そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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正解者にはいろはすトートバッグが!
当たったりする企画だったら楽しいですね。



■26話 小揺るぎもしない鋼の理性

 

「え………」

 

扉を開けた先に立っていた人物。

対面したわたしは、中途半端な顔のまま固まってしまった。

 

「お、おっ……」

 

小柄な体格。

華奢で、柔らかそうなライン。

でも一部はすっごいボリューミーな──

 

「おっぱい…!」

 

「誰がおっぱいだし?!」

 

玄関先に立っていた()()()()は、わたしの呟きに憤慨したようにぺこんとチョップを放った。

 

厚手のコートに押し込められても一向に主張を止めようとしない、その魅力的なパーツ。そんなのが突然目の前に現れたものだから、つい混乱して、とりあえず目に入ったモノの名前を呼んでしまったのだ。

あまりと言えばあんまりなわたしのリアクションに、彼女はふんすっと肩をいからせている。その後ろにはフワフワのマフラーに口元を埋めた雪ノ下先輩の姿もあった。

 

「こんばんは。取り敢えずは大事ないみたいで安心したわ」

 

「雪ノ下先輩も…ど、どうして…?」

 

「…こんな時間だし、男一人で押し掛けるわけにもいかないだろ」

 

声のする方を見ると、寒そうに鼻をすする先輩が門の陰の暗がりから姿を現したところだった。携帯をひらひらさせているところを見るに、彼が二人を助っ人として呼び出したみたい。

もー!なんでそんなとこに隠れてるんですかー?感動のハグはいずこ…。

 

「えっと、その…。皆さん、夜分遅くにすみません…」

 

いつの間にか、縋るように伸ばされていたわたしの手。行き場を失って半端な高さを漂っていたそれをこっそり引っ込めると、結衣先輩が申し訳なさそうな面持ちで囁いた。

 

(ごめん、あたし空気読めなくて…。ずっと待ってたんだもんね…。ヒッキー前に立たせてなくてホントごめん…)

 

(お、お願いですから忘れて下さいよー!)

 

期待通り先輩が目の前にいたら、それこそ彼女達の目の前でやらかすハメになっていたかもしれない。他の女子ならいざ知らず、この二人相手となればまだまだ覚悟が足りてないし、そういう意味では結果オーライだったのかも。

 

「と、とにかく中へどうぞ…」

 

 

一度に三人もお客様が入れば、さすがに我が家の玄関も手狭になる。けれど一人では広すぎると感じていたわたしにとって、それは嬉しい窮屈さだった。

先輩方をリビングまで案内して、わたしは人数分の紅茶を用意した。

 

そう言えば、来客用のカップを使ったのはいつ以来だろうか。この前はダウンしてたからおもてなしどころじゃなかったし、他にお客さんなんて滅多に来ないから…。

いつからこんな寂しがり屋になったのだろうとカップを手にしんみりしていると、出された紅茶に息を吹きかけながら先輩が言った。

 

「お袋さん、今夜も仕事なのか」

 

「ええ、まあいつも通りですよ…。最近あんまり親の顔を見てない気がします」

 

「お母様、確か看護師をされているのよね。お父様もお忙しいのかしら」

 

「親父さんは単身赴任だろ。違うか?」

 

「えっ?そうですけど…。先輩に話したことありましたっけ?」

 

「なに、簡単なプロファイリングだ」

 

先輩はしげしげと辺りを見回している。

やだ、変なもの置いてないよね?洗濯物とかぶら下がってないよね?

 

「玄関の目立つところに男物の靴が無かった。家具の質なんかを見ても暮らしぶりは良さそうだし、収入が二口あると考えるべきだろう」

 

「…いっつもヘンなところで頭良いよね、ヒッキー」

 

「ヘンなところ言うな。専業主夫志望としては、ご家庭の内部事情には通じている必要があるんだよ」

 

「比企谷くん、ご満悦のところ申し訳無いのだけれど、余所様の家庭事情を勘ぐるのは、あまり品が良いとは言えないわよ?」

 

「バカな…こないだお宅訪問スレで見た鉄板ネタだぞ?」

 

「バカなのはその話題選びのセンスでしょう」

 

呆れたように息を付く雪ノ下先輩の言葉に結衣先輩と一緒になって笑っていると、なんだか身体の節々が軋むような感覚があった。

無意識のうちに相当力んでいたのだろう。こういうのは気が緩んだあたりで一気にくるものだ。しかし、これも安心できる状況になったのを身体が認めた証だと思えば、それほど不快な痛みでもなかった。

 

「ええと、それで…。一応さわりだけは聞いているのだけど、詳しい説明をお願いしても良いかしら」

 

「あ、はい…そうですね──」

 

 

* * *

 

 

事の経緯を一通り説明すると、彼らの反応は驚きよりも呆れの割合が多かった。毎日何かしら起こっているせいで、事件が起きること自体が日常化しつつあるのかもしれない。

 

「ピンポンダッシュか。これまた古い手口で来たもんだな。今日び小学生でもそんな暇じゃないだろ」

 

「子供の悪戯で許されるのは14才未満までよ。高校生の場合、確か迷惑行為防止条例あたりに抵触するんじゃなかったかしら。ただ、この手の案件で警察が動く事は殆ど無いらしいけれど…」

 

