そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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m(_ _)m 皆様ちょおお久しぶりです。めりーくりすます。
エタりはせん!エタりはせんぞぉ!


■36話 好きって気持ちのぶつかり合い

《---Side Yui---》

 

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……これからずっとアレ、続けるつもり…?」

 

「……さー…どーですかねー…」

 

「………」

 

 平日の真昼間から、高校生が二人、グダグダと。

 

 病室を出たあたし達は、エレベーター前のスペースで缶ジュースを弄んでいた。大騒ぎを見かねた看護師さんにお説教されて、頭を冷やしに来たのだ。ま、どっちにしても、あのままヒッキーのところには居られなかったけど。

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……ちゃんとホントのこと、ゆった方がよくない…?」

 

「……うーん…そーかもですねー…」

 

「……………」

 

 派手なデザインのアルミ缶をほっぺたに当ててみる。よく冷えたそれはあたしの火照りをぐいぐいと持っていくけれど、それでも身体の内から溢れる焼け付いたような熱気が収まる気配はなかった。どれだけ深呼吸を繰り返しても、頭の芯から力が抜けてくれない。

 気だるげな返事を繰り返すお隣さんに視線を移してみると、いろはちゃんはおデコに缶を当て、ゆっくりと熱っぽい息を吐いていた。その唇がやけに艶っぽく思えて、思わず目を逸らす。

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……その…どうだった…?」

 

「最高でした♪」

 

「なんでソコだけ即答するし?!」

 

「あはははは!」

 

 ころころと笑う彼女はとても幸せそう。ううん、きっと幸せなんだろうな。だって三回もしてたし。あんなに。ぶちゅーってしてたし! むきー!

 

 おデコから缶をどけた彼女と、ようやく目が合った。

 ああ、分かる。分かり過ぎるくらいに分かる。

 「恥ずかしい」が「嬉しい」で塗りつぶされている。そんな目だ。

 

「お茶を濁すのはもう終了って事で。そっち方面は正直ベースで行くことにしました」

 

「あたし的には一番ぼかしてほしかったかも…」

 

 どれだけ分かりやすくとも、今までは決定的な言葉を避けていた彼女。それがいつの間にか、気持ちをハッキリ口に出すようになっていた。ただでさえ甘ったるいところに加えて更にハチミツをトロットロに溶かしたような声で、身体を抱いてクネクネしている。

 どんなきっかけがあったのかは分からないけど──ううん、そうじゃないか。きっかけはあった。超ド級のがあった。ただ、それどころじゃなかったってだけの話だ。ひと段落すれば、こうなることは分かってたハズなのに。

 

「うひー、キスヤバいです、マジヤバいです。想像してたのの100万倍ヤバイです。あたま爆発しそうです。ぶっちゃけ全然足りないです一日中してたいですダメですか?」

 

「あたしにぶっちゃけられても困るよ…」

 

「あ、スゴい事思いついちゃいました。週に一度はキスして過ごす日とか作れば、世界から戦争とか無くなるんじゃないですか? だってこんなにハッピーになれるんですよ。これもうノーベル賞ものじゃないですかね」

 

「うん、それだとまずはここで戦争が起きるんじゃないかな」

 

 彼氏が出来た友達のノロケは聞いたことあったけど、いろはちゃんのはわりと最悪レベルにウザい。しかも今回は相手が相手だ。さっきから右のコメカミあたりがピクピクいってるのが分かる。

 

「嬉しいのは分かったからさ…。いちお、その、ノロケる相手も選んでほしいってゆーか…」

 

 思った以上に低い声が出ちゃった。

 けど、いろはちゃんはそんなあたしの恨みがましい呟きに、ケロッとした様子で返した。

 

「なら、結衣先輩もしたらいいじゃないですか。さっきカノジョに名乗り出てましたよね?」

 

「んなのできるわけないじゃん! それに二番目はないってクギ刺されちゃったし…」

 

 言われなかったらやったのかっていうと…どーだろ。やったかもしれない。それくらい、悔しかったし、羨ましかった。

 

「てかいろはちゃん、そーゆーの気にしないタイプなの? 浮気とか許せちゃうヒト?」

 

「えっとー、そういうワケじゃないんですけど…。さっきのアレは反則だって自覚はありますから。自分はお手付きしたくせに、もうツバ付けたから手を出すなー、なんて…さすがに言えませんし」

