そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■40話 再び凍りつく音

<<---Side Yukino--->>

 

 比企谷くんが目を覚ましてから、一体何日経過しただろうか。

 

 少しずつ、しかし着実に、私達の周囲は日常を取り戻しつつあった。

 いつまでも同じ話題では視聴率を稼げないのだろう。校門に張り付いていたカメラの数は日に日にその数を減らし、いつの間にかその姿を見かけなくなっていた。

 

 一時は大いに乱れていた私達の生活サイクルも概ね回復し、食事や睡眠も平時のペースに落ち着いている。ただ、あの日以来、部室には一度も顔を出していなかった。改めて聞いたことはないけれど、足が遠のいているのは私だけではないと思う。

 昏睡状態だった時は兎も角、今では退院の話もちらつく程に、彼は回復している。それでもかつての日常にすんなり戻れないでいるのは、やはり記憶の問題が引っかかっているからではないだろうか。

 

 そんな私達は、まるで部活動の代償行為であるかの様に、毎日放課後に例の病室へ足を運んでいた。

 今日もこうして、タクシーの後部座席に三人並んで納まっている。いつもと違うところがあるとすれば、()()()()の緩みきった笑顔が少しばかり癇に障るという事くらいだろうか。

 

 特別急ぎの訪問でもないのだから、本来であれば高校生らしくバスを使うべきなのだろう。けれど私は、姉さんからとあるチケットを受け取っていた。後払いでタクシーを利用できる、クレジットカードのような代物だ。高校生には不釣り合いなその品は、きっと彼女のポケットマネーから捻出されたに違いない。そう解釈した私は、「そこまで世話になる必要はない」とそれを突き返したのだけれど、

 

『いいのいいの、私のお金じゃないから。なるべく沢山使ってあげてね?』

 

 と、意味深な言葉と共に、強引に押し付けられてしまったのであった。

 

 言い出したら聞かないあの人の事だ。要らないと言っても返品には応じないだろう。幸い、使わなければ請求が行かない仕組みのようだし、引き出しの奥にでも──と、お蔵入りしかけたところで、請求先の欄に印字されたとある社名が、私の目に留まったのであった。

 

 

 あれから私は、本当に何の遠慮もなく、むしろ積極的にそのチケットを使い倒している。

 

「ゆきのん、いっつもゴメンね。タクシー代、出してもらっちゃって」

 

「言っているでしょう。出すべきところから出ているお金なの。これで日本一周したところで、良心の呵責を感じる必要は一切無いわ」

 

「あはは…。日本一周は無理でもさ、またみんなで旅行とか行きたいね。ヒッキー慰安旅行!みたいなカンジで」

 

「あら、それは名案ね。比企谷くんをダシにすれば、超長距離でもこれが使えるかもしれないし」

 

「って、タクシーで行くつもりなの!?」

 

 どうやら彼女は冗談のつもりだったらしい。私としては、如何にこのチケットを無駄遣いできるかを日々模索しているところなので、その案は真剣に検討する余地があると思うのだけど…。

 

 私が手にしているチケットの束を覗き込んで、由比ヶ浜さんが問いかける。

 

「この…なるせ?法律事務所…って何なの? 陽乃さん関係?」

 

「そう聞いているわ。いずれにしても、私達の知る必要のない事よ」

 

「ふーん…お金ってあるトコロにはあるんだねー。いろはちゃんは旅行とか行きたく──」

 

 しみじみと的外れな感慨に浸っていた由比ヶ浜さんは、隣に座る一色さんに話を振る。しかし彼女はしきりに胸に手を当てて頬を緩めており、声を掛けられたことにも気づいていない様子だった。

 

「……♪」

 

「むっ…」

 

「………えへ」

 

「ぐぬぅ……」

 

「…………えへへ♪」

 

「ぐぬぬーーーっ!」

 

「由比ヶ浜さん、騒がないの」

 

「だってだって! いろはちゃんがー!」

 

「一色さんも。気持ちは分かるけど、弄り過ぎて落としたりしないようにね」

 

「うっ…そうですね。気を付けます…」

 

 少し矛先を変えて注意してやると、一色さんはやっとこちらの言葉に反応して頷いた。

 彼女は両手の指先を揃え、祈るようにして自らの胸に添えている。そこにしまわれた宝物に想いを巡らせているのか、ほう、と熱っぽい息を吐き出していた。

 