「その詳しさも俺に劣らず気持ち悪いと思うけどな…。何なのお前、法律マニアなの?」

 

「思うところがあって、刑法あたりを少し前から勉強しているのよ。具体的には春くらいからかしら。ほら、身の危険を感じる頻度が急に増したものだから」

 

「それ俺が入部した時期とバッチリ被ってますけど気のせいじゃないですよね?確か刑法には侮辱罪ってのもあるはずなんだけど、めっちゃ見逃してませんかね?」

 

「なはは…。あれっ?インターホン押されたって事は、いろはちゃん、相手の顔見たってこと?」

 

「いえ、それが…。なぜか機械の画面が真っ暗になっちゃってて…スイッチは入ってるっぽいんですけど…」

 

「なにそれ怖っ!オバケ?!幽霊?!」

 

「だったら手に負えないけどな。幸い、相手は人間だったらしいぞ」

 

先輩が差し出した手には、なにやら茶色い切れっ端が乗っかっていた。

 

「これ、ガムテープ、ですか…?」

 

「カメラ部分に貼られてた。映像を塞ぐだけならこれで十分だ」

 

試しに室内機を操作してみると、今度はちゃんと玄関の様子が映し出されていた。

うそ…ほんとにこれだけの事だったの?

 

「はぁ~っ…こんなの相手に逃げ隠れしてたなんて…。怖がって損した気分ですよーもー!」

 

「出なくて正解だろ。もし出たとしても、どうせ誰も居なかったと思うぞ。この手の行為は一方的な干渉が目的で、自分が矢面に立つ気は無いもんだ」

 

「そうなんだー」

「そーなんですかー」

「貴方が言うならそうなんでしょうね」

 

「そう鵜呑みにされるのもなんだかな…」

 

少なくともわたしにとっては信頼から出た言葉だったのだけど、そうは受け取られなかったらしい。先輩は納得がいかないと言った面持ちで、不満げに鼻を鳴らしていた。

 

 

お菓子をパクつきつつお喋りを続けていると、あからさまな態度で壁の時計を仰いでいた先輩が、腰を上げながら呟いた。

 

「さて…。少なくとも今日はもう来ないだろうし、俺はぼちぼち帰るわ」

 

「いやいやいや!せっかく来て頂いたんですし、夜道は寒くて危ないですし、もう泊まっていって下さいよー!結衣先輩、雪ノ下先輩も、お願いします!」

 

同性相手には泣き落としは通じないし、先輩はあざといと言って相手にしてくれないし…このメンバーにはわたしのおねだりが(ことごと)く通じないのだ。今回は頭を下げて、誠意を持ってお願いしてみた。

 

「ええと…どうする?由比ヶ浜さん」

 

「あたしはもちオッケー!電話だけしとくねー」

 

「私も別に問題はないけれど…。明日は月曜だから、朝は早めに起きて帰らないといけないくらいかしら」

 

「…だそうですよ?」

 

「いいんじゃねーの?女子同士、宜しくやってくれ」

 

先輩はこちらには見向きもせずにコートハンガーへと向かう。

しかしその伸ばした手は空を切ることになった。肝心の上着が横合いから奪われたからだ。彼は犯人にじっとりとした目を向ける。

 

「…何してんの」

 

「ヒッキーも泊まってくんでしょ?」

 

そう言って、結衣先輩はひったくった上着を胸元にしっかりと抱き込んだ。

ナイスアシストです!それなら先輩も手が出せませんね。その活躍に免じて、ちゃっかり匂いをクンクンしてるのも見逃してあげます。バレてないと思ったら大間違いですよ?

 

「いや泊まらんし。女子三人とお泊まりとかどんだけだよ、超キツいっての」

 

「私達の事なら心配要らないわよ?理性を失って人間でなくなってしまうのを懸念しているのでしょうけど、きちんと事前に通報しておいてあげるから」

 

「国家権力使うんなら俺より先に通報すべき輩が居るはずなんですけど?」

 

「ひゃーっ!やだー!妖怪ヒッキーマンになっちゃうんだー!あはははっ」

 

「ふふっ、先輩は理性を失うと獣じゃなくて妖怪になるんですかー?」

 

「なんか年中醤油作ってそうな妖怪だな。つか、それだとヒッキーの部分が人間じゃないみたいに聞こえちゃうだろ。ヒッキーもマンも思いっきり人間だからね?ありのままの俺って意味でしょそれ」

 

「成る程。要するに比企谷くんは元から妖怪だ、という事よね?」

 

「あはは、ゆきのんヒドいんだー!」

 

「由比ヶ浜、一応ツッコんどくけど最初に妖怪って言ったのお前だからな?」

 

先輩が言い返す気力を失って項垂(うなだ)れている。どうやら説得は成功した…のかな?