 

 バツの悪そうな顔でほっぺたをかきながら、彼女はペロリと舌を出してみせる。みんなはあざといあざといって言ってるけど、女の子同士だからこそ、特に狙ったわけでもない今の仕草はひときわ可愛いと思えた。

 ついつい、彼女の唇に目線が奪われる。さすが、ケアもばっちりだなー、柔らかそう。まるで雑誌のお手本みたいな仕上がりだ。こんなの、男の子なら誰だってキスしたいって思っちゃうよね。いやまあヒッキーからしたわけじゃないんだけど。

 

 パニクっちゃってちゃんと見てなかったけど、いろはちゃんに限ってキスがヘタクソってことはないだろうし…。こんなに可愛い子に、こんなに綺麗な唇で、とっても上手に初めてを奪われた。きっと一生、記憶に残るんだろうな…はぁあああ……。

 歯ぎしりするほど悔しかった。でも、自分ならあれ以上の初めてを与えてあげられるのかと言われれば、そんな自信も持てなくて…。思わず、惨めったらしい負け惜しみが口からこぼれ落ちる。

 

「そ、それよりさ。無理矢理奪っちゃうみたいなの、マズくない? …そりゃ、いろはちゃんは経験豊富かも知れないけど、向こうはぜったい初めてだったでしょ」

 

「んーまあ…確かに強引過ぎた感はありますけど。話の流れ的にビビッと来たので。ココだー!って」

 

「ダメだよ! そんな適当にあんなコトしちゃ!」

 

「そうですか? ああいうのって普通、盛り上がったその場のノリでするものじゃないですか?」

 

「ちが…! ……あれ? …違わない、かも…?」

 

 考えてみれば、キスなんてものは事前に計画していたとしても、ムードが盛り上がらなければできない類のものだ。ノリや勢いが一番大事という彼女の言い分は、あながち間違ってはいない。みんなのリアクションからもあのタイミングがムード的に非常識過ぎたってのだけは確かだけど…。

 

「ノリでやっちゃまずいのは、相手への気持ちが定まってない時ですよね? その点、わたし的に、さっきのはオールオッケーだと思うんですけど」

 

「う、うーん…。そう言われると、アリ…かも…」

 

「先輩、ちょお気持ち良さそうな顔してましたよ? それとわたしも! ちょおちょお気持ち良かったです!」

 

「あ、あたしがしたっておんなじ顔するもん! たぶん! あと感想とか要らないから!」

 

「まあそうでしょうね。だから先手を打たせてもらったワケですし」

 

「…へ?」

 

 熱に浮かされていたはずの彼女の言葉に、急に理性的な冷たさが戻っていた。

 気がつけば、こっちを流し見る彼女の瞳は、前に一度見たことのある色に輝いている。そう──一人前と認められていないと悔しがって、怒っていた、あの時のような。

 

「いつぞやは先手取られて泣きを見ましたので。遠慮している場合じゃないなーと」

 

「あ、あれは…いろはちゃんがやれって言ったんじゃん!」

 

「ほら、()()の意味、分かってるじゃないですか。それで意識していなかったとは言わせませんよー?」

 

「う…」

 

 写真撮影の夜のこと。一つのイスの上での大騒ぎ。

 あの時、あたしがしたコトをいろはちゃんが全く気にしていないとは思ってなかったけど、これほど目の敵にされてたとは…。

 でも、それも今ならわかる。きっと彼女はあの瞬間──あたしが彼にすり寄った時、こういう気持ちを味わったんだ。だからその後、あんなに大胆な行動に出た。それでもやっぱり、先を越されたという事実はなくならない。だって彼女が今さっき、そう告白した。

 じゃあ、ここで張り合って彼女と同じようにしたとしても、やっぱりこのモヤモヤは残ってしまう。それ以上の事をしないと消えてくれないの?

