そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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とうとうここまで来ました。
もはや退かぬ!媚びぬ!省みぬ!


■27話 最初から間違っていた

 

チュンチュン、朝チュン──。

 

半ば幻聴も交えつつ、俺の耳に小鳥の声が届く。

 

ぼんやりと目を開いてみたが、真冬の空は未だ暗闇に覆われていた。それでも時間にうるさい雀達に空気を読むような気遣いはなく、一方的に朝の訪れを主張する。

その囀りは毛布の中にまで届いたようで、もそもそと僅かな動きがあった。体温で暖められた甘い香りが胸元から立ち上ってきている。彼女が目を覚ます気配を感じ、俺は石膏像のように硬くなった。局所的な朝の石化現象ではない。何もしてないアピールと悲鳴対策を兼ねた鋼鉄変化呪文(アストロン)である。

 

「ん…っん…」

 

ゆっくりと頭を上げた一色は猫のように丸めた手でこしこしと目を擦ると、間近にある俺の顔を見やり、そのまま暫くぼうっとしていた。口に手を当て、くあ…と可愛く欠伸なんかしている。元々童顔で小柄なこともあって、寝起きの彼女はぶっちゃけ高校生には見えない。これがまた庇護欲を鷲掴みにしてくるのだが、俺は辛うじて彼女の頭を撫でまわしたい欲求に耐えた。

危ない危ない。小町が妹じゃなかったら即死だった。

 

健全ロボも顔負けの超淫らなこの状況に、彼女はいつ噴火するのだろうか。

ヒヤヒヤしながら見ていたが、彼女はキレもテレもしなかった。片腕を俺に絡みつかせたまま、俺の目を見つめてほんの少しだけあざとく笑ってみせる。

 

「おはようございます。おかげでよく眠れました」

 

「おう…。それは良かったな…」

 

夜通しの理性耐久レースによって、朝っぱらから気力ゲージは枯渇していたが、今のやり取りでさらにそこから何かをきゅうっと吸い出されたような気がした。どことなく生気に満ちた様子の一色の言葉を、俺は落ち窪んだ目でもって受け止める。

 

「とっても、気持ちよかったです…」

 

まだ半分寝ているような、もしくは情事の後のような(知らんけど)、どこか気怠い妖艶さでそう言い残すと、ゆらりと立ち上がった一色は浴室へと消えていった。

 

しばらくすると廊下の向こうからシャワーの音が聞こえてきて、俺は身体から力を抜いた。ふと視線を落とすと、くるまっていた毛布にはぽっかりと穴が空いている。その空白を見つめ、ずっと空調が効いているはずの室内で、俺はぶるりと身震いをしたのだった。

 

 

* * *

 

 

一色がシャワーを済ませているうちに、俺は彼女の家を出立していた。

 

時間的にそろそろ動かないとしんどいというのが表向きの理由だが、このまま湯上がりの一色と顔を合わせた時、掛けるべき言葉がさっぱり思いつかないからというのが本音だったりする。

彼女が昨夜の件を他の面子に暴露するような事はないと思うが、あのまま待っていてもひたすら水音を聞かされるだけだろう。彼女が言わずとも、俺の態度から何かを気取られる可能性は低くない。何より、これ以上誘惑されると精神衛生上よろしくない。

 

「めっちゃ暗っ!寒っ!」

 

尋常ならざる状況で完徹したにも関わらず…いや、だからこそなのかもしれないが、俺の身体は意外と軽快に動いてくれている。所謂ナチュラルハイというやつだろうか。あるいは既にプチ精神崩壊しちゃってるとかな。どちらにせよ、興奮状態が途切れた瞬間、俺は死人の如き眠りに沈むことだろう。

彼女の残した体温や残り香が、冷たい向かい風によって引き剥がされる。頭に燻っていたピンクの霧が晴れていく感覚を、俺は少しだけ勿体無いと思った。

 

おかしなテンションで立ち漕ぎなんかしつつ我が家へと戻る頃、二度寝したんじゃないかと疑うくらい遅めの朝日が顔を出した。元旦ですら拝む事のない日の出に目を眇めていると、家の窓からは既に明かりが漏れている事に気付く。

 

「あいつ…こんなに早く起きて何してんだよ…」

 

極力音を殺しつつ玄関の戸を開ける。

そこには腕を組んで仁王立ちした小町が待ち構えていた。

まさか夜通し待っていた訳じゃないよな…?

