そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

30 / 47
■29話 友人の定義

  

《---Side Yukino---》

 

 

「こっちは外れね…」

 

 駆けつけた校舎裏に人影は無く、日当たりの悪さからか、半ば凍った地面が堅い感触を返してくるだけだった。春先ならば辺りの桜も咲き誇り、それなりに悪くない雰囲気になるのかも知れない。しかし少なくとも今時分に限って言えば、望んで近寄りたいロケーションとは程遠かった。

 

 普通に考えれば、こんな場所で告白するという選択肢は無いだろう。けれどもあんな話を聞いた後では、むしろ人気(ひとけ)のない場所に連れ込まれる可能性をこそ心配すべきであり、この区画を確認しない訳にもいかなかったのだ。

 

「い、いろはちゃん居たー?」

 

「いいえ。当たりは彼の方かしらね」

 

「はーっ、はーっ…。だ、ダメだ…あたし運動不足かも…」

 

「大丈夫…?」

 

 お世辞にも機敏な方とは言えない彼女も何とかここまで頑張ってくれたけれど、既に随分と青い顔をしている。今度は屋上までの階段を登らなければならなくなった訳だが、この様子では付いて来るのが難しそうに思えた。

 

「ごめ、先、行っ…ゲホッ!…おぇっ」

 

「…分かったわ」

 

 えづいている彼女には申し訳ないけれど、今は先を急がせてもらう事にした。休む間もなく特別棟の中へと駆け込み、階段へと向かう。

 

(私も持久力には自信が無いのだけど、そうも言ってられないのよね)

 

 このタイミングで一色さんを行かせてしまった由比ヶ浜さんは、その立場上、自分に責任があると考えているに違いない。しかし、私だったなら一人で行かせたりしなかったのかと問われれば、答えは否である。

 もちろん警戒くらいはしたと思うけれど、精々がそこまでだったろう。まかり間違って冤罪であったならと考えると、告白なんてものを仄めかしてきた相手を第三者が遮るというのは、現実問題として難しい。

 

 そもそも、事はそんな表面的な話ではない。危険度や犯人候補の実態を正しく理解していなかった時点で、私と彼女は同罪なのだ。折り悪く彼女に付いていた由比ヶ浜さんに同情こそすれ、少なくとも私は責められる様な立場ではないのである。

 

 脚は重く、冷たい空気が肺に凍みる。しかしジリジリと身を焦がす罪悪感のためか、私の体はいつもよりほんの少しだけ、無理な要求に応えてくれていた。

 

「はぁ、はぁ…私ももう少し、運動した方が良いかしら…!」

 

 息を切らせて幅の狭い階段を上っていると、上の方から人の声らしきものが聞こえてきた。

 屋上からだろうか。はっきりとは聞こえなかったものの、私の耳にはそれが悲鳴のように聞こえた。スタミナの枯渇した身体に鞭を打って、更に先を目指す。

 

 そこにガツンと、重く硬質の音が響いた。何かが分厚い金属に衝突した様な音だ。

 

 上階を見上げると、転がるような勢いで一人の男子生徒が階段を駆け降りてくるところだった。

 特に記憶にない人物だったけれど、ギョロギョロと辺りを見回し、片手を上着の内側に突っ込んだその姿は奇異そのもので、そのまま見過ごすには目立ち過ぎる。何より、この男子は今、悲鳴らしき声のした方から逃れるようにしてやって来たのだ。

 

「ちょっと貴方──」

「ど、どけっ!」

 

 血走った目つきと敵意に満ちた怒鳴り声に怯み、私は思わず脇へ身を寄せ、相手に道を譲ってしまった。

 すれ違うのに遅れて、とある匂いが鼻をつき、思わず彼の背に振り返る。

 

(え…これ……)

 

 鉄錆びたような、それでいて生々しい匂い。

 

 一時、呆然と立ち尽くす。

 これは、血の匂いではないのか。

 まさか。そんなことは。

 

 しかし、そんな私の甘い考えをねじ伏せるように、開け放たれたままの鉄扉の向こうから、今度こそはっきりと一色さんの声が聞こえた。

 

「誰かっ、誰か来てぇっ! 誰かあぁぁっ!!」

 

 涙に濡れた声が、悲痛なまでに助けを求めていた。

 

 先行していた比企谷くんが未だに辿り着いていない訳もない。彼が居るはずの空間で、それでも彼女がこんな風に泣き叫ぶという状況──。

 

「そ、んな…」

 

 逃げ去った先程の男子の様相と合わせ、私の頭に最悪のシナリオが()ぎり、手足が自然に震え出した。

 

 怖い。

 

 この先に行きたくない。

 

 見たくない光景が待っている気がする。

 

「ゆきのん!」

 

 後ろから掛けけられた声に振り向くと、髪を解れさせた少女が地面に顔を向けてぜえぜえと息を切らしていた。

 

「由比ヶ浜さん…」

 

「い、いろはちゃんのっ、声っ…」

 

 手すりにしがみつくようにして、彼女は更に階段を上っていく。私を追い越して、どんどん進んでいく。

 彼女からすれば、さっきの声は自分が出させた様に聞こえたのだろう。責任感からか、その表情は悲壮を通り越し、鬼気迫ると表現すべきものだった。

 