 

「それと…どうも誤解がありそうなので断っておきますけど…あれは先輩の初めてを奪ったんじゃなくて、わたしの初めてを捧げたっていう体ですので。そこのトコよろしくです」

 

「は? え? ウソ! いろはちゃんあれ初めてだったの?!」

 

「あー、そのリアクション…予想通り過ぎて涙が出そうですね…。まったく失礼ですよ。みんな、ひとの事どんだけビッチだと思ってるんですか」

 

「いやいやいや! だってすっごい慣れたカンジだったじゃん! それにどっかの男子と遊んでるとこ、あたしだって何度も見たし…。てっきり…その、もっと経験してるんだろうなーって…」

 

「だって、慣れっこになるくらい沢山しちゃってるんだって思わせないと、先輩が逃げちゃいますからね。あと、色々と遊び歩いてたのは事実ですけど、"遊ぶ"以上の事はしてませんからね? 言葉通りの意味なんで、勝手に深読みしないでほしいです」

 

「なんだぁ…ならあたしと同じだったんじゃん。…って、なんか余計に悔しくなってきたんだけど」

 

「むっふっふー、もう同じじゃなくなっちゃいましたけどね。勝てばカングンというやつです」

 

「うぐぐ…なんかアタマ良さげなことまで言ってるし…」

 

 ドヤ顔を披露しつつ、輝きが艶めかしい唇を、指先でぷるぷると弾く。経験者の──彼女の言葉を信じるならば、今となっては、なんだけど──そんな余裕がありありと滲み出ていて、これ以上は何を言ってもあたしが惨めになるだけだった。

 

「ま、まあ勢いでやっちゃったことはこの際置いておくとしてさ…。その…結局、カノジョとかってのはなんなの? あれ本気?」

 

 そう。

 キスのインパクトが大きすぎて思わず忘れそうになるけど、どっちかって言えばそっちの方が問題だった。記憶のないヒッキーにあんな言い方をすれば、彼は信じるしかない。けど、そんなウソをついたところで、いつかはバレるに決まってる。負け惜しみでもなんでもなく、あんなやり方で上手くいくとはとても思えなかった。

 

「んー、今の先輩って、結衣先輩たちに会う前の状態なんですよね? つまり、ホントのぼっち。これまでの自称ぼっちとは違う、ガチのやつ」

 

「まあ…そう、かな…?」

 

「そんなぼっち先輩が一人で入院とか、可哀想じゃないですか。でも! でもですよ? そこにカノジョの一人もいれば、入院生活もバラ色に早変わり! となるとー、そこはやっぱり直前まで恋人のフリしてたわたしが、一番適任じゃないかと思ったわけで──」

 

 ペラペラとまくし立てるいろはちゃん。その言葉のほとんどは、あたしの耳には入ってこなかった。彼女の目を見ればわかる。さっきまでの強い力が籠っていないからだ。

 

「ん。みんなにはまあ、それでもいいと思うけど」

 

「………」

 

 

 あたしの言葉を受けて、用意していたであろう設定(りゆう)をすらすらとそらんじていた彼女の口が、きゅっと結ばれる。長いまつげが伏せられて、まぶたが彼女の瞳をしばらく覆い隠した。それから、再び開かれた彼女の瞳の色が戻ったことを確認する。「で、本音は?」とあたしは尋ねた。

 

「…今しかないと思いました。先輩が、お二人のことを忘れてる今しか。神様がくれたチャンスなんだって。…ひょっとしたら、くれたのは悪魔かも知れませんけどね」

 

 そう言って正面から目を見つめてくるいろはちゃんを、あたしは「怖い」と思った。そこに罪悪感はある。恐れもある。けれど、後悔はない。

まるで陽乃さんに睨まれた時みたいな──けど、種類はぜんぜん別の──押しつぶされそうな感覚だった。

 身体つきだって年齢だって、いろはちゃんよりあたしの方が大人のはずだ。そんなちっぽけな優越感が笑えてくるくらい、今の彼女は圧倒的なまでに"女"だった。

 

「でも、わたしは誰にも謝りませんし、これからも遠慮しません。だって恋は戦争ですから。わたし達の好きな人は、世界にたったひとりしか居ないんですから」

 

「さっきは戦争がなくなるとかゆってたクセに…」

 

 彼女は「前言撤回します」とクスクス笑う。

 

「もう自分のだから手を出すな、だなんて言い張るつもりはないですよ。ただ、結衣先輩がわたしと同じ事をするっていうなら、わたしはもっと先へ踏み込みますけどね」

 

 もっと先へ──。

 あたしが想像し、怯んだことの答えを、彼女は先回りしてきた。

 同じようにして張り合ったところで、まず勝ち目はない。そう思えた。

 

「じゃあ、続けるの? 恋人のフリ…」

 

「…先輩の記憶、そのうち戻るんですよね? その時どういう反応すると思います? ぜったいに責任がどうとか言って、離れようとしますよね」

 