 

「てか、今さら気にする?もう一回しちゃったんだから、二回も三回も一緒じゃん」

 

ゆ、結衣先輩…それは一度許したらズルズルいっちゃう女の子の典型ですよ…。あと出来れば誘惑するようなセリフは控えて欲しいです。あーほら、先輩とかちょおキョドってるじゃないですかー。モヤモヤするなぁ…。

 

「わーったよ…警察じゃなくても小町には通報されそうだしな。どっちにしても平穏に過ごせないならもうこっちでいいわ…」

 

「ははーん。さてはわたしの家が気に入っちゃいましたね?そこら中、女の子の香りがしますしねー」

 

「いや、こっちに泊まればもう移動しないで済む分だけ楽だなーと。チャリかっ飛ばしてきたから疲れたし」

 

むむ…消去法みたいで気に入らないけれど、泊まってもらえるならこの際なんでもいいや。

今夜は数日ぶりに楽しい夜を過ごせそう。それに、もしかしたら先輩に手料理を振る舞うチャンスも巡ってくるかもしれない。あれの出番があるといいんだけど…。

 

キッチンに掛けられた先輩からのプレゼントを盗み見ながら、得意と言える料理が何か無いものかと、わたしは必死に考えを巡らせたのだった。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

何故だろうか。

なし崩し的に、またも一色の家に泊まることになってしまった。

 

この程度の事では小揺るぎもしない鋼の理性──があるのならば格好も付くのだが、いかんせん経験も度胸も甲斐性もない、単なる男子高校生であるところの俺は、実に分かりやすくソワソワしていた。

誰かが動く度にふわりと鼻をくすぐる香りとか、カップを傾けてこくりと鳴らす喉の白さとか、気が付けばそんなことばかりに意識が向いている。

 

間が悪いことに会話も途切れてしまい、俺はいよいよ居心地が悪くなってきた。やっぱり今からでも帰ろうかと思い始めたあたりで、自らのカップを干した一色が、その沈黙を嫌うかのように言葉を繋いだ。

 

「なにかゲームでもしましょうか。せっかく人数居るんですし」

 

「お、ゲーム!いいねー。占いとか?それともWii?」

 

「占いはゲームじゃねえだろ」

 

「女子的にはけっこう盛り上がりますけどねー、占い。ちなみに先輩のオススメはなんですか?」

 

ほほう、いろはす聞いちゃう?それ聞いちゃう?

俺は千葉県民に絶大な人気を誇る、とっておきを提案する事にした。

 

「んじゃ、総武線ゲ──」

「それはヤダ」

「それは却下」

 

経験者二人にシャットアウトされ、俺はすごすごと引き下がった。

 

何もやる前からそこまで嫌がらなくてもいいだろうに。一色なんかきょとんとしてるじゃん。案外クセになるかもですよ?

きっと二人は総武線ユーザーじゃないから楽しめないと思ってるのだろう。それも含めて千葉県民なら盛り上がれる良ゲームだというのに…。さてはこいつら、純粋な千葉ブランドじゃないな?由比ヶ浜の乳とか、絶対に北海道娘(どさんこ)の血が入ってると見たね(偏見)

 

「…比企谷くんに聞いたのが間違いね。由比ヶ浜さん、お任せするわ」

 

「じゃあねー……モノマネ大会とか!」

 

「も、モノマネですかぁー?ハードル高くないですかね…。雪ノ下先輩的にはアリですか?」

 

「私はこのさい何でも構わないけれど。先日の撮影を乗り切った身としては、何が来ても今更という気分ね」

 

「うっそお前、モノマネとか出来んの?

『どうして私がわざわざ低脳共の演技をする必要があるのかしら。見ていてあげるから、豚同士でせいぜい醜い争いをなさい』──くらい言うかと思ったわ」

 

「…まさかとは思うけど、その高慢ちきな性別不詳の変態は、私の真似のつもりかしら」

 

「我ながら会心の出来だな」

 

「病院に行きなさい」

 

ふ…この視線と罵倒を頂戴した後では、ゆるふわ族のクールボイスなんて春のそよ風のようだ。雪女族の冷笑、まじハンパない。心まで凍り付き、今にも粉々に砕けてしまいそうである。

 

「あーでもでもー、声や内容はともかく、雰囲気だけは出てるかもですよ!」

 

「うんうん、アリかナシかで言えばアリ!ヒッキーに座布団いちまーい!」

 

だろー?ほらー、分かるやつには分かるんですよー!

ちゃんと特徴捉えてる自信あるもん。

 

「…待って頂戴。貴女達は今のゲテモノと私との間に何らかの共通点を見出したとでもいうの?」

 

「まーまーゆきのん、ちゃんとあたしもゆきのんのマネしてあげるから!」

 

「いえ、そういう問題ではなくて…」

 

「2ばーん、由比ヶ浜結衣!ゆきのんのマネ、いっきまーす!」

 

「わー!ぱちぱちぱちー!」

 

由比ヶ浜はノリノリで自ら手を挙げると、髪を撫でつけたり肩を回したりと、それっぽい準備を始めた。

いやぁ、ビジュアルを似せる努力は無駄じゃないですかね。髪の長さも全く違うし、そもそも土台が違い過ぎる。ガハマ連峰を雪ノ下平野みたいに整地しようと思ったら、ドラゴン的なボールが七つくらい必要なんじゃないの?