 こんな時、つくづく実感させられる。

 私の本質はどうしようもなく弱い。

 そして、彼女の本質はこんなにも強いのだと。

 

 せめて置いて行かれないよう、私は必死に彼女の背中を追いかけた。

 

 

 非常扉を(くぐ)るとすぐに、高さのない冬の日差しが瞳を焼いてきた。たまらず手を(ひさし)にして目を眇める。

 先に屋上へ踏み出した由比ヶ浜さんが、ほんの少しだけ私よりも早く待ち受ける事態に直面し、思わずといった風な声を漏らした。

 

「…なに、これ…」

 

 露光に慣れた私の瞳に飛び込んできたのは、想像と違わぬ──いや、それ以上のものだった。

 

「結衣先輩っ! 雪ノ下先輩っ!」

 

 涙と絶望、そして赤い飛沫で頬を彩った一色さんが、縋るような目でこちらを見上げる。

 (ひざまづ)く彼女の前には、空を仰ぎ苦痛に顔を歪める比企谷くんの姿があった。

 

 普段目にすることのない色に、視線が釘付けとなる。

 小豆にも似た美しい赤。けれど一度(ひとたび)人間を濡らした途端、それは本能的な恐怖を呼び起こす。

 

「助けてください! 先輩がっ、先輩が死んじゃうっ!」

 

 必死に現状を否定しようとする自分と、一色さんの言葉を理解しようとする自分がぶつかり合い、激しい痛みとなって頭を駆け巡った。

 ついさっきまで軽口を交わしていた人物が、生きるの死ぬのと叫んでいるこの状況。理解したくないのに、目の前の全てが口を揃えて現実なのだと騒ぎ立てる。

 

 こんなこと、ある筈がない──。

 

 あまりの惨状を目の当たりにして、悲鳴が喉を駆け上がってくるのを感じた。ろくに叫んだ事もないのに、甲高い声が上がるのだろうという確かな感覚だけが、すぐそこまで迫る。

 

 しかし、ほんの僅かに残った理性が「隣を見ろ」と告げてきた。

 

「や、…ヒッキ…! …っは、っは…、っく!? …かはっ!」

 

 由比ヶ浜さんの様子がおかしい。

 彼女は異様なまでに目を見開き、胸を押さえて身体を震わせている。素人目に見ても、何らかの理由で呼吸困難に陥っていると分かった。ここまでの疲労に加えて極めつけのショックを与えられたせいだろうか。

 

「雪ノ下先輩っ!」

 

「か、はっ! …ひゅっ…えほっ!」

 

 一色さんも由比ヶ浜さんの異常に気を回せる状態でないのか、返事が出来ない彼女からこちらに視線を移し、助けを求め続けている。

 

 私だって悲鳴を上げて(うずくま)りたい。

 

 なのに、とてもそれどころではない。

 

 しかし、絶望的な不幸の中、僅かな幸いがあった。

 自分以外の完全なるパニック。

 これが()()パニックで留まっていた私に、たった一つの取り柄──冷静な思考というものを、ほんの一瞬だけ呼び戻したのである。

 

 その蜘蛛の糸を手放すまいと、必死になって意識を集中させる。鼻から息を吸い、口から吐き出して、狂ったように暴れ回る心臓の鼓動に耳を澄ませた。

 

(これが本当の、泣きっ面にハチマンと言ったところかしらね)

 

 不意に胸に浮かんだ団欒の思い出に、内心で苦笑いをする。どうやら余計なことを思い出せる位には頭が回ってくれているらしい。

 

(固まっている場合じゃない…!)

 

 貴重な時間を随分と無駄にしてしまった。私が狼狽えている間に、彼の身体から一体何ccの血液が失われたのか。

 

 慌てず、急いで、順番に、効率よく対処するのだ。

 

 最初にすべき事は?

 泣くこと?

 叫ぶこと?

 

 いいや違う、頼もしい友人との協力だ。

 

 両の手を大きく開き、そのまま強く拍手を打つ。

 

 ぱん!

 

 私の手に挟み込まれた由比ヶ浜さんの頬が、乾いた音を立てた。

 

「……いっ!」

 

「由比ヶ浜さん、聞いて。貴女の力が必要なの。お願い」

 

 彼女の身体はどちらかと言えば酸欠状態のはずだから、この症状は酸素過多による過呼吸ではないだろう。恐らくは、肉体への負荷と精神的ショックが重なった事による、一時的な自律神経の不調が原因だ。言ってしまえばしゃっくりの親戚である。だったらきっと、この方法で回復させられる。

 驚いてこちらに焦点を合わせた彼女の目を睨むくらい真剣にのぞき込むと、一瞬息を止めた彼女は大きく咳込んだ。

 

「叩いてごめんなさい。大丈夫?」

 

「…けほ、けほっ。ご、ごめ…っ。あたし、どうすればいい?」

 

 危なげな色をしていた瞳に力が戻ったのを確認し、ひとつ頷いてみせる。

 