「それにしてもこれ、ちょっと息苦しいですね。雪ノ下先輩、気になりませんか?」

 

「別に。きちんとしていた方が、気持ちが引き締まるじゃない」

 

「気持ちって言うか、リアルに首が絞まるんですけど…」

 

 自らの襟元に指を突っ込み、暑さにくたびれた子犬の様に小さな舌を垂らしている一色さんに、私は首を傾げた。

 

 ある程度は型を崩すのがセオリーとされている、女学生の着こなし術。私と同乗している二人もまたその風潮にあやかって、日頃から襟元を緩めている。その中でも彼女らはかなり解放的な部類だと思うのだけれど、ならばボタンを全部止めている私みたいな人種はというと、これはもうかなりの少数派だった。下手をすると国際教養科(ウチ)の女子くらいのものではないだろうか。

 

 ただ、今日に限って言えば、一色さんはそのマイノリティの一員となっていた。私と同じか、あるいはそれ以上にきっちりと襟を閉じ、上から結んだリボンで厳重に首周りを抑え込んでいる。普段から洒落っ気の強い彼女がこうしていると、あたかも指導室で身なりを整えさせられた直後の様に見えて──言っては何だけれど、微妙な痛々しさすら感じさせる。

 

「学校にはしてこない、と言う選択肢は…聞くだけ野暮かしら」

 

「あはは…すみません」

 

「でもそれ、見つかったら一発アウトだよ。危なくない?」

 

 総武高は勉学に重きを置いた校風ではあるけれど、風紀にも力を入れているかと言えば、実はそれ程でもない。靴に鞄、果ては制服そのものに至るまで、かなりの範囲で生徒たちの自由を黙認している。指定のブレザーを着用すること、というのが唯一守られているルールだろうか。

 

 斯くも自由な校風ではあれど、あまりお目(こぼ)しの利かない物もある。その一つがネックレスやブレスレット──要はアクセサリーの類だった。

 そして駄目と言われればやりたくなるのが思春期…という訳でもないのだろうけれど、厳しいと知っていながら敢えてそれを持ち込み、指導室に連行される女子生徒の話というのは、枚挙に暇がないのである。

 

「優美子とか速攻で没収されてたし。一週間くらい返ってこなかったって」

 

「没収はマズいですね。()()を取り上げられたらわたし、ちょっと何するかわかりません」

 

「ヒエッ…!」

 

 由比ヶ浜さんは小さく悲鳴を上げ、こちらに身を寄せてくる。私も思わず手の平が汗ばんだ。

 

「もー、冗談ですよ結衣先輩。そんな怖がられたらショックです」

 

「え、いや。あはは…そ、そーだよねー。冗談だよねー、うん」

 

「そうですよ。取り上げられる前にどうにかするに決まってるじゃないですか」

 

「怖い! いろはちゃん怖いよ!」

 

「由比ヶ浜さん…狭い……」

 

 ぐいぐいと身体を押し付けられる柔らかな身体を押し返しながら、先日の事を思い出し、私はこっそりと唾を飲み込んだ。

 

 まさかまた(はさみ)が登場したりはしないだろうが、彼女が半ば本気であることは疑いようもない。生徒会長という立場の彼女が見逃してもらえる筈もなし、「外さなければ生徒会長を解任する」と言われたところで、彼女は迷わずその席を降りてしまうだろう。

 となれば、見つからないようにフォローする事も、あの時失敗した──ひいてはこの事態を招いた私の責任というものなのかもしれない。

 

「ていうか、三浦先輩はバレる以前に全く隠そうとしないじゃないですか。それにあのひともですけど、総武高(ウチ)ってピアスは実質セーフですよね。あっちのが全然目立つのに」

 

「そのあたり、本当に緩いわよね…」

 

 私は「学校は勉強をするための場所だ」と本気で思っている人種なので、わざわざルールを破ってまで着飾りたがる彼女たちの気持ちには全くと言って良いほど共感出来ない。とは言え、自身の考えを主張して他人と対立を繰り返すうち、「女子とは得てしてそういうものである」という理解と諦念は、自然と身体に染み込んでいた。

 