 

「お、おはようございます…」

 

逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。いやいや逃げなきゃ駄目だろバカ言うな。

家主とばったり出くわしてしまった侵入者のように、俺は顔を隠して平謝りしつつ、彼女の脇をすり抜ける。

 

「すいません、違いますから」

 

「……何が?」

 

「すいません、大丈夫です」

 

何がどう大丈夫なのだろうか。

支離滅裂な兄の言動を見て、小町は悩ましげな声を漏らした。

 

「はぁーっ、まさか朝帰りとは…。いくら何でも色々と飛ばし過ぎじゃない?」

 

もしかして、俺が一色と二人きりの夜を過ごしたと思っているのではないだろうか。知らなかったのだから無理もない。助っ人の二人を呼んだことを伝えれば、この誤解はすぐにでも解けるだろう。

だったらそれは後でいい。今は釈明できるだけの気力が足りていないのだ。頭もさっぱり回らないし、小町の誘導尋問にも引っかかりかねない。誤っていろはす同衾事件について口を滑らせたりしようものなら、今後のお兄ちゃん生命が断たれてしまう。

俺は背中で追求の視線を遮ると、そのまま浴室へと逃げ込んだのだった。

 

「もー、二人になんて説明したらいいのさ…」

 

これ見よがしにぼやく小町の声が廊下から聞こえてくる。わざわざ親に説明する必要はないだろうに。しないよな?しないで下さいお願いします。

 

手早くシャワーを浴びてリビングへ戻ると、既に小町の姿はなかった。代わりにテーブルには湯気の立つコーヒーと焼きたてのトーストが一人前。

書き置きなんかは特に置かれていないが、流し台の様子を見る限り、これが彼女の分という事は無さそうだ。

 

「ほんと、良く出来た妹だよ…」

 

あまり気が利きすぎるのも寂しいものだと肩を竦めつつ、俺はそれらを有り難く頂戴した。

 

身体を清め、朝食を胃に収めると、お次は睡魔が鎌首をもたげ始める。このままベッドに飛び込めたら最高なのだが、誠に遺憾ながら、今がまさに一週間の始まりなのである。死にたい。

 

「月月火水木金金…ってな」

 

まるで休日出勤からそのまま翌週へと突入した会社員の様である。絶望感に苛まれつつ、俺は再びよろよろと自転車に跨がったのであった。

 

 

* * *

 

 

学校に着く頃、既に時刻は8時を大きく過ぎていた。

グラウンドからは部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。またサッカー部だろうか。目に優しくない色のゼッケンを着けてないところを見ると、余所の連中かもしれない。

いつもさして変わらない朝の風景を目にすると、やはり平日が始まってしまったのだなぁという切なさが胸に去来した。あとは愛しさと心強さがあれば役満である。

失われた週末に涙をちょちょ切らせていると、昇降口に差し掛かったところで普段見かけない人物の姿を発見した。

 

「雪ノ下…」

 

朝練には遅く、無所属としては早いという、マイフェイバリットな時間帯。過去においてこの時間に彼女と遭遇した記憶はない。夕べが夕べなので、行動が変則的である事自体に疑問はないのだが、それにしては他の二人の姿が見当たらない。わざわざ別々に来たのだろうか。

 

「おい…顔色凄いぞ。貧血か?」

 

彼女はハンカチを口にあて、青い顔で俯いていた。もともと色白なので、少し血の気が引いただけでも顔面蒼白といった有様である。

彼女は何も言わず、形の良い眉を歪めて瞑目している。俺の声に対して上げられたその相貌から、またぞろ何かあったのだろうという事だけは察せられた。

 