「救急車を呼んで頂戴」

 

「らじゃ! …んぁぁああっ、110だっけ、119だっけ!? パニくっててわっかんないよー!」

 

「9よ。救急車だから9番。そう覚えておきなさい」

 

「わ、わかった!」

 

 110番にも用が無い訳ではないけれど、警察への通報は後回しだ。彼女に応えつつ、私は比企谷くんと一色さんに向き直った。

 

「それで、これは刺されたの? 切られたの?」

 

「ごめんなさい! わた、わたしのせいで…!」

 

「彼を助けたいのでしょう? 私もよ。だから教えて。何で、どこを、どうされたの?」

 

「あいつに、ナ、ナイフで、お腹を、さっ、刺されて…ひぐっ…こ、この辺だと、思うんですけどっ…」

 

「うん? 一色さん、貴女、それ──」

 

 しゃくりあげながらも必死に答える、一色さんの押さえつけている場所。そこには厚手の布地が掛けられている。

 よく見ると、それは血塗れになった女子のブレザーだった。その布地ごと彼女の手は赤黒く染まり、地面までもが同じ色に濡れている。添えられた手の下から、彼が呼吸する度に少しずつ、じわりと何かが染み出していく。

 

 圧迫止血。

 

 患部を圧迫することで止血を試みる、最も基本的な応急措置だ。彼女はボロボロと泣き、取り乱しながらも、懸命に救命行為を行っていたのである。

 意外というか予想外の働きに、私は場違いながら舌を巻いた。

 

 しかし何故当て布として制服を使っているのだろう。ハンカチの方が良いのでは。疑問に思っていると、その視線に気付いた彼女はその答えを口にした。

 

「こんなんじゃ足りなくて…! き、昨日習ったんです。足りないときは、衣服でも良いって!」

 

「習った…? あっ、警察の…!」

 

 昨日は確か、県警主催の交通安全教室が行われていたはずだ。併せて応急救護の講習もあると告知されていた。自由参加という事で、休みの日にわざわざ顔を出す物好きが居るのだろうかと溜息を付いた記憶がある。

 そのイベントに一色さんが参加していた事には意外性を感じたけれど、成る程、生徒会のメンバーなら強制だったに違いない。

 

 彼女の傍らには真っ赤に染まった布きれが落ちていた。おそらくはハンカチであったと思われるそれは、血が付いたというより浸したかのような状態だ。であれば、いま押しつけられている制服の下がどうなっているのか、想像するのも憚られる。

 

「手伝うわ」

 

 私は彼女の記憶を信じ、その処置に従うことにした。

 小さな傷ではなさそうだし、女性の力では長く圧迫を維持するのは難しいだろう。意を決してその手の上から患部に力を込める。

 女の身である以上、血を見る機会は少なくなかったけれど、そこに手を浸すような経験となれば話は別だ。(ぬめ)る血の温かさを感じて僅かに身震いしていると、比企谷くんが薄らと目を開いた。

 

「……しき──」

 

「先輩!」

 

 弱々しい呼び声に一色さんが顔を上げる。

 

「先輩、大丈夫ですか!?」

 

「…すまん…顔、切られたのか…?」

 

 彼女の顔に付いた返り血を気にしたのか、彼は真っ先にそう言った。

 

「わたしは大丈夫です…先輩が守ってくれたじゃないですか…!」

 

「それは貴方の返り血でしょう。フェミニズムは結構な事だけれど、まずは自分の心配をなさい」

 

 自分に何かあったら、この場の全員をどれだけ傷付ける事になるのか、彼は考えているのだろうか。実際、私の心は間違いなくトラウマものの傷が付いたと思う。これについてはほとぼりが冷めたら絶対に糾弾させてもらおう。

 

 内心で愚痴を零していると、電話を終えたらしい由比ヶ浜さんがこちらに駆け寄ってきた。

 

「な、なんか分かんないけど、救急車、もう呼ばれてるらしいよ!」

 

「どういう事? 誰かが通報してくれた…?」

 

 屋上の入り口を振り返ると、一色さんの叫び声を偶然拾ったのか、何人かの野次馬が姿を見せ始めていた。誰もが色めき立ってスマートフォンを取り出しているけれど、どうせ面白半分に撮影するつもりなのだろう。あの中に救急車を呼んでくれるような奇特な生徒が居るようには思えないのだけれど…。

 

「ヒッキー! すぐお医者さん来るからね!」

 

「……くるのは、救急だ…。医者は、来ねぇ、だろ…」

 

「もう。減らず口を叩く余裕があるなら心配要らないわね」

 

「……え、雪ノ下…? どっから沸いた……」

 

「比企谷くん? …ちょっと、しっかりなさい」

 

「…はっ、…はっ、……くそ、アホほどいてぇ……一色、ちょっと…白いタクシー、頼んでいい…?」

 

 一色さんが戸惑いがちな視線をこちらに送ってくる。

 

 浅く呼吸を繰り返す比企谷くんは、さっきから少しばかり反応がおかしい。どんどん声から力が抜けてきている。会話も通じているような、いないような。

 

 この止血は効果があるのだろうか。

 