「あー、アレは…隼人くんに褒められたから、誰に言われても絶対やめないんだよ」

 

「なるほど、それは仕方ないです。怒られたら葉山先輩のせいですね」

 

「まあねー。好きな人にそんなんゆわれたら、もう着ける一択だし」

 

 あまりに一方的な結論に、何かフォローでもしようかとも思ったけれど…葉山くんのそれに関しては自業自得としか言えないので、私は口を挟まないことにした。

 

 三浦さん含め、堂々とピアスをつけている生徒は何人かいるけれど、あれも本来であれば指導対象だ。ただその手の生徒というのは、注意しても一向にやめようとしないケースが多い。そのせいか検挙率はさして高いものではなく、運が悪ければ虫の居所が悪い教師に捕まって説教をされるくらいで、これも殆ど野放しに近い状態だった。

 つまるところ我が校の教職員のスタンスは「成績以外は一切興味なし」という事なのかもしれない。面倒見の良い平塚先生のそりが合わないのも無理はない、というものだろう。

 

「それにほら、わたしは外に出してませんから。あれですよ、お守りみたいなカンジです」

 

「実際、そう主張されてしまうと咎めたてる道理も無いのよね」

 

 仮に、祖母から貰ったお守りを懐に忍ばせているのが見つかったところで、これを没収する教師は居ないだろう。例えモノがアクセサリーであろうと、その扱いがお守りの範疇から逸脱していない以上、彼女の言い分はそうそう間違ってはいない。あくまでも理屈の上では、だが。

 ましてや、一色さんの現在の心境を(おもんばか)れば、()()を肌身離さず持っていたいと思うのも、十分頷けるというものである。私だって立場が違えばあるいは──いや、意味の無い仮定は止めておこう。

 

 

「けど…本当、外からだと全然分からないのね」

 

 呆れ半分、感心半分の気持ちで、首を伸ばして一色さんの襟元を覗き込む。立てられた襟の隙間に微かな輝きが見え隠れしている。更に目を凝らすと、細い首にチェーンが掛かっているのが見て取れた。

 けれども、生活指導を担当する教諭が男性である以上、こんな風に女生徒の襟を覗き込むなんてことが出来る訳もない。

 

「でもそれ女子にはバレバレだし。いろはちゃん普段と全然違うから一発でしょ」

 

「そうね。あまり露骨にしていると誰かに告げ口されるかも。程々にしておきなさい」

 

「はーい♪」

 

 結局、今の一色さんの様に"風紀を守って襟を正している姿"こそが、ご禁制の品を持ち込んでいる証──そんな諧謔(かいぎゃく)めいた不文律が、女子生徒の間で成立しているのであった。そのせいで痛くもない腹を探られる身としては、実に迷惑な話である。

 

「ちぇー。あたしも何か買ってもらっちゃおっかなー」

 

「いいと思いますよ。先輩、お二人にもお世話になってるって言ってましたし」

 

 どう転んでも自分の負けは無い。一色さんの態度からは、そんな余裕がありありと伝わってくる。

 

「あーでもー、今日は朝から全然返信してくれないんですよ。タイミング悪いかもです」

 

「機嫌悪いってこと?」

 

「んー、リングの件で弄り過ぎたので、ちょっとスネちゃってるかもしれません。それか、新しい本に熱中してるとか…」

 

「なるほどなるほどー。じゃあ今日は止めておいた方が無難かなぁ」

 

 由比ヶ浜さんは、恋敵からの助言を聞き入れて素直に頷いている。助言する方もされる方も、懐が広いのか危機感が足りないのか…。

 

「それと結衣先輩、おねだりはいいですけど、わたしと被らない方向でお願いしますね」

 

「ほら出た! ずるいよー、()()マジ最強だし! この上とかもうないし!」

 

 それもその筈だろう。彼女が先日比企谷くんから受け取ったという"感謝の証"は、かつての彼を知る私達の想像を遥かに超える物だった。「わたしが選んで買ってもらったんですけどね」と一色さんが種明かしするまでの間、比企谷くんの人格が狂ってしまったのではないかと本気で心配した程である。

 

「はあー、いいなぁ…。ねーねー、もっかい見せてー」

 

「いいですよ♪」

 