「それは…うん、そう…だと思う」

 

 今回の騒ぎの大きさを考えれば、彼が後々どう動くかは簡単に想像できる。結果的に、あたし達はいろはちゃんを本当の意味では守りきれなかった。ヒッキーだって絶対にそう考えているハズだ。間違いなく、今後いろはちゃんと距離を置こうとするだろう。

 

「あのひとは感情より理屈を優先するタイプです。怖い目に遭わせた自分はわたしの傍に居ない方がいい──そんなふわっとした感情論よりも、居なくちゃいけない明確な理由があれば、そっちを優先するはずです」

 

「既成事実を作るってこと? そんなことしたら、記憶戻ったヒッキー、怒るんじゃない?」

 

「真っ当なやり方で気持ちを伝えたとして、答えが返ってくるのっていつになると思いますか? そもそも答えが返ってくると思いますか? わたしは待てません。それに、近くに居たいんです。少しでも長く、少しでも近くに」

 

 後々までをきちんと見通した、理性的な作戦…というワケではなさそうだった。今もこれからも、ただ近くに居たい──色々理屈をこねているけど、一番の根っこにあるのはそういうシンプルな理由だけのような。

あたしだって、そういう気持ちはある。だけど──

 

「でも…それってさ…気持ちの押しつけのような…」

 

「そうですね」

 

「え?」

 

「そうですよ?」

 

 そうはならない、とか。そういうつもりはない、とか──。

 言い訳なり、別の解釈なりを期待していたあたしは、全く悪びれもしない彼女に、目を丸くすることになった。

 

「あー…そかそか。結衣先輩らしいですね」

 

 あたしが何に驚いたのかを理解したのか、彼女は人差し指を立てて、「これは持論なんですけど」と続ける。

 

「恋愛って、言っちゃえば好きって気持ちのぶつかり合いですよね。どうしたって、気持ちの強い方が弱い方に押しつける形になるんです。別々の人間同士なんですから、いきなりピッタリ釣り合うワケないじゃないですか。最初は温度差があるの、当たり前のことじゃないですか? わたしはそう思います」

 

 あとは恋人として過ごしながら温め合って、その差をゆっくりと埋めていくのではないか。彼女はそう語った。

 

「はー……」

 

 考えたこともなかったけど、それはすごく素敵な恋愛観だった。思わずぼうっと聞き惚れてしまった…しまったけど、「でもでも」と頭を振る。それはお互いの"一番"が一致している場合の話だ。誰が一番なのかを見失っている今の彼に、その理屈を当てはめてしまってよいものか。

 

「そ、それはそうかもだけど…。なら、今のヒッキーの気持ちはどうなるの? 記憶なくなっちゃってるからアレだけど、その…ホントは他にもっと好きな人がいたりとか…」

 

 ゆきのんとか、ゆきのんとか、ゆきのんとか。

 

 あとはその……ひょっとしたら万が一……あ、あたし、とか…。

 

「いま大切にしてるモノ、捨てさせるってコトじゃないの?」

 

 自意識過剰だとは思わない。それだけは自信がある。

 いろはちゃんは、ちゃんと分かっているんだろうか。分かっていないのなら、彼女のやったこと、やろうとしていることを認めるわけにはいかなかった。これだけ長い間悩み続けて、まだ見つけられないでいるあたし達の"答え"を、彼女は持っているんだろうか。もしもそんなものがあるのなら、教えて欲しい──。

 

 そんな淡い期待も込めて、自分でも答えの出せていない、ずるい質問を彼女にぶつけてみた。

 

 

「…それで、ヒッキーは、幸せになれるの?」

 

 

 

 

「…………………………………………………」

 

 

 

 

 これほど長い沈黙は、あたしといろはちゃんの会話の中で初めてだった。

 それはそうだろう。だってこれは、あたし達の関係の一番深いところにある問題だ。後から参戦したいろはちゃんに首を突っ込む権利がないだなんて言わないけど、すぐに答えが出せるならあたしだって苦労はしない。

まるで放送事故みたいな空白の後、いろはちゃんはぽつりと呟いた。

 

「…ずるいですよね」

 

 タチの悪い質問をぶつけたあたしの底意地を責められたのかと、一瞬心臓が跳ねる。

 でも、続く言葉は全く逆の相手を指していた。

 