 溢れる血の量が減っているのか、よく分からない。

 

 救急車はあと何分で来るのだろう。

 

「比企谷くん。救急車ならもう呼んだわ。すぐに来るから、頑張りなさい!」

 

 襲い来る不安に負けないようにと、私は押さえつける腕に力を込めた。

 

 

 

《--- Side Shizuka ---》

 

 

「あーん?」

 

 私はデスクの上で耳障りな振動を続ける携帯電話に目をやった。

 

 時計を見れば、まだ始業までには若干余裕のある時刻。今朝は門限当番でもないし、まったりと授業の前のコーヒーを嗜んでいたところだった。

 

 月曜の朝というのは、憂鬱という名の魔物が大抵の人物を襲う。わけもなくブルーになるのは、別に結婚を控えた女性の特権という訳では無いのである。ああ、今ので余計に気分が落ち込んでしまった。

 

「あーもう。かったるい…」

 

 電話を手に取ってみると、画面には掛かってくる機会の滅多に無い番号の主が表示されていた。

 

「比企谷…? あいつ、朝っぱらから教師を呼び出す気じゃあるまいな。最近ちょっと私の扱いが目に余るぞ」

 

 通話ボタンを押し、背もたれにふんぞり返りながら、私は気怠さを隠す努力もせずに声を出した。

 

「何の用かね。サボリならサボリますと正直に言いたまえ。今朝の私は君のやさぐれ理論に付き合えるほど寛容な気分じゃないんだ」

 

『…………………』

 

 先制で粗方喋ってしまってから、我ながら生徒に対して気易すぎやしないかと少し気になった。これで保護者からだったりした日には、わりと(まず)い事にならないだろうか。

 そっと様子を窺ってみるが、電話口からの返事はない。そもそもこちらの言葉を聞いている気配からして無いような気がする。耳を澄ますと、周囲の音を拾ったかのような、くぐもった声らしきものが漏れてきていた。

 

「もしもし? もしもーし。おい、どうした?」

 

 変わらず、返事は帰ってこない。切ってしまおうかとボタンへ指を伸ばしたが、ふとその手を止めて考える。

 あの小悪党がこんなおかしな電話を掛けてくるのだ。まさか意味もなく悪戯をする性格でもなし、何かがあると考えるべきではないか。そもそも彼は今、大きな問題を抱えていた筈だ。

 

 口を噤んだままスピーカーに耳を当てていると、不鮮明な会話らしき声が聞こえてきた。

 

『──っぱら──、特別──屋上──か、俺でも────。フラれ────ろ』

 

『うるせぇええ!』

 

 聞き取りにくい比企谷の声のあと、男子生徒らしき鬼気迫る怒鳴り声だけがやたらはっきりと聞こえてきて、私は思わず顔を顰めた。

 何が起きているかは分からないが、概ね想像が付いた。今の声色は、どう考えてもまともな雰囲気ではない。

 

(もしや、犯人とかち合ったのか…?)

 

 一色が被害に遭っているというストーカー。彼らの追っていた相手は姿こそはっきりしていなかったものの、諸々のアクションの早さから見ても、うちの生徒である事だけはほぼ確定的だと言える状況だった。

 私自身、これでなまじ追い詰めたつもりになっていたのが拙かったのかも知れない。見方を変えれば、向こうの気分次第でいつでも寝首を掻かれ得る状況であったというのに。

 

 不意に、耳障りな衝突音が聞こえた。電話を落としたのだろうか、堅い物に激しくぶつかったような音だった。

 先程聞こえた怒鳴り声の剣幕と、不穏な物音。少し想像力がある人間なら、みな同じ様な展開を想像するだろう。

 

 私もご多分に漏れず、携帯を持つ手に嫌な汗をかく羽目になった。もう一方の手を職員室に備え付けられた電話機へと伸ばす。

 

 静かに三つの数字を押し、それから目を閉じて祈る。

 

 念のためだ、念のため。

 頼むから、これは押させないでくれよ──。

 

 

『──────ッ!!』

 

 

 願いも空しく、電話から女生徒の尋常ならざる叫び声が聞こえてきて、私は指を添えていた通話ボタンを押し込まざるを得なかった。

 

 

× × ×

 

 

「くそ、要らん小細工をしてくれる…」

 

 廊下を小走りに駆けながら、私は電話の主に悪態をついていた。

 

 あの後何度か電話に呼びかけたが、向こうから聞こえてくるのは女生徒の助けを呼ぶ声だけで、こちらの呼び掛けは届いていないようだった。

ひょっとすると、彼は会話の内容を余所へ流しているのを悟られないように、予め受話側の音量を絞っていたのかも知れない。という事は、本来は言質を掠め取る事を目的とした策だったものが、非常事態にあたって転用されたというところだろうか。

 

「この辺りは特に騒ぎが起きている様子が無いな…。どこだ、どこから掛けてきた…?」

 

 漏れ聞こえてきた会話を頭の中で辿る。確か彼は言っていたはずだ、居場所についての情報を。

 

「特別な、屋上──いや、特別棟か。また辺鄙な場所を選んだものだな」

 