俺が黙って返事を待っていると、彼女は意を決したように唇を引き結んだ。ハンカチを口から外し、一年の下駄箱へと歩いていく。

昨日の話に触れるはおろか、挨拶さえもしてこない。そんな彼女らしからぬ態度に違和感を覚えながら、俺は黙って後に続いた。

 

「悪いとは思ったんだけど、先に来て彼女の靴箱を改めさせてもらったの」

 

そう言って、彼女は"一色"という名札の前で立ち止まった。僅かな躊躇いの後、金属製の小さな戸を開く。

 

「…ああ…なるほど。…お前ほんと凄いわ」

 

開陳された靴箱の中を見て、俺は二重の意味で、彼女を賞賛せざるを得なかった。

 

自分の足元ばかり警戒していたせいで、俺は一色自身の被害を見逃していた。それを夕べ反省したばかりなのに、どうやらまたやらかす所だったらしい…。雪ノ下の配慮には感謝するしかないな。そして、この状況を見てなお、顔色を変える程度で済んでいるその肝の据わりっぷりにも、改めて感心させられる。

 

「比企谷くん。これってその…いわゆる、アレなのかしら…」

 

「あ、ああ…多分な…」

 

そっと靴箱の戸を閉じ、俺達は互いに顔を背けて言葉を交わした。

雪ノ下の反応についてはさもあらんという所だが、こちらも別の意味で言葉を失っている。

くそう、何で俺がこんな微妙な辱めを受けなきゃならないんだ。とばっちりも甚だしい。

 

気まずい空気がしばし場を支配したが、やがて確認しなければならない事があったのを思い出し、俺はポケットから携帯を取り出した。先日手に入れたばかりの、さして欲しくもなかった番号へと電話を掛ける。

 

「比企谷くん…?」

 

訝しむ雪ノ下。

彼女に返事をする間も惜しんで、通話が繋がると同時にその相手へと問いかけた。

 

「そっちの様子はどうだ?」

 

『──もうすぐ学校に着くところだよ。君と別れてからずっと一緒だけど、特に変わった事はなかったかな』

 

向こうも挨拶なんて間怠っこしい真似はしない。何故か掠れて無駄に色気を増した声で、電話先の相手──葉山隼人は俺の求める答えをすぐに返してきた。

 

「わかった。一晩何してたかは聞かないでおくわ」

 

『姫菜が喜びそうな妄想はよしてくれ。オールでカラオケボックスに居ただけだよ』

 

チッ。海老名さんに密告して、存分に愚腐ってもらおうと思ったのに。しかし頼んでおいてなんだが、日曜の夜に徹カラとはよくやるものだ。

 

「了解、もうアリバイの方は十分だ。切るぞ」

 

『待ってくれ。中原が話したいって言ってる。いま代わるから』

 

「ちょ、なんで知らないヤツといきなり──」

 

抗議してみたものの、既に相手が電話口から離れた気配を感じ、俺は眉間にしわを寄せた。件の中原が相手となれば、聞かないわけにもいかないか…。

ふと雪ノ下の様子を見ると、髪の毛を指で寄せ、露出させた形の良い耳をこちらに向けていた。

え、それだけで電話の内容とか聞こえちゃうの?ゆきのんイヤーは地獄耳!