 

「ちょっと由比ヶ浜さん、やめて──」

 

「んっん"…

『ワタシの名前は雪ノ下雪乃。好きなものは猫とパンさんと比企谷くん。苦手なものは犬と三浦さんと比企谷くんよ。いらっしゃい、奉仕部はアナタを歓迎するわ』」

 

「サラッ」と言いながら幻の長髪を風になびかせたのが止めとなったのか、ブッと一色が吹き出した。

 

「ゆ、結衣先輩ぜんぜん似てなーい!けど言ってることがおもしろっ…ずるいですよー、あはははっ!」 

 

「お前、それを本人の前でやるとか勇者過ぎるだろ…」

 

気のせいでなければ、比企谷くんが二回くらい出てきた気がする。もしや俺の知らないヒッキーが、他にも何人かこの部を出入りしているのだろうか。あるいは苦手な方の比企谷くんこそが俺で、好きな方の比企谷くんは別の人とか?そんなドッぺルゲンガー、確かに見たら死にたくなるな。

 

恐る恐る本人のご尊顔を確認してみると──おおう、俺んときより数段ヤバい顔ですね。南無三。

 

「突っ込みどころが多すぎて数え切れないのだけれど…残念ながらよく分からなかったから、先に聞いておくわね、由比ヶ浜さん。今のは一体、誰の真似かしら?」

 

「え、えとぉ…。つぎっ!いろはちゃんのターン!」

 

「え"っ!」

 

うわー、なにその「場はあっためておいたから☆」みたいな顔…。

ここでキラーパスとか、由比ヶ浜さんマジ鬼畜っすわ。

 

「哀れなり一色。骨は掃除してやる」

 

「そこはちゃんと拾ってくださいよぉ…。んー、雪ノ下先輩のですか。キャラが違いすぎて難しいなぁ…」

 

「む、無理にやらなくても良いのよ?」

 

「いえ、ゲームですからね、頑張りますよー!こほんっ…

『申し訳ないのだけれど、私は貴方について知っていることは一つもないの。この先知る予定もないし、こんな相手のことは忘れた方が貴方の為だと思う。新しい出会いがある事を祈っているわ』」

 

「なっ…?!」

 

何だろうな、今のは。えらくリアルに聞こえるセリフだったような。

 

「ね、ねえねえいろはちゃん、今の、もしかしてさー…」

 

「何故()()を一色さんが知っているのか、詳しく教えて貰えるかしら?」

 

「い、いえー、グーゼンですよグーゼン!屋上のすみっこで仕事サボ──サポートしてたら、急に始まりましてですね、出るに出られず…」

 

屋上の隅っこで何をサポートするのかは甚だ疑問だが、一色特派員の供述はやけに真実味を帯びていた。どうやら如何な平野であろうとも、その野に積もった新雪に手を伸ばしたがる輩は後を絶たないらしい。

 

「忘れなさい」

 

珍しくもその白い頬を朱に染めながら、雪ノ下はこちらをねめつけた。何で俺が睨まれているのだろうか。

 

「先輩先輩、どうでした?わたしの演技」

 

「悪くないんじゃねえの?普段から被ってるだけのことはあるっつーか」

 

「もー、ヒッキーすぐそーゆーコト言う!素直に褒めてあげればいいじゃん」

 

「あはっ、大丈夫ですよ。このやりとりもいい加減慣れてきました。たまにチクッと来るのが痛気持ちいい、みたいな?もしくは苦さで引き立つ甘み、とか…」

 

唇に添えた指を滑らせながら、一色は湿り気を帯びた目線をこちらに投げてきた。そのマゾっ気溢れる感性…やはりサッカー部には深刻な病が蔓延しているのだろうか。エロはすドMバージョンとか俺得過ぎるだろありがとうございます。

 

「物好きにはたまらない、と。ドリアンみたいなものかしら?」

 

「あー知ってる!超クサいフルーツでしょ?」

 

「ええ。公共の場所だと持ち込み禁止の所も少なくないらしいわ。アジアの一部ではお酒と一緒に食べると死ぬとまで言われているのだとか」

 

「それデメリットしか説明してなくない?アピールポイントはどこ行ったよ。ドリアンだって味は良いって、巷でもわりと評判なんだぞ」

 

「そう言えばドリアンの匂いって、腐敗臭みたいな感じらしいわね。それにハチマンとドリアンって、響きも似ているし」

 

似ているから何だというのだ。比企谷ドリアンとか、悪臭だけじゃなくて売れない芸人臭も凄そうである。腐り物繋がりはいいとして、臭いはしてないですよね…?そこ大事よ?

 

「大丈夫ですよ先輩。ドリアンより臭いひとなんてそうそう居ませんから」

 

そんな心配はしていない。あとフォローの仕方がおかしい。え、やっぱ臭いの?ほんとに?すげえ不安になってきた…。

 

「あははっ、冗談冗談。べつにヒッキーは臭くないよ」

 

由比ヶ浜はあっけらかんと笑っているが、俺の心情的にはあまり笑えない。女子が体臭について盛り上がっている時、男子は常に不安で胃を痛めているのだということを理解して欲しい。これって立派なセクハラだと思うんだよな…。

すっかり疑心暗鬼になってしまった俺を置き去りに、ゲームは引き続き進行していく。

 

「ところで次、ゆきのんの番だけど、いい?」

 

「…まあ、一人だけ不参加というのも盛り上がりに水を差すというものでしょうし。色々と借りも積もってしまったみたいだしね」

 

「げ、ゲームですからね?お、お手柔らかにお願いしますよ?」

 