「ずるいとは思ってますよ、わたしのした事は。わたしが結衣先輩なら、二、三発引っぱたいてやりたいです」

 

 まるでそこを誰かに叩かれでもしたかのように、彼女はほっぺたに手を当ててさすっていた。ううん、あたしの言葉がそう感じさせた。あたしは言葉で彼女のほっぺたを引っぱたいた。そんなつもりはなかっただなんて言わない。彼女を責め立てるべくして責めたんだ。

 

 そして、引っぱたかれた彼女は、しかし負けじとこちらを見返してきた。

 

「でも…でも、だったら、結衣先輩や雪ノ下先輩だってずるいんです。わたしから見たら、凄くずるいんです」

 

 その言葉に、正直あたしは面食らった。

 ヒッキーとの仲を「羨ましい」と言われることはあっても、「ずるい」と責められるだなんて。そんな風に言われるようなこと、何も──

 

「だって二人は…結衣先輩は、先輩に逢えたじゃないですか。誰よりも先に出会えたじゃないですか。それからずーっと一緒に居られたじゃないですか。そんなの全然フェアじゃないです! ずるです! ずっこいです!」

 

 あたし達を責め立てる声は、悔し涙に濡れていた。

 

 

「初めて私が入った時、あの部屋、もう満席だったじゃないですか…」

 

 

 

 

 ふと、初めて彼と出会った頃の事を思い出していた。

 

 

 

 寒々とした教室の中、取ってつけたように置かれた長机とイス。

 

 そしてそれをいびつな距離感で囲む三人。

 

 彼女の言葉とは逆に、あの部屋は当時も今も、見てくれはスカスカだった。

 

 部室で話すようになった頃、彼の他人への距離感は今ほど近くはなかった。あの人は心に壁を作っていて、それはどんなに鈍い人間にもハッキリと見て取れるほど、露骨なモノ。だけどあたし達は、ぽっかり空いていた彼の両隣を占領できた。三人だけの世界に籠り、時間をかけて、少しずつ。

 

 だって、あの締め切った小さな部屋の中は、ほんの半歩だけとはいえ、紛れもなく彼の壁の"内側"だったのだ。

 

 ここまで来るのに、色んなことがあった。ひどいケンカだってしたし、とてもじゃないけど簡単な道のりだったとは言えない。それでも、こうして今の位置に陣取れたのは

 

(そこに居たのがこのあたし、由比ヶ浜結衣だったから──)

 

残念ながら、そうではないということを、他ならぬ自分自身が一番理解していた。

 

(もし、あたし以外の誰か…例えばそれが、いろはちゃんだったら…)

 

 そんな"もしも"に意味なんてない。いろはちゃんがあたし達と仲良くなったのは、生徒会選挙があんな風に拗れたからで、何か一つでも違っていれば、今の関係だって成立しなかった。

 それでも、もしも彼の隣に、最初からいろはちゃんが座っていたとしたら。今の彼女がやってきたように、ヒッキーに会うために完成された"内輪"へ飛び込むなんて勇気、あたしには絶対に出せなかった。

 

 そこまで考えて、やっと彼女の気持ちが理解できた──ううん、思い出した。

 

 あたしだって同じようなコト、やってたじゃん。

 ゆきのんに内緒で花火とか、行ってたじゃん。

 そうしないと追い付けないって、分かってたじゃん。

 

「────っ」

 

 取り留めもなく謝ろうとした声が喉まで出かかったけど、続く言葉に遮られた。

 

「先輩が傷付けられて。泣いて、すごく、すごく泣いて。もう一滴も出ないってとこまで泣き尽くして。それなのに、先輩に忘れられちゃって…そしたら、まだ涙が出たんですよ。自分でもビックリしました。ああ、こんなに好きなんだなって…」

 

 こみ上げるような内容とは裏腹に、その声色はほとんど平温に戻っている。あたしがあれこれ考えている間に、いくらかクールダウンしたみたいだった。

 

「もう、後悔したくないんです、わたし」

 

「…あたしも今、後悔してる。でも…だから、かな。なんかよくわかんなくなってきちゃった。みんなで仲良くできたら一番良いんじゃんて、思ってたけど…」

 

 そんなのうまく行きっこないなんてコト、良く分かってたハズだった。 だってほら、こうしてたった二人の間でさえ、全然うまくやれてない。

 