彼女のスペックに驚嘆しつつ待っていると、聞いたことのない男の声が電話から聞こえてきた。

 

『──比企谷サンっスか?一年の中原です。自己紹介とか要らないっスよね?』

 

想像していたのよりずっと普通の男子だな。第一声でデュフフ笑いがくるのも覚悟していたのだが。

 

「…ああ。なんか話があるって?」

 

『葉山サンから色々聞きました。オレ、ストーカーだと思われてたって。それで夕べ一晩、マークされてたんですよね?』

 

「ま、まあな…」

 

くそ、葉山のやつ…さては馬鹿正直にゲロしやがったな。

容疑者に向かって「あなたがキラですね」ってどこのLさんだよ。依頼者である俺の名前がデスっぽいノートに書かれちゃったらお前のせいだからな。

 

『つけまわしたりしてたってのはその通りなんで、疑われるのは仕方ないっス。けど、身に覚えのない事までオレのせいにされるのはさすがにキツいっていうか…。一応、言い訳みたいなのをしておきたいなって』

 

「身に覚えがない?」

 

『盗撮とかイタ電とか、色々されてるらしいじゃないですか。オレ、そんなのやりませんから!』

 

「24時間、SEC○Mばりに気合入れて見張ってるって話を聞いたんだが」

 

『そ、そこまでしてないっスよ!そりゃ一時期は毎日姿を見ないと気が済まないって時はありましたけど…そもそも見てただけですし!』

 

うーむ。かつて呼吸してるだけで罪みたいに言われた経験もある立場からコメントさせてもらうと、その供述を無罪として扱うのはちょっとばかり難しいかな。

 

『多分、あいつの仕業ですよ、それ全部』

 

「あいつ?誰の話だ」

 

『同じクラスの男子で、西山ってやつなんスけど。あいつも一色さんの事好きだったんで、最初は結構その話で盛り上がったりもして。でも、そのうち仲悪くなって…。最近じゃさっぱり話してないんスけど』

 

それはそうだろうな。

相手がアイドルならともかく、自らの手が届くただ一人の人間なのだ。断じてオタクの共有財産ではない。彼女に本気になればなるほど、お互いに仲良くできる要素が失われていったのだろう。

 

「…で、そいつが何だって?」

 

『オレが言うのも何なんスけど、かなりヤバいって言うか…。えーと、これ言っていいのかな…』

 

「よく分からんが、お前の無実を証明するのに必要な事なら、言っておいた方がいいんじゃないの?」

 

『そ、そうっスね…。これ、まだそこそこ話してた頃の事なんスけど』

 

中原は少し迷っていた様だったが、やがて開き直ったような口調で語り始めた。

 

『いいもの見せてやるって声掛けてきた事があって。てっきり一色さんの生写真か何かだと思って、オレ、あいつの家まで付いていったんスよ。でも…。その、"いいもの"って何だったと思います?』

 

「な、何だったんだよ…」

 

『髪の毛だったんですよ!一色さんの!』

 

「…………」

 

一瞬、意味が分からなかった。

 

なにそれどういう事?いろはすヘアって転売ヤーに転がされたりするレアアイテムなの?実は生活すんごい苦しくて、リアル聖者の贈り物状態になってたりすんの?

 

『多分、一色さんの机の周りに落ちた抜け毛なんかをちょっとずつ拾って集めたんだと思います。やたらと立派なケースに入ってて、超自慢してくるんスよ。それ見て、こいつヤバいやつなんじゃないかって…』

 

「ああ、そういう…いやどう見てもアウトだろ」

 

なんでまだ疑問の余地が残ってんだよ。とんだサイコ野郎じゃねえか。

 

『なんつーか、一瞬ですけど、羨ましいかなーとか、思っちゃったもんで…。いや、ほんと一瞬だけっスよ?』

 

「…………」

 

いやまあ、分からないではない。分かりたくもないけど分かってしまうな、その気持ちは。好きな女子の髪に触れたいという欲求。男子にそれが有るか無いかで言えば、確実に有るのだから。

おかんの抜け毛なら汚いゴミだが、意中の人物のソレであれば金糸にも匹敵する価値がある。だからってそこまでやっちゃうかと言えば、普通はやっちゃわないわけで。

 

『オレはやらないっスよ?!』

 

「分かってんよ…」

 

『黙られると怖いんスけど…』

 

考えるだけなら何ら罪ではない。何かの拍子に頭の中身がバレてしまえば社会的に死ぬ事はあるかもしれないが、少なくとも法的な罰則はないのだ。俺たちの住む国において、思想の自由はきっちり保障されているのだから。