一色と由比ヶ浜に鋭い視線を飛ばしてから、雪ノ下は瞑目した。

そのまま絵のモデルでもなれそうな真顔の彼女。しかし頭の中ではモノマネのネタについて思いを巡らせているというのだから、全く美人は得である。

 

「さっきはお題ゆきのんだったけど、今度は誰にしよっか?」

 

「そうね…。では、比企谷くんで」

 

「おぉー!ここでまさかの先輩ですかー」

 

「ま、マジでか…」

 

雪ノ下の冷え冷えとした視線が俺を射抜く。自分がやるわけでもないのにこの緊張感はどうしたことだろう。

 

そういや折本に告って振られた時、クラスの男子に真似をされた気がする。現場を見てもいない連中に面白おかしく再現ドラマを演じられたのだ。あの時の彼女の苦笑いを思い出すと、今でもじわっと嫌な汗が──って、つまりトラウマスイッチを押されただけですね。

 

「ゆきのん大丈夫?振っといてなんだけど、難しくない?」

 

まさか承諾されるとは思わなかった様子の由比ヶ浜に、彼女は余裕の笑みをもって応える。

 

「失礼ね、私にだって死んだふりくらい出来るわよ」

 

「いや失礼なのはお前だろ」

 

「冗談よ、待って頂戴。いま台詞を思い出しているところだから。ええと、何だったかしら。確か…『それでも俺──』

「オーケー!ターンエンドな!ほれ次、次いこう!」

 

こいつのドSもほんとブレないな!いやこんな女の前で醜態を晒した俺がド(マヌケ)なんだけども。

 

「えーっ!?ゆきのんのヒッキー、もっと見たいー!」

 

「その言い方は不本意な因果関係が連想されかねないから遠慮してもらえないかしら…」

 

もう出番は終わったとばかりに手櫛で髪を梳く雪ノ下。しかし由比ヶ浜は物足りないと飼い主にねだる子犬のように彼女にまとわりついた。

 

「ならさ、ならさー、ゆきのんはあたしのマネしてよ!」

 

えっ、リクエストとかアリなんですか?

だったら雪ノ下のあーしさんとか見てみたいなー。

 

「由比ヶ浜さんの…?まあ、それなら…。分かったわ、しばらく待っていて頂戴」

 

すっと立ち上がった雪ノ下。準備が要るほど大掛かりなネタなのだろうか。若干期待してしまうじゃないか。もしも胸に詰め物とかしてきたら、俺は笑いを堪えられる自信がない。

 

「一色さん、ちょっとキッチンを使わせていただける?」

 

「いいですけど、何するんです?お夜食ですか?」

 

「おいおい、わざわざ料理焦がして持ってくるとか酷過ぎだろ。やめてやれよ」

 

「あのね比企谷くん、先にネタばらしする貴方のほうが余程酷いと思うのだけど…」

 

「ヒドいのは二人だよ!」

 

えーんと泣き真似をする由比ヶ浜を、よしよしと一色が慰めていた。こいつ何気におかん属性も持っているのか?こんなビジュアルでも、男には意外と尽くすタイプだったりするのだろうか。

 

「うう…。でもヒッキーのマネは面白そう…。んじゃ次のお題はヒッキーでいこう!そしていろはちゃんのターン!」

 

乾燥ワカメよりも素早い復活を遂げた由比ヶ浜が、テーマの変更を告げる。何故かさっきから彼女が仕切っているが、任せておくとろくな事にならない気がする。と言うか、既にろくでもない事になっていた。俺がお題とか、不幸しか生まれないだろ常考。

 

実際、二度目のキラーパスを食らった一色は真面目な顔をして黙り込んでしまった。

あ、いや…。マジで嫌がられるとわりと傷付くんで、「えー生理的に無理ですよーキャハハー」くらいで勘弁してもらえませんでしょうか。つか由比ヶ浜もさっきから大概酷いな。いろはすに何か恨みでもあるのん?

 

「うーん、一応ネタは思いつきましたけど…。でもわたし、あんまりフラれた経験ないんで、下手でも笑わないで下さいねー?」

 

「おい待てやめろ。笑おうにも笑えないネタだろそれ」

 

見たら俺だけが死ぬ系のはホントやめてってばよ…。

 

「あっ、そう言えば先輩だけまだなにもやってないじゃないですかー。ブーブー!」

 

「だってネタが自分の時はパスでいいんだろ?」

 

「あ、そだねー。じゃ先にヒッキーね。お題はー…ヒッキーのマネをしてる、ヒッキーのマネっ!」

 

「ちょっと何を言っているのか分からなくなってきたわね…」

 

どう見ても勢い任せなのに、難易度が乗数的に跳ね上がってしまった。マネマネAのマネをしてるマネマネBみたいな意味の無さだが、真剣に考えるとどこか哲学的な香りすら漂う命題である。

 

「物真似って要するに、対象の特徴を強調して表現するものよね。比企谷くんの特徴を本人が強調なんてしたら、警察沙汰にならないかしら」

 

「そうなっても通報とかしたりしないから!では張り切ってどうぞー!」

 

「ねぇ、なんで俺の時はパスしてくれないの?男女不平等ってこういうことなの?ジェンダーフリーの風はこの国にはまだ届いてなかったの?」

 

「もー、仕方ないなあ…。ならいろはちゃんのマネで許したげる。まだやってないし」

 