「…由比ヶ浜さん、貴女って被虐嗜好者(マゾヒスト)なの?」

 

 一色さんが見せたがるのは分かるとしても、悔しい悔しいと(ほぞ)を噛んでいる由比ヶ浜さんが見たがると言うのはどういう理屈だろうか。この辺はちょっと理解できない。

 

 おねだりを受けた一色さんが、人肌に温められたチェーンをごそごそと手繰る。

 

 

 懐から吊り上げられた鎖の先には、銀色に輝く指輪がぶら下がっていた。

 

 

「ふあー…やっぱこれ超かわいい…ふあー…いいなぁ…」

 

「えへ、えへへへへへ♪」

 

「なんか指にするよりこっちの方がかわいくない?」

 

「あ、結衣先輩も思います? 隠すためにこうなったんですけど、逆にアリかなって」

 

 先程から幾度となく繰り返されているこの流れ。もう暫くすると惚けていた由比ヶ浜さんが歯を鳴らして騒ぎ始める訳だけれど、もしかして何かの様式美なのだろうか。

 

「二人ともよく飽きないわね…」

 

 ちらりと横目に見て、そのまま視線を外せないでいる自分に気が付いてしまう。何のことは無い。私もまた、彼女の胸元で輝く小さな銀の輪を、飽きもせずに眺めていた。

 

「ゆきのんはアクセとかあんま好きじゃない?」

 

「あまり主張の強いのはちょっと…。でも、それは素敵だと思うわ」

 

「わ。雪ノ下先輩に褒められちゃいました」

 

 一色さんの好みはもっとこう、良く言えば女の子らしい、悪く言えば子供っぽいデザインを想像していた。けれども実物を見せてもらった時、私は思わず感嘆の声を漏らしてしまったのだ。

 

 見栄えのする宝石は一切使われておらず、形どられた装飾もシンプルな曲線と直線の組み合わせ。まるで媚びる気配の無い、ともすれば「地味」の一言でうち捨てられかねないそのリングは、けれども不思議と誰かの姿を連想させる。そこまで考えて、何故彼女がこれを選んだのか、理解できた気がした。

 

 人を妬む事の愚かしさを常々語っておきながら情けない話だけれど、正直を言えば自分も欲しい。この気持ちは果たして、その質素なデザインだけに依るものなのか、それとも送り主ありきなのだろうか。

 

「何にせよ、学校では気をつけなさい」

 

 私は小言を諦めると、再び頬を膨らませ始めた友人を鎮める作業に専念したのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 甘ったるい空気と共に病院へ到着し、いつもの通りの経路を辿って入院病棟に向かう。

 目的の階層でエレベーターから降りた私達は、そこで目の前の休憩スペースに見慣れた姿を発見した。

 

「あ、こまちゃん! お疲れ様ー」

 

「いろはさん! お二人も。お疲れ様です」

 

 病院でする挨拶はこれでいいのだろうか、と内心首を傾げつつ、私も彼女達に倣ってお疲れ様、と声を掛ける。

 

「どしたの? こんなとこで。診察中?」

 

「あー、えーと。その、ですね…。落ち着いて聞いて欲しいんですけど──」

 

 小町さんはこちらを、特に一色さんを意識しながら、気まずそうに口を開いた。

 

「実はお兄ちゃん、昨夜から目を覚ましてないんです」

 

「えっ!?」

 

 つい先日、嫌と言う程に味わった、背中に氷柱を差し込まれるような感覚が走る。

 両目の瞳孔が開く音が聞こえた気がした。

 

「ど、どういうこと!? せ、先輩は!? 先輩大丈夫なの!?」

 

「おおおお落ち着いていいいろはさんんん! だだ大丈夫、だだ大丈夫ですかららら」

 

 一色さんに激しく肩を揺さぶられて、小町さんは息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。興奮する彼女を引き剥がしながら、私は先を促した。

 

「す、すみません。ご心配をお掛けしないように気を配ったつもりなんですけど、かえって混乱させちゃいましたね」

 

「その様子だと、慌てるような事態ではない、と思って良いのかしら」

 

「はい。お医者さんも身体は全く問題ないって言ってて、すぐ目が覚める可能性が高いってことだったので…。だったら起きてからご連絡しようと思ってたんですが、中々起きてくれなくて、結局この時間になっちゃいました」