もしも相手を殺したいと思っただけで捕まるのなら、首都圏は人が減ってさぞ住みやすくなる事だろう。妄想好きな俺なんて何百年投獄されるか分かったもんじゃない。それくらい、思うのとやるのとでは次元が違うのである。

 

『そもそもオレが教室であんなに興奮したのだって、アイツが自分のこと棚にあげてオレをストーカー扱いしたからで──いやすんません、その事はいいです。とにかく、ここ何日かの様子を聞いた感じだと、西山ならやりかねないって話っス』

 

「そうか…情報助かった」

 

手短に礼を言って、俺は電話を切った。

 

ここへ来ての、新しい容疑者の浮上。

振り出しに戻ったのでは、と一瞬気が滅入りかけたが、中原の話を聞く限り、どうやらその逆になりそうだった。

 

「意外とあっさり犯人確定、か…?」

 

俺は今一度、靴箱へと視線を投げる。

 

今は戸が閉じられているその中には、彼女を写した隠し撮りらしき沢山の写真が入っていた。

これだけでも十分に偏執的なのだが、加えてそれらには(ことごと)く、ぬめった液体が付着していたのだ。

あの粘液が何であるのかなど、言葉にするのも気が進まない。この手の悪意には滅法強そうな雪ノ下ですら顔を逸らしているというあたりで、出来れば察して頂きたい。彼女は彼女で嫌悪感が凄いだろうが、男である俺は見た瞬間に靴箱ごと焼き払いたい衝動に駆られた。これが夏場だったら臭いで吐いていたかも知れない。

 

第三者ですら夢に見そうなこの光景。

もしも一色が直視してしまったならば、間違いなく一生記憶に残る傷となるだろう。

 

この行為の異常性は、さっきの話に出てきた人物に通じる所がある。中原はこの現状──靴箱の現況を知った上で報告してきた訳ではないのだから、その人物を貶めようとして作り話をしたのだとは考えにくい。

 

「話は大体聞こえたわ。どうやら私達、最初から間違っていたみたいね」

 

「…ああ」

 

どこかで聞いたようなセリフだな、と思った。あの時とは随分意味も状況も異なるが…。

中原が動けない状況において、事件は確かに発生した。少なくとも昨日の訪問者は彼でなかったのだ。そしてアリバイが無いというのは犯人である事とイコールではない。つまるところ──

 

「犯人は最初から別に居た、という事かしら」

 

「むしろ事件は()()発生していたって感じだな」

 

これは勿論、盗撮とイタ電を別々に数えるという意味ではない。最初に中原が起こした騒ぎと、その後に起こった諸々の事件という括りである。ストーカー問題というカテゴリで纏めて取り扱っていたそれらは、あくまでも立て続けに発生した別々の案件だったのだ。自分で言った事ではないか、ダース単位で発生していないとおかしいと。

 

結果論ではあるが、葉山の主張は正しかったという事になる。いや、中原自身が全くの無罪というわけではないのだから、半分だけ正しかったと言うべきだろうか。事の大小を除けば、彼は彼でもう一人の犯人には違いないのだし。

 

「ストーカーの同時多発とか、そんなのアリかよ…。どんだけモテるんだっての」

 

「もしかしたら、偶然ではなかったのかも知れないわね」

 

同じ事を考えていたのだろう。俺の苦々しい表情を見て、雪ノ下は言った。

 

「もう一人の方…中原くんの言っていた男子生徒だけど、その人物がこの状況を利用したとは考えられないかしら」

 

「中原を隠れ蓑にした…ってことか」

 

雪ノ下の言う通りだ。偶然同時に動き出したというよりは、今だからこそ動いたと考えた方が自然である。ちょっとくらい過激な事をしても、疑いの目は中原に向けられるのだから。

 

「二人が組んでいる可能性はあると思う?」

 

「それは考えなくていいだろ。メリットがない」

 