「なんで上から目線なんだよ…しかも男に女子のマネしろとか滅茶苦茶ハードル高いし。やらんからね?」

 

「えー、ずるいよー!あたし達みんなやったじゃん!」

 

ふん、残念ながら俺はNOと言える日本人なんだよ。主に対等以下の相手に対して。

 

「一色さんが怖い思いをして怯えているのに、その緊張を解きほぐそうという気概は無いのかしら。この男は私達の手に負えないわ。もう小町さんに相談するしかないわね」

 

「NO!やります、やらせて頂きます!」

 

SHIT!対等以下の相手なんて殆ど居ないんだった。

でも、まあ一色ならこの中では一番マシか。キャラ作ってる分、モノマネの題材としては難易度が低いだろう。

 

一色はその大きな目でこちらをガン見している。

あざとくない時のこいつはどうも感情が読めないんだよな。これはどういう意味の視線だろうか。嫌がっている風にも見えないが…。

本人を前にしてやるモノマネはマジに心臓に悪いな。渋ってこれ以上注目浴びるのも辛いし、さっさと終わらせるとしよう。

 

俺は息を吸って喉を絞った。

そのまま、キモカワイイと我が家で評判の裏声でもって──

 

『一年生でせい…』

「一年生で生徒会長なのに頑張って部活に出てくるわたし、は禁止ですよ?」

 

 

「……………」

 

 

「それ以外のでお願いします♪」

 

 

事前に打ち合わせでもしていたかのように、一色は俺のセリフにぴたりと被せてきた。

確かにこいつは一度聞いているし、だからこそチョイスしたネタではあるが…それだけでここまで分かるものだろうか。

 

「ふっふっふー。先輩の考えなんてお見通しです」

 

満面の笑みとドヤ顔がウザかわ──じゃなくてウザい。この前から先読みの精度が加速度的に上がってるんだけど、もしや小町にマンツーマンでヒッ検の講義でも受けてるんじゃなかろうな。

 

「い、いつの間にかいろはちゃんの段位がスゴいことに…。あたし抜かれてるかも…」

 

「くっ…なら、そうだな…」

 

一色にやり込められたままでは、八幡的にも収まりが付かない。本意ではないが、ここは少々本気を出させてもらう事にする。

 

辺りを見回すと、リビングの片隅にお(あつら)え向きの物を発見した。

デフォルメされた沢山の動物たち。レースの掛かった棚に勢ぞろいしたぬいぐるみは、ゲームセンターのプライズ品だろう。

 

「これとこれ、借りていいか」

 

毛糸のタテガミが立派な割に、どこか情けない顔をしたライオン。それとパッチリ睫毛が生意気な白猫。

両の手に一匹ずつ、選んだぬいぐるみを取り上げる。

 

「もしかして人形劇ですか?これは期待しちゃいますねー」

 

「おー、なんか本格的だ!」

 

いや、単にガチでやってる顔を見られるのが恥ずかし過ぎるからなんだけどな──っと、ここでいいか。

 

俺は革張りのソファの後ろにうずくまって姿を隠した。背もたれを即席の舞台に、ひょいと飛び出して向かい合うのは先ほどのライオンと白猫だ。

具合を確かめるためにくいくいと動かしてやると、客席から黄色い歓声が上がった。

 

「わ、可愛い!」

 

「見慣れたぬいぐるみなのに、動かすと違って見えますね!」

 

「ほんとね。中身を知らなければもっと良いのだけれど」

 

ぱちぱちと三様の拍手が鳴り、俺は咳払いして演技を始めた。

 

 

『っべー!いろはすー、っべーよ、俺ってばマジコケしちゃった系ー!』

 

『るっさいなー、なんですか戸部先輩。わたしいま忙しいんですけどー』

 

『そ、そうなん?でもそれ雑誌読んでね?超暇してるカンジじゃね?』

 

『だって戸部先輩のそれ、基本ヤバくもなんともないですし』

 

『お、おう…まあそうっちゃそうなんだけど…。でもホラ、今回はマジで血とか出ちゃってる系っつーかさ?』

 

『そのくらいでピーピー騒がないで下さい。女の子は毎月その何十倍も出してるんです。うっわそのセクハラ最悪ですごめんなさい訴えていいですか』

 

『ないわー。このマネ、マジないわー』

 

 

「あは!あははははっ!似てる!とべっちちょー似てるー!あははは!」

 

あー恥ずい。顔あっついわー。

でもまあ、意外と好評のようだし、悪い気分じゃないな。

俺はソファの陰から身を起こすと、一色にぬいぐるみを手渡した。

 

「戸部に似てるって言われても全然嬉しくないけどな」

 

「いろはちゃんの方もけっこう似てたよ!」

 

「酷いセクハラもあった気がするけれど、本人が怒ってはいないようだし、今回は不問にしましょう。何より比企谷くんの顔が見えなかったのが高得点かしら」

 

俺さえいなければ世界に平和が訪れるんですね。つまり間接的に世界を救っちゃえる俺ってば超ヒーロー。世界を守るため、これからも敢えてぼっちで居続けようそうしよう。

 

ぬいぐるみを受け取った一色は、きゅっと胸元にそれを抱き込んでこちらを見上げる。さっきから感想も言わずに見つめてくるのが怖い。

 

「お、怒るなよ?ただのゲーム、冗談だ。忘れろ」

 

「いえ、怒ってなんかいませんよ。ただ、よく見てるんだなーって」

 

そう言って、彼女はまた感情の読めない目をこちらに投げてきた。一方的に読まれるのは納得がいかないが、だからといって彼女の瞳を睨み返したところで俺の心臓に負担が掛かるだけである。諦めてその熱視線を受け入れるしかなかった。

 

テンションが上がってきたのか、由比ヶ浜はお菓子を咥えたまま立ち上がり、誰に請われるでもなく名乗りを上げた。

 

「じゃあ次!あたしもいろはちゃんでいくね!