「わたしの恋愛脳も大分アレだって自覚はありますけど、どうやら結衣先輩とは毛色が違うみたいですね」

 

「…?」

 

「だって、わたしにとっての一番の席は、元々ひとつしかないんです。もちろん結衣先輩や雪ノ下先輩のことは大好きですけど、それでももし、先輩とどっちかを選べって言われたら…。ゴメンナサイですけど、その答えには迷いません。だからさっきの、先輩に他の本命がいたらどうするのって話ですけど──」

 

 いろはちゃんは目を閉じていた。その瞳には誰も映っていない。

 

「捨てる必要はないんです。先輩の大事なものは何ひとつ」

 

 誰に対するでもなく、彼女は静かに宣言した。

 

「ただ、あのひとの中に、わたしへの気持ちがほんの少しでもあるなら…あるって信じて、それを育てます。他の何よりも、一番大きくなるまで、丁寧に、必要なだけ時間をかけて。そして今、先輩が持ってる一番大きな気持ちよりも、ずっと、ずーっと大きく──。そしたらきっと、今よりもっと幸せになれます。してあげます。それがわたしの答えです」

 

 いつだったか。

 自分で宣言したことを、ふと思い出した。

 

『来ないなら、こっちから行く』

 

 あたしの精いっぱいの、宣戦布告。

 それが、どれほど生ぬるいものだったのか、よくわかった。

 あの引きこもりの男の子を相手に、この子はこう言っているんだ。

 

『扉が開かなくても、こじ開ける』

 

『居場所がなくても、作り出す』

 

 確かに、あたし達は同じじゃなかった。あたしには、親友を傷つけてまで彼を選ぶ覚悟がない。宙ぶらりんなまま、ぬるま湯に浸かっている今が心地良いから。本当はそれが、ゆきのんやヒッキーの嫌いな、彼が涙まで浮かべて欲しがったモノから一番遠いところにある、ニセモノだってことも、よく分かってるのに。

 

「…望んでるのと違うかもって…不安にはならないの?」

 

 縋るように問いかけたあたしに返ってきた彼女の答えは、ちっとも優しくはなかった。

 

「きっと、その辺がわたしと結衣先輩の決定的に違うところなんでしょうね。『先輩が幸せになってくれれば、相手は誰でもいい』だなんて、そんな健気な女の子じゃないんですよ、わたし。他の誰でもない、このわたしの手で、あのひとを幸せにしてあげたいんです」

 

 同じ相手に向けられた、あたしと彼女の気持ち。

 最初は親近感すら感じていたハズだったのに、どこでこんなに差が付いたのだろう。

 

「わりと、ワガママなので」

 

「ふふっ…そだね。でも…」

 

 ニカッと白い歯を見せる彼女は、本当に自分勝手で。

 なのに悔しくなるくらい、自分に真っすぐな、お姫様みたいな笑顔だった。

 どっちが正しいとか、間違っているとか、そういう問題じゃない。

ただ──

 

「いいね、それ」

 

 そういう風に動けたら、もっと違ってたんだろうなって。

 

 そう思ったけど、言葉にはしなかった。

 今までの自分を否定したくなかったから。だけど、こんな風に思うってことは、自分の行動に満足していないってことなんだろう。今からでも動いたら、もう少し満足のいく結果になったりするのかな。

 

 そんなあたしの考えを見透かすかのように、彼女は尋ねた。

 

「──それで、結衣先輩は、どうするんですか?」

 

 どうするって、何を?

 

 恋人のフリのこと、ヒッキーへの接し方、いろはちゃんとの付き合い方、ゆきのんの気持ち、これからの学校のこと──。

 

 何もかもが、グチャグチャにこんがらがってる。

 どこから手を付けたらいいの?

 今さらあたしに、出来ることってある?

 

「……わかんない」

 

 何をするべきか、わかんない。

 何を聞かれたのかも、わかんない。

 

「わかんないけど…」

 

 すっかり温くなった空き缶を放り投げる。

 綺麗な放物線を描いてゴミ箱へ飛び込んだそれは、思ったより高い音を立てた。

 

 ひっくり返したおもちゃ箱みたいな頭の中で、一つだけ、ハッキリと形を保っているモノ。

 きっとこれが、彼女の質問に対する答えだと信じて、あたしは返事をした。

 

「──頑張るのは、やめない」

 




ブランク明けでこの二人のガチンコとかキツ過ぎだってばよ…。

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