげえ恥ずかしい。

「けれど」

 一方戦場ヶ原さんは顔色ひとつ変えずに僕の目を見据える。

「貴方がお母さんを殺したと思うと、そんな感情一切消え失せてたわ」

「……お前」

 知ってたのか、と。

「オカルト的な相談を受けていたのは中学では有名だったし、それに、私あの時寝てはいなかったのよ(、、、、、、、、、、、、、)

 本当に、今思えば随分と少女だったものね、と戦場ヶ原さんは言う。

「それを言いにきたのか?」

「ええ。昨日の夜までは」

「夜?」

「夢にね、お母さんが出たのよ。私をずっと見てたって、私は私のせいで死んだって、羽川くんに挨拶をしたら、もう行くって言ってた」

「……なんだそれ」

 そんなことで、悪態もつかないのか。許せないんじゃないのか。

 そんな言葉に戦場ヶ原さんは無表情を貫いていた。

「ほんと、あなたってお節介な人」

「……恨言の一つでも吐いてくれりゃいっそ楽だったんだけどな」

 アパート前で別れ、押していた自転車に跨る。

 ……僕が彼女を好きだったか、と言えば否である。僕は彼女に、ただ単に妹の姿を重ねていたに過ぎなかった。女々しくも影を追っていた、前世に残してきた二人の妹の姿を。果たして彼女たちは今も元気にしているのだろうか。

 夜の風が肌を撫でる。微かに春の香りを帯びているが、徐々に夏を感じる季節。

 今はただゆっくり眠りたい気分だった。

 




これにてキャンサー編終わりです。
迷い牛まではかかるかも知れないしかからないかもしれないです。でもいつか投稿します。絶対に、必ず。それまで気長にお待ちください。
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