『せぇんぱぁ~い、いろはのお願い、聞いて下さいよぉ~!わたし~、お菓子作りとかぁ~、ちょお得意なんですよぉ~!あざとくなんてないですよぉ~!』」

 

 

こいつのレパートリーは自己紹介バージョンしかないのだろうか…。

やりきった顔の由比ヶ浜が「どお?」とこちらを見やるが、観客はそれぞれ複雑な表情で視線を逸らした。

 

「今のは一色、怒ってもいいんじゃね?」

 

「由比ヶ浜さんも、悪気は無いのよね…」

 

「これは嫌われるわけですねー。わたし今、ものすんごく反省してます…」

 

「な、なんかごめんなさーい?!」

 

 

* * *

 

 

草木も眠る丑三つ時──。

 

あれだけ騒がしかった女子共もさすがに寝静まり、リビングはすっかり静寂に包まれていた。省エネモードのエアコンが、時折思い出したかのように低い音を立てている。

 

この部屋からは、塀で外界と隔離された庭の様子が見渡せた。視線が通らないためプライバシー的には優れた構造だが、中で異変が起きた場合は外部から気付けない事が多い。要するに一色の家は、泥棒に好かれるタイプの仕様なのであった。

 

室内の明かりは消していたが、視界は十分に確保できていた。今夜は月がかなり明るいようだ。庭に面した壁は一面がお洒落なガラス張りで、間近に座りこんでいると空調の効いた空間といえども冬の夜気がじわじわと伝わってくる。

 

借り物の毛布をひっ被り、俺はカーテンの隙間からじっと外の様子を観察し続ける。

 

「やっぱ、おかしいよな…」

 

夜空に視線を移すも、街の灯りのせいだろうか、輝きは数えるほどしか見えない。

俺は昼間、葉山と交わした会話を振り返っていた。

 

 

× × ×

 

 

「ちょっと頼みがあるんだよ」

 

「勘弁してくれ──と言いたいところだけど、どうも今回は俺の話って訳じゃなさそうだな」

 

俺がひとつ首肯してみせると、葉山は辺りを見回しながら言った。

 

「いろはは?一緒じゃないみたいだけど」

 

「何で同伴してる前提なんだよ。あっちも今日は仕事あるみたいだし、忙しいんじゃねえの?お前ら日曜なのにホントよくやるよな」

 

「どっちも好きでやってる事だからね。辛いとは思わないさ」

 

妙な言い方をするな。それだと一色も、という事になってしまう。彼女が会長になったのは成り行きだって事くらい知っていそうなものだが…。

まあそれはいい。リア充の恋愛事情に気を巡らせていられるほど、俺のニチアサは暇ではないのだ。

 

「部活、昨日もやってたのか?」

 

「昨日はオフだよ。だから昨日の中原についても保証できない。もしかして何かあったのか?」

 

俺の質問の意図するところを察し、葉山は必要な情報を的確に返してきた。

話が早くて助かる。ぶっちゃけあんまりこいつと長話とかしたくないし。そもそもぼっち的には休日に一番会いたくない人種だしな。

 

「いや、昨日は何もなかった。あるとすればこれからだな」

 

俺の確定的な口調を受けて、葉山は不思議そうな顔をする。何故これから起こると思うのかと問いたいのだろう。

しかし理由を事細かに説明するのは面倒だ。ついでに恥ずかしいし、もしまた誤解でもされたら一色への借金が更に増えてしまうし。

 

「昨日、いくらかエサを撒いた。食いつくなら今日明日だと思う。だから今から保証して欲しいんだが、頼めるか?」

 

「つまり…中原と一緒に居ろってことか?彼のアリバイを証明するために」

 

「頼む」

 

こいつにきちんと頼み事をするのはもしかして初めてかな、と思いつつ、俺は葉山に頭を下げた。

 

「…いつまでやればいいんだ?犯人が見つかるまでってのは現実的じゃないだろ」

 

「差し当たってはこれから明日にかけてだな」

 

「その言い方だともしかして夜の間も?」

 

「可能であれば。手段も全て任せる。まあ、お前には受ける義務とか全然ないんだが──」

 

一色のためにも、というのが葉山にとって後押しになるかは分からないが、俺のためにというよりは八万倍くらいマシだろう。そう思って白々しくも悲劇のヒロインの名を出そうと思ったのだが、イケメンは迷うことなく即答した。

 

「いいよ、やろう。義務は無くても義理はある。いろはのことも、君の怪我のことも」

 

「いや俺の方は──すまん、何でもない。助かる」

 

こいつのいう義理ってのは、義理チョコから連想されるような意味合いではなさそうだ。「みんなの葉山隼人」が好みそうな"人としての正道"──いわゆる義理人情の方だな。

まあ葉山自身が望まないキャラクターを演じているのであれば、結局は義理チョコ的な意味に帰着するのだが…俺としては動いてくれるならどちらでも構わないのだった。

 

 

× × ×

 

 

「…ん」

 

鼻をくすぐるような感触で、俺はいつの間にか意識を飛ばしていた事に気が付いた。

 

「……やべ、落ちてたか…」

 

葉山の夢とか誰得ですか。どうせなら戸塚ドリームにしてくれよ。なんなら戸塚の存在自体がドリームまである。

つか、やけに鼻がムズムズするんだけど、風邪ひいちゃったか?