そもそもが一人の女子を巡る恋愛絡みである以上、男子二人の利害が一致することはまずありえない。何より中原が疑われる事で、そいつには恋敵が減るというオマケまで付いてくるのだ。これで協力しているつもりなら、中原はただの間抜けである。

 

「仮にここまでグルだったとしても同じだ。これだけ派手に罪を着せられた中原からすれば、律儀に協力関係を維持する理由はもう無いからな。つまり、さっきの電話が報復としての告発にあたるとしても──」

 

「いずれにせよ、彼の言っていた内容の信憑性は揺るがないという事ね」

 

彼女の言葉に首肯すると、雪ノ下は苦笑いを浮かべて腕を組んだ。

 

「やれやれだわ。"事実は小説よりも奇なり"とは言ったものね」

 

してやられたというか、簡単ななぞなぞに答えられなかった頭の固い大人というか、彼女はそんな微妙な顔をしてみせた。俺もポカを重ねすぎて、そろそろ一色に合わせる顔がなくなってきた気がする。まさか、より危険な方をノーマークで泳がせていたとは…。

一色に大きな被害が出る前にオチが着いたのだけは、不幸中の幸いだろうか。汁まみれの靴箱については…まぁ尊い犠牲とでも思うとしよう。つか、誰が片付けるんですかこれ。

 

「すぐに先生に報告する?」

 

「けど、証拠が無いっていうのは変わってないんだよな…」

 

「それはそうだけど、靴箱の後始末もあるし、さすがにこれ以上抱え込むのは難しいんじゃない?」

 

「確かに。このエスカレート具合を見る限り、バレたくないとか贅沢言ってもいられないか」

 

「事後については可能な限りフォローするとして、まずは喫緊の危険を全力で排除するべきでしょう」

 

今さらになって手に負えないと認めるのは何とも業腹な話だが、このままだと明日にでも本人に被害が及びそうな勢いだ。一色に頭を下げてでも、事態を明るみに出してもらった方がいいだろう。大事なのは間違わないことじゃない。過ちを認めることだって孤独なアンパンのヒーローも言ってたし。

そういや生徒会選挙の時も、結局は彼女に折れてもらったんだった。クリパとフリペの件を加味しても、彼女からの依頼に対する達成率は5割まで落ち込んだことになる。この数字、果たして高いのか低いのか…。

 

今後のアプローチについて雪ノ下と話し込んでいると、入り口から由比ヶ浜がとっとこ小走りで入ってきた。

 

「おっ!ヒッキー、ゆきのん。さっきぶりー」

 

「あら、やっと来たのね」

 

「おう。…ん?一色はどうした」

 

見たところ、由比ヶ浜は一人のようだった。雪ノ下がここにこうして居るのだから、一色のカバーには由比ヶ浜がついているのだと、俺は勝手にそう思っていたのだが。

 

「いやぁー、えっと、それがねー…。ちょろっと取り込み中ってゆーか…」

 

「意味分からん。トイレか?」

 

「違うし!んー…、こんくらいならいいのかな…?うん、大丈夫だね、たぶん」

 

彼女は何か複雑な事情に配慮しているような素振りでこめかみを揉んでいたが、割り切ったような顔になると「ヘンに思わないでね?」と前置きをしてから言った。

 

「実はすぐそこまで一緒に来たんだけど、校門のとこで男子が待ってたの。いろはちゃんに話があるとか言ってて」

 

「男子…?それって──」

 

「聞くまでも無いが…相手は中原じゃないよな?」

 

「当たり前でしょ!あたしその男子の顔は知らないけど、いろはちゃんの顔見てたらさすがに分かるし!」

 

「それもそうか。…で、中原じゃないなら大丈夫だと思って、お前はアイツをのこのこ一人で行かせた、と?」

 

ネチネチと責め立てる俺の言葉に、由比ヶ浜はうわーんと頭を抱えた。

 