 教師が小走りする姿が珍しいのか、何人かの生徒が声を掛けてくる。しかしおざなりに挨拶を返す私の頭の中は、パンプスならばこの倍は早く走れるものを、という不満で一杯だった。

 

 

* * *

 

 

 手狭な階段を登って辿り着いたその場所は、最初、路上ライブでも行われているかのような印象を私に与えてきた。

 

 まばらな人垣によって形成された輪の中に沈む、幾人かの女生徒の姿。その中心には誰かが寝転んでいるようで、隙間からちらりと見えるズボンが男子生徒である事を教えてくる。

 

 ヒールの音に野次馬が振り向き、道を空けていく。

 その先で膝を突いていた黒髪の少女──雪ノ下がこちらを仰いだ。

 眉を立て、返り血が頬に付いたその顔を見て、私の胸に浮かんだ最初の感想は「美しい」という場違いなものだった。

 

「平塚先生! 良かった、手を貸して下さい!」

 

 いつだって冷静で、時折高校生である事さえ忘れさせる彼女。初めて耳にした彼女の叫びに近い声に、我に返って傍へと駆け寄る。

 

 我が目を疑う光景がそこにあった。

 これでも大体の覚悟はしていたつもりなのだが──。

 

「この馬鹿者が…。こんな時だけ予想を裏切らないんだな、君は…」

 

 電話から悲鳴が聞こえた時点で、私はすぐさま119番に通報した。『怪我ですか? 病気ですか?』と聞かれたので「怪我です。酷く出血しています」と答えてやった。漏れ聞こえて来た状況から、血を見るような事態か、あるいはそれに準ずる何かが発生したと判断しての行動だ。

 結果的に大した事がなかったのなら、私が責任を取れば済む。それよりも、迷っていたら取り返しの付かない事になりそうな、そんな予感を感じさせる切迫した声だった。そして残念な事に、電話口で吹いた私のホラは、概ね正鵠を射ていたらしい。

 

 目の前には、私の教え子が、血塗れで横たわっていた。

 

 雪ノ下は大きな布らしきものを彼の腹部に充てがい、体重を掛けている。赤黒く染まって原形を失いつつあるが、元は制服の上着であると思われた。

 どうやら彼女は圧迫による止血を試みているらしい。ちょうど雪ノ下の影になっていて気付かなかったが、由比ヶ浜も反対側に陣取り、彼女と共に力を込めていた。

 

「由比ヶ浜さん、もっと強く押さえて!」

 

「や、やってるし! でもこれ…押したら余計にあふれて来てない!?」

 

「押したり離したりするからよ。押し続けるの。泣き言を言う余裕があったら力を入れなさい!」

 

「こんの、もー! 止まれったら! 止まれぇー!」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜。

 

 この二人は異常だ。率直に言って、そう思った。

 

 少女達はあちこちを血で汚しながら、仲間の危機に全力で立ち向かっている。しかし、いくら親しい人間だからといって、こんな非常事態に迷わず行動できる高校生がどれほど居るだろうか。いや、大人だってそうそう出来る事では無いだろう。

 私自身、血塗れの生徒を目にして、正直かなり怯んでいる。生徒の前だから格好をつけているだけで、もしもここが学校でなかったら、きっとこんな風には振る舞えなかっただろう。誰よりも先に私がこの場に到着していたとして、彼女達の様にやれるだろうか。

 

「この止血の方法は君が?」

 

「いえ、一色さんが」

 

「ほう…」

 

 意外な人物の名に思わず眉を上げる。

 少女達の怒号が飛び交う異常な熱気に紛れるようにして、もう一人女生徒が居る事には気が付いていた。

 とても無事とは思えない、血だらけの少女。しかしそれが一色いろはであると把握した瞬間、直感的に無傷なのだろうと私は確信していた。

 

 その組み合わせの意外性に驚きはしたものの、最近の一色が比企谷を強く慕っているのは端から見ていて明らかだったし、世の中には「魚心あれば水心」という言葉もある。彼の方も憎からず思っているであろうことは、容易に想像がついた。

 比企谷は自らを傷つけるやり方でしか物事の対処が出来ない少年ではあるが、だからと言って傷付く事を好んでいるという訳ではない。恐らくは、気の置けない存在となった一色に降り掛かった危機を前にして、自らの身体で請け負う以外に選択肢が無かったのだろう。

 

 ならば彼がここまで傷ついている以上、一色が無事でない筈がないのだ。

 

「せんぱい、せんぱい」

 

 横たわる彼の頬をゆっくりと撫でながら、一色はか細い声で彼を呼び続けている。その俯いた表情は前髪に隠されてはっきりとは見えないが、少しばかり精神の均衡を崩しているような雰囲気を醸し出していた。

 

「彼女はその…平気なのかね?」

 

 私の言い澱む様子に、身体の怪我を聞いているのではないと理解したのか、雪ノ下は声を潜めて答えた。

 

「さっきまでは先陣を切って、立派に措置をしてくれていたんです。ただ、徐々に彼の反応が薄くなってきて、その…」

 

「せんぱい、ねえ…せんぱいってば…」

 