 

鼻を擦ろうと思ったのだが、何故か腕が動かなかった。活動停止しかけた頭にちょっとしたパニックが訪れる。これが噂に名高い金縛りというやつなのだろうか。

一色さん、お宅、押入の奥に御札とか貼ってあったりしませんよね?

 

腕に感覚を集めてみると、びくともしないという程でもない。ただ、何か柔らかいものに絡め取られている様だった。暖かくて妙に気持ち良いが、微妙に脈打っているような気もする。

ゆ、幽霊がなんぼのもんじゃい!八幡大菩薩の加護を舐めるなよ?

アジャラカモクレンキューライス──って、悪霊退散の呪文唱えてどうすんだよ。これ明らかに生物的な何かだよな?

 

「…っ?!」

 

突然、淡い色の髪の毛が視界に飛び込んできて、俺は目を疑った。

鼻をくすぐっていたのはこれだったのか。

 

「ど、どうしてこうなった…?」

 

雲に入っていた月が顔を出したのだろう。

差し込んだ薄明かりによって照らし出された謎の生物の正体──。

それは、俺の肩に頭を預けて寝息を立てている一色いろはだった。

 

もともとポンチョのように羽織っていた毛布に潜り込む形で、こちらにぴったりと寄り添っている。この体勢、どう見ても隙間に無理矢理に身体をねじ込んできたと思われるのだが、それにすら気が付かなかった俺が見張りを名乗るのはやめたほうが良いんじゃないだろうかと悲しくなった。

 

両腕だけでなく脚まで使ってすっぽりと抱き込まれた左腕は、期せずして二箇所のNGエリアへ同時に抵触していた。

二の腕の感触…これは再び(まみ)えた天竺に違いない。昨日振りですお釈迦様。

そして手の甲にある…この(ぬく)くてポニョっとした感触は…?

え"?!これは流石にまずくない?都市条例に引っかかっちゃうヤツじゃない?ゲェムギョウカイ的にはCERO【Z】じゃない?!

 

どこもかしこもフニフニしているいろはす。太ってないのに何でこんな感触が違うのか。セットがされていないためか、少し乱れた髪からはほんのりとシャンプーの香りが立ち上ってくる。いつもの香水とは違う素を感じさせる匂いにやられて、俺の全身はまさに金縛りにあったようだった。

繰り返し主張しておくが、全身が硬直したのである。決して一部だけではない。 

 

小さな寝息をたてる一色を余所に、こちらの睡魔は成層圏までぶっ飛んでしまった。「起こしてベッドに追い返せ」と理性ががなり立てるが、別の何かが「このままでいい」と押さえ込みにかかっている。

 

このやわらか生物の告白を断るとか、もう葉山に関しては海老名さんの妄想を否定できないだろ…。

あ、そうそう。葉山と言えば──さっき何か大事なことを考えていたような気がする。

…するんだが、この状況では思い出せるものも思い出せそうにない。どころか、下手すると覚えていることすら忘れてしまいそうである。

何しろ脳味噌がいろはすの香りと感触の解析に掛かりきりで、完全にフリーズしているからな。さっきからCtrl+Alt+Delを連打してるけど一切反応なし。

 

「お、おい…マジに寝てるのか…?」

 

「ふ……んぅ……」

 

もぞり、と身動ぎをした一色は、俺の肩口に頬を擦り付けるようにしている。落ち着けるポジションを探しているのだろうか。

覗き込んでいたせいで彼女の零した甘い吐息を至近距離で吸い込んでしまい、ただでさえ霧掛かった頭に更なる痺れが走る。彼女はやがて満足した様に動かなくなり、そのまま体重を預けてきた。

ぶっちゃけわりと重たい。どうやらガチで眠っているらしい。

役得と喜ぶべきか、男として見られていないのを悲しむべきか。

 

まあ最近は状況が状況だったし、あまり眠れていなかったのかもしれない。起こすのも可哀想だし、このまま寝ず番と洒落込むか。

いやいや、別に下心とかないから。誰だって野生のテンとかオコジョとかが突然布団に潜り込んできたら、ほっこりしても追い出したりはしないでしょ?そういうアレですよ。

いやもっこりもしてるだろって…誰が上手いこと言えと。

 

明日はもう月曜だ。結果的に、ほとんど一色に掛かりっきりの土日となってしまった気がする。

いや違った、今日が既に月曜だった。

 

「こりゃ、今日は死んだな…」

 

一日分の授業と引き換えなら安いものか。

諦めの境地に至った俺は、明け方までの数時間、後輩女子との同衾というプライスレスな体験をさせてもらったのだった。

 


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