 

 つまり、彼女は朝から今までずっと、一人きりでこの不安に耐えていたということだ。状況を理解した私達は、のうのうといつも通りの生活を送っていたさっきまでの自分を恥じるしかなかった。

 

「大変だったのね。こちらこそ、いつも肝心な時に任せっきりで御免なさい。それで、具体的にはどういう状態なの?」

 

「えっと、結論として、今回のはまず心配いらないそうです」

 

 一色さんに気を遣ったのか、小町さんはまず私達を安心させるための一言を強調した。その配慮にかつてのやり取りを思い出したのか、一色さんは少し気恥しそうにして、眉間から力を抜いた。

 

「そ、そうなんだ…。良かったぁ…」

 

「それは額面通り、目が覚めないだけという事かしら」

 

「そうですね。記憶が戻るときはこんな感じになるかもって言われてましたし。そもそも頭を怪我してるわけじゃないし、身体も治ってきてますから。いくらなんでもそろそろ起きるんじゃないかなーと思ってるんですけど…。ホントにいつまで寝てるつもりなんでしょうねー」

 

 冗談めかして言った小町さんの言葉に、(ようや)く小さな笑い声が上がる。手の平に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、私は比企谷くんの病室の方角に顔を向けた。

 

「やー、でもキズが開いたとかじゃなくてホッとしたよー」

 

「でも、目が覚めないのは普通じゃないですよ。やっぱり心配です」

 

「けれど、何もなかったらいつまでも記憶が戻らないかも知れないでしょう。だったら治る兆しと考えた方が前向きじゃないかしら」

 

「小町も雪乃さんに賛成です。ただ──」

 

 何か思うところがある、といった様子の小町さんが口を開いたところで、ナースセンターの方から呼び出しが入った。

 

「比企谷さーん。比企谷さんのご家族のかたぁー?」

 

「あっ、すみません、ちょっと行ってきます」

 

「ええ。こちらの事は気にしないで」

 

「ごめんね、任せっぱなしで」

 

「小町ちゃん、頑張れー!」

 

「はーい! 行ってきまーす!」

 

 小町さんはこちらに小さく手を振ると、看護師と共に彼の病室へと向かっていった。

 

 

* * *

 

 

 気が付けば、私達は誰ともなしに彼の病室へと向かって足を動かしていた。

 

 見慣れた病室の扉が、今日は固く閉ざされている。時折人の声のような物音がわずかに聞こえてくるけれど、耳を澄ませてみても彼の声が混じっているかどうかは分からなかった。小町さんを待つ以外に出来ることはない。私達はただひたすらに、(くつわ)を並べて立ち尽くす。

 

 今日は見舞客が少ないのか、忙しそうに動き回るスタッフを除けば静かなものだ。嫌が応にも運び込まれた日の事が思い出されて、私はぶるりと体を震わせた。

 

「ヒッキーが起きたのかな? もう夕方だし」

 

「そうね…。少し寝坊が過ぎるわね」

 

「今度はちゃんと思い出してくれるかなー」

 

「そう願うわ」

 

 気味の悪い沈黙を嫌った彼女に応じ、ぽつぽつと言葉を繋いでいると、一色さんが酷く暗い顔をしていることに気がついた。由比ヶ浜さんに目配せをすると、こちらの意を酌んだ彼女はひとつ頷いてから

 

「いーろはちゃんっ。大丈夫! 良くなってるってゆってたし!」

 

 と期待通りに明るく励ましてくれた。

 けれど──

 

「わたし、最低です…」

 

 沈んだ顔色は晴れることなく、彼女は独白するように零した。

 

「記憶、元に戻りそうだって…それなのに、ちゃんと喜んであげられないんです」

 

「…えと…どうゆうこと? 治ってほしくないの?」

 

 大きくかぶりを振る彼女は、その場に膝を立ててしゃがみ込んだ。由比ヶ浜さんもそれに倣い、壁を背にして三角座り。ちょっと行儀が悪いかなとも思ったけれど、私も二人の真似をした。

 

 膝に顔を埋めたまま、一色さんはその心中を吐露していく。

 

「…もちろん、戻って欲しいとは思ってます。でも戻っちゃったら、さすがに今まで通りってわけにはいかないだろうなーとか。けど、我慢するのしんどいなーとか。そんな、自分のことばっかり考えてるんですよ。酷くないですか?」