 雪ノ下が濁した言葉の続きは、一色の様子を見れば明らかだった。

 執拗に比企谷に声を掛けるその姿は、電池の切れた人形を構い続ける子供を彷彿とさせる。

 

 想いを寄せる相手が自分を庇って負傷するというのは如何にもな美談で、女性なら誰しも一度は憧れるシチュエーションだろう。

 しかしそれはあくまでもフィクションに限った話だ。そんな事が現実に起これば、相手への想いが強ければ強いほど、そのまま罪悪感となって胸を刺す。

 ましてやこれ程の惨状となれば──。

 

「無理もない、か…」

 

 私が十六の時だったなら、やはり泣き叫ぶ以外の事は出来なかったに違いない。

 もしかしたら立場が違えばそこの二人と同じくらいの気概でもって動けたのかも知れないが、強すぎる自責の念が、彼女の心を縛っているようだった。

 そんな心情を斟酌してか、雪ノ下は彼女にこんな指示を与えていた。

 

「一色さん、呼び掛けを止めないでね。聞こえている筈だから」

 

「っく、はい…。せんぱい、せんぱい…へんじしてください、せんぱい…おねがいです…」

 

 涙をポロポロと零しながらひたむきに呼び続ける少女の姿は、あまりに痛々しい。そして、いくら一色が呼んでも、彼は反応らしい反応を示さず、浅い呼吸を続けていた。

 

「意識がないのかね?」

 

「ええと、どう判断したらいいか…。ついさっきまで、会話は出来ていたのですが」

 

「ふむ…。おい比企谷、寝るな! 寝たら殺すぞ馬鹿者!」

 

「………それ…しぬ、じゃない…すか…」

 

「先輩!」

 

 耳元で怒鳴ってやると、億劫そうに弱々しい声が返ってきた。一色が弾かれたように顔を上げる。

 

「可愛い後輩がこれだけ呼んでいるのに返事をしないとは、何様かね君は。ちゃんと起きていたまえ」

 

「先輩! もう少しですから! すぐ救急車来ますから、頑張って下さい!」

 

「…すんませ……すげ、ねむく…て……」

 

 痛い、ではなく眠い、という表現に、私は内心で舌を打った。

 痛みというのは一種の防衛機構だ。痛覚は肉体の損傷具合と対処の必要性を知らせる役割を担うが、それも過度の刺激と判断されれば、人の脳は生命維持よりもその場のショックを和らげる方向に動くのだという。つまり、大怪我をしているのに痛くないというのはかなり好ましくない状態なのである。

 

「比企谷? おい、聞こえているか?」

 

「…………」

 

 再び黙ってしまった彼を見て、私の心にも焦りが生まれ始めた。

 電話してから何分経っただろうか。

 救急車は普通、どのくらい掛かるものなのだろうか。

 

「せ、先生! どうしたらいいの!?」

 

「平塚先生!」

 

 いくら先生と呼ばれても、医者でもない私に出来る事などたかが知れている。それでも何か一つでもプラスの要素はないものかと、ざっと現場を見回した。

 

 地面に広がる血はタイルに阻まれ溜まったまま。

 色に惑わされて大量にみえるが、よくよく見ると薄く広がったそれは、さほど多くないのではないか。何より、色が鮮やかではない。

 

「安心したまえ。これは静脈血のようだ。動脈が切れたらこの程度では済まんよ。量も大した事は無いな。この倍の量を失っても、人は失血で死んだりしない」

 

 半分は聞きかじり、残りの半分は口から出任せだ。もしかしたら願望もかなり混じっているかも知れない。

 取って付けたような励ましではあったが、それなりに彼女達の力にはなったようで、萎えかけていた気力を振り絞るように二人は顔を見合わせた。

 

「そう言えば、これをやらかした生徒はどうした?」

 

「それが、階段を下りてどこかへ…。すみません、現場から逃げ出して来たタイミングですれ違ったのですが、その時点では状況を把握できていなくて…」

 

 それで良かったのだ、と私は答えた。下手に取り押さえようとして他にも被害が出ていたら、こんなにまでなった比企谷も刺され損と嘆いたことだろう。

 

「遅いな。そろそろ音の一つも聞こえそうなものだが…」

 

 無駄に眺めの良い屋上から下界を見渡したが、サイレンのようなものが迫ってくる様子は無い。病院はどっちの方角だったか。いや違う、消防署だ。おいおい、少しは落ち着け。

 

「あ、あたしがさっき呼んだんですけど、なんかもう連絡もらいましたーって言われて…。も、もしかしてうまく通報できなかったとか?あたし、またやらかしちゃった?」

 

「いや、それは私の要請の事だろう。比企谷が負傷してすぐに掛けたから、間違いなく一番乗りの筈だ」

 

「先生、それはどういう…。そもそも、どうやってこの事態を?」

 

「現場から生中継が届いたものだからな」

 

 ポケットから落ちたのか、傍らには彼の携帯電話が打ち捨てられるようにして転がっていた。それを拾って雪ノ下に見せてやると、彼女は何が起こっていたのかを察したように「成る程」と瞑目した。

 