「し、仕方なかったんだよー!なんか、ちょー告白っぽい空気だったし。そんなんついて行けるワケないじゃん!それにさー、話してるとこちょっと見たけど、お互いに知らない相手ってカンジでもなかったよ?」

 

「そうなの?…そういう事なら平気かしら…」

 

由比ヶ浜はそもそも中原が犯人だと思い込んでいるし、それ以外の男子に反応するのはせいぜいが恋愛関連のセンサーだけだろう。タイミングが悪かったのか、配役が悪かったのか。

 

「一応、様子見に行った方がいいんじゃないか?」

 

「やめといた方がいいよ。見られたくないだろうし。そもそもヒッキーが心配してるような展開とかありえないし」

 

「どっから沸いて来るんだ、その自信は」

 

「どうせすぐに分かることだから、この際教えちゃうけど…。さっきいろはちゃん、笑ってたもん。最近しつこかったから丁度いいって。あれはもうバッサリいくやつだね!瞬殺だね!」

 

「いや、そっちの心配はしてないから…」

 

普通に惚れた腫れたの話であれば、何も心配はないんだが…。

でもまあ確かに、いろはすが斬る!の名場面は一度くらい見てみたい気が──。

 

 

………ちょっと待て。

 

 

「…そいつの事、一色は、何て言ったって?」

 

「えっ?だから、最近しつこかったって」

 

「前に一色さんが、こんな状況でも声を掛けてくる男子は居るって言っていたじゃない。その相手の事なんじゃ──」

 

何かに気が付いたように、雪ノ下はハッと口元を抑えた。俺と同じ考えに至ったのだろう。

 

「まさか…」

 

雪ノ下は靴箱と俺の顔を交互に見比べた。俺は彼女の視線に無言で頷く。

 

彼女にしつこく声を掛けてくる男子が居て。

彼女の事が好きで好きで、異常行動に走っていた男子が居て。

そして彼女は、犯人が動くであろうと張っていたタイミングで、男子に呼び出された。

 

これらの要素を確実に結びつける、確乎たる物証は無い。しかし、逆に言えば足りないのは証拠だけで、この期に及んで無関係と考える事の方が難しかった。

もちろんこれは状況証拠のみで構成された粗雑な推論である。違うなら違うでいいのだ。むしろ違っていて欲しい。

 

「二人がどこ行ったか分かるか?」

 

口早に由比ヶ浜に問うと、事態を理解していないであろう彼女はきょとんとした様子で首を傾げた。

 

「ん?たぶん…特別棟の方かな?告るんなら、やっぱ校舎裏とか、屋上とかなんじゃない?」

 

「比企谷くん」

 

雪ノ下の呼びかけに、俺は自分の担当を告げる。

 

「屋上に行く」

 

「なら私は校舎裏を」

 

「ちょっ、え?二人とも、なに?まさか見に行くの?大丈夫だってば!」

 

「いいから!由比ヶ浜さん、付いてきて!」

 

わたわたしている由比ヶ浜を雪ノ下に預け、俺は玄関から飛び出した。

頭をかきむしりたい衝動を堪えて、俺は全力で特別棟へと向かって走る。

 

「くそっ…!頼むからやめてくれよな…っ!」

 

中原の言っていた、同じクラスの変態野郎。十中八九、そいつが真犯人であると考える。

中原が一色のクラスメイトなのだから、その変態だってクラスメイトだ。つまり由比ヶ浜の言う、彼女の顔見知りであるという情報は何の安心材料にもならない。

 

「ウソだろ…。ストーカーご本人に、わざわざ一番危ないタイミングで引き渡しちまったのか…?!」

 

今はまだ辛うじて一色への敵意にはなっていないようだが、見ての通り、奴の妄執は膨れ上がって破裂寸前だ。告白自体が何事も無く済むかどうかも怪しいのに、その上ばっさり瞬殺されると太鼓判まで押されてしまった。

 

今の犯人が、もしも彼女に手酷く拒絶されたりしたら──。

 

 


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