 

 ここまでの展開──比企谷くんの恋人を騙った一色さんが、あとあと苦しい立場に置かれるであろうこと──は、想像に難くないものだった。きっと本人も分かった上での行動だったに違いない。

 それでも、簡単に割り切ることが出来れば苦労はしない。耐えられると思ったはずの苦痛が耐え難いものであるなんて事は、世の中ままあるものだ。

 

「今になって、ちょっと調子に乗りすぎたかもって…。もしも嫌われたらって考えたら、怖くなっちゃって…」

 

 これは慰めるべきか、それとも諭すべきだろうか。やりたいようにすればいいと助言した手前、あまり厳しい事を言えた立場でもないし…。

 そんな風に悩んでいるうちに、由比ヶ浜さんがフォローに入っていた。

 

「そんなことないよ。それにヒッキー、あれだけ仲良くしといて今さら嫌いになんかなれないと思うな。そゆこと出来ない人が相手だから、やられたーって思ったんだし。ね、ゆきのん?」

 

「え、ええ…そうね。そうかも知れないわね」

 

 曖昧な相槌を打ちながら、閉め切られたままの病室へと目を背ける。一色さんの不安や由比ヶ浜さんのフォローを聞いているうち、私はとある懸念を思い出していた。本来であればさして心配する必要のなかった、しかし今となっては無視できない、彼女たちの不安とは根本を異にする問題である。

 

 確かに、比企谷くんの記憶が戻れば一色さんとの間に小さくない軋轢を生むだろうし、かと言って彼女と過ごした日々を全て切り捨ててしまうことは出来ないだろう。けれど、それはあくまで今の──

 

 

 その時、睨みつけていた病室の戸がすっと開け放たれた。

 

 中から退出してきた医師と看護師に、慌てて立ち上がり頭を下げる。

 ただ、いつかの手術の時と違って、今日の医師は去り際に軽く声を掛けてくれた。

 

「大丈夫、良くなってるよ」

 

 思わず互いに笑みを交わす。

 そして最後に姿を見せた小町さんに、三人は揃って殺到した。

 

「お待たせしました。お察しかと思いますが、あのおバカ、やっと起きやがりました。こんだけ皆さんに心配かけといて、もう腹立つくらいケロっとしてますよ」

 

 小町さんの言葉を受けて、思わずほう、と安堵の息を漏らした。強がってはいたものの、私もそれなりには不安だったのだ。

 

「それは本当に何よりね。今日のご面会は出来そう?」

 

「あ…えっと………そうですね、はい」

 

「ええと…具合が悪いようなら日を改めるけれど…?」

 

「あ、いえいえ、ホントに元気ですよ。処置とかも特になしで、このまま解禁だそうです。ちょっと話してみましたけど、なんか記憶も戻ってるっぽい感じでしたし──」

 

 さっきの歯切れの悪い返事が気になったけれど、そんな小さな疑問は由比ヶ浜さんの上げた歓声にかき消された。

 

「おーっ! やったぁ! バンザーイ!」

 

「よ、よかったぁ~!」

 

 手を取り合って喜びに沸く二人。ただ、由比ヶ浜さんと比べると、一色さんはやっぱり少し影を含んだ笑顔だった。小町さんもその機微に目敏く気が付いたようで、彼女の耳元でぽそりとフォローをしてみせた。

 

「いろはさんのことも、すごく心配してましたよ?」

 

「ホ、ホントに? もー先輩ったらぁ、たった一日も我慢出来ないんですかー♪」

 

「ただ、そのですね。実はちょっと──」

 

 嫌われることをあれだけ恐れていた彼女の表情は、その言葉を聞いた途端、春を迎えた花の様に瞬く間に綻んだ。それまでの(かげ)りはどこへやら、弾むような足取りで小町さんの脇をすり抜け、あっという間に病室へと飛び込んでいく。

 

「あっ!? ま、待って、いろはさんっ!」

 

 小町さんはやけに慌てた様子で、彼女の後を追いかけていった。

 

「ゆきのん、行こ?」

 

 さっきの小町さんの言葉がどうにも、引っかかっていた。

 