「この状況でよくもまあ…ちゃっかり保険も掛けていたんですね。流石と言うべきか、それとも呆れるべきでしょうか」

 

「あは、ほんとヒッキーらしいや」

 

 結果的に犯人は逃げ去ったから良かったものの、ここまでやる相手であれば、残った一色が乱暴されないという保証も無かったのだ。加えて、後から追いかけてくる雪ノ下達も二次被害に遭わないとは限らない。

 彼が大人に──あるいは権力かも知れないが──他者の力を頼ってくれた事は素直に嬉しかった。細かい事を言えば、私も一応女の端くれとして思う所が無い訳ではないが、それは全てが済んでから問い質してやるとしよう。

 

「事の一部始終を聞いた上で何も出来なかったというのは、何とも惨め極まりない話なんだがな」

 

「音だけ聞かされても、どうにもならないと思います。迅速に救急を呼んで頂けただけで十分ですから」

 

「ふ…。生徒に慰められていては世話がない──」

「すまない、通してくれ!」

 

 背後から聞こえてきた声に振り向くと、茶髪の男子生徒が人垣を押し分けてこちらへやってきた所だった。葉山隼人。そう言えば彼は、確か比企谷と同じクラスだったか。

 彼は目の前の光景に立ち竦み、口を戦慄(わなな)かせる。

 

「な…何があったんだ…。この怪我…平気なのか?」 

 

「愚問ね。そう見えるなら貴方も今すぐ病院に行きなさい」

 

「す、済まない。それより救急車は──」

「もう呼んだよ!」

 

「君達も血が付いてるじゃないか。怪我を──」

「ねえ葉山くん、見て分からなかったのかも知れないけど、私達、今少し立て込んでいるのよ。悪いけど後にしてもらえるかしら。由比ヶ浜さん、まだいける?」

 

「うん、がんばる! ヒッキーも、がんばれー、がんばれー!」

 

言外に戦力外を通達され、葉山がフラフラとこちらに身を寄せてきた。

 

「気にする事はない。この惨状で、君は理性的に動いている方だ。彼女達が少々非凡なだけだよ」

 

「面目ないです。彼は本当に友人に恵まれていますね」

 

「比企谷がムキになって否定しそうだな。彼はどうも友人の定義というものを──」

「は、八幡! おい、大丈夫か!? 大丈夫じゃないな! 血が、血が凄いぞ! これは少々奮発し過ぎではないか? 戻せ戻せ、いくら地面に献血してもカントリーマァムは貰えないのだぞ、知らんのか馬鹿者が! おい、何とか言え、比企谷八幡!」

 

「材木座。君も少し落ち着きたまえ」

 

「イエス、マム!」

 

 無駄にハキハキとした返事でもって、材木座義輝はその場で敬礼をし、直立不動の構えを見せた。と言うか、彼はいつの間に沸いたのだろうか。

 

 役に立たない者同士がそんな風に騒がしくしていると、遠くから待ちわびた音が近付いて来る事に気が付いた。高いサイレンのけたたましさが、今は何とも頼もしい。

 

「来た! 救急車来たよ! …あれっ? てか、こっからどうやって降りるの?」

 

「恐らく担架か何かを持って来てくれるだろう。こちらは動かず、ギリギリまで止血に努めるべきだ」

 

「分かってはいますが…焦れますね…」

 

「そうだな。どうせならドクターヘリでも呼べば良かったよ」

 

 半ば本気で言った台詞に、由比ヶ浜が「へりこぷたー!? すごっ!」と興奮気味に返し、その様子に雪ノ下もクスリと笑った。

 

「先輩、聞こえましたか? もう大丈夫ですからね?」

 

 救急隊の到着と場の空気の弛緩を感じ取ったのか、一色の声にも幾分張りが戻ってきている。

 

 やれやれ、何とかなりそうだな…。

 

 知らず、握りしめていた拳から力を抜こうとしたところで、一難去ってまた一難。様子を見に行っていた葉山の声が、更なるトラブルの発生を伝えてきた。

 

「まずいぞ! 階段の生徒が邪魔で、隊員が立ち往生してる!」

 

「な…っ!?」

 

 何という迂闊──。

 

 ただでさえ手狭な特別棟の階段は異変を察して集まってきた野次馬で次第に溢れ、今や完全に渋滞していたのである。

 加えて朝練の終わりと最後の登校ラッシュが重なる時間帯だ。このゴールデンタイムに非日常の象徴たる救急車両が堂々と構内に乗り付けているのだから、これはもう注目するなと言う方が無理な注文である。明滅する赤いランプは誘蛾灯の様に増々生徒達を引きつけ、現場付近の混雑は悪化の一途を辿っていた。

 

「みんな、道を空けてくれ! 怪我人が居るんだ!」

 

 葉山が下に向かって声を張り上げる。

 皆、その声が聞こえたのだろう。多くのものは脇へと身を寄せ、道を譲ろうとした。

 しかし救急隊員は何かしら担架的な道具を伴っているに違いないのだ。ひと一人が漸く通れるかという程度の隙間では、こちらへ登って来るのもままならないと思われた。

 更に悪い事に、屋上付近は狭いだけでなく踊り場すら存在しない。言ってみれば途中から非常階段のような作りになっているのである。つまり、一旦詰まってしまうと下から順に人が抜けるのを待つしかないのだった。

 

「降りて! みんな早く下に行ってよ! 助からなくなっちゃう!」

 

「上半分の生徒はこっちへ! その方が早いわ!」

 

 由比ヶ浜の悲鳴と雪ノ下の怒声が飛び交う。それでも押し合いへし合いをしている群衆の動きは亀の様に遅い。

 私は人払いをしておかなかった事を今更ながら後悔した。屋上からの移動が難しい事は分かっていた筈なのに。救護さえも生徒任せにして、私は手をこまねいていただけではないか。

 

「なんでこんな……お願い、かみさま…!」

 

 比企谷の手を握った一色の絞り出すような祈りが聞こえて、思わず奥歯がぎりりと音を立てた。ぞろぞろと波打つばかりの黒山に苛立ちが募る。

 降りようとする生徒と新たに様子を見に来た生徒が拮抗しているのか、いつまで経っても階段上の人間は減ってくれなかった。

 

「お前ら、人の命が掛かってるんだぞ! 急いでくれ!」

 

 業を煮やした葉山が階下に向かって今一度叫んだところで、ぬっとその後ろに立った人物が居た。

 煤けた色のコートをはためかせるのは材木座。

 彼は眼鏡をくいと指で押し上げ、低く響く声で言い放つ。

 

退()け、そこなイケメン」

 

 決意に満ちたその表情を見て、彼が比企谷の数少ない友人である事を思い出した。比企谷は嫌そうな顔でその関係を否定していたものだが、あんな風に忌憚なく扱える知己こそが、人生において得難い存在なのだと私は思う。

 

「え? 中二、なにする気…?」

 

「なに、我もこの男には少々貸しがあるのだよ。取り立てる前に倒れられては大損だろう? ──ヤバい、今の我、超かっこいい…」

 

「イモ先輩…」

 

「あふん…! 上手くいったら超クールなあだ名に変えてもらうんだ…!」

 

 遠い目をして盛大にフラグを仄めかしながら、彼は指を立てた両手を地面へと付けた。頭を低くして正面を睨むその姿勢は、クラウチングスタートと呼ばれるものだ。これから彼がしようとしている事を見て取った葉山が慌てて制止を叫ぶ。

 

「よ、よせ! 階段だぞ! ()()は危険過ぎる! 別の怪我人が出るかも──」

「生憎だが、貴様と違って友が少ない身の上でな。我が相棒の命、見知らぬ百人の怪我で拾えるなら安いものよ!」

 

「なっ…本気か!?」

 

「フッ、是非もなし…」

 

 四肢にぐっと力を込め、鼻息も荒く腰を上げた。その姿はまるで猛牛だ。全く止まる気配がないのを察した葉山は、怯んだように非常扉への道を譲った。

 

()くぞぉッ! (うな)れ豪腕ッ、(ほとばし)れ魂ィ!」

 

「お願いしますっ!」

「いいわ、やって頂戴!」

「行っけぇー! ちゅうにーーーっ!」

 

 身動きの取れない少女達の痛切なる願い。

 それを代弁するかの如く、彼は猛々しい雄叫びを上げる。

 

 

「必ィィッ殺! 超重量貫通撃(グランド・ペネトレイタ)アアァッ!!」

 

 

よく分からない台詞と共に、重量級の身体が階段へ向かって真っ直ぐに突っ込んだ。

 

「ぎゃあああああっ!?」

「ちょっバカ、何してんだ!?」

「やだ重っ! 踏まな…きゃああ!」

「ばっ! お、押すな…いででで!」

「うわわわ落ちる落ちる!」

「やっべバカ早くそっち行けって!」

「んな簡単に動けねぐええっ!」

 

 材木座は渋滞する生徒達を押しのけ、突き飛ばし、踏みつけて、無理矢理に階下へと駆け下りてゆく。

 巻き込まれた生徒達は体勢を崩し、何人かは階段を踏み外して下の生徒を押し潰し──男女を問わない阿鼻叫喚が広がっていくのが屋上まで聞こえてきた。

 

「壮絶ね…。無茶も無謀も、ここまで来ればいっそ爽快だわ」

 

「凄いな、彼は。俺には真似出来そうもない」

 

「あたし中二のこと見直したかも!」

 

「やれやれ。これは弁護のし甲斐があるな…」

 

 階下から聞こえてくる功労者の悲鳴は、生徒達から吊し上げでも食らっているところだろうか。その身が些か心配ではあったが、無茶を通しただけの甲斐はあった。幅の良い彼が押し通ったその跡は、抉れたようにぽっかりと道が開いている。

 

「け、怪我人はこちらですか?」

 

 やがて戸口から担架を担いだ救急隊員が恐る恐るといった体で顔を出し、私達は歓声を上げて彼らに手を振ったのだった。

 




八幡、いろはす視点「メイン」というのはこの伏線だったんだ!
ΩΩΩ<な、なんだってー

そう言えば、久しぶりに鬼畜引きじゃないですね。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。