 比企谷くんが一色さんを心配している──

 おかしくはない。それはおかしくないのだけれど…

 何だろう、この違和感は。

 

「ゆきのん?」

 

「…御免なさい、何でもないわ」

 

 不気味な(わだかま)りを抱えたまま、二人を追って、私達も病室へと足を踏み入れた。

 

 

 

* * *

 

 

 

 恐る恐る病室に入った私は、その光景に肩透かしを食らった心地だった。

 

「けど先輩、ホントにもう大丈夫なんですか?」

 

「ああ、何が何だかさっぱりだけどな」

 

 ベッドの側に陣取った一色さんと上体を起こした比企谷くんが、自然な様子で言葉を交わしている。彼の表情には一色さんへの過剰な遠慮も見当たらない。血色を見る限り調子も良さそうだ。さっきの胸騒ぎは単なる杞憂だったのだろうか。

 

「本当に元気そうじゃない。無駄足だったかしら」

 

 私も気が緩んだのか、暫く控えていた筈の憎まれ口がうっかり顔を出してしまった。慌てて口を手で押さえたところで、

 

「そこはちゃんと無駄足を喜べよ。元気じゃない方が良かったみたいに聞こえちゃうだろ。どうせ万年運動不足なんだから、何なら感謝されても良いくらいだ」

 

 と、きっちり倍になって返ってきた。

 

「お、おぉー…? なんか完全復活ってカンジじゃん! ね、ゆきのん」

 

「ええ…そうね…そう見えるわね…」

 

 比企谷くんの態度には、先日までのようなぎこちなさもない。本当に記憶が戻ったように見える。だと言うのに、嬉しそうにはしゃぐ由比ヶ浜さんに、どうしてか素直に同意できなかった。

 

 

 何だろう、やっぱりどこか違和感が…。

 

 違う、そうじゃない。そうではなくて。

 

 ()()()()()()事に、違和感を感じる。

 

 

「ねえ比企谷くん。貴方…」

 

 誰もが待ち望んでいたはずの日常の中で。

 小町さんだけがずっと、青い顔をして一色さんの袖を引いていた。

 

「い、いろはさん、ちょっと! ちょーっとだけ、小町にお時間をば!」

 

「あは、さっきからどしたの? ちょっと待ってね、いま──あっ先輩、一応、意識失ってたんですから、ちゃんと横になってた方がいいですよ?」

 

「あ、おお…。サンキュな…」

 

 慣れた様子で背に手を添えて、そっと彼を寝かしつけようとする一色さん。

 

 その優しげな笑顔は、そっけなく発せられた次の一言で、無惨にも打ち砕かれた。

 

 

 

 

 

 

 

「つか、()()は大丈夫だったのか?」

 

 

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 弛緩していた空気が、再び凍りつく音を聞いた。

 

 

 

 

 

「いや、ケガとか。昨日、モロ殴られてただろ」

 

「先輩……いま…え…? 昨日って……」

 

「バッ…ちょ、お兄ちゃん黙ってて! あの、いろはさん? 違うんですよ、この人まだちょっとだけ混乱してて──」

 

 小町さんが一色さんに駆け寄り、手を強く握ってまくし立てる。しかし、呆然と立ち尽くす彼女に、その言葉が届いている様には見えなかった。キョロキョロと物珍しげに辺りを見回す比企谷くんの横顔を、(まばた)きさえ忘れて凝視している。

 

 小町さんが伝えようとしていたのは、やはりそういう事だったのか。

 

「ね、ねえ。もしかしてヒッキーさ…」

 

 一説によると、本来の記憶との摩擦を回避する為の、脳の自衛機能であるとか。

 今回のような短期記憶障害において、しばしば起こり得る事態なのだと聞き及んではいた。

 彼もまた、御多分に漏れることが無かったと。

 つまりはそういう事なのだろう。

 

「ああ、もう昨日の話じゃないんだっけか。悪い、まだアタマ追い付いてないんだわ」

 

「そう…。本当に、()()()()()のね──」

 

 

 私達を忘れてしまった彼に対して、少なからず感じていた筈の違和感。

 

 その決して小さくなかった棘が、消失していた。

 

 跡形もなく、綺麗さっぱりと。

 

 

 

 

 その間の記憶、もろともに。

 

 